- 書庫A
- 書庫B
- 書庫C
- 書庫D
No.0707 オカルト・陰謀 | 宗教・精神世界 | 心霊・スピリチュアル 『黎明(上下巻)』 葦原瑞穂著(太陽出版)
2013.04.11
「勇気の人」こと矢作直樹さんとの対談本『命には続きがある』(PHP)がもうすぐ刊行されますが、『黎明』は矢作先生が非常に高く評価されている本です。
昨年8月5日に矢作先生と銀座で会食しました。そのとき、東大病院の循環器系内科医師の稲葉俊郎先生も御一緒でした。稲葉先生は、作家の田口ランディさんと親しく、『人は死なない』の出版に際してのサポートもされています。同書の「あとがき」にも名前が登場しますが、東大病院きっての読書家であり、東京大学医学部山岳部監督にして東京大学医学部涸沢診療所所長でもあります。また稲葉先生は、東大医学部の学生時代に矢作教授の講義を受けており、精神世界を中心とした読書の影響も受けられたとか・・・・・。
その日はお二人とさまざまな話題で盛り上がりました。そのテーマは心霊からはじまって、超能力、UFO、地球外生命、超古代大陸、雪男、フリーエネルギーまで・・・・・さながら、古今東西の「謎」と「不思議」のワンダーランドのようでした。
矢作先生がいわゆる「オカルト」と呼ばれるジャンルに広く深く通じておられることに驚きましたが、わたしは「何か、おススメの本はありませんか?」と質問しました。すると、矢作先生は一瞬の躊躇もなく、『黎明』の名を挙げられました。すべての神秘領域を遍く説明した物凄い本だそうです。なんでも、元音楽プロデューサーである著者は、教祖として祀り上げられるのを嫌い、現在は八ヶ岳で暮らしているとか。「八ヶ岳の仙人」とか「八ヶ岳の聖人」と呼ばれているそうです。
稲葉先生も、「『黎明』は、自分がこれまで読んだ本の中でも五指に入りますね」と言われていました。早速、わたしはアマゾンで『黎明』を注文したのでした。一読して、その総合性に驚きました。宗教、精神世界、オカルトといった見えない世界を扱った分野を広く網羅して解説しています。本書を読んで、さまざまな問題の謎が解けたように感じる人も多いのではないでしょうか。
本書の目次は、以下のような構成になっています。
〔上巻〕目次
新版によせて
詩
序章
第1章 世界という幻
(1)見ているもの
(2)聞いているもの
第2章 物質の存在
第3章 表現媒体
第4章 人間
第5章 普遍意識
第6章 創造の原理
第7章 地球生命系
第8章 誕生と死
第9章 アストラル・レベル
第10章 メンタル・レベル
第11章 生れ変り
第12章 地球の変容
第13章 大師
第14章 潜在能力
(1)病気治療(ヒーリング)
(2)霊視能力
(3)空中浮揚
(4)瞬間移動(テレポーテーション)
(5)物質化現象
(6)その他の潜在能力
第15章 チャネリング
〔下巻〕目次
第16章 善と悪
第17章 地球の先住民
第18章 光と影の識別
第19章 音楽
第20章 地場調整
第21章 ピラミッド
第22章 日常の生活
第23章 霊的向上の方法と瞑想
第24章 教育
第25章 宗教
第26章 占星学
第27章 新しい時代の地球
終章
上巻の冒頭には、以下のような詩が掲載されています。
私の探しているものですか
それは形の有るものではありません
形の有るものは それの本来の姿ではないのだから
それは名前の有るものでもありません
名前の有るものは 本当は そこにはないのだから
真理と愛と叡智と
これらの言葉が 世の初めに発した響き
これらの言葉の 内に携えている光
これらの言葉の 源に在る力
限りなく美しく この上なく崇高な海のように
激しい嵐の中にも
荒れ狂う高波の下にも
静かにそれは拡がっていて
宇宙の一切を包み込んでいるのに
ひとつの原子の中にも その総てが在るもの
久遠の昔 そこから私はやって来て
永遠の時を掛けて 私はそこへ還って往く
それが 私の求めているものです
(『黎明』上巻P.2~3)
また、序章の冒頭には以下のような言葉が掲載されています。
自分とは何でしょうか
なぜ意識と言うものが在るのでしょうか
どうしてあなたは今ここにいるのでしょうか
人生には目的があるのでしょうか
私達の生活している この世界の本質は一体何なのでしょうか
世界は何のために存在しているのでしょうか
(『黎明』上巻P.10)
この哲学的な詩と言葉の後で、ようやく序章がスタートします。まず、著者は次のように述べています。
