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2016.01.23
『文化人類学のレッスン』奥野克巳・花渕馨也共編(学陽書房)を読みました。
「「フィールドからの出発」というサブタイトルがついています。全国の大学で「文化人類学」の教科書として採用されている本の増補版です。
本書の目次構成および執筆者は以下のようになっています。
「はしがき」
レッスン1:フィールドワークと文化人類学
―人類学者はどのように調査を薦めるのか?―
西本太(総合地球環境学研究所・プロジェクト研究員)
レッスン2:民族と国家
―集団意識はどのように生まれるのか?―
シンジルト(熊本大学文学部准教授)
レッスン3:家族と親族
―親と子は血のつながっているものか?―
田川玄(広島市立大学国際学部准教授)
レッスン4:セクシュアリティとジェンダー
―「性」の多義性とは?―
織田竜也(長野県短期大学助教授)
レッスン5:交換と経済
―他者とは何か?―
椎野若菜(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研)
レッスン6:儀礼と分類
―人はどのように人生を区切るのか?―
田中正隆(高千穂大学人間科学部准教授)
レッスン7:宗教と呪術
―世界は脱魔術化されるのか?―
花渕馨也(北海道医療大学大学教育開発センター准教授)
レッスン8:死と葬儀
―死者はどのように扱われるのか?―
奥野克巳(桜美林大学リベラルアーツ学群教授)
レッスン9:文化とアイデンティティ
―先住民族は消滅するのか?―
渥美一弥(自治医科大学医学部教授)
レッスン10:グローバル化と他者
―今日のフィールドワークとは?―
梅屋 潔(神戸大学大学院国際文化学研究科准教授)
レッスン11:霊長類と文化
―霊長類は私たちの文化について何を教えてくれるか?―
島田将喜(帝京科学大学専任講師)
執筆者はいずれも若い研究者が多く、本書も若々しい文化人類学の教科書となっています。 「はしがき」の冒頭には、以下のように書かれています。
「私たちと、私たちから遠く離れて住む見知らぬ他者との関係がますます緊密なものになりつつある。かつて『未開社会』と呼ばれた社会の人たちが、いまでは生まれ故郷を離れて異国にまで出稼ぎにいき、ケータイを持ち歩き、インターネットでチャットする時代になっている。ファーストフードを食べ、リーヴァイスのジーンズをはく彼らと私たちの差はますますなくなりつつある」
また「はしがき」には以下のようにも書かれています。
「現代世界では、政治・経済的な問題が関心の中心にあり、他者との関係は、より功利的・効率的・短期的な目的志向型の関係になりがちである。他者との関係においては、あらかじめ問題が設定されて、それをいかに有効に解決するのかという実践面だけがしばしば強調される。国際化や他者理解も、問題解決のための手段として推奨されているふしがある。しかし、そのような目的追求のための性急な他者理解・異文化理解は、日本政府のODA援助がしばしば批判されるように、余計なおせっかいどころか、対立を生み出し、新たな害をも引き起こしかねない」
わたしは本書を『儀式論』の参考文献として読みました。 ですので、本書の内容を総花的に紹介しても意味がないと思います。 なんといっても、レッスン6「儀礼と分類」が参考になりました。 1「はじめに―日常にみられる『儀礼』―」のCOLUMN1「儀礼の類型」では、高千穂大学人間科学部准教授の田中正隆氏が以下のように説明しています。
「文化人類学では、さまざまな形式的行為を儀礼と呼ぶが、それには『礼儀作法(etiquette)』や『儀式(ceremony)』なども含まれている。また、それらは主に、儀礼の持つ機能の面から分類されてきた。たとえば個人が行うか、集団が行うかで分けたり、周期的に行われるか(周期的儀礼〈calendrical rite〉、年中行事などを指す)で分類する。二分法のほかにも周期儀礼(農耕儀礼、年中行事)、状況儀礼(病気治癒、雨乞い、浄化)と人生儀礼の三分法などによる分け方がある」
