No.2500 読書論・読書術 『超越する知性』 岩田温著(扶桑社新書)

2026.09.24

『超越する知性』岩田温著(扶桑社新書)を読みました。「『正義』に騙されないための読書」というサブタイトルがついています。著者は政治学者。1983年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程修了。現在、一般社団法人「日本学術機構」代表理事。専攻は政治哲学、政治思想。著書に『[新版]人種差別から読み解く大東亜戦争』、『エコファシズム』(共著)(以上育鵬社)、『後に続くを信ず 特攻隊と日本人』(かや書房)、『[新版]日本人の歴史哲学』(産経新聞出版社)等多数。YouTubeで「岩田温チャンネル」開局中。本書を読了した後、最終ページに一条真也の読書館『政治学者が実践する 流されない読書』で紹介した本を改題し、大幅に加筆・再編集したものであることを知りました。こういう大事なことは最後ではなく、最初に書いてほしかった!

本書の帯

本書の帯には、プラトンとアリストテレスが描かれたラファエロ・サンティの「アテネの学堂」(バチカン宮殿所蔵)が使われています。また、「私は本物の『読書論』と出会った。本書は、読者の人生の『ど真ん中』を立てるに違いない。――執行草舟」「答えのない問いを考え続けるために人は本を読む」と書かれています。帯の裏には、「読書には本物と偽物がある。本書は『読書論』の本物と言っていい。本物だけがもつ真の知性が迫って来るのだ。――執行草舟」と書かれ、続いて本書の内容が紹介されています。

本書の帯の裏

本書で紹介される作品は、内村鑑三『後世への最大遺物』、佐藤一斎『言志四録』、太宰治『トカトントン』、田中美知太郎『人間であること』、徳富蘇峰『読書法』、西村賢太『苦役列車』、三島由紀夫『英霊の聲』、向田邦子『蛇蠍の如く』、安岡正篤『論語に学ぶ』、横山光輝『三国志』、渡部昇一『渡部昇一 青春の読書』、オー・ヘンリー『改心』、 キケロ『友情について』『老年について』、旧約聖書『ヨブ記』、グロスマン『万物は流転する』、ゴールディング『蠅の王』、ショーペンハウアー『読書について』、スマイルズ『自助論』、セネカ『摂理について』、ディケンズ『クリスマス・キャロル』、ヒトラー『わが闘争』、プラトン『ソクラテスの弁明』、ホッファー『大衆運動』、ミルトン『闘士サムソン』、モンテーニュ『随想録』、モーム『雨』などです。

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第1章 人は「正義」を求める
  1 「正義」という狂気
  2 ヒトラーの読書法
  3 大衆運動に参加する人々
第2章 何のために本を読むのか
第3章 よき本は自己との対話を深める

  1 よき本との出会い
  2 童話から長編まで
  3 観てから読むか、読んでから観るか
  4 自分のための一冊を探す
  5 中国の古典の魅力
第4章 本を通じて本を知る
第5章 苦悩ある人生を生きるために

  1 「そのために死ぬ」ことができるか
  2 因果応報と不条理
「おわりに」

「はじめに」では、著者は「古代、近代を問わず、生きてきた証を書物に遺してきた先人との間の孤独な対話は、あなたが飛躍する助走になる。生きる瞬間を与える契機となる。すべてを乗り越え、すべてを超越して、我が人生を生きていると思う瞬間。恐らく、それは自己満足だ。しかしながら、自己満足のない人生に何の意味があるのだ。金銭も名誉も求められるだけ求めればいい。それも自己満足だ。だが、そうした卑俗な価値観を超越しようという価値観があっていい。人生の最期に残る実感とは、すべて既存の概念を超越しようと歩んできた己自身の生涯への評価だろう」と述べています。

他人は自分を正当に評価できない可能性が高いとして、著者は「しかし、あなた自身があなたの人生を評価する瞬間、偉大なる先人と孤独の対話を重ね、何かを超越しようとした意志があったのか、なかったのか。それは人生にとって大きな問題だ」と述べます。また、人工知能の発展は便利な世の中を実現するかもしれないといいます。しかしながら、あなた自身の人生を充足させるのかは分からないとも述べます。答えのない問いに孤独に向き合い続け、偉大な先人と孤独な対話を続けること。本を読むとは、自分自身をより複雑に生きるということだとして、「今ある自分自身を超越する知性、その跳躍をするためにこそ読書が必要である」と述べるのでした。

