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2014.10.22
エボラ出血熱の問題が深刻化していますが、わたしは新しい世界が生まれる陣痛のような気がします。なぜなら、WHOが「全世界がリスクにさらされている」と異例の声明を出したように、この問題は国際的協力なくしては対処できないからです。アメリカと中国とか、日本人と韓国人とか、キリスト教とイスラム教とか、そんなことを言っている余裕はありません。人類が存続するためには、全地球レベルでの協力が必要とされます。もはや、人類は国家や民族や宗教の違いなどで対立している場合ではないのです。
『ハートフル・ソサエティ』(2005年9月9日刊行)
今回の「一条真也による一条本」は、『ハートフル・ソサエティ』 (三五館)です。2005年9月に上梓した本です。『結魂論』、『老福論』を2冊同時に10年半ぶりに上梓したわたしは、ピーター・ドラッカーの遺作である『ネクスト・ソサエティ』(上田惇生訳、ダイヤモンド社)に対するアンサーブックを書く決意をしました。それが本書です。
2001年10月の社長就任以来、わたしは、数多く翻訳出版されているドラッカーの著書をすべて読みました。中でも遺作となった『ネクスト・ソサエティ』のインパクトの大きさは想像を絶するものでした。
当時のわたしは21世紀の社会像について漠然と考えていました。そんなときに読んだ『ネクスト・ソサエティ』という本はドラッカーからわたし個人へ送られた問題集ではないかと思えてなりませんでした。「あなたなら、ネクスト・ソサエティとはどのような社会であると考えるか」という質問がそこに書かれていると思い込んだのです。
そして、その質問に対する提出レポートとしてのアンサーブックを書きたいと思うようになりました。そして、一気に本書『ハートフル・ソサエティ』を書き上げたのです。本書で、わたしは、ネクスト・ソサエティとはハートフル・ソサエティであると結論づけました。すなわち、心ゆたかな社会、思いやりにあふれた社会です。人間の「心」というものが最大の価値を持つ社会です。
赤字で書かれた本書の帯のコピー
本書の表紙には、夜明けの山をバックにしたトンボの写真が使われています。トンボは黄泉の国の使者とされていますが、同時に新しい世界へ導く存在でもあります。サブタイトルは「人は、かならず『心』に向かう」で、帯には白地に赤字で以下のように書かれています。
「『心ゆたかな社会』とは―新たな情報社会である。記号化できない思いやり、感謝、感動などポジティブな心の働きがますますその価値を高めていく。その中核となるコンセプトはホスピタリティである。今世紀、あらゆる組織はこのマインドを取り入れなければ生き残れない」
帯の裏のコピーも赤字で・・・・・・
また帯の裏も赤字で、「超高齢化社会をポジティブで『心ゆたか』に過ごすヒントが満載!」「ドラッカーの経営理論を深く信奉し実践する大手冠婚葬祭会社の若き社長が、名著『ネクスト・ソサエティ』を発展させ、来るべき『心の社会』と日本人への活きた指針を提示する意欲作!」と書かれています。
本書の目次構成は、以下のようになっています。
●まえがき「ネクスト・ソサエティをさぐる」
●ハートレス・ソサエティ?
●超人化のテクノロジー
●神化するサイエンス
●脳から生まれる心
●相互扶助というコンセプト
●ホスピタリティが世界を動かす
●メディアとしての花鳥風月
●デザインされる生老病死
●哲学・芸術・宗教の時代
●共感から心の共同体へ
●あとがき「ハートフル・ソサエティに向かって」
われわれの直接の祖先をクロマニョン人などの後期石器時代の狩猟や採集中心の生活をしていた人類とすれば 、狩猟採集社会は数万年という単位で農業社会に移行したことになります。そして、農業社会は数千年という単位で工業社会に転換し、さらに工業社会は数百年という単位で 20世紀の中頃に情報社会へ転進したわけです。それぞれの社会革命ごとに持続する期間が一桁ずつ短縮 しているわけで、すでに数十年を経過した情報社会が第四の社会革命を迎えようとしていると想定することは自然であると言えるでしょう。現代社会はまさに、情報社会がさらに高度な心の社会に変化しつつある「ハート化社会」なのではないでしょうか。そして、ハート化社会の行き着く先には「心の社会」があります。
現代は高度情報社会です。ドラッカーは、早くから社会の「情報化」を唱え、後のIT革命を予言していました。ITとは、インフォメーション・テクノロジーの略です。ITで重要なのは、I(情報)であって、T(技術)ではありません。
その情報にしても、技術、つまりコンピューターから出てくるものは、過去のものにすぎません。ドラッカーは、IT革命の本当の主役はまだ現れていないと言いました。本当の主役、本当の情報とは何でしょうか?