「現在の地球人類の歴史の中で比較的近代になって、ヨーロッパを中心にして発達してきた科学は、ある側面での大きな成果を上げていることは確かですが、まだ宇宙全体に秘められている無限の未知の領域に比べれば、砂浜の砂一粒にも満たない細やかな知識に過ぎません」
続いて、著者は本書に書かれている内容について以下のように紹介します。
「本書では精神世界の様々な分野について、人間の知覚と意識の科学的な探求から始めて、インドのヨガやヒマラヤの聖者達の世界、日本神道や仏教、ヒンズー教やキリスト教といった宗教の側面、そしてニューエイジと呼ばれる新しいアプローチや地球外生命(Extra Terrestrial)に関する情報も含めた、全体の関係を一望できる視点に立つための、幾つかのヒントを挙げていきます」
著者によれば、わたしたちは現象として、さまざまな問題を抱えています。それらの問題の一切を消滅させる唯一つの方法があります。それは、わたしたちの1人ひとりがこれまで主に使っていた、「感情の意識レベルや論理的思考の意識レベルを越えた、宇宙全体を一度に把握することのできる、本来の意識状態」を取り戻すことにあるそうです。詳しくは本書の各章で述べられていますが、こうした本来の意識状態への移行は、地球人類の進化の一過程として、すでに始まっていることなのだとか。著者は述べます。
「この宇宙全体を一度に把握する意識(以降では「普遍意識」と呼ぶことにします)は、これまでの数千年間の地球の歴史に限ってみても、人類の進化の魁となった様々な人々を通して顕れてはいたのですが、周囲のほとんどの人達は、それを自分達の制約された意識状態で判断することしかできなかったために、それについて理解することは勿論のこと、その存在についてさえ、なかなか知られることはありませんでした。それは様々な分野で先駆的な仕事を為した天才達の意識であり、宗教家の言う悟りの体験でもあります」
本書のタイトルは、なぜ『黎明』と名づけられたのか。本書で扱われている諸テーマは、いわゆる「ニューエイジ」と呼ばれる分野に属します。しかし著者いわく、ニューエイジという言葉は「これまで一部の天才達を通して顕れていた普遍意識が、地球上のほとんどの人達にとっても日常的なものとなって往く過程で起る、様々な現象を総称」していますが、この言葉も多くの人々によって色々な意味で使われるようになり、誤解を招きやすくなりました。そこで、本書では「人類の意識の夜明け」という意味で『黎明』という言葉を使うことにしたそうです。
本書には、まるで物理学者が書いたのではないかと思えるほど宇宙や物質や光の本質についての叙述が記載されています。そこから超科学、心霊学、超心理学のジャンルへとテーマが以降していくのですが、書かれている情報量があまりにも多すぎて、それを逐一紹介していくわけにはいきません。それこそ本書の解説書ということで1冊の本を書かなければならなくなります。ここでは、本書の上下2冊をざっと通読してみて、わたしの興味を強く引いた部分のみ抜書きしていきます。
まず、わたしは第8章「誕生と死」の内容に惹かれました。最初に著者は「転生」について、次のように述べています。
「転生という現象は、魂が自分自身の成長と全体の中での役割と言う2つの側面から行っているものですが、厳密に言えば、これらの一切を司っている意志は普遍意識のレヴェルに在ります」
さらに、「家族」や「血縁」と転生との関係についても次のように述べます。
「家族は何転生にもわたって縁のあることも多く、また肉体の遺伝子が似ていることから、同一の魂が地上で表現するのに好都合なこともあって、亡くなった祖父が孫として生れてくるようなこともありますが、全く別の家系に生れることも少なくありません。普遍意識は全智ですから、全体の目的とか魂の成長、カルマの清算や他の魂との約束等、その転生の一切について識っていますが、魂の表現するパーソナリティはそれぞれの進化の程度に因り、肉体に化身する以前に、自分の次の転生の目的を顕在意識ではっきりと自覚している者もいれば、潜在意識下で全てが行われていて、本人は転生の目的を全く理解しないで生れてくる者もいます」
これは、柳田國男の著作『先祖の話』にも通じる内容ですね。柳田の先祖観については、わたしも『ご先祖さまとのつきあい方』(双葉新書)で紹介しました。
また生まれつき障害を持って生まれてくることについて、「カルマ」というものを基本にして次のように述べています。