では、人生儀礼とは何か。田中氏は以下のように述べます。
「『人生儀礼』とは、成人式や結婚式、葬式など、人間の一生の節目につきものの行為のことである。 人は時間の経過とともに子どもから大人、そして老人へと成長し、老いていくものとして捉えることができる。それは自然なことであり、どの人間社会においても同じように思える。しかし、子ども、青年、大人、老人などというカテゴリーは決して普遍的なものではない。かつて、日本では14、5歳で大人になるための元服式が行なわれていたが、現在の成人式は20歳になって行なわれている。時代や社会によって子どもが大人になる年齢や、子どもと大人にそれぞれ与えられる社会的意味や役割はさまざまだといえる。つまり、成人式、入社式、結婚式、葬式など、連続した人の一生の時間に区切れ目を入れるのは、人間社会がつくり出した文化的制度であり、その区切れを印づけるのが『儀礼』なのだ」
2「分類と分類から外れるもの」では、「分類を通して世界を認識する」として、以下のように述べられています。
「人は、自然界にあらかじめ存在する時間を経験しているのではない。私たちの身の回りの自然界には、独自に備わった区切りがあるわけではない。その意味で、自然界は、本来区切れのない連続体であり、カオス(混沌)、であるともいえよう。私たちは、匂いもなければ、かたちもないそのような連続体に印を入れ、一定の間隔で区切ることで、時間を経験している。私たちは、自然界に人為的に区切れ目を入れて、目の前にある世界を認識する」
「時間経験と同じように、私たちは、世界をいろいろな区分に分けて認識しようとする。たとえば、昼と夜、天と地、男と女、右と左、生と死などである。単に言葉だけではなく、動植物、自然物、人工物、身体の動作などを含むさまざまな『象徴』を用いて分類し、世界を認識している。これを象徴的分類と呼ぶ。こうした分類の最も単純なのが、対立的な二項に分けて認識すること(二元論)である」
「人が分類して認識する対象は、集団や住居、方角、地域、色、物質や動植物、そして私たち自身など、多岐にわたっている。私たちは分類をしなくては、自分という人間を含むこの世界について考えることはできないといっていいだろう。さらに、重要なことは、人為的につくられたはずの区切れ目がうまくいかないところ、つまり境界的な部分に、文化的な意味づけがなされることである」
3「儀礼の過程」では、有名な儀礼研究のエッセンスを以下のように紹介します。
「儀礼の持つ特殊な形式性に注目し、その構造を考察したのはヴァン・ジェネップ(A.van Gennep 1873-1957)である。彼は、身分や年齢、状態、場所などの変化、移行をともなうさまざまな儀礼が、同じような構造から成り立っていると捉えて、それを『通過儀礼(rites de passage)と呼んだ。彼は、儀礼は、〈分離〉〈過渡〉〈統合〉の三つの局面から構成されると考えた。ヴァン・ジェネップの理論は、特に、人生儀礼についてよく当てはまる」
「ターナー(V.W.Turner 1920-1983)は、とりわけ、通過儀礼の〈過渡〉の局面の考察を深めた。彼は、それを『境界状況(リミナリティ:liminality)』という概念を用いて捉えようとしたのである。ターナーによれば、リミナリティの状況では、日常における秩序がなくなり、人はあいまいなどっちつかずの状態に置かれるという。そうした状況にある人の特性や存在も、またあいまいで不確実である」
「日常の秩序が保たれた状態は継続すると硬直化し、活力を失って腐敗する傾向がある。日々のルーティンワークの繰り返しが続くと、私たちは旅行やレジャーに出てリフレッシュしようとするだろう。コミュ二タス状態は、日常を破壊するのではなく、むしろ刺激し、それを再活性化させるのである。そうした状況において、いわゆる無礼講のように通常の社会関係や階級関係が一時的にないこととされ、平等で、打ちとけ合った人間同士の触れ合いの場が生み出されることとなる」
