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2016.05.18
『人間と象徴』上下巻 、C・G・ユングほか著、河合隼雄監訳(河出書房新社)を再読しました。「無意識の世界」というサブタイトルがついています。 この読書館でも紹介した『心理学と宗教』を読んだら、もう少しユングの本が読みたくなったのです。じつに30年ぶりぐらいの再読でしたが、本書はユングが一般向けにつくった唯一の本です。夢と無意識に関する一般向けの解説書を書いてほしいという要請を受けながらも、彼はけっして自らの研究を大衆化しようとはしませんでした。ようやく死の直前になって実現した企画ですが、ユングの他に彼の弟子である学者数名のレポートも併録されています。
上巻の帯
帯には「自己の内面の限りなく広く豊かな世界に導くユング心理学の全容!!」と書かれています。また、帯の裏には作家なだいなだの以下の推薦文が記されています。
「・・・・・・民俗学や文化人類学の分野で、大きな発展が認められるにつれて、ようやく、ユングは私たちと日常的な結びつきを持つようになり、理解されはじめたが、それには長い時間が必要だった。ユングの象徴の研究は、こうして、詩や絵画の理解に理性的な光りをさしいれ、それらの持つ民族的な共感にてがかりを与えはじめている。ユングが、私たちの身近な存在になる時、私たちの人間理解は、確実に一歩を進めたことになるだろう」
上巻の帯の裏
本書の「目次」は以下のようになっています。
序(ジョン・フリーマン)
1 無意識の接近(カール・G・ユング)
夢の重要性
無意識の過去と未来
夢の機能
夢の分析
タイプの問題
夢象徴における元型
人間のたましい
象徴の役割
断絶の治癒
2 古代神話と現代人(ジョセフ・L・ヘンダーソン)
永遠の象徴
英雄と英雄をつくるもの
イニシエーションの元型
美女と野獣オルフェウスと人の子
超越の象徴
3 個性化の過程(M・L・フォン・フランツ)
心の生長のパターン
無意識の最初の接近
影の自覚
アニマ―心のなかの女性
アニムス―心のなかの男性
自己―全体性の象徴
自己との関係
自己の社会的側面
4 美術における象徴性(アニエラ・ヤッフェ)
聖なるものの象徴―石と動物
円の象徴
象徴としての現代絵画
物にひそむたましい
現実からの後退
対立物の合一
5 個人分析における象徴(ヨランド・ヤコビー)
分析の開始
初回の夢
無意識にたいする恐れ
聖者と娼婦
分析の発達過程
神託夢
不合理への直面
最後の夢
結論(M・L・フォン・フランツ)
科学と無意識
「注」
「訳者あとがき」
「索引」
「目次」を見ればわかるように、ユングは最初の1章を書いています。これはユングの死の10日前に書き上げられています。他の章を執筆したのは、ユングが選んだ信頼できる同僚たちによるものです。すべて草稿の段階でユングが承認していたといいます。本書は、まさにユング最後の仕事と言えるものなのです。
その本書の冒頭を飾る「無意識の接近」の「象徴の役割」で、ユングは以下のように述べています。
「医学的心理学者が象徴に興味を持つのは、主として”自然の”象徴についてであり、それは、”文化的な”象徴とは区別される。前者は心の無意識の内容から派生し、したがって、根源的な元型的心像の多種多様な変化を示す。多くの場合、それらは、その古代的な起源―われわれが最も古い記録や未開人の社会に見いだす観念やイメージ―へとあとづけをすることができる。他方、文化的な象徴は、”永遠の真実”を表わすために用いられてきたもので、今なおいろいろな宗教で用いられている。それらは、多くの変容と多少とも意識的な発展との長い過程を経てきて、文明社会によって受け入れられる普遍的なイメージとなったのである」
ユングは、人間の運命を常に支配してきた聖なるものの力に対して近代人が目をつむっていると指摘し、以下のように述べます。
「遠い以前においては、人間の心のなかに本能的な考えが湧き起こっており、意志的な心は疑いもなく、それらをまとまりのある心のパターンのなかに統合することができていた。しかし、”文明人”は、もはやこのようなことができなくなってしまった。その”進歩した”意識は、本能や無意識からの補助的な寄与を同化し得るような方法を捨て去ってしまった。これらの同化や統合の機関は、一般の同意によって聖なるものとされていたヌミノスな象徴であった」
ユングは、「太母」や「万物の父」という2つの元型的な原理が、東洋と西洋の対照的なシステムの基礎となっていると指摘し、以下のように述べます。
「大衆とそのリーダーたちは、この世界の原理を西洋がするように、男性、父(精神)と呼ぶか、あるいは、共産主義者がするように、女性、母(物質)と呼ぶかについては、実質的な差がないということに気づいてはいない。本質的には、われわれは一方についても、他方についても、ほとんど何も知らないのだ。以前には、このふたつの原理はすべての種類の儀式においてあがめられてきた。儀式は、少なくともこの原理が人間にたいして持つ心理的な意味を示している。しかし、今やそれらはたんなる抽象的な概念となってしまっている」