「ハンディキャップを持つ人達に対して愛のない接し方をしたり、大きな能力を転生の際に与えられておきながら、それを全体の目的のために役立てなかったりしたような場合に、次の転生でハンディキャップを持って生れることでカルマのバランスを取ることはよくあります。しかしながらこのような選択は、自然法則に因る処罰とか、誰かの命令によってさせられるわけではなく、本人の魂が自分自身の成長のために、自分で決めているのだと言うことを繰り返し強調しておきたいと思います。
また魂自身には全くカルマがなくても、ある家系、もしくは特定の両親のカルマを清算するために、相対的に進化した魂が神の愛を表現する目的で、その家庭にハンディキャップを持った子供として生れてくるようなケースもあります」
神智学の思想と同じように、著者は肉体を超えたエーテル体、アストラル体、メンタル体などの見えない「体」を「高次媒体」と呼びます。「死」とは、これらの高次媒体が肉体から離脱していく現象です。人は亡くなるときに、走馬灯のように人生を振り返るといいます。この臨終の際の「人生の再体験」について、著者は次のように説明しています。
「高次媒体が肉体から離れる際、もしくはその後の極めて僅かな時間に、その人の一生の体験がヴィデオテープの再生のように眼前に展開されます。これは単なる視覚的な映像ではなく、その時の感情や思念の動きに至るまで克明に再現されるので、短い時間に一生をもう一度生きるといっても良いでしょう。このとき、場合によっては過去生に遡って今生の出来事との関係を学ばされたり、本人があることをしたときの周囲の人達の心の内面まで見せられることもありますが、これらはその転生における魂の計画と、その計画を現象我によって実際に行った結果を、ひとつひとつ検証していく過程として体験させられるものです。この再体験は、本人の高次媒体に記録されている波動を、記録されたときの時間軸に添って極めて短い時間に参照する方法で行われますが、この作業を手伝う指導霊が、宇宙の根源記憶(アーカシック・レコード)からヴィジョンを見せることもあります」
心霊研究には「幽姿」の問題というものがあります。「なぜ、死者の霊、すなわち幽霊は服を着ており、亡くなったときの年齢よりも若かったりするのか」といった問題です。この問題について、著者の葦原氏は次のように明快に答えます。
「幽界ではある種のテクニックを身に付けると、自分の望んだ通りの姿形を採ることができるので、ふだん幽界で用いている姿のままでは本人と判らない場合があり、このために相手の記憶に残っている、地上で最後に会ったときの肉体の姿をわざと造り出すことがよくあります。また高度に進化した魂の場合には、本来の階層では地上で知覚されるような現象我(パーソナリティ)を採らないので、地上近くの波動領域に自らの一側面を投影して、地上時代に馴染み深い姿を採ることがあります。
このような周囲の存在が、肉体から離れつつある当人の意識によって知覚されるかどうかは、その魂の進化程度やその時の状態によって様々で、意識が明確でないときには全く知覚されないこともありますし、地上的な観念の波動で参照したときには、何人かの人間の姿として見えることもあります。またこれが一番実相に近いのですが、底知れぬ愛を感じさせる輝く光の玉として知覚される場合もあり、人によってはこのような存在を神や天使だと思うこともあります」
自殺の問題についても、著者は次のように述べます。
「自殺はあらゆる側面から考えて割に合わない選択であることを、多くの人に知っておいて頂きたいと思います。自殺に追い込まれる人はほとんどの場合、自分が置かれている状況にそれ以上堪えられないと思い、死ぬことでこれらの状況から生じる義務や精神的苦痛から逃れられると考えますが、実際には肉体から離れても意識は存続していますから、地上にいたときの苦しみに満ちた精神状態をそのままアストラル・レヴェルに持ち込むことになって、事態は一層厳しいものになってしまいます」
この考え方は、ドイツの神秘哲学者ルドルフ・シュタイナーと同じです。彼の著書である『神智学』高橋巌訳(ちくま学芸文庫)に詳しく書かれています。シュタイナーの自殺についての考えは、拙著『ロマンティック・デス~月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)でも紹介しました。
自殺者の転生については、著者は次のように述べています。
