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No.0250 死生観 『人はひとりで死ぬ』 島田裕巳著(NHK出版新書)
2011.01.26
『人はひとりで死ぬ』島田裕巳著(NHK出版新書)を読みました。
著者は昨年、『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)で大きな話題を呼んだ宗教学者です。『葬式は必要!』(双葉新書)を書いたわたしとも浅からぬ縁(因縁?)があります。サブタイトルが『「無縁社会」を生きるために』となっていますが、本書の内容は葬式無用論の第一人者による「無縁社会肯定論」あるいは「孤独死肯定論」となっています。
書を俯瞰するために、まずは以下の目次構成を見たいと思います。
「はじめに」
第一章:「無縁社会」の衝撃
第二章:個人を縛る有縁社会
第三章:無縁が求められた時代
第四章:都市のなかでの有縁化
第五章:世間を作り上げた新宗教の縁
第六章:サラリーマン社会が生む無縁化
第七章:無縁死に向かう「おひとりさま」
第八章:無縁社会における生と死
第九章:無縁死を求める信仰
第十章:人はひとりで死ぬ
「おわりに」
「はじめに」の冒頭には、「私たちの暮らしは、今大きく変わりつつある」と書かれています。そして、著者は「情報社会化やグローバル化が進めば、それまで個人を支えてきた地域や共同体、特定の関心事によって、あるいは特定の社会層が寄り集まってできた中間集団などはその結束力を失い、それぞれの個人はばらばらに生活するようになる」と述べています。それが極まった社会こそ、今大きな話題になっている「無縁社会」に他ならないというのです。
また、第一章「『無縁社会』の衝撃」で、著者は無縁社会のことを「人間関係が希薄になり、隣人の死さえ容易に発見されない社会」であると定義し、「隣同士が、たとえ挨拶程度でも毎日声をかけ合っているのなら、無縁死という事態は起こらない。隣同士挨拶さえ交わさない社会が無縁社会である」とも述べています。
まさに、そのような現状を憂いて、わたしなどは「隣人祭り」の開催サポートなどを行っているわけです。それによって、隣同士が挨拶を交わし、隣人の死に気づかないなどということがない社会を再生しようと思っているわけです。しかし、著者はそんな試みなど嘲笑うかのように、次のように書いています。
「いかに無縁社会から脱するか。そうした方向の議論は盛んに行われるようになってきた。けれども、無縁社会は本当に、否定し克服すべき対象なのだろうか。そもそも、本当に無縁社会は訪れているのだろうか。
現代の社会が無縁社会の方向に突き進んでいることが前提にされ、その前提に対しては疑問が投げかけられていない。ましてや、無縁社会の到来を必ずしも嘆く必要はないといった主張はほとんど見かけない」(20-21頁)
著者は、よく自分の意見に対して出てくるであろう反対意見をあらかじめ想定して、先回りしてそれを提示し、「もしかしたら、こんな意見が今後出てくるかもしれないが、その発想そのものが間違っている」といった手法を取ることがあります。
NHKの収録で著者と討論したときにも、それを強く感じました。つまり、「自分は葬式無用論を書いたので、いつかは葬式必要論も出てくるとは思っていたが、その発想そのものが貧弱である」といったようなことです。
しかし、誰が何と言おうが、人間にとって葬式は必要なものなのですから、「葬式は、要らない」と言い出す人間が出てくれば、「葬式は必要!」と反論するのは当たり前ではないでしょうか。先回りして相手を「通せんぼ」する行為は卑怯だと思います。
それは「機先を制する」といったレベルでは済まない、人間の品性に関わることです。本書でもまさにそれが繰り返されており、たとえば次のように述べています。
「私たちは、有縁社会のしがらみから逃れるために、より自由な生き方を追求するために、有縁から離れ、無縁を志向してきた。
それは否定できない事実である。
今の無縁社会の議論においては、この点が抜け落ちている」(29頁)
本書の全篇にわたって、無縁社会を乗り越えて有縁社会の再生をめざす多くの試みを、著者は否定あるいは冷笑しています。著者は、第二章「個人を縛る有縁社会」で次のように述べています。
「有縁社会の人間関係は緊密で、そのなかに生きる人々は孤立しない生活を送っている。だが、孤立しないということは、孤立できないということであり、自由が制限されることでもある。
