No.0140 SF・ミステリー 『告白』 湊かなえ著(双葉文庫)

2010.08.14

告白』湊かなえ著(双葉文庫)を読みました。

映画「告白」の原作小説です。

幼いわが子を校内で亡くした中学校の女教師が辞職することになりました。彼女は、最後のホームルームで次のように告白します。

「愛美は死にました。しかし事故ではありません。このクラスの生徒に殺されたのです」

ここから、犯人の級友、犯人、犯人の家族と、語り手が次々と変わり、彼らはそれぞれの告白をしていきます。

衝撃の問題作

語り手を変えることで次第に事件の真相を明らかにしていく手法は、著者の最新作である『夜行観覧車』とまったく同じです。

『夜行観覧車』では、人間の「悪」を描きながらも最新作のラストには救いの光のようなものがありました。しかし、著者のデビュー作でもある本書は、最後まで何の救いもないまま物語が終わります。この双葉文庫版の最後には、「『告白』映画化によせて」という映画監督の中島哲也氏のインタビューが収録されています。そこで、中島氏も本書を初めて読んだ感想を次のように述べています。

「ものすごくスピーディに読めて、とにかくおもしろかったですね。そして、『この作家さんは勇気のある人だなあ』と思いました。最終的になんの救いも解決も示すことなく、バサッと終わらせているところが。」

また、中島氏の次の発言にも大いに共感できました。

「本作は全編モノローグで構成されていますから、一見、全員が自分の真情を吐露しているように見えます。しかし、彼らが真実を話しているという保証なんかどこにもない。そのあたり、湊さんは決定的なことをまったく書いていないんです。最初は単純に、書かれている言葉をなんとなく信用しながら読んでいましたが、再読した時に、『あ、この辺りはうそなんじゃないか』とか、『この人はずっと言い訳しているだけだな』などというが見えてきたんですよ。そういう風に考え始めると、彼らが語る内容のどこが信用できるのか、どの辺は嘘なのかを推理しながら読むことになる。全員がものすごい勢いで『あの時私はこうだった、どうだった』としゃべっているけど、その中には本人がわざと嘘を言ったり、本人すら気づかない嘘がまじっていることもあるわけです。深読みしようとすれば、いくらでもできました。深読みすすぎて収拾がつかなくなったこともありましたが(笑)」

登場人物たちのモノローグによって物語を構成するという手法は、かの芥川龍之介が短編「藪の中」で試みていることです。その「藪の中」を映画化した作品が、カンヌ映画祭でグランプリを受賞した黒澤明監督の名作「羅生門」ですね。すなわち、湊かなえの小説『告白』は現代の「藪の中」であり、中島哲也の映画「告白」は現代の「羅生門」なのだと気づきました。

わたしは著者を現代日本の荀子ではないかと思います。荀子は「性悪説」を唱え、後の「法家」のルーツとなりました。おそらくは、著者も「法」というものを信じている人なのではないでしょうか。

本書の第一章「聖職者」で、女教師の森口悠子は、生徒たちに「みんなは少年法を知っていますか?」と問いかけた後、次のように語ります。

「少年は未熟で発達途上にあるため、国が親に代わり最善な更正方法を考えるというもので、私が十代の頃は、16歳未満の少年は殺人を犯しても家庭裁判所が認めれば、少年院に入らずに済んでいました。子供が純真だなんていつの時代の話でしょうか。少年法を逆手にとって、90年代、14、15歳の子供による凶悪犯罪が頻発しました。みんなはまだ2、3歳だった頃ですが『K市・児童殺傷事件』などは知っている人も多いのではないでしょうか?犯人が脅迫状に用いていた名前をあげれば、『ああ、あれか』と思い出す人もいるかもしれません。そういった事件に伴い、世間では少年法改正の論議が盛り上がりました。そして、2001年4月、刑事罰対象年齢を16歳から14歳に引き下げることなどを盛り込んだ、改正少年法が施行されました。」(一条が漢数字を算用数字に直しました)

第二章「殉教者」では、女生徒の美月は、悠子が話す前から、少年法に疑問を感じていたと手紙で告白します。「H市母子殺害事件」についての報道をテレビで観るにつれ、自己中心的な犯人やそれを必要以上にかばい立てる弁護士の姿に怒りをおぼえ、「裁判なんて必要ないじゃないか、犯人を遺族に引き渡して、好きなようにさせてあげればいいじゃないか」と思うようになったというのです。でも、教師を辞めた悠子への手紙を書きながら、美月の考え方は変わりました。彼女は、次のように書いています。