「もちろん永遠の時間の観点からは、完璧な自然法則がはたらいていますから、このような自殺者もいつかはこうした低い波動領域での浄化を終えて、地上もしくは他の天体に再び転生してくることになりますが、大抵の場合には本人の魂が、前の転生で学ぶはずだった課題をもっと厳しい条件の下でやり直す人生の再設定を行いますから、自分の果すべき責任からは決して逃れることはできません」
さらに、自殺者の意味について次のように述べます。
「その人が地上で為すべき役割がある場合には、どんなことをしても死ぬことはできませんが、いずれにしても普遍意識のレヴェルでは、それぞれの魂が表現する現象我の強さや弱さ、長所や欠点を充分に識り尽くした上で転生全体の計画を立てていますから、本人の能力を超える課題が与えられることは決してありません。従ってこの原則を充分に理解していれば、神の計画に対する絶対的な信頼と、それに基づく心の平安が生じ、この平安を通して普遍意識の全智全能が展開するように成るので、その人は人生上直面するあらゆる問題を解決することができるようになります」
自殺に続いて、死刑についても次のように述べています。
「死刑制度の背景には、自我意識の人間が他の人間を裁くことができると考える間違った前提と、犯罪者が死ねば永久に世界から追放できるという、重大な誤解があることを指摘しておきたいと思います。
まず私達は本来、全体として1つなのですから、誰かが不調和な表現をしたということは全体にその責任があるわけで、個人を処罰すれば片付くというような単純な問題ではないことを識って頂きたいと思います」
第9章「アストラル・レベル」も、なかなか興味深かったです。著者は、妖精や精霊といった存在について、高次媒体の属する「アストラル・レベル」の概念を使って、次のように説明します。
「昔から妖精とか精霊と呼ばれている存在は、このような自然界との接点に当る波動領域に関係があります。実際あらゆるものが生命の表現であることは前に述べた通りですが、エーテル・レベルからアストラル・レベルに至る、ある波動領域の生命の個的表現様式を、様々な文化の中に伝承される観念によって参照したときに映像化される姿形が、伝説の中にある妖精や精霊の姿なのです。彼等は地球生命系の中に含まれる、人間とは別の進化系列に属する存在で、ある程度の個体意識を持ってはいますが、人間のように、全体から菅前に独立した自分という錯覚を持っているわけではありません」
わたしは、これを読んでグラハム・ハンコックの『異次元の刻印』上下巻、川瀬勝訳(バジリコ)の内容を思い出しました。
第10章「メンタル・レベル」でも、不思議な精神の現象が紹介されています。
この章で著者は「想念の現象化」について触れています。例えば、日本では心霊現象と思い込まれているものとして、人間が狐や狸、蛇といった動物霊に憑かれるという考えられています。このような場合、減少としては何が起きているのか。著者は述べます。
「それは民間の伝承として日本に特有の、狐憑きとか狸憑きという観念が、ある波動領域に想念形態を形造っていて、主体性のない人がその想念を意識する(チャネルする)と、逆にその想念のエネルギーに支配されてしまい、彼もしくは彼女が信じていることが、自分の創造力に因って現象になって現れてくるわけです。このため狐憑きという観念が全く存在していないヨーロッパの国々では、狐憑き現象はありません。その代わりにヨーロッパでは、彼等の民族に特有の観念である、狼男やドラキュラ(吸血鬼)が現象化されるわけです。ヨーロッパの諺に『悪魔のことを話すと、彼が現れる』というものがありますが、これは、このような自分の信じているものを創造してしまう現象(自念現象と呼びます)の仕組を見事に言い当てています。このような自分の心の創作物に振り回されないためには、常に自分の心の中を注意深く観察して、偽物、つまり恐れ等の否定的な要素や、自分と他のものとの分離感から生じる想念の一切を、徹底的に心の中から追放する断固たる態度が必要です」
これも、わたしはライアル・ワトソンの『生命潮流』木幡和枝訳(工作舎)の内容を思い出しました。ユングのいう「集合的無意識」が実在化するというくだりで、UFOにしろネッシーにしろ、多くの人々が実在を信じたら実際に物質化して出現するといったような内容です。わたしは、これを拙著『ハートビジネス宣言』(東急エージェンシー)でも紹介しました。
第15章「チャネリング」にも、刺激的な情報が書かれていました。著者は、インスピレーションの秘密について次のように述べます。