第1章「人は『正義』を求める」の2「ヒトラーの読書法」の「本を読むことは自分の頭ではなく他人の頭で考えること」では、ドイツの哲学者であるショーペンハウアーの著書『読書について』(光文社文庫)が取り上げられます。ショーペンハウアーの読書論は、ある意味では、読書の危険について触れている不思議な読書論だといいます。非常に面白いが、読書に厳しい1冊でもあります。著者は、「ショーペンハウアーによれば、本を読むということは、決して評価されるべき行為ではない。読書とは、自分で考える代わりに、他人に考えてもらっていることだ。これが彼の読書論の本質だ」と述べています。

「『自分で考える』読書法を忠実に実践したヒトラー」では、 ショーペンハウアーの「自分で考える」読書法を忠実に実践した人物こそ、ナチス・ドイツの独裁者、アドルフ・ヒトラーに他ならないといいます。著者は、意外に思われる人が多いかもしれないが、ヒトラーは驚くほどの読書家だった。ヒトラーは学がないと周囲に馬鹿にされていた。たしかに彼は低学歴だったが、学力の不足を自らの独学で補おうと努力した人物でもあった。彼は、『毎晩1冊あるいは2冊の本を読む」と豪語し、そして実際に、熱心に読書する独裁者だった』」と説明し、一条真也の読書館『ヒトラーの秘密図書館』で紹介した本を取り上げます。同書は、拙著『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)や『本の読み方』(産経新聞出版)でも紹介しました。

「読書の毒性」では、ショーペンハウアーが「他人の頭で考える」読書の弊害について批判し、自分自身の頭で考える重要性を指摘したことを紹介します。これについて、著者は「たしかに真理の一面を指摘している。読んだ本のすべてを信じ込み、著者を尊崇の対象としてしまう読書は否定されて然るべきだ。しかし、自分自身の中の極端な世界観を読書によって訂正していくことも重要である。それは決して、他人の頭で考え続けることを意味しない。自分自身の世界観を揺さぶるような経験をしなければ、独善的な世界観を正すことはできないのだ。やはり読書は、自分と著者との『真剣な対話』であるべきだ。著者の言葉を鵜呑みにするのも危険であれば、同様に自分自身の世界観にまったく疑いを抱かず、その世界観の正しさを補強する部分のみを探すような読書も危険である。信じながら懐疑する。こうした精神における二律背反を苦悩することが読書の醍醐味だろう」と述べています。

今の自分自身に満足しきって、欲望の赴くままに生きている。そういう生き方をする人間に対して、ショーペンハウアーは「家畜と同じ」だと言うのだろう、と著者は推測します。善く生きようと努力することを放棄して、欲望のままに金を使うことは褒められたことではないのです。一方において、彼の執筆した読書論が、ヒトラーに読書の技法についての確信を生ませ、ヒトラーの狂気の世界観が確固たるものになっていったということがあったとすれば、読書だけでなく、本を書くということの責任の重さをも痛感させられます。著者は、「読書とは、時に人が生きるための良薬になり、時に人を死に至らしめる劇薬にもなるといっても過言ではない」と述べるのでした。

3「大衆運動に参加する人々」の「憎悪の共有」では、ナチス・ドイツのヒトラーはユダヤ人への憎悪を搔き立てて、混乱の中、絶望に打ちひしがれるドイツ国民をまとめようとしたことを指摘します。ソ連のスターリンは富農(クラーク)への憎悪を搔き立てて、都市労働者、貧農を団結させようとしたのです。著者は、「独裁者は常に国民を暴力によって弾圧するのではなく、巧みに大衆の心理を操り、一部の人々にすべての憎悪を向けさせることによって、大衆を1つに束ねようとする」と述べます。