ジョセフ・L・ヘンダーソンは、「古代神話と現代人」の「イニシエーションの元型」において、以下のように述べています。
「古代の歴史や現代の未開人社会の儀式には、イニシエーションの神話や儀式についての豊富な資料がある。その儀式によって、若い男女が両親から乳離れして、強制的にその一族や種族のメンバーに加えられるのである。しかし、子どもの世界から引離すことによって、原初の両親の元型は傷つくであろうし、この傷は集団生活への同化という治療過程を通じて癒されなければならないのである。(集団と個人との同化はトーテム信仰の動物としてしばしば象徴化されている。)そのようにして、集団は傷ついた元型の要求を充足させ、そして、第2の両親のようなものになる。この両親のために、若者は初め象徴的に犠牲になるわけであるが、これはひとえに、新しい人生に再出発するためなのである」
また、ヘンダーソンは部族社会におけるイニシエーションの儀式について以下のように述べています。
「この儀式は候補者を、原初的な母と子の同一性、または自我と自己との同一性の最も深い水準に立ち返らせ、こうして彼に象徴的な死を体験させるのである。言いかえるならば、彼の同一性は一時的に普遍的無意識のなかに分割され、解消されるのだ。この状態から、ついで彼は、儀式的に、新生の儀式によって救い出される。これが、トーテム、氏族、部族あるいは、この三者の結合したものとして表わされるより大きい集団と自我とを真に結合させる最初の行為である。
部族的な集団にみられるものであろうと、もっと複合的な社会におけるものであろうと、儀式というものはきまってこの死と再生の儀式を主張している。そして、それは、幼児初期から幼児後期に移るものであろうと、青春期前期から後期に、また、青春期から成人期にいたるものであろうと、人生のある段階から次の段階に移る『通過儀礼』を新参者に与えるのである」
ヘンダーソンは、英雄神話にも言及し、以下のように述べています。
「英雄神話とイニシエーションの儀式とのあいだには、ひとつの驚くべき差異がある。典型的な英雄の像は、その野望を達成するためにあらゆる努力をする。要するに、たとえ彼らがすぐあとで、高慢のゆえに罰せられようが殺されようが、とにかく目的を達する。これにひきかえ、イニシエーションの候補者は、気ままな野心やすべての欲望を捨て去り、苦難に従うことを要請される。彼は成功する希望なしに、この試練を喜んで経験しなければならない。事実、彼は死の準備もしなければならない。試練の印が穏やかなものであろうと(一定期間の断食や歯を叩き折ったり、入墨をしたり)、あるいは苦痛に満ちたものであろうと(割礼の切開やその他の切断による傷の苦しみ)、目的はいつも同一である。すなわち、再生の象徴的気分を湧き出させるような、死の象徴的ムードをつくることである」
ヘンダーソンは、女性のイニシエーションについても述べます。
「イニシエーションの儀式を成功に導く基本的な態度とみなされている服従のテーマは、少女や婦人の事例を明瞭にみることができる。彼女らの通過儀礼は、基本的な受動性であることが最初に強調される。そして、これは月経周期によって課せられる彼女たちの自律性の生理的な制限によって強められている。この月経周期は、事実上、女性の視点からみたイニシエーションの重要な部分となりかねないと言われている。というのは、女性を支配する生命の創造力にたいする、最深部の服従感覚をよびさます力があるからである。かくて、男が集団の共同生活のなかで、自分の割り当てられた役割に没入するように、女性もその女らしい機能に自分を喜んで投入する」
イニシエーションにおいては、男性対女性の原初的対立というべきものを正すような形で、男に女を、女に男を熟知させるという側面があります。ヘンダーソンは次のように述べます。
「男性の知恵(ロゴス)は女性の関係性(エロス)と出会い、そして、両者の結合は、古代の密儀宗教において発生して以来、イニシエーションの核心を占めてきた聖なる結婚の象徴的儀式として、表現されている。しかし、現代人がこれを把握するのは極めて困難である。そして、それを現代人に理解させようとして、しばしば人生上の特別の危機という形をとるのである」
結婚の儀式についても、ヘンダーソンが以下のように述べています。
「目に見えない父や母が、結婚というヴェールの背後にひそんでいるかも知れないというような神経症的な恐怖は別として、普通の若い男でも結婚の儀式に恐れを感じる正当な理由がある。結婚は本質的に女のイニシエーションの儀式であり、そこで男は、征服する英雄そのものであるとしか感じないのである。部族社会において、花嫁の誘拐や強姦というような恐怖対抗的儀式があったとしても驚くにはあたらない。これらは、男が花嫁に服従し、結婚の責任を負わねばならぬまさにその瞬間に、英雄的な役割の遺物に彼をすがりつかせるのである。