「科学上の発見や藝術活動等、あらゆる種類の創造活動は、それぞれ対応する波動領域に反映されている宇宙の表現の原型に、直接地上の人間が意識を同調(チャネル)することに因って行われたり、精神階層の存在者が、明確な目的を持ってこれらの表現の原型を地上の表現者に伝える、能動的なチャネリングが用いられることが普通で、よくインスピレーションと呼ばれるものは、この過程で生じる主観的な感覚を指しています」
さらに著者は、「精神階層の共通の原型」というきわめて興味深い問題を次のように述べます。
「アレクサンダー・グラハム・ベルが1876年に電話機を完成したとき、同様のものの試作に成功していながら、祝賀会を催していて特許の申請が遅れてしまい、歴史に残らなかった発明家がいるのですが、時代の状況が充分に整っていれば、それを誰が地上に降ろすかは、時間の問題でしかないわけです。
またもう少しスケールの大きな現象として、日本で道元や栄西、一遍や日蓮、親鸞や法然といった人達が新仏教を起した時期に、ヨーロッパでルネッサンスが始まる時期が続いていること等も、時代のエネルギーと精神階層の背景と言う点から注目してみると、大変興味深い要素を含んでいます。
このように似通った表現のルーツが精神階層の共通の原型であることがしばしばあり、更に正確に言うなら、あらゆる表現が唯一の生命の御業で在ることを考慮するならば、著作権等という観念も、個人の存在という錯覚から生じた心の迷いに過ぎないものです。しかしながら意識の未熟な段階では、外側にあるものの模倣を抑制して、自らの内より生じるオリジナルな表現に向けさせると言う点で、こうしたヨーロッパ的な社会通念も役に立ってはいます」
著者のいうように「精神階層の共通の原型」というものが実在するとすれば、わたしたちは剽窃とか盗作といった問題についても考え直す必要があります。なにしろ、著作権というものの基盤すら揺らいでしまう重要な問題であると言えるでしょう。ちなみに、わたしは「精神階層の共通の原型」は実在するのではないかと思います。
以上が上巻で、ここから下巻に入ります。
物理学用語が哲学用語がたくさん登場して難解な印象の強い上巻に比べて、下巻は砕けた感じというか、日常的なテーマも多く、読みやすくなっています。
でも、相変わらずスピリチュアルの要素は強く、第18章「光と影の識別」では地球外生命の存在を肯定し、彼らが地球人類にいかに多大な影響を与えてきたかが述べられます。著者いわく、地球上には各種の地球外生命が存在していますが、その真実は国家の安全保障のためという名目で軍事機密にされており、一般に公開されることはありません。これについて、著者は次のように述べています。
「このような地球の事情が、次第に他の恒星系の人達にも理解されるにつれて、彼等も政府の要人や軍人と接触したときに生じる閉鎖的なエネルギーの傾向が、地球との接点を開く上では却って問題を複雑にするということを知り、一般の地球人類に対して直接関わる必要があることを認識するようになってきたわけです。
しかしながら、いきなり宇宙船を物質化して大都市の真ん中に舞い降りたりすれば、心の準備のできていない、地球の平均的な人達はパニックになってしまいますから、徐々に慣らしていってショックを和らげる必要があり、このような配慮から、彼等の存在を地球外生命に関心を持つ人達にそれとなく意識させるような、色々なデモンストレーションを行っています」
超常現象マニアの間で有名なミステリー・サークルについても、次のように説明されています。
「ミステリー・サークル、もしくはクロップ・サークル等と呼ばれている、畑等に規則正しい図形が、極めて短い時間に描かれたりする現象は、彼等のこうしたデモンストレーションとしての側面があります。これはあるヴァイブレーションのエネルギーをコントロールしながら照射すると、植物の茎が地上から一定の高さのところで折れることなく直角に曲げられて、植物は横倒しの状態になり、その部分だけが他よりも高さが低くなるために、模様になって見えるものです」
さらには、スティーヴン・スピルバーグの「未知との遭遇」をはじめ多くのハリウッドSF映画に登場したエイリアンについても、次のように述べられています。
