No.1065 歴史・文明・文化 | 民俗学・人類学 『人間はどこから来たのか、どこへ行くのか』 高間大介著(角川文庫)

2015.04.27

人間はどこから来たのか、どこへ行くのか』高間大介著(角川文庫)を読みました。
著者は1984年にNHK入局、岡山放送局、科学・環境番組部を経て、現在は大型企画開発センターチーフ・プロデューサーです。主な担当番組にNHKスペシャル「私のなかの他人」「海・知られざる世界」「地球大進化46億年・人類への旅」「女と男 最新科学が読み解く性」などがあります。 本書は、2008年秋から09年秋にかけてNHKで放映されたサイエンスZERO「シリーズ ヒトの謎に迫る」の内容を元に構成されています。

本書の表紙カバーには、書名の元になったポール・ゴーギャンの不朽の名画「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」が使われています。また、カバー裏には以下のような内容紹介があります。

「アフリカ大陸を出発した人類はどのような旅路を経て世界中に散らばったのか、そして日本人の祖先が辿ったルートとは?進化の過程でサルと人間を隔てた決定的ポイントはどこ・・・・・・!? 現在、科学の最先端で急激な進展を見せるテーマ『人間とは何か?』。DNA解析、サル学、心理学…各分野で相次ぐ新発見により、我々は新たな自分に気付かされる。『人間ってこうだったのか!』と、思わず膝を打つ、目からウロコの『新・人類学』」

本書の「目次」は、以下のようになっています。

「はじめに」
第1章  DNAが教えるアフリカからの旅路
第2章  私という”不思議のサル”
第3章  ロボットが問う”人間の証明”
第4章  私が知らない私の心
第5章  私のなかの「動物」VS「文化」
第6章  言葉はどのように誕生したか~心を生んだ装置その1
第7章  表情という”心の窓”~心を生んだ装置その2
第8章  1400グラムのアイデンティティ~心を生んだ装置その3
第9章  農耕・人類の職業選択のゆくえ
第10章 死と向き合う心
「研究者紹介」

「人間」をテーマに、さまざまな科学のエキスパートに取材し、最新の研究成果やそれに基づく知見を紹介しています。DNAを利用してアフリカで生まれたホモ・サピエンスの歴史をたどる第1章にはじまって、サルの研究から分かる人類の進化のメカニズム、人間そっくりのロボットを通して知る人間の心の本質、ジュウシマツの鳴き声の研究から探る人類の言葉の発生の謎、農耕の発明と階級社会の誕生の関係など、これまでの常識が覆される話の連続です。それらの研究者に対して「人間とは何か」を問い、それは本書全体のメインテーマとなっています。

「人間とは何か」を問う本書の中でも、最もスリリングなのは最終章である第10章「死と向き合う心」です。その冒頭には「私たちの身体のなかでは毎日、重さにして約200グラムの細胞が死んでいる―」と書かれていますが、著者は以下のように述べます。

「細胞の入れ替わりが日々行われて、私たちは生きているのだ。
こうした細胞の死は、遺伝子に組み込まれている『プログラムされた死』だ。その発見は20世紀も後半になってからだ。アポトーシスという単語はどこかで聞いたことのある人も多いのではないか。アポトーシスはギリシア語で、『木の葉が散る』という意味だという。うまい譬えだと感心する」

その「アポトーシス」について、以下のように説明されます。

「アポトーシス研究を通して浮かび上がってくるのは、死に関する新しいイメージである。そもそも私たちは生きている限り、死は必然であると思っている。不死というのは夢のまた夢だと思っている。ところが、アポトーシスが示唆するのは、死は生命史のなかでかなり後半になって”発明”されたものかもしれないということだ」

「アポトーシス」に対して、「ネクローシス」というものがあります。これは、熱や紫外線などの強い刺激によって細胞が傷つき、膨らんで、溶解する現象です。いわば、ネクローシスとは細胞の事故死といえます。著者は、以下のように述べています。

「アポトーシスは一瞬で起きるネクローシスと違って、秩序のある経過をたどる。ダメージを受けると、細胞はまず小刻みに動きはじめる。その後、一定の時間をかけ、小さな粒に分かれていく。やがて粒の塊になり、死んでいく。その過程はまるで自発的に分解して死んでいくように見えたという」

「人間とは何か」と探る研究の1つとして、アポトーシス研究を取り上げたのは、東京大学大学院情報学環教授の佐倉統氏の薦めがあったからだそうです。どのようなラインアップがいいか、著者が相談を持ちかけたときに、佐倉氏は「死に関する研究を入れたらどうか」と強く薦めたというのです。
佐倉氏は若いときに霊長類研究者としてフィールドワークをしましたが、その経験から「自分が死ぬこととか、仲間が死ぬことっていうのをこんなに重く受け止める動物って人間だけなんだ」と感じたといいます。