「自然は本来区切れのない連続体であり、カオスであった。通過儀礼は、カオス状況に〈過渡〉の局面をつくり出すことによって、人為的に境界を設けることに深く関わっている。さまざまな人が集う社会において、人びとを赤ん坊、子ども、大人、老人というカテゴリーに分けることは、重要なことだ。大人は子どもを育て、子どもは老人を敬うように、社会生活を続けていくためには、人のカテゴリーは必要である。すなわち、人は単に年をとってやがて死んでいくだけの存在ではなくて、人生についてイメージし、目標や到達点を設定して生きている。人間の一生に設けられたカテゴリーは、人が自分と自分の周囲の人びとを認識し、生きていくために不可欠だったのである」
5「行為の目的と形式」では、以下のように書かれています。
「儀礼にみられる理由がよくわからない行為や物などは、何かを表現する『象徴』なのではないかと捉えるのが、象徴人類学の視点である。リーチやターナーらは、儀礼の持つ象徴性に注目し、そのメッセージ(意味)を読み解くという作業をしてきた。儀礼とは『何かをする』よりも『何かを伝える』という側面がより顕著であると考え、人類学者の仕事はその隠れた意味を解読することだというのだ」
「人の生とは区切りのない連続した時間の流れでしかない。区切りのある社会生活を営むために、人は儀礼を通して現実の状況についてのみえ方を変化させるのである。通過儀礼は本来連続的で混沌とした世界に区切りを入れ、そうした境界を通過することで地位、役割や状況の変化をもたらすものであった。儀礼をすることが、すなわち境界を通過することであり、そうしなければ現実をつくり出すことにはならないのである。たとえば、ある青年が成人式を経たからといって、彼自身がらりと変身するわけではないが、その社会の人びとがその青年をどのように眺め、どのような役割を要求するかという現実の見方が儀礼によって変更されるのである」
COLUM2「儀礼と象徴」には、以下のように書かれています。
「儀礼の最小単位を象徴におき、その分析をすすめたのはターナーである。こうして、象徴人類学は儀礼で用いられるミルクの木、すりこぎ、水甕などが象徴する意味を解釈していった。また、ターナーはこれらの多義性とともに、それが呼び覚ます感情や間隔特製に注意を促した。さらに、ダン・スペルベル(Dan Sperber 1942~)は象徴と解釈がすんなりと対応することはないのだから、意味作用をとらえるのは誤りだと指摘した。象徴はむしろ、見るものに刺戟をあたえることによって、それに関連する知識を思い浮かばせるのだという。すると、儀礼の場では音、色、匂いなどの感覚に訴えるものや身体の動き、おびただしいもの=物質が動員されていることに気づく。こうした非言語的要素や経験に着目することで、儀礼論は言語論・意味論の枠組みから行為・実践論へ転換することになった」
6「儀礼と歴史」では、以下のように書かれています。
「儀礼とは、日常的なコミュニケーションとは異なる特異な知識形態によって、参加者をある行動様式に取り込んでいく文化的装置であると捉えることもできる。それゆえ、社会状況によって儀礼の規模や形態が変化しようとも、日常を超越した秩序、すなわち祖先や長老への服従という根幹を支えるイデオロギーは、その装置を通して持続すると考えたのである。いうまでもなく、これは祖先、年長者や王という権威の正当性を再生産する。儀礼は子どもから大人へという個人の生を形づくるだけでなく、社会全体に関わる政治性や歴史性を帯びるものであると捉えることができる」
7「おわりに」の最後には、以下のように書かれています。