「よく宇宙人の目撃例として、グレー・タイプと呼ばれる、背が低く、身体に比較して頭と眼が大きな、灰色の皮膚を持った姿形が報告されていますが、これは他の恒星系の人達の個的表現体ではなく、彼等が物質レヴェルで作業をするときに手助けをするアンドロイド(生物的な機能を備えたロボットの一種で、内臓器官もあります)なのです。
地球外に属する生命の個的表現は、それぞれの恒星系の表現の場では、エネルギー体であったり、私達の多くの想像を超える多彩な表現様式を持っていますが、彼等が地球圏で表現を行うときには、アストラル・レヴェル及びメンタル・レヴェルで媒体を採ることがよくあります。
このときの媒体は地球天使(地上に転生する人間とは別の進化系列に属する、やはり地球圏に生活する魂のグループ)の媒体と同じ様に、遥かに美しいという点を除けば人間と同じ姿形を採ります。これは幽界レヴェルでは見る人の主観が反映されるためですが、実相においては燃える炎のような光の塊で、これもまた人間の実相と変りません」
おどろおどろしい宇宙人についての解説とは打って変わって、第19章「音楽」では、エレガントな芸術の世界について語られます。この章の冒頭で、著者は次のように「美の本質」について述べています。
「現象世界に表現されているあらゆる存在物は、それぞれ固有の波動を持っており、物質レヴェルから精神階層、そして究極の実在(タット)に至るまでの、一切の波動領域において創造されるヴァイブレーションが渾然一体に成って、1つの完全なる調和(ハーモニー)を醸し出しています。これこそが美の本質なのですが、私達はそのごく一側面、大海の中の水一滴にも満たない部分の波動を、色彩や音、香りや触った感じ、あるいは味として知覚し、また様々な感情や想念、そして霊的な昂揚や、その他の感覚として体験しています」
詩人ブラウニングは、「地においては破れた弧。天においては全き円」と表現しました。この言葉を受けて、著者は次のように述べます。
「全ての藝術は、この大いなる宇宙の奏でる至高のハーモニーが人間の心に反映したもので、極めて制約の多い地上においてさえも多様な表現を採り、その実相に比べれば極めて細やかなものではあっても、音を使って心にこうした調和の波動をもたらすものが音楽であるわけです。それ故に佳い音楽は、人間の肉体や心を構成する各波動領域の媒体に共鳴して、全体との一体性を取り戻すはたらきがあり、心や身体のヒーリングに極めて大きな効果を及ぼします」
ここでは「コンサートでの霊的体験」などのエピソードも語られますが、面白いのは拍手の働きについて述べた以下のくだりです。
「神に捧げる音楽やレクイエムのような僅かの例外を除けば、公演の際に拍手は付きものですが、拍手は右手と左手を相対させることに因って陰陽のエネルギーを交錯させ、ヴァイブレーションを上げてその場を清め、祝福を与えると言う効果があります。神社等で柏手を打つのも、心を清めると同時に、精神階層の存在者の意識をこちらに向けて、コミュニケーションのできる状態を作ると言う意味を持っています。コンサートの後などに拍手をするときには、演奏家だけに意識を向けるのではなく、参加した他のお客さんや精神階層の奉仕者達、そしてそれらの総てを通してはたらかれた、大いなる生命に対して称讚を贈ると良いと思います」
続く第20章「地場調整」では、コンサート・ホールなどに隠された秘密を次のように明かし、杮落しというものの本質についても説明します。
「コンサート・ホールや礼拝堂等、長年にわたって特定の目的に用いられてきた場所は、その歴史を通じて注がれたエネルギーの波動に因って、その種のエネルギー・チャンネルを形成するのに相応しい地場が創られていますので、新地で行うよりも遥かに効果が大きくなります。ニューヨークのカーネギー・ホールやウィーンのムジーク・フェラインザールといったコンサート・ホール、テニスのウィンブルドン、高校野球の甲子園といった場所にはこのような地場が創られており、それぞれの分野における精神階層の奉仕者が援助するときに手掛かりとなる波動があるため、勝れた演奏や良い試合が行われ易い環境を生み出しています。新しくコンサート・ホールを建造したときなど、杮落しに著名な演奏家を呼ぶことはよくありますが、人寄せパンダとしての営業的な思惑とは別に、このような良質の地場を形成すると言う、より本質的な面で大きな意味を持っているわけです」
さらに著者は、地場調整を行う意味について説明します。