「人間存在の弱さ、脆さ、儚さを見つめる」では、「沖仲士の哲学者」と呼ばれた、名著『大衆運動』(紀伊國屋書店)を書いたエリック・ホッファーが登場します。高貴な属性が残忍さへと変質するのが「人間の魂の化学」だと喝破しますが、人間が示す思いやりについては、ホッファーは擁護します。著者は「たしかに、自らの『正義』を熱烈に信じ、その実現こそが人類の理想実現に他ならないと狂信する革命家は、敵対者に対して恐ろしく冷酷な態度をとるだろう。ナチス・ドイツでユダヤ人が虐殺され、ソ連で資本家が虐殺されたのは、その最たる実例と言っていい。一方、小さな子供を憐れむ同情心は、残忍さとは対極にある。我々は論理に基づかない同情心、優しさを美徳の中でも最上の美德と捉えることはほとんどない。この人間の同情心、優しさにこそ敬意を払うべきだと哲学者、ホッファーは断言する」と述べます。

「力と正義の関係を説いたパスカル」では、ホッファー、モンテーニュ、パスカルの著作が面白いのは、人間の弱点について赤裸々に指摘している点にありますが、それでいて生きていることに絶望する哲学ではない点にもあるのではないだろうかと問います。著者は、「人間が高尚で素晴らしいと賛美する内容ではなく、人間の弱さ、脆さ、情けなさを透徹した眼で見つめている一方で、そうした人間が人間らしく生きるためにはどうしたらいいかと考え直させてくれる著作群と言っていい」と述べるのでした。

第2章「何のために本を読むのか」の「なぜハイデガーやドストエフスキーを読むのか」では、人が単なる娯楽として小説を読むだけではなく、「なぜ、敢えて読み通すことが困難な本を選んで読むのか」と考えると、そこには、「変化を求めている自分」がいるからだといいます。難解な書物を読み通すことによって、自分自身を変えてくれる可能性を信じているからこそ、読み通すのが難解な読書に果敢に挑戦していくのではないかというのです。

「内村鑑三が問う『後世に何を遺すべきか』」では、「金」も「事業」も遺せぬ人が大半を占めるはずだといいます。こうした人は、何を遺せばいいのでしょうか。ここで内村鑑三が挙げるのが「思想」です。具体的には、「著述」をすることと、「教育」をすることです。自分自身の思想を著述して本を遺す。この本が読み継がれて、後の世まで大きな影響を与える。著者は、「たしかに我々も今、内村の『後世への最大遺物』という著作があることによって、ここまで議論を進めることができたのだから、本という形にして思想を遺すことも非常に重要なことだと言っていい。本を遺すということと同じくらい『思想』を遺すということで内村が重視しているのが、『教育』である。青年に教育を通じて自分の思想を遺すことができるという」と述べます。

一人ひとりの人間が勇ましい高尚なる生涯をおくるということ。これこそが「後世への最大遺物」に他ならないといいます。著者は、「自分自身の人生を振り返ってみて、人に誇れるような人生をおくってきたとは、とうてい言い難いが、この内村の言葉には、何度励まされたか分からない。『金』でも『事業』でも『思想』ですらなく、『勇ましい高尚なる生涯』を遺すべきだという内村の主張を読むと、やはり一種の感慨のようなものが込み上げてくる。この本に出会えてよかった、この言葉に出会えてよかった。生きていてよかったと感じるのだ」と述べるのでした。

「人間は変わることができるか――オー・ヘンリー『改心』」では、著者は「アリストテレスの指摘に戻るが、人間は中間的な存在で善く生きることも、悪く生きることもできる。しかし、その善さ、悪さというものも、一生固定されているわけではない。善く生きてきた男が堕落することもあるだろうし、悪く生きていた男が改心して、善く生きようと努力することもできる。それが人間という存在だ。悪く生きてきた人間が、善く生きようと思う契機は様々である。善き教師に巡り会うことかもしれないし、壮絶な経験を重ねることかもしれない」と述べています。