自由を選ぶのか。それともつながりを選ぶのか。それは二者択一の面がある」(53頁)
たしかに、戦前の日本の「村社会」に代表されるかつての有縁社会には、さまざまな「しがらみ」がありました。村社会の原理とは「全員一致」であり、「無所有」でした。そこに個人の自由はありませんでした。村社会には掟があり、それに逆らった人間には制裁が加えられました。
その制裁の代表が、かの悪名高い「村八分」でした。村八分になった人間は、葬儀と火事を除いて、一切の交わりを絶たれたのです。もちろん、村社会のネガティブな側面はわたしも知っています。また、それを肯定する気などまったくありませんし、わたしたちは村社会に戻るべきなどとも思いません。
わたしたちがめざすべき「有縁社会」は、かつての村社会ではありません。掟だとか制裁だとかに(それこそ)無縁な、「つながり」や「支え合い」や「助け合い」や「思いやり」に満ちた社会のことです。
ヘーゲルの弁証法における「正」「反」「合」にならってみましょう。かつての村社会が「正」で、現在の無縁社会が「反」ならば、わたしがイメージする有縁社会は「合」ということになります。けっして、著者がいうように、「自由」か「つながり」かは二者択一ではありません。わたしたちは、「自由」で「つながり」のある社会を創造することは可能だと思います。
有縁社会とは、当然ながら冠婚葬祭と密接な関係があります。著者は、かつての村社会において冠婚葬祭のシステムが重要な役割を果たしていたとして、次のように書いています。
「冠婚葬祭の機会を通して、人間関係の絆が再確認され、再調整される。
もちろん、都市での暮らしでも冠婚葬祭は重視される。だが、村社会に比べればはるかにその比重は小さい。
村社会における冠婚葬祭のなかでも、もっとも重要な部分が『葬』である。葬のなかには、死者が出たときの葬式だけではなく、年忌法要や盆の行事などが含まれる」(48頁)
また、著者は日本人の信仰の核には「先祖崇拝」があると指摘しています。先祖は、その家の墓地や仏壇に祀られます。その祭祀権は家の継承者である長男に受け継がれます。その点で、農家の次男や三男は、そもそも実家の信仰を受け継ぐことができませんでした。彼らの多くは故郷の農村を離れて都会へ出て行きましたが、携えていくべき信仰は存在しませんでした。都会には墓を持って行くわけにはいかず、次三男なら先祖の位牌も持っていけないからです。
著者は、また次のように述べています。
「都会に出てきた人間は、自分のところで冠婚葬祭の儀式を営んでも、故郷の人間を呼ぶことは少ない。冠婚葬祭は互酬性を基本としており、呼ばれた人間が呼び返すという性格をもつ。その互酬性が成り立たなければ、他者を招く必要は生じない」(64頁)
都会に出て長く暮らした次三男は、次第に故郷に帰ることを考えなくなります。故郷に戻っても仕事はなく、すでに都会で新たな人間関係のネットワークが作られているので、それを捨てるわけにもいきません。
そこで故郷には帰らず、当然ながら実家の墓には入らないわけです。それならば、自分が死んだときには、都会に墓を求めなければなりません。著者は、「墓を都会に作った段階で、故郷の冠婚葬祭のネットワークからはほぼ離脱することになる」と述べています。
それでは、都会に出てきた次男や三男は、どのような信仰を持ち、そのような人間関係をつくり上げてきたのでしょうか。
著者は、創価学会に代表される新宗教の存在に注目します。もともと新宗教への入会者には、農家から都会に出てきた人々が多いことは知られていました。特に、大成功を収めた新宗教が創価学会です。著者は、次のように書いています。
「創価学会の場合には、冠婚葬祭を自前でまかない、地域に組織を広げていったことによって、緊密な人間関係のネットワークを築くことに成功した。会員は孤立して存在するのではなく、家族や親族、あるいは友人、知人にも同じ信仰上の仲間を見いだすことができた」(116頁)
まさに創価学会は、農村における「冠婚葬祭」や「人間関係」とは違う、新しい「冠婚葬祭のスタイル」や「人間関係のモデル」を提供したのです。著者は、第五章「世間を作り上げた新宗教の縁」で次のように述べています。
「稲作農村の共同体と創価学会とを比較したとき、果たしてどちらの方が共同性が強いと言えるのだろうか。どちらの方が、より有縁社会と言えるのだろうか。私たちはその点について改めて考える必要がある」(120頁)