佐倉氏は、著者に対して以下のように語ったそうです。

「チンパンジーやゴリラでも仲間が死んでもそんなに看取るとか、悲しむっていうことはないんですよ。そうすると、人間ってどういう生き物なのかを考えるときに、この問題を抜きにしては考えられない。逆に、死というものをどういうふうに受け止めるかっていうことを根底に置いて、私たちの人生とか社会っていうのをずっと考えてきたんだと思うんですよね」

本書の第4章「私が知らない私の心」では、ネアンデルタール人が死者に花を手向けたらしいというエピソードが紹介され、著者は述べます。

「花を手向けたかどうかは別にして、ネアンデルタールが遺体をきちんと埋葬していたらしいことは多くの遺跡で確かめられている。石で念入りに覆った埋葬例も見つかっている。死者を守ろうとしたのか、あるいは逆に死者を恐れたのかは不明だというが、死という意識があったのは間違いないのだろう。それ以前のヒト祖先になると、もうわからない。埋葬した例も見つかっていない」

その意味で、わたしたちホモ・サピエンスとは「死を特別に意識する生物」であると、著者は定義するのでした。
しかし、死についての意識は、ホモ・サピエンスの歴史の中でいくつもの変遷を重ねてきたとして、著者は以下のように述べます。

「農耕が本格化する新石器時代に先だって、墓をつくるという習慣が西アジアではじまったそうだ。私たちはつい、埋葬することと墓をつくることは同じと思ってしまうが、厳密には違う。埋葬は死者をきちんと意識的に埋めることである。さらに、埋められた場所に目立つ印を置き、ここに死者を弔っていると明示するのが『墓をつくる』ということだ。その墓標は、埋葬した関係者自身のための道標ではないそうだ。他人に明示するためだというのだ。『ここは先祖代々、われわれの土地なのだ』と」

この「埋葬と墓は違う」という指摘は、目から鱗でした。というか、わたしに大いなる気づきを与えてくれました。
なるほど、埋葬はきわめてスピリチュアルな行為ですが、墓をつくるというのはある意味でマテリアルな行為です。埋葬と墓は、唯心論と唯物論ぐらいに次元の違う話なのです。
わたしには、埋葬とは「文化」のシンボルであり、墓とは「文明」のシンボルであるように思えます。サルがヒトになった大きな契機として埋葬行為があったことは明らかですが、ピラミッドや古墳に代表されるように、墓づくりは建築技術の進歩とも密接に関わって文明の発展に寄与してきました。

文明としての「墓」について、著者は次のように述べます。

「最近の考古学調査からは、農耕がはじまる前から、人々は定住生活に移っていたらしいとわかってきている。じわじわと人口が増え、狩猟採集に適した土地を占有しようという動きが出ていたのだろう。その占有の根拠が『昔からここで暮らしていた』という事実であり、その事実をわかりやすく周りに示すのが先祖の墓というわけだ。
このときから、死は個人や家族の死という意味だけでなく、共同体の一員の死という側面を色濃くもつようになった、といえるだろう」

そして、著者は「現代もまた、死についての意識が大きく変遷している時代だ」と述べます。現代は「超高齢社会」と呼ばれます。いわば「死」と向き合いながら生きている人々が多くなっているわけですが、その一方で、わたしたちの社会は死に備える心構えを急速に喪いつつあります。そんな時代について、著者は次のように述べています。

「それまで死は厭う対象である一方、避けることの難しい身近な存在でもあった。不死を願ったといわれる始皇帝のエピソードも、つねに不可能で愚かな願望に取り憑かれた例として語られてきたと思う。多細胞生物が等しく免れない死という運命。その運命を特別に意識する存在だったはずの私たちはいま、もっとも死を遠く感じる時代に生きているのだ」

「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」

本書の最後には、2009年の夏に日本で初公開となった名画が紹介されています。タヒチを愛したゴーギャンの有名な代表作、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」です。東京国立近代美術館で公開されたこの名画について、著者は次のように書いています。

「最愛の娘の死を手紙で知らされたゴーギャンはさまざまな困難と闘いつつ、おのれの最高傑作になるという明確な予感のなか、この大作を仕上げたそうだ。この絵の長いタイトル―まさに、人間がずっと答えを渇望しつづけてきた問いを見事に一文にしている」

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」というタイトルについて、著者は以下のように述べます。

「おのれの由来、存在、そして行く末。この3つの答えを求めて私たちは生きている。それは、ゴーギャンが生きていた100年以上前でも、そして、現代でも変わらない。いや、その探究こそが人間の歴史を貫く共通の営みなのかもしれない。そして、端的にいって、私たちの行き先が結局は死ということになるなら、やはり死は考えつづけなくてはならない対象だろう。死を考える営みと、自らの存在を探し求める営みは重なるものなのかもしれない」
本書は、最後の第10章を読むだけでも価値があると思います。「人間とは何か」という問題を考えたことがある方は、ぜひお読み下さい。

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