その契機の1つこそが読書なのではないかといいます。善き書物との出会いこそが、人をして善き方向に向かわしめる。そういう可能性を秘めているのが善き本なのではないだろうかとして、著者は「それは必ずしも善きことばかりを書いてある本ではないかもしれない。人間は大いなる悲劇に感銘して、善く生きようと願う場合もあるからだ。本を読むということは、人間が善く生きようとする際の契機であり、精神の滋養となる。本なき人生とは成長する契機を奪われた人生なのだ。読むことは、生きること。そう思えるまで本を読み続ければ、何かに出会える」と述べるのでした。

第3章「善き本は自己との対話を深める」の1「善き本との出会い」の「清水の舞台から飛び降りるつもりで本を買い漁る」では、まったく無駄を避けて、自分の心の奥底から共鳴、感動できる本だけを探すのは、あまりにも都合がよすぎるといいます。無理な話です。著者は、「自分自身の友人でも恋人でも、善き友人、善き恋人を得ようと思って、いろいろな人に出会う結果、善き友人、善き恋人が得られるのであって、善き人々とだけ交際しようと求めても、それは不可能である。数多くの人々に出会い、期待し、裏切られ、その結果として、善き人々とはどのような存在なのかが理解できるようになる。読書も、基本的にこういう人間関係と同じで、大いに期待し、大いに裏切られて、その結果、善き本にたどり着くことができる」と述べています。

「『読書の時間がない』という言い訳」では、著者は小学生でも中学生でも何か特定の本を読ませるのではなく、子供たちにとって興味関心の赴くままに、好きな本を読ませた方が本人のためになると思っていることが明かされます。なぜなら、本を読んで本当に面白いという実感がなければ、本を好きにはならないからだといいます。読書が好きにならなければ、読書の習慣は身に付きません。大人たちの都合で選んだ本を子供たちに無理矢理読ませても、まったく逆効果しか生まない場合も往々にしてあるでしょう。

また、大人によって強制された読書によって、本を読むことが嫌いになってしまっては本末転倒です。著者は、「強制的に本を読ませるよりも、本を読むということがどれだけ楽しいことかをまずは親や教師が実感し、その楽しさを子供たちに語って、子供たちから本を読んでみたいと思わせるようにするのが教育の本質だ。いずれにせよ、なるべく早い時期に本を読む楽しさを知り、読書の習慣を身に付けておくことが肝要である。これは多くの読書家が共通して指摘していることである」と述べます。

結局、名著と出会うには濫読するしかありません。その結果、多くの人は名著にたどり着きます。そして、不思議なことに名著には「古典」が多いです。多くの回り道をしながら、人間は「古典」にたどり着くのです。だから、本を読む達人たちの多くが、古典を読む重要性を指摘しています。5「中国の古典の魅力」の「『論語』を読む前に読む孔子と弟子たちのドラマ――中島敦『弟子』」では、漢籍で最重要と思われるのが『論語』(講談社学術文庫)であるといいます。『論語』は、講師の言説をまとめたもので、孔子が書いた本ではない。興味深いことに、本当に偉大な哲学者、思想家は本を執筆していないという特徴があります。例えば、ブッダ、ソクラテス、イエスも自分自身で本を書いていません。彼らの言葉を弟子たちが書き残して後世の我々に伝えています。

『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)

わたしは『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)という本を書きましたが、その八大聖人の中には、孔子もブッダもソクラテスもイエスも含まれています。『論語』は孔子の著書ではなく、孔子が弟子に向かって話した内容をまとめたものです。つまり『論語』の魅力とは、そのまま孔子の魅力でもあるのです。「『論語』の入門に最適――安岡正篤『論語に学ぶ』」では、『論語』という書物の入門に最適だと思われるのが、安岡正篤の『論語に学ぶ』(PHP文庫)であるといいます。安岡が重要だと判断した『論語』の一節を引用して解説しているのですが、中国古典に宿る叡智を現在に生かすように解釈しており、これが非常に勉強になります。

「安岡正篤が説く読書の重要性」では、「終戦の詔勅」に関して、作成に携わった安岡が後悔の念をにじませたことが紹介されます。終戦の詔勅では「時運の趨く所」との表現があります。この言葉に安岡は憤りを感じていました。時の流れに身を任せるような表現は君子、天皇の言葉として不適切だと考えていたからです。安岡は「義命の存する所」と修正するように強く主張していたのですが、この箇所に関して安岡の意見は採用されませんでした。著者は、「終戦後、安岡は時の政権の指南役として活躍する。例えば、自民党の派閥に『宏池会』がありましたが、この命名者は安岡です。池田派の大平正芳が安岡の自宅を訪れ、命名を頼んだのです。さらに、佐藤栄作政権では所信表明演説、首相談話等の原稿は、安岡に事前にチェックを受けていました。