わたしは、もともと創価学会のことを高密度の相互扶助集団であると考えていました。創立者の牧口常三郎の友人には、柳田國男や新渡戸稲造らがいました。
日本に新しい「こころの共同体」を建設するにあたり、彼らのアドバイスは少なからずあったことと推測されます。そして、日本史上に特記すべき民間の相互扶助集団が誕生したのでした。冠婚葬祭互助会よりも生協よりも農協よりも密度の濃い相互扶助集団が生まれ、巨大な教団に成長していったのでした。
たしかに、創価学会をはじめとする新宗教の教団に入会した人々は、都会で新しい「縁」を結ぼうとしていたのかもしれません。彼らは、かつての農村とは違うタイプの有縁社会を求めていたのかもしれません。
ところで、気になるのは、著者の新宗教に対する立ち位置です。著者は、『日本の10大新宗教』(幻冬舎新書)をはじめとして、新宗教についての著者がたくさんあります。また、『創価学会』(新潮新書)をはじめとする創価学会についての著書も多いです。わたしもほとんど読んだのですが、著者は創価学会のことも、立正佼成会や霊友会などの他の新宗教の大団体のことも一切批判していません。
著者が批判するのは、葬式であり、戒名です。聞くところによれば、今度、墓地無用論も書かれるそうです。葬式も、戒名も、墓地も、いずれも日本における伝統仏教を支えている文化であり、宗教装置です。
もし日本の宗教界に「伝統仏教vs新宗教」という構図があるのなら、著者はその一方のサイドに立つ代弁者となっているような気がするのはわたしの考えすぎでしょうか。
伝統仏教の中でも最大の勢力を誇るのが、浄土真宗です。浄土真宗は言うまでもなく、親鸞を宗祖とする日本最大の宗派です。そして、それは親鸞の師である法然が開いた浄土宗と同じく、死後の浄土を信仰する宗教です。しかし、著者は第九章「無縁死を求める信仰」で次のように述べています。
「死後において、たとえ浄土が存在するにしても、死者はそこに何も持ち込めない。財産も名誉も、家族も、何も彼も現世に残しておくしかない。
死が涅槃や往生として宗教的な価値を与えられてきたのも、次々と煩悩を生み出す現世から決定的な形で離脱することを意味するからである。
いかなる悩みや苦しみを抱えていても、死によって、人はそれから解放される。
人は生まれるときに何物ももたずにこの世に現れてくるように、何物ももたずに死んでいくしかないのだ」(195頁)
この文章を読んだ浄土真宗の信徒の人々はどう思うでしょうか?
ちなみに、わたしは浄土に何も持ち込めないというのは間違いであると思います。たとえ、財産や名誉を持ち込めないとしても、その人の一番大切なもの、すなわち「こころ」を持ち込めると思っています。そして、家族を持ち込めないとしても、そこで愛する家族を待つことができるのではないでしょうか。
著者は強烈なニヒリズムを漂わせていますが、それは「死」についての考え方に最もよく表れています。第八章「無縁社会における生と死」で次のように述べています。
「人が死ぬということが迷惑な事態になりつつある。
死んで無になってしまえば、それでいいのだが、そうはいかないからだ。さまざまなものが後に残ることで、死を契機に新たな問題がいくつも起こってくる。
むしろ、無縁死や孤独死を遂げた人の方が、はるかに迷惑ではないのかもしれない。無縁仏として葬られるならば、死ですべてが終わる」(178頁)
著者は、自分が何を言っているのか、わかっているのでしょうか。ここで注目されるのは、「迷惑」というキーワードです。
無縁社会のキーワードは「迷惑」という言葉ではないかと思います。みんな、家族や隣人に迷惑をかけたくないというのです。
「残された子どもに迷惑をかけたくないから、葬式は直葬でいい」
「子孫に迷惑をかけたくないから、墓はつくらなくていい」
「失業した。まったく収入がなく、生活費も尽きた。でも、親に迷惑をかけたくないから、たとえ孤独死しても親元には帰れない」
「招待した人に迷惑をかけたくないから、結婚披露宴はやりません」
「好意を抱いている人に迷惑をかけたくないから、交際を申し込むのはやめよう」
すべては、「迷惑」をかけたくないがために、人間関係がどんどん希薄化し、社会の無縁化が進んでいるように思えてなりません。
そもそも、家族とはお互いに迷惑をかけ合うものではないでしょうか。子どもが親の葬式をあげ、子孫が先祖の墓を守る。これは当たり前のことであり、どこが迷惑なのでしょうか。逆に言えば、葬式をあげたり墓を守ることによって、家族や親族の絆が強くなってゆくのではないでしょうか。