「やはり、どんな残忍な犯罪者に対しても、裁判は必要なのではないか、と思うのです。それは決して、犯罪者のためにではありません。裁判は、世の中の凡人を勘違いさせ、暴走させるのをくい止めるために必要だと思うのです。」

勘違いして暴走した犯罪者といえば、悠子は最後のホームルームにおいて、生徒たちに「T市・一家五人殺害事件」の話をしました。夏休みに、犯人は家族の夕食に薬品を少量づつ混入し、それぞれの症状を毎日ブログに書いていました。

自分の想像よりも症状が軽いことに不満を抱いた犯人は、学校の化学室から盗んだ青酸カリを夕食のカレーに混入し、両親、祖父母、小学4年生の弟を殺したのです。犯人は中学1年生で、当時13歳の長女でした。彼女は「ルナシー」という仮名を使って匿名ブログを書いていましたが、そこに書き込まれた最後の文章は、「なんだかんだ言っても、結局、青酸カリが一番効果アリ!」というものでした。

悠子は、この「ルナシー事件」に対するマスコミの報道に大きな疑問を感じ、次のように言います。ちょっと長いですが、大切な部分ですので、引用します。

この事件の報道は一部の子供の心の闇に、ルナシーという人間味をまったく感じさせない猟奇的犯罪者の存在を植え付けただけ、愚かな犯罪者を崇拝する哀れな子供たちを煽っただけ、なのではないでしょうか。私は、未成年だからといって顔写真も名前も公表しないのなら、犯人が調子に乗ってつけた名前も公表しなければいいと思います。ブログでルナシーと名乗っていたとしても、実名を少年A、少女Aと表すのなら、その部分もモザイクをかけて、ヌケ作だのノグソだの、みっともない仮名をつけてやればいいのです。K市の児童殺傷事件もわざわざ直筆のあんな署名を公開しなくても、「普通の名前に調子に乗った当て字をしています。難しい漢字が書けることを自慢したいのですかねえ」などと鼻で笑ってやればよかったのではないかと思います。ルナシーと名乗る少女、みんなはどのような容姿を想像しているのでしょうか?冷静に考えてみてください。美少女が自らルナシーなどと名乗るでしょうか?顔写真を公表しないのなら、鼻の下の線や笑い皺を太い線でくっきりと書いた、悪意のある似顔絵でも公表してやればいいのです。思い切り、人間臭さを表してやればいいのです。特別扱いすればするほど、大袈裟に騒げば騒ぐほど、犯人である少年少女たちは自己陶酔していくのではないでしょうか。そして、それに憧れる愚かな子供たちが増えていくのではないでしょうか。最初から未成年が犯人とわかっているのなら、事件を最小限に取り上げ、自己陶酔する子供の愚かしさを、勘違いも甚だしいとたしなめてやるのが大人の役割ではないでしょうか。犯人の少女は児童自立支援施設かどこかで作文でも書いていれば、数年後、何食わぬ顔をして社会に復帰してきます。(『告白』第一章「聖職者」より)

わたしは、この文章ほど、勢いがあり、正論で、しかも爽快感のある文章を知りません。こんな文章を一気に書ける湊かなえの才能は驚くべきだと思います。そして、わたしも誤解していたので偉そうなことは言えませんが、この著者ほど正義感の強い人はいないのではないでしょうか。

特に、匿名ブロガーなどの卑怯者に対しての怒りを強く感じます。本名なのかペンネームなのかは知りませんけど、著者は「湊かなえ」という名前を堂々と出して、これだけの問題作を世に問うている人です。これだけ物議を醸した小説も最近では珍しいですから、著者には相当の覚悟があるのだと思います。

おそらくは、心ない批判や中傷もたくさん浴びたことと思われますが、それでも正々堂々と文章を発表しているわけです。そんな著者には、仮面をかぶったまま、だらだらと素人の駄文を書き連ね、いっぱしの作家気取り、評論家気取りになっている匿名ブロガーという卑怯な者どもが許せないのではないでしょうか。

わたしは、著者の考え方を全面的に支持します。現代の日本にとって、湊かなえは必要な作家であると確信します。

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