外交の現場でも安岡の教養が活かされました。沖縄返還を目指した佐藤栄作がニクソン大統領と話した際、『老子』の話を持ち出しました。「戦いに勝ちては、喪礼を以て之に処る(戦いに勝ったならば、葬儀に臨んだ人のように哀しみを以て身を処するべきだ)」という老子の言葉が紹介され、ニクソンの心を打ちました。もちろん、この言葉だけで沖縄返還が実現したわけではありませんが、沖縄返還に向けての重要な一歩であったことは間違いありません。著者は、「安岡の授けた知恵が日本外交を動かしたのである。安岡が名付け親となったのは政党の派閥だけではない。実は『平成』という元号も安岡によって名付けられたのではないかとの説が有力である」と述べています。

第4章「本を通じて本を知る」の「渡部昇一先生からの返信」では、著者が渡部昇一氏の大ファンであり、ファンレターを送ったときの思い出が次のように書かれています。
「高校生の頃、渡部先生の本を読んだ私は、感激のあまり拙い感想を書き、先生に送ったことがある。まったくの素人で縁もゆかりもない高校生がファンレターを書いたといったら分かりやすいだろうか。すると驚いたことに、田舎の高校生であった私のところに渡部先生からお返事が届いたのである。文面はパソコンで打ってあったので、恐らく秘書の方が打ち込んだと思いますが、先生がしっかりと私の感想をお読みいただいたことが分かる内容だった。その返信の最後に『岩田君の大成を期待しつつ』と書いてありました。たいへん感激したことを覚えている。この渡部先生のお言葉に刺激を受け、私はこれまで一生懸命勉強してきたといっても過言ではない」

『永遠の知的生活』(実業之日本社)

このときの著者の感激はよく理解できます。なぜなら、わたしもまったく同じ経験をしたことがあるからです。わたしが本を書くようになると、渡部先生に献本し続けました。すると、いつも最後に直筆の署名が入った礼状を頂戴しました。その後、ブログ「渡部昇一先生と対談しました」で紹介したように、2014年8月14日、憧れの渡部先生と対談をさせていただきました。ついに長年の念願が叶った日でした。その対談内容は、『永遠の知的生活』(実業之日本社)として刊行されました。対談は5時間以上にも及びましたが、最後にわたしは書名にもなっている「永遠の知的生活」について語りました。わたしは「結局、人間は何のために、読書をしたり、知的生活を送ろうとするのだろうか?」と考えることがあります。その問いに対する答えはこうです。わたしは、教養こそは、あの世にも持っていける真の富だと確信しています。

 

著者は、一条真也の読書館『青春の読書』で紹介した本に言及し、渡部先生が推理小説の大家であった江戸川乱歩の「活字の舟」という言葉を使って読書について説明したとして、「この著名な推理小説家は、読書の醍醐味を『活字の舟』と表現した。人間は『活字の舟』に乗って、まったく異なる国、世界を訪問することができるというわけだ。この『活字の舟』という表現は、読書の本質を鋭く衝いた卓抜な表現である。恐らく、読書が本当に好きな人であるならば、この『活字の舟』に乗った経験があるはずだ。本を読むのが面白くて、面白くてたまらないという経験をしたことがある人ならば、その時間こそが『活字の舟』に乗っている瞬間だと感じたことだろう」と述べています。

