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2015.12.19
『死者のゆくえ』佐藤弘夫著(岩田書店)を再読しました。
『唯葬論』(三五館)の参考文献として読みました。著者は宗教学者で、現在は東北大学教授です。1953年 宮城県生まれ。東北大学文学部史学科卒。78年同大学院文学研究科博士前期課程修了。盛岡大学助教授、東北大学文学部助教授、文学研究科教授を経て、現職。
本書の目次構成は、以下のようになっています。
序章 死の精神史へ―方法と視座―
第一章 風葬の光景
第二章 カミとなる死者
第三章 納骨する人々
第四章 拡散する霊場
第五章 打ち割られた板碑
終章 死の精神史から
引用・参考文献一覧
枝葉テキスト一覧
あとがき
序章「死の精神史へ―方法と視座―」の冒頭では、柳田國男の『遠野物語』が取り上げられていますが、著者は「異界の存在に対する関心に加えて、それと深く絡み合いながら、もう1つのモチーフが通奏低音のように『遠野物語』を貫いていることを見逃すことはできない」と述べています。かつて三島由紀夫が、「『遠野物語』には、無数の死がそつけなく語られている」と評したように、そこには一貫して死の影、死の臭いが色濃くまとわりついているというのです。
続けて著者は、『遠野物語』について以下のように述べています。
「明治43年(1910)に著された『遠野物語』は、前年の『後狩詞記』とともに、柳田が新たな学問の世界に分け入るきっかけとなった重要な著作である。同時にそれは、柳田個人に留まらず、日本民俗学の樹立に向けての第一歩となる記念碑的な作品でもあった。
そこには、濃厚な死の影を見出すことができた。日本人の死生観に対する関心は、その後も柳田から失われることはなかったようにみえる。柳田は折に触れて、幽霊や葬儀の問題などを論じている。しかし、柳田が『日本人』における死や霊魂の問題を体系的に捉えようと試みるのは、古稀を過ぎた晩年になってからのことだった。昭和20年(1945)に執筆され、翌年刊行された『先祖の話』において、柳田はようやく真っ向から死の問題に取り組んでいくのである」
その『先祖の話』について、著者は以下のように述べます。
「柳田が『先祖の話』で明らかにしようとしたものは、孤高の思想家の説く高尚な死の哲学ではない。普通に日常生活を送るごくありふれた人々=『常民』が抱く、死と霊魂に関わる観念だった。政治制度や社会体制の変貌にもかかわらず、変わることなくこの列島に暮らす生活者に継承され、イエ制度を支え続けてきたそれである。
柳田は常民の死生観・霊魂観の特色を、どのように理解したのであろうか。彼が『先祖の話』の中で描いたのは、亡くなった先祖を身近な存在と捉え、それとの日常的な交流のなかで日々の生活を営む人々の姿であった」
『先祖の話』で、柳田は「死の親しさ」について書きました。これについて、著者は「日本人には、死者の霊が手の届かない天国や極楽に行ってしまうという感覚はなかった。霊魂はあくまでこの世界内部の、かつての生活空間の近辺に留まり、再び人界に生を享けるまでの間、折に触れて縁者たちとこまやかな交渉をもち続けるのである・・・・・・」と述べています。
柳田によれば、「この国の中」で霊の留まるところは山にほかなりませんでした。著者は以下のように述べています。
「死を迎えた人の魂は、生前の暮らしを営んだ故郷や子孫の生活を見守ることのできる山の頂に留まり、祭りのたびごとに家に迎えられた。いまも各地に残る『盆路』の習慣などは、そうした祖霊観を反映したものだった。下北の恐山や越中の立山、熊野なども、もともとその地域の霊魂が宿る山であったという。それらの霊魂は、はじめこそ『だれかれの霊』という区別はあったものの、時の経過とともに先祖の霊と合体して個性を失い、やがては山の神と一体化していくのである」
さらに、著者は「生まれ替わり」についても言及します。
「柳田が、日本では顕幽2つの世界が互いに近く親しかった例として挙げたもう1つの証拠が、『生まれ替わり』の信仰だった。死者が近い親族に転生するという伝承が各地で見られることを論じた柳田は、神にまで浄化される前の故人の霊が別の肉体を借りてこの世に再生する可能性を、この列島に住む人々が深く信じていたことを指摘するのである」
著者は、このような柳田説を再検討する上で、以下のように「死をめぐる思想と文化」について述べています。
「死が個人や民族・国家を超えた普遍的な現象であるゆえに、それは近代の学問において、比較文化・比較思想の好個の素材となった。宗教学や文化人類学をはじめ、民俗学・哲学・文学・美術史学・歴史学などの諸分野で、死ないしは死生観・霊魂観をテーマとした研究が推進され、膨大な成果が蓄積されることになったのである」
日本では、死者がこの世を離れて遠い他界へ行くという観念はありませんでした。これに関連して、著者は以下のように述べています。