「地場調整は単純にその場所にいる(肉体を置く)だけで為される場合もありますし、指導霊や背後霊団の援助の下に何らかの儀式を行うこともよくあります。また著者の友人がイギリスのあるエネルギー・スポットを開いたときには、深い瞑想に入って丘と一体に成り、更に丘の上空に自分の意識を置いて、自分自身である丘にエネルギーを降して振動させることで、その場所を活動状態にさせるという体験をしています。
地上にエネルギー・スポットを形成するものは、ピラミッドや自然の山、ストーン・サークル等様々な表現がありますが、どのようなものであれ、それを活性化させるためには人間の意識が必要です」
ここで、わたしの専門テーマである儀式の問題が登場しました。
わたしは、つねに「なぜ人間は儀式を必要とするのか」と考え続けています。拙著『礼を求めて』のテーマであり、サブタイトルでもあります。儀式については、第25章「宗教」で、著者は次のように述べています。
「儀式は多くの場合、参加者の個人的な自覚を超越したレヴェルで、つまり神の意志に因ってひとりひとりの媒体が使われますから、参加者はなるべく個人的な判断を持たずに、無心に行う方が佳い状態を生み出すことができます。特にこうした強力なエネルギー・チャンネルが形成されると、参加者の一寸した想念でも強力なエネルギーに因って増幅されるので、個人的な願望とか、破壊的な想念等を持ち続けていると、その波動を全世界にばら撒くことになって、大きなカルマを造ることがあります。ですから儀式の最中は、全世界への奉仕に成るような、愛のみに意識を向け続けるようにして、浄化の過程で潜在意識から上ってくる個人的かつ不調和な想念には、関心を払わないようにすることが大変重要です」
そして、著者は「適切に行われた儀式」についても次のように述べます。
「適切に行われた儀式は、精神階層にひとつの方向性を持ったエネルギーを形成しますから、地上である表現を行ったり、不必要な混乱を避ける上での強力な手助けとなりますが、肝心な地上での行為がずさんだったり、不調和に満ちていたとすれば、きちんと段取りをした儀式も余り意味を持ちません。これとは反対に、地上でどれだけ綿密にことを運んでも、あらゆる表現の原因である霊的な側面を無視していると、あと少しのところで上手くいかなくなる場合がありますので、車の両輪のごとく、両者のバランスを取ることが大切です」
ざっと本書を読んで興味を引かれた部分を抜書きしてきましたが、かなりの分量になってしまいました。しかし、これは本書全体のほんの一部に過ぎないのです。これだけ広いテーマを深く掘り下げた著者の力量には驚嘆するばかりです。
まさに日本においては類のないスピリチュアル系の書といえるでしょうが、その総合性において、わたしは『生命の實相』谷口雅春著(日本教文社)、『心の発見』高橋信次著(三宝出版)、『太陽の法』大川隆法著(幸福の科学出版)といった宗教書を連想しました。これらの書を読み、その著者が主宰する組織に入会していった人々は、おそらく本書『黎明』を読んだ者と同じような感銘を抱き、「謎がすべて解けた!」と思ったのではないでしょうか。あえて違いをあげるなら、『黎明』には神智学の香り、それも『神智学大要』アーサー・E・パウエル編著、仲里誠桔訳(出帆新社)の強い影響を感じます。
本書の著者はプロフィールを一切明かしておらず、そのため正体はベールに包まれています。プロフィールを明かさない理由について、著者自身が本書の「終章」で次のように書いています。
「本書を正しく理解された方には説明の必要もないと思いますが、読者の皆様が『著者のパーソナリティ』という幻影に関心をお持ちになることは、本書が書かれた目的のひとつに反するからです。著者にしてみましても、まだ修行中の身の上ですから、大勢の取り巻きの方々に『先生』『先生』とちやほやされたりすれば、いつ地獄に転落するか判らないわけで、転ばぬ先の杖ということでもあります」
これを読んで、わたしは著者の誠実さを感じました。これだけの精神世界に関する知識を持っていれば、新興宗教の教祖にでもスピリチュアルカウンセラーにでも何でもなれそうなものですが、そういったことをすべて放棄しています。このような精神世界の書を読み漁る人々は霊的指導者としての「グル」を求める傾向がありますが、彼は「先生」と呼ばれることを断固として拒んでいるのです。
かつて20代後半の頃、わたしは精神世界関係の本をたくさん読みました。本書を読んで、それらの本の内容が有機的につながっていくというスリリングな体験をすることができました。本書を紹介して下さった矢作直樹、稲葉敏郎の両先生に感謝いたします。