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2010.06.12
『超訳 古事記』鎌田東二著(ミシマ社)を読みました。
日本の神話である『古事記』を、まったく新しい方法で超訳した本です。
蘇る!日本誕生の物語。
とても読みやすく、不思議な言語感覚で書かれた良質のファンタジー作品を読んだような気がする本です。たとえば、最初の「体をもったふたりの神」の項は次のようにはじまります。
しゅうう・・・ ふぅう・・・ しゅうう・・・ ふぅう・・・
しゅうう・・・ ふぅう・・・ しゅうう・・・ ふぅう・・・
風が 吹く
天が 宙が 風を 吹く
まるで、宮沢賢治の『風の又三郎』に出てくる「どっどど どどうど どどうど どどう」を思わせるダイナミックな風の響き。まるで賢治が神懸りになって『古事記』を語っているような錯覚にとらわれます。でも、それはまったくの錯覚ではありません。なぜなら、賢治と同じく「オニ」という異界の存在を幼少の頃から見つづけてきた幻視者である著者の神語りだからです。
この本の訳し方は、超越的なやり方で行なわれたそうです。
2009年7月31日、さいたま市大宮にある著者の自宅の畳の部屋で、そして翌日の8月1日、東京の自由が丘にあえるミシマ社の畳の部屋で、著者が横になって目をつぶり、記憶とイメージだけを頼りに『古事記』の神物語を口頭で語ったとか。
参考文献も何ももたず、ひたすら心の中に浮かんでくる言葉を語ったというのには心底驚きました。それをミシマ社の三島邦弘社長が録音したというのです。著者は、本書の「あとがき」に次のように書いています。
「その場にいるのは、三島さんとわたしだけ。わたしは、大上段に構えて言えば、現代の稗田阿礼になって、”わが古事記”を物語ったのです。つまり、この本は、鎌田東二が”鎌田阿礼”として『古事記』を語り、それを、三島さんが現代の太安万侶、すなわち”三島安万侶”となって記録し、まとめてできあがった本です。」
それにしても、著者はとんでもない方法で『古事記』を超訳したものです。こんな凄いこと、本居宣長や平田篤胤や折口信夫にだってできやしません!
こんな超越的な本づくりに高天原も呼応したのか、いよいよ『古事記』語りをスタートするという段になって、突如、空がうす暗くなり、バリバリと雷鳴が轟き、ピカピカと稲光りが走り、激しい雨がザァッーと地面を打ちつづけて、気温は10度くらい一気に低下したとのこと。そんな劇的な状況の中で、著者は死者が棺桶に入ったような姿勢になって、寝たまま『古事記』を語り始めたのです。
なんとも素敵すぎますね、このシチュエーションは! 鎌田節も冴え渡って、血湧き肉躍る「あとがき」となっています。心に強く残ったのは、著者が10歳のとき、『古事記』に出会い、救われたというくだりです。著者にとって、何よりも『古事記』は「救いの書」であり、「癒しの書」だったのです。
神話とは、人間が最初に考え出した最古の物語です。神話はとても大胆なやり方で、宇宙と自然の中における人間の位置や人生の意味について、考え抜きました。ところが今日の日本の学校教育では、神話についてほとんど語ろうとしていません。
神話は幼稚で、非合理的で、非科学的で、遅れた世界観を示すものとされたのです。それについて学んだところで、今日のように科学技術が発達した時代においては、まるで価値がないと考えられています。それに日本では戦後、教育のやり方が大きく変わり、『古事記』に語られている神話を教えたがらなくなりました。これは本当に惜しいことです。じつに、もったいないです。
たしかに、『古事記』は、8世紀に政治的意図をもって編纂されたものです。しかし、その中には、きわめて古い普遍的な神話がたくさん保存されているのです。これは世界の諸文明の中でも、あまり例のないことです。北米インディアンやアマゾン河流域の原住民が語り続けてきた神話が、『古事記』には語られています。
20世紀を代表する文化人類学者のレヴィ=ストロースは、世界各地に散在する神話の断片が『古事記』に網羅され集成されている点に注目しています。構造人類学を提唱した彼は、他の地域ではバラバラの断片になった形でしか見られないさまざまな神話的要素が日本ほどしっかりと組み上げられ、完璧な総合を示している例はないというのです。
また、20世紀を代表する宗教哲学者のミルチア・エリアーデによれば、日本の神話は、日本以外でも認められるさまざまな神話の「結合変異体」のように見えるといいます。レヴィ=ストロースとエリアーデという偉大な2人の学者がともに、世界の神話の集大成が日本神話であると述べているわけです。
多くの日本人の子どもたち、いや日本人の大人たちも、この『超訳 古事記』を読んで、人類の「こころ」につながる日本神話に興味を持ってほしいと思います。