「日本人は、太古の昔からこの国土に深い愛着を抱き、現世での生活を楽しむことを伝統としてきた。そうした観念が背景としてあったため、この列島ではキリスト教・イスラム教や仏教のように現世を否定的に捉えたり、この世とまったく別次元の空間に現世とは異質な理想世界を想定したりする思想は、十分な発展を遂げることがなかった。死者もまた生前愛したこの麗しき郷土に留まって、末長く子孫を見守り続けてくれることを願ったのである・・・・・・」
民俗学者の桜井徳太郎によれば、「肯定的な国土観」というイメージやその死後の世界の観念は、本居宣長以来の「国学」、とりわけ平田篤胤のそれを踏まえたものでした。「新国学」を標榜する柳田に及ぼした国学の影響は、すでに多くの研究者によって論じられているところである。しかし、著者は「数多くの事例を踏まえ、学問的な装いをとって周到に組み立てられた柳田の仮説は、それ以前のものとは比較にならないほどのスケールと体系性を具え、後の研究のあり方そのものを強く規定していくのである」と述べています。
著者は、死の問題を考えるとき、資料に関わる問題を忘れてはならないと述べます。「死はだれにとっても深刻な問題であると同時に、人文学の諸分野において最重要のテーマの1つだった。さまざまな分野の学問で、分厚い研究成果が蓄積されてきた。だがそれは一方で、分野ごとの研究視角の硬直化と使用する資料の固定化を招いているようにみえてならない」というのです。そして、葬送儀礼について以下のように述べています。
「これまでなされてきた地球上の各地域・各時代の葬送儀礼に関する調査と研究は、膨大な量に上る。死にまつわる哲学的な思索に関する研究も、枚挙にいとまがない。けれども日本列島に匹敵する広さをもつ地域を対象として、資料に即しながら死をめぐる儀礼と観念が変貌していく様相を通時的・総体的に明らかにしようとした本格的な研究は、決して豊富とはいいがたい」
第一章「風葬の光景」では、「古代人における生と死」が取り上げられ、著者は「人間を、目に見えない『霊(魂)』と、形を持った『肉(体)』という2つの要素からなる存在として把握することは、時代と地域を問わず世界各地に広く見られる現象である」と述べ、さまざまな霊肉分離の思想を紹介します。
中国哲学者の大形徹によれば、古代中国では身体は殻であり、魂はその殻の中に宿るものだった。死は魂が肉体=殻から離れて、再び戻ることができない状態を意味していました。
また、大英博物館で古代エジプト分野の展示を担当するA・J・スペンサーによれば、古代エジプトの場合、人間は「カア」「バア」という2種類の霊魂と、「セト」とよばれる肉体から構成されていると信じられました。カアは死後もミイラとなった遺体や墓の上部構造としての彫像に宿り、供物を受け取り続ける存在でした。
さらに、宗教学者の八木久美子によれば、ヨーロッパでも、人間を肉体と魂の二元論で把握することは、古代ギリシャ以来の伝統となっていました。イスラム教やキリスト教もまた、同様の人間観をもっていたといいます。そして、それは日本の古代についても例外ではなかったのです。
著者は「死の発見」についても言及し、「私たち人間は、だれもが親しき者の死を悼む心情を共有している。だがそれは、すべての動物に当てはまる行動ではなかった。身近な者の死を悲しむことは人類に固有の振る舞いであり、類人猿などの一部の動物にそれに類似した行動が見られるにすぎない。葬送儀礼を行い墓を造るということになれば、これは完全に人類の特権的な文化だった」と述べています。わたしのブログ記事「ホモ・フューネラル」に書いたように、まさに人類とは「葬るヒト」なのです。
さらに著者は、以下のように「葬送儀礼の形成」について述べます。
「死の観念や葬送の方法をある程度体系的に窺い知ることができるようになるのは、現人類の直接の祖先である新人の時代に入ってからのことである。新石器時代のクロマニヨン人が、死を概念化し葬送儀礼を執行していたことは、すでに先人によって明らかにされている。同じ新石器時代に属する縄文人もまた死を意識するようになっていたことは、集落内に墓を構築するといった行為から見て疑問の余地がない。
人類が死を発見したとしても、そこから先にはまださまざまな段階があった。死に対する最初の反応は、それまで生活を共にし身体のぬくもりを感じ合っていた伴侶が、活動をやめ冷たくなってしまうことによる喪失感であろう。それは、はじめは個人的な感情であったが、やがてその死が自分にも及び、さらには周囲のだれもが死という運命を決して避けられないことが自覚され、死が一般概念として社会に共有される段階に到達する。
死者の遺体はやがて腐敗してしまうため、放置すれば社会生活に支障をきたすことになる。そのため人々が集団で定住生活を営むようになると、死骸を共同で処理する必要が生じる。その繰り返しのなかで、葬送儀礼が形成されていくのである」
縄文時代中期には、墓地の移動という現象が広く見られます。