「知的に誠実な、不誠実な本の見分け方」では、知的に誠実であることが読書に関しても非常に重要だとして、著者は「知的に誠実であるということは、学問的に恩義にあずかったら、それを明らかにし、感謝することである。逆に知的に不誠実であるとは、出典を明らかにせずに自分の都合のよいように剽窃し、恥じないような行為を指す。知的に不誠実な著者の本ばかりを読んでいると、自分自身もいつしか知的に不誠実な人間になってしまうというのが、私の持論である」と述べます。もう少し具体的に説明すると、本を選ぶ際に重要なのは、「本から本を選ぶ」ことだといいます。つまり、自分が感銘を受けた本、読むべき本を明らかにしてくれている知的に誠実な著者の本を読むと、自分自身が次に読み進めていけばよい本に巡り合うことができるというのです。「この分野では、この本を読めばさらに理解が深まるのだ」と思い、自らの「活字の舟」を奥へ奥へと進めていくことができるのです。

「他人と交際するように読書する」では、 渡部先生が『青春の読書』で、徳富蘇峰の『読書法』(講談社学術文庫)という本を紹介していることを取り上げます。8歳ですでに『南総里見八犬伝』『絵本三国志』『絵本太閤記』を読み、10代のうちに『四書』『五経』『春秋左氏伝』『資治通鑑』『史記』『唐宋八家文』などを一通り読んだという稀代の読書家であった蘇峰は「昔からいわゆる歴史なるものはただ一種の記録であって、いわば日記帳に少し毛の生えた類にすぎない。しかしてその間に出で来った小説なるものは、むしろその時代の精神、時代の動向、いわばその時代そのものを映し出して、かえって歴史以上の歴史を我らに提供するものがある」と述べます。

この徳富蘇峰の言葉について、著者は「これは非常に納得がいく見解だ。歴史小説の類は一切がフィクションで無駄だと考える実証主義的な歴史家が存在するのは確かであるが、無味乾燥な事実よりも、躍動する筆致で過去の時代を描いた方が、一般の読者にとっては興味が掻き立てられるだろう。歴史の細かい資料ばかり見ていても、そこに躍動感はない」と述べています。そして、蘇峰は自分自身の読書法について「予自身は読書は他人と交際すると同様の気持ちをもって書物に向かおうとする」と述べたことを紹介します。

「読書は愛の営みに似ているーー加藤周一」では、評論家の加藤周一の読書論を取り上げます。加藤によれば、読書は愛の営みに似ているといいます。非常にキザな表現ですが、加藤は「社会の全体から切り離されて、あなたはただひとりの相手との関係にのみ生きる」というのです。恋愛も読書も、その場を共有する対象相手は1人である。2人だけの時間を共有するのが恋愛であり、読書です。著者は、「私は愛の専門家ではないので、細かなことは分からないが、2人だけで過ごす時間が愉しい、素敵であるという感覚こそが愛し合っているという感覚だろう。同じように読書というのは、ある意味では、性別、時空を超えた愛の営みと言えるかもしれない。今、目の前にその人物が存在するわけではないけれども、たった1人、その相手と時を共にし、真剣に考え合い、語り合う作業ができるのではないだろうか」と述べます。

『本の読み方』(産経新聞出版)

ちなみに、拙著『あらゆる本が面白く読める方法』でも、『本の読み方』でも、わたしは「読書は恋愛」と訴えています。『本の読み方』の「まえがき~本の愛し方~」では、「人は本を愛さなければいけません。そうすれば、本から愛されることもあるかもしれません。もちろん、片思いに終わることが多いでしょう。でも、愛情を傾ければ傾けるほど、読書の快楽は大きくなるはずです。本は読むだけのものではありません。愛するものです。本を愛すれば愛するほど、読書は豊かになります」と述べています。

「生涯学習の心得ーー佐藤一斎『言志四録』」では、学問は生涯続けていく人間の営みであることを、佐藤一斎が喝破したことを紹介します。「本を読む」という行為は学問のための1つの手段です。必ずしも読書だけが学問ではありません。しかし、著者は「多くの場合、読書は学問のための有益な手段となるはずだ。先人が遺した様々な言葉、洞察、体験といったことを、我々は読書を通じて学ぶことができるからである。過去の偉人の書物を読み、偉人の生涯、言葉に感動することは、自分自身を成長させるための、活きた学問というべきであろう」と述べるのでした。基本的な内容は『政治学者が実践する 流されない読書』と同じでしたが、本書オリジナルの記述もあり、刺激を受けながら楽しく読むことができました。