日本語で「情報」とは、「情」を「報」せるということです。「情」は今では「なさけ」と読むのが一般的ですが、『万葉集』などでは「こころ」と読まれています。わが国の古代人たちが、求愛の歌、死者を悼む歌などで、自らの「こころ」を報せたもの、それが『万葉集』だったのです。
すなわち、情報の「情」とは、心の働きにほかなりません。本来の情報とは、心の働きを相手に報せることなのです。では、心の働きとは何か。それは、「思いやり」「感謝」「感動」「癒し」といったものです。そして、真の情報産業とは、けっしてIT産業のことではなく、ポジティブな心の働きをお客様に伝える産業、つまりは冠婚葬祭業に代表されるホスピタリティ・サービス業のことなのです。わたしは、次なる社会は人間の心が最大の価値をもつ「ハートフル・ソサエティ」であると思います。
ハートフル・ソサエティは「ポスト情報社会」などではなく、新しい、かつ本当の意味での「リアル情報社会」です。そこでは、特に「思いやり」が最重要情報となります。仏教の「慈悲」、儒教の「仁」、キリスト教の「隣人愛」をはじめ、すべての人類を幸福にするための思想における最大公約数とは、おそらく「思いやり」という一語に集約されるでしょう。
「思いやり」こそは、人間として生きるうえで一番大切なものだと多くの人々が語っています。たとえばダライ・ラマ14世は「消えることのない幸せと喜びは、すべて思いやりから生まれます」と述べ、あのマザー・テレサは「私にとって、神と思いやりはひとつであり、同じものです。思いやりは分け与えるよろこびです」と語りました。儒教の「仁」、仏教の「慈悲」、キリスト教の「愛」まで含めて、すべての人類を幸福にするための思想における最大公約数とは、おそらく「思いやり」という一語に集約されるでしょう。
そして、ドラッカーが一貫して主張してきた人間尊重のマネジメントにも、結局は、人に対する思いやりの大切が込められていたように思います。
「心の社会」としてのハートフル・ソサエティとは「思いやり社会」の別名です。そして、「思いやり」を形にしたものこそ東洋の「礼」であり西洋の「ホスピタリティ」なのです。
『ハートフル・ソサエティ』は、数ある著書の中で最も思い入れの深い一冊であり、「一条さんの代表作は何ですか?」と質問されたら、わたしは必ず本書の名をあげます。「ホスピタリティ」から「死生観」まで、わたしのテーマがすべて本書に込められており、まさに総論的な著書であると言えます。以後の著書は、いずれも各論なのかもしれません。本書の刊行後、わたしは山口県は萩の松陰神社を訪れて本書を奉納しました。
本書に対するわたしの想いは、あとがき「ハートフル・ソサエティに向かって」の以下の文章に示されています。
「もしかすると、私が生きているあいだにハートフル・ソサエティは到来しないかもしれない。私がこよなくリスペクトする吉田松陰や坂本龍馬といった幕末の志士たちは、その目で『明治』という新時代を見ずに、この世を去っていった。だが彼らの心の中には自由と希望に満ちたゆたかな新社会の姿が確実に存在したし、それを建設するという青雲の志があった。そして、そして彼らが志半ばにして世を去ろうとも、彼らの志を受け継ぐ者たちが続々と出現し、結果として『明治』は現実に到来したのである。
私の心の中にもハートフル・ソサエティは実在する。それを呼び込みたいという志もあるつもりだ。たとえこの身が朽ちようとも、私は今後もハートフル・ソサエティの到来を、死ぬまで、また死んだ後も訴えていきたいと思う」
吉田松陰は「留魂録」の冒頭に、こんな辞世を書きつけました。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも
留め置かまし大和魂(松陰)
これにならって、わたしは次のように詠みました。
身はたとひ地球(ガイア)の土に還るとも
月に留めん心の社会(庸軒)
そして、あとがき「ハートフル・ソサエティに向かって」の最後は以下の一文で終わっています。当時のわたしの偽らざらぬ心中です。
「一つの月の下に、一つの地球。
私は信じている。だから、私はもう一度、言う。
次なる社会は、心ゆたかな社会。
私たちは、ハートフル・ソサエティに向かっているのだ」
2014年9月20日、9・11米国同時多発テロの舞台となったワールド・トレード・センターの跡地を訪れました。じつに2753人の命を奪ったその悲劇の地に立ったとき、わたしの心中には再び「次なる社会は、心ゆたかな社会」という言葉が浮かんできました。まずはイメージすることから、現実が創られていくと確信しています。
『ハートフル・ソサエティ』こそは、わたしの代表作であると思っています。本書は一条真也の考えが余すところなく述べられている、いわば総論です。他のすべての拙著は各論であると言っても過言ではありません。
また、わたしのホームグラウンドともいえる三五館から初めて上梓した本でもあります。本書は、わたしの思い入れが最も深い本の1つなのです。