しかし、結婚の主題は、また、それ自体がさらに深い意味をもつ宇宙的なイメージである。結婚は、ほんとうの妻を獲得することであると同時に、男性自身の心のなかにある女性的要求を象徴的に発見することでもあって、これは歓迎すべきことであり、必要ですらある。というわけで、人は適当に刺戟にたいする反応として、どのような年齢の男でも、この元型と出会うであろう」
「オルフェウスと人の子」では、「美女と野獣」の物語について、ヘンダーソンが以下のように述べています。
「『美女と野獣』というのは野生の花のような童話で、非常に思いがけない形で現われ、驚異にたいする非常に自然な感じをわれわれにつくり出してくれるので、その花が植物の特定の綱、属、種に属していることを、一時忘れてしまうほどである。そのような物語に本来そなわっているこの種の神秘さは、たんに大きな歴史的神話のなかばかりではなく、神話が表現されている儀式、または神話の源泉となっている儀式においても、普遍的に見られるものである」
続けて、ヘンダーソンは以下のように述べます。
「この種の心理学的経験が適切に表現されている儀式や神話の型は、ディオニュソスのギリシャ・ローマ宗教、そして、それを継ぐオルフェウスの宗教に例をとることができる。そして、これらの両宗教は、『神秘』として知られているある種の意味深いイニシエーションを生みだした。彼らは両性的性格をそなえた神人と関連する象徴をつくりだした。神人は、動物と植物の世界にたいする親密な理解を持ち、その秘密への導入を司るものと考えられていたのだ」
オルフェウスの密儀について、ヘンダーソンは述べます。
「神秘的な形式に昇華されてはいたが、オルフェウスの密儀は、古いディオニュソス宗教を生かしてもっていた。この精神的起動力は半人神からきていて、その神によって、農業の技術に基礎をおく宗教の最も意味深い内容が確保されていた。その内容とは、豊饒の神々の古い形式であり、その神々は四季からのみくるものであった。言いかえると、それは、誕生と成長と成熟と消滅との永遠に繰り返される周期である。一方、キリスト教は密儀を追放してしまった。キリストは、家父長的な、遊牧民族の牧歌的宗教の産物であり、その改良者であった」
さらには聖餐式について、ヘンダーソンは述べています。
「聖餐式の儀式はどこでも同じで、ディオニュソスの杯を飲むか、または、キリストの聖杯を飲むかのいずれかによって表現される。しかし、それぞれが個々の参加者にもたらす自覚のレベルは異なっている。ディオニュソス的な参加者は、ものごとの根源まで、すなわち、母なる大地の子宮から、むりやりに吹きちぎられた神の『嵐のごとき誕生』までさかのぼる。ポンペイにある『神秘の館』(The Villa de Misteri)というフレスコ壁画のなかに、恐怖の仮面をつけた神を呼びおこしている儀式がえがかれ、この仮面は、祭司が入門者にむかって差し出しているディオニュソスの盃に映っていた。後に、地上の高価な果物をいっぱい入れた箕(み)となり、生殖と成長の減速としての神の顕現の創造的象徴である男根となるのである」
「古代人の現代人」の最後を飾る「超越の象徴」の最後に、抑制と自由との合流点をイニシエーションの儀式に見ることができるとして、ヘンダーソンは以下のように述べています。
「この儀式は、個人にたいしても、集団の全員にたいしても、彼ら自身のなかで反対の力を結びつけ、彼らの人生に平衡を得させることを可能にする。しかしながら、この儀式は、きまりきって、自動的に、この機会を提供するものではない。個人や集団の人生の特定の局面に関連しており、それらが正しく理解され、新しい生活に適したかたちに翻訳されないかぎり、この瞬間は過ぎてしまう。イニシエーションは、本質的には、服従の儀式にはじまり、抑制の時期を経て、次の解放の儀式へと進む過程である。このようにして、どの個人も、その人格の矛盾する要素を和解させることができる。すなわち、真に彼を人間にし、そして、真に彼を自分自身の主人にする平衡にいたるのである」
本書全体の「結論」として、マリー=ルイス・フォン・フランツが、ユングが生涯にわたって追求した無意識について述べています。
「無意識の強力な力は、臨床的な素材のなかばかりでなく、神話や宗教や芸術やその他人間がみすからを表現するあらゆる文化的な領域に、最も確かに現われている。もしすべての人間が情動的で心的な行動の様式(ユングはそれを元型と呼んでいる)を共通に受け継いでいるならば、人間すべての個々の活動分野にその行動様式の生み出すもの(象徴的空想、思想、行為)を見いだすだろうということは明らかである」