筋力トレーニングなどでも楽なメニューでは無意味です。いつもよりハードなメニューで負荷を与えられ、ストレスを与えられることによって、強靭な筋力がつきます。それと同じで、大変な経験をし、一種の負荷を与えられることによって、家族や親族の絆は強くなるのではないでしょうか。
また、自分が飢え死にしそうなほど貧しくて、親や親戚が元気ならば、助けを求めるのは当然です。これも、どこが迷惑なのか、わたしには理解できません。逆に、自殺したり、孤独死したりするほうが、よっぽど迷惑ではないでしょうか。何か、日本人は「迷惑」ということを根本的に勘違いしているような気がしてなりません。
また、著者は第九章「無縁死を求める信仰」でも次のように「死」を語っています。
「死によって、人は自由になり、解放される。
現世との縁が切れ、無縁になることで救われるのである。
無縁死や孤独死は、そうした死のあり方をもっとも直截な形で表現したものと見ることもできる。
無縁になるということは、上京や縁切りといった行為に見られるように、束縛から解放され自由になることを意味する。
死はその究極的な形であり、死は無縁と同義なのだ」(195-196頁)
死が無縁と同義ですって!? そんなことはありません。なぜなら、人は死んでも無縁にはならないからです。人は死ぬと、そのまま先祖として「血縁」の中で生き続けるからです。
あえて言うならば、死と同義なのは「肉体からの自由」であり、「魂の純化」であり、「人生の卒業」でしょう。
しかし、テロリストならぬニヒリストと化した著者は、さらに言います。
「十分に生きた。振り返ってみれば、私たちはそうした結論に達するのではないだろうか。そう考えれば、無縁死も、無縁社会も、恐れるべきものではない。
無縁死でいいし、無縁社会でいいのではないか」(208頁)
わたしは、この言葉はまったく間違っていると思います。人は「縁」なくして、十分に生きることはできません。逆に言うなら、人はどこまでも血縁と地縁の中でしか生きることができないのです。そこに、学校や職場や趣味や志の「縁」が加われば素晴らしいことです。
ニヒリストとしての著者の暴走は止まるところを知らず、本書の「おわりに」の最後は次のように結ばれています。
「私たちは死ぬまで生きればいい。
その単純な事実に気づき、これからの生をどのように送っていけばいいかを理解できるようになる。
そのとき、無縁社会は恐れの対象ではなくなる。無縁社会は、逆に自由で、豊かな可能性を帯びた社会にも見えてくる。
私たちは無縁社会を生きるしかない。その気持ちを抱けたなら、死への恐れ自体が消え去っていくのではないだろうか」(214-215頁)
わたしは、この文章を読んで本当に驚きました。無縁社会がどうして自由で、豊かな可能性を帯びているなどと言えるのでしょうか。人知れず孤独死して、隣人にずっと発見されず、腐乱死体や白骨死体として発見されることが自由で豊かなのでしょうか。また、なぜ無縁社会を肯定したら「死への恐れ自体が消え去っていく」などと言えるのでしょうか。わたしには、さっぱり理解できません。
しかし、ここまで言い切る著者の覚悟には、ある意味で感心しました。この人は偽悪的になっているのではなく、心の底からそう思っているのではないかとも思いました。そして、「どうして、この人はここまで虚無的になれるのだろう」という疑問を抱きました。その答は、第十章「人はひとりで死ぬ」に書かれていました。
「私は、オウム真理教の事件の際に、社会的に死に、そして、病気で肉体的にも死んだ。死の直前までいった。
その意味で、二度死を経験したことになる。一度目の社会的な死と二度目の肉体的な死は、当然連動している。そうした死に近い体験を経てきた以上、今の私の人生は、『おまけ』のようなものとも言える。
そして、死をくぐり抜けることで、考え方も変わった」(202-203頁)
わたしも、著者の強烈なニヒリズムの源泉は、オウム真理教事件にあったと思います。島田裕巳氏はかのオウム真理教を擁護した宗教学者として知られています。
著書『オウム~なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』(トランスビュー)の「序章 オウム事件と私」で島田氏は、「私は、オウムが引き起こした一連の事件の意味を探り、ひいてはオウムとは何か、さらにはなぜ日本の社会にオウムのような集団が出現したのかを明らかにしていきたいと考えている」と述べています。
