No.0265 論語・儒教 『「論語」でまともな親になる』 長山靖生著(光文社新書)

2011.02.09

『『論語』でまともな親になる』長山靖生著(光文社新書)を読みました。

著者は、本業である歯科医の仕事のかたわらに文芸評論、家族や若者の問題などに関して執筆活動を行っている人で、多くの著書があります。

1996年には『偽史冒険世界』(筑摩書房)で第10回大衆文学研究賞を受賞。

わたしは著者の本を数冊読んでいますが、オカルトやSFなど、わたしの関心分野と重なる面も多く、非常に面白い本を書かれています。

世渡りよりも人の道

著者は、『論語』をお子さんに読み聞かせているそうです。

すると、子どもよりも自分の身にしみて、つい唸ってしまうとか。

そして、自分に道徳を語る資格があるのかと愕然とするというのです。

本書の序章「今どきの世間と『論語』」で、著者は次のように書いています。

「私が子供だった頃は、道徳なんてものは、わざわざ学ばなくてもいいと思っていた。ふつうに暮らして、ふつうに成長していけば、それなりの社会常識と共に、道徳なるものも自然に身に付くだろうと思っていた。哲学はさておき、日常的な道徳は『普通』のことだと思っていた。しかしその『ふつう』が稀有のものになっているのが、現代だ」

著者は、自分の子どもにどんな人間になってもらいたいのか自問します。

処世術を身につけて、うまく世渡りし、それに良心の咎めを感じないような人間か。

それとも、道徳的規範を身につけ、損得ではなく理非で勘定するような人間か。

著者は、その自らの問いに対して、次のように回答を出します。

「私は堅物ではないので、人生にはその両方の側面が必要だと思っている。ただし現代は、ふつうに生きていれば、自然に処世術が身につくような世の中である。そうでなければ生きていけないからだ。だが、処世術だけを身につけ、いわゆる『勝ち組』的な意味で『成功』しても、人間はそれだけでは幸福の実感にコミットできない。もちろん、うまく世渡りが出来ない『負け組』が精神的支えすら持っていない場合は、『どうして自分だけ・・・・・』という恨みがましい気持ちが募って、ますます生き難くなり、極端な場合は悲惨な事件などを引き起こしてしまう。どちらの人生にも、自分自身のために、何らかの道徳を、押し付けられるのではなく、自らの意志として身につけることが必要だ」

処世術と道徳の両方が必要だとしたら、明らかに現代では道徳が欠乏しています。

道徳心の欠乏する世の中では、ビタミン欠乏を補うように、努力して道徳を心に刻む必要が高まっていると、著者は痛感します。

さらに、処世術はあとからでも学習できますが、道徳規範というものは、早く身につけないと自分のものになりません。

著者は、本質的に必要なのは「道徳」であると断言し、次のように述べます。

「世知辛い世の中を『生きやすくする』ためには、処世術が役に立つだろう。だが人間が『生きる』ためには、まず道徳が必要なのだ、と親になってみて、はじめて痛感した。人間、どんなに儲けても高が知れている。経済力も権力も腕力も、他人と比較してどうこうという、相対的な価値にすぎない。自分で自分の人生に納得するためには、自分を是とし得る確固たる価値観が必要だ。そしてそれをこそ『道徳』と呼ぶのであろう、と思い至った。人間は、処世術を駆使して『うまく生きる』だけでは、生きられない。道徳的な『よりよい生き方』を模索しながら生きることが、本当に人間らしく生きることなのだ」

しかし、今の自分に教えるべき体系的な道徳規範がないことに気づいたという著者は、あせって『論語』を開いたといいます。

「道徳」というと、一般的に敬遠されるのが相場です。なぜなら、それが説教臭いからです。説教臭いのは、話の内容には関係ありません。それは、自分のことを棚上げして、上から目線で言葉を発するという話し手の姿勢から生まれるものなのです。語り手自身が道徳を重んじていないのに、相手にだけそれを求めれば、当然ながら反発されます。

『論語』を読むならば、読み手自身が、そのメッセージをわが身に照らして謙虚に受け取る気持ちを持たなければなりません。わが子に道徳的な信念を持つことの大切さを教えたいという一心から『論語』を読んだ著者は、その教えが自分にこそ欠けていることに愕然とし、あらためて『論語』を手に取り直しました。すると、その言葉の一つひとつが、生きたものとして感じられ、素直に感動したそうです。

しかし、 論語』とは昔から、著者のように「親が子に教える」という作業を通じて、親自身が再び人生について学び直すという読まれ方をしてきた本だったのです。

『論語』を学び直した著者は、道徳や教養というものは「役に立つ」と確信します。

なぜなら、『論語』をきちんと読み込んだ人間から、オレオレ詐欺師は生まれないからだというのです。『論語』的人生の「正しさ」を学ぶことは、たとえ凡人的人生における幸福のためであっても、十分に「役に立つ」というのです。

著者は、第1章「真の幸福は、この一句からはじまる」に次のように書いています。

「人間は誰でも、幸せになりたいと思っている。ましてや、子供の幸せを願わない親はいない。親が子供に論語を読み聞かせるのは、『論語』が世俗道徳的に役立つからではない。特に今どき、『論語』を読んでがんばったからといって、受験競争や社会での出世には、直接には役に立たない。しかしここには、自己を充実させる言葉が並んでいる。それは『出世』だの『冨』などという迂回路を通らずに、幸福に直接つながるものだ。充実して、『これでいい』といえる人生ほどの幸福はない。子供にはわからないが、実社会に出た大人なら、そのことをよく知っている」

わたしも、この著者の意見にまったく同感です。

著者は62年生まれでわたしの1学年上ですが、オカルトやSFだけでなく、『論語』についても共感できる考えの持ち主と知り、とても親しみが湧いてきました。

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