この現象について、著者は以下のように述べています。
「ある段階まで、縄文人にとって死んだ人間は、活動をやめた仲間にすぎなかった。死者の身体とは別個に、死後も継続する人格が想定されることはなかった。若者が入門儀礼を経て共同体の仲間入りをするように、死者もまた成人の共同体を離脱する儀式―葬儀を終えて、かつて生活していたところと同じ空間内に埋葬された。生者と死者は、同じ空間・同じ世界を共有していたのである。
それに対して、墓地が集落から離れていくという現象は、生者の世界とは異質な死者だけの世界が存在することを、人々が広く認識するに至ったことを意味するものと考えられる。死者は生者の生活空間とは別の空間を保有し、そこで自律的な生活を営んでいるのである。墓地では、そこで生活する死者たちの安穏を願った、定期的な祭祀が行われるようになった」
続けて、著者は「死後の世界の発見」から「神話の形成」、そして「宗教の誕生」までをダイナミックに述べます。
「死後の世界の発見は、死の概念の形成に次いで、人類文化の重要な転換点となった。生者の国=現世とは異なるもうひとつの世界の発見は、この世を相対化する視点の形成につながるものだった。折りしも縄文時代後期は、ハート型土偶やミミズク型土偶、遮光器土偶といった、明らかに人間離れした形状をもつ土偶が作られるようになる時期だった。日常の空間を超えるもうひとつの世界の探求が、ここに開始された。超越的存在=カミが成長し、神話が形成されて宗教が誕生するのである」
終章「死の精神史から」の「死者を認識した人々」で、著者は述べます。
「死の観念や葬送の方法をある程度体系的に窺い知ることができるようになるのは、現人類の直接の祖先である新人の時代に入ってからのことである。日本列島でも、新石器時代に属する縄文人は、集落内に墓を構築していた。そこでは明らかに『死』が認識されていた」
死の概念を受容した人々が次に抱いた疑問は、死者はいったいどこに行ってしまったのかという問いかけでした。著者は以下のように述べます。
「ある段階まで、同じ共同体を形成する者たちにとって、死者は活動をやめた仲間にすぎなかった。死者の身体とは別個に、死後も継続する人格が想定されることはなかった。若者が入門儀礼を経て共同体の仲間入りをするように、死者もまた成人の共同体を離脱する儀式―葬儀を終えて、集落の中心の広場など、かつて生活していた空間内に埋葬された。生者と死者は、まったく同じ生活空間を共有していたのである。
繰り返される死者を送る儀礼は、人々のあいだにより豊かな死後の世界のイメージを育んでいった。生者が集団を形成して社会生活を営んでいるように、死者も彼らなりの共同体を持っているにちがいない。死者の国にも、王がいなければ秩序を保つことができないはずだ。王の支配を助ける人間も必要だろう。その国土はどういった景観を有しているのだろうか。こうした問いかけに応える形で、しだいに冥界のイメージが膨らんでいくのである」
続けて、著者は「死者の世界の自立」として、以下のように述べます。
「死後の世界のイメージの拡張は、地理的・空間的に自立した死者の世界の誕生を促した。それまで無秩序に葬られていた遺骸、共同体の生活空間の内部に造られていた墓地が、生者の生活圏とは一定の距離を保った場所に、ある秩序を保って形成されるようになるのである。死者は生者の生活圏とは別の空間を保有し、そこで自律的な生活を営んでいると観念された。墓地では、そこで暮らす死者たちの安穏を願った定期的な祭祀が行われるようになった」
さらに著者は、「死者の世界の自立」について述べます。
「死者の世界の自立は、人類の精神史にとって、さらに重要なもう1つの発見をもたらした。肉体とは別に死後も継続する人格、『霊魂』の発見である。肉体が朽ち果てようとも変わらない存在―霊魂の発見は、目に見えないものたちが構成するもう1つの世界が実在することを、人々に意識させることになった。それは同時に、この世を相対化する視点の形成につながるものだった」
かくして、人類は「霊魂」を発見したのです。著者は述べます。
「死者の人格が霊魂として継続することは、他方では死者が遺体という可視的かつ具体的なモノから解放されたことを意味した。もはや死者の国は、その遺体のある場所=墓地に限定される必要はなかった。山中でも地先の島でも、さらに天上にも地下にも、自由に死者の国を想像することが可能になったのである。日常の空間を超えるもう1つの世界の探求が、ここに開始された。超越的存在=カミが発見され、神話が形成されて他界観が成熟するのである」
以上、本書は「死の発見」「死後の世界の発見」「霊の発見」「葬送儀礼の形成」「神話の形成」「宗教の誕生」といった一連の人類の精神史をダイナミックに解き明かす内容で、非常にスリリングな書でした。
『唯葬論』を書く上で大きなヒントになりました。
著者の佐藤弘夫氏にはいつかお会いしてみたいと思います。