しかしながら、それに続いて島田氏は、「私にはその作業を進める上でためらいがあることを告白しなければならない。それは、私にとってひどく気の進まないことでもある。私の人生はオウムとかかわることによって、あるいはオウムについて発言することによって、大きくそのコースを変えることとなったからである。私は勤めていた大学を辞めなければならなかった。そして私には『オウムを擁護した宗教学者』という負のレッテル、『スティグマ』が張りつけられた。そのスティグマは、今もはがれていない」と述べています。
たしかに、あのときの島田氏へのバッシングには凄まじいものがありました。「こんな目に遭ったら自殺する人も多いはず」と思うほどでした。それを乗り越えてきた著者は、すでに一度死んでいるのです。いや、著者の言葉を借りれば、「二度死んでいる」のです。
わたしは、それほど極限的な経験をしたことはありません。会社が絶体絶命となるような膨大な借金を背負ったことはありますが、前向きにエンジョイしながら、なんとか完済しました。ですので、地獄を見た著者が行き着いた果ての考えに異を唱える気はありません。
しかし、それはあくまでも島田裕巳氏個人の場合です。島田氏個人が「人はひとりで死ぬ」という虚無的な思想を持つことは勝手ですが、それを別に極限的経験もしていない普通の人間が感化されて影響を受けることはないと思います。
例えれば、世をはかなんで自暴自棄になっている人間が何の関係ない人々を道連れにして、集団自殺するようなものです。いま、わたしは「集団自殺」と言いましたが、人と人とのつながりを否定する考えをもつことは「こころの自殺」に他ならないと思います。
やはり「真の贅沢とは人間関係の贅沢」であり、多くの縁ある「おくりびと」たちに見送られて人生を卒業していく、ここに人間の幸福があるとわたしは確信します。
そして、わたしは、良い人間関係づくりのためのお手伝いとして冠婚葬祭や隣人祭りの提供にこれからも励みます。たとえ自分がバッシングや拷問にあっても、いや殺されても、自分の信念は変えません。わたしは、絶対に人間は孤独死しないほうがいいと思いますし、断固として無縁社会を否定します。
最後に、本書がNHK出版から刊行されたことが非常に残念でした。
著者は、つねづね「自分は売文業者であり、出版社からの注文を下請けとして受けるだけである」と公言しています。まあ、執筆という行為には社会的責任が伴うので「下請けで書きました」では済まないとは思いますが、それはひとまず置いておきましょう。
問題なのは、著者に「こういう内容の本を書いてほしい」と依頼したNHK出版です。「無縁社会や孤独死を肯定する本を書いてほしい」とNHK出版が依頼するのは、「葬式を否定する本を書いてほしい」と幻冬舎が依頼するのとは根本的に問題が違います。
なぜなら、純粋な民間企業である幻冬舎は話題性や自社の利益のみを追求しても許されますが(わたしは企業にも社会的責任があると考えていますが、これもここでは置いておきましょう)、国営企業であるNHKにそれは許されないからです。
NHKは「無縁社会」という言葉を流行させ人々に不安を与えるだけではなく、無縁社会を打開する具体案について報道するべきであると、わたしはずっと訴えてきました。
孤独死の現場に代表される悲惨な場面を報道するだけでは、怖いもの見たさのホラー番組と変わりがありません。そうではなく、隣人祭りとかタイガーマスク運動とか、この日本でもたくさん活動されているNPOやボランティア団体の試みとか、そういったポジティブなムーヴメントを、なぜ「無縁社会」と関連づけて番組を作らないのでしょうか。
本書を島田裕巳氏に書かせたということは、NHKが一連の「無縁社会」番組に対する自己弁護を島田氏に依頼したという側面があるような気がしてなりません。
視聴率至上主義の民放とは違い、NHKはいたずらに視聴率を追わず、社会を良くする番組を作ってほしいと思います。たとえ視聴率に結びつかず、話題性に乏しくて、ダサくてもいいから、「無縁社会」を乗り越えて新しい「有縁社会」を作ろうと必死になって頑張っている人々に光を当ててほしいと思います。
みんなが「無縁社会でもいい」「孤独死も仕方ない」「有縁社会づくりなど最初からムリ」と考えるようになったら、日本は本当に終わりではないですか!
ちなみに、わたしは、新しい「有縁社会」の実現という青臭い理想を持ちながら、これからも悪あがきを続けていくつもりですけど、何か?