「昨今では成人式を新成人自身が主催したり、式の中で親から子に宛てた手紙を朗読するなど、地域独自の工夫を始めている例もある。新成人たちが主体性と自覚を持ち、家族の絆を見直す機会となっているという。『大人』になるための儀礼だけではない、新たな意味づけが生じてきたのかもしれない。こうした動きを鑑みると、私たちの社会で、儀礼がかつての意味を失ったために衰退し、やがて完全に消えてしまうとは考えにくい。人の社会が存続するかぎり、私たちは自らと他者を絶えず分類して秩序をつくり、社会生活を営んでゆく必要があるからだ。だから、儀礼とは単に過去の遺制や付随物なのではななく、むしろ現代社会を構成する重要な要素であるとする視点が妥当ではないだろうか」
続いて、レッスン8「死と葬儀」の内容を紹介したいと思います。 2「死の起源」で、本書の共編者でもある桜美林大学リベラルアーツ学群教授の奥野克巳氏が以下のように「ゾウの葬儀」について書いています。
「ゾウは、葬儀をする動物であるといわれることがある。ある動物行動学者によって観察された事例を紹介しよう。ある時、若い雌ゾウに麻酔剤が打たれたが、その後解毒剤を打つタイミングがなかった。雌ゾウが膝をがくがくさせ始めると、仲間のゾウがやってきて、まっすぐに立たせようとした。雌ゾウが倒れて動かなくなると、2頭のゾウが背中と頭の下に牙を差し込んで立ち上がらせようとした。別のゾウは、集めた草を雌ゾウの口に入れようとした。その後、雌ゾウの家族は死体に土をかけ、ブッシュから枝を折って死体の上にまいた。日没には、死体は枝で埋まった。翌朝、母ゾウは死んだ雌ゾウに近づき、後ろ足で触れた後、群れとともにその場を離れた。肉食動物は、動物の死体を後で食べるために土中に埋めることがあるが、ゾウは草食動物である。ゾウが木の枝で死体を覆うことで、近くに住む動物たちのために、群がるハエなどの生物の産卵を防いでいるという理由も考えられるが、なぜゾウがそのような行動をするのかは、はっきりしない」
COLUMN1「ヨーロッパの死の歴史」では、フィリップ・アリエスの著書の内容を以下のように紹介しています。
「歴史学者アリエス(P.Ariess 1914-1984)は、『死と歴史』の中で、中世から現代に至るヨーロッパの死の時代相を、以下のように整理している。(1)『飼い慣らされた死』(中世前期):共同体の成員によって脅かされた弱点を補うために、死が儀礼化され、死を苦痛なく甘受しようとした。(2)『自己の死』(中世中期以降):自己の生死に対する自覚が芽生え、遺言が一般化され、墓碑銘がつくられ、死後の審判と魂の不死の観念が広まった。(3)『遠くて近い死』(16~18世紀):科学技術の進展とともに暴力による死が出現し、死が野生状態へと逆戻りした。(4)『汝の死』(19世紀):ロマン主義的な傾向の中で、自己の愛の対象としての汝(=身近な他者)の死が対象化された。(5)『転倒された死』(現代):死の現実が社会から覆い隠された反面、死への恐怖が募った。死にもまた歴史がある」
4「死の儀礼」の冒頭で、「葬儀とは何か」として、以下のように書かれています。 「ヒトはなぜ葬儀を行うのだろうか、いまから100年ほど前にそのような問いに答えようとしたのが、フランスの社会学者エルツ(R.Hertz 1881-1915)である。エルツが着目したのが、死を瞬間に起きるものとはみない社会の葬儀であった」 彼が実際に研究したのは、東南アジア・ボルネオ島の葬儀でした。
「エルツは、共同体のメンバーの死を、社会的な〈集合表象〉の危機であると捉えた。〈集合表象〉とは、共同体で集合的に所有されていて、個人を共同体へと統合する要因であり、また、個人の意識に外在して、それに働きかけるものを指す。残された者たちは、複雑な儀礼を通じて、死者があの世へ到達したことを共同で確認する。そのことで、死を契機とする社会的な〈集合表象〉の危機が回復される。逆の角度からいえば、そのようなプロセスを達成するための仕掛けが、葬儀なのである」
「エルツとほぼ同時期に、葬儀を含む儀礼について考察したのがヴァン・ジェネップである。ヴァン・ジェネップは、儀礼は、ある地位からの〈分離の局面〉、新しい地位への〈統合の局面〉、そして、その中間の境界的な〈過渡の局面〉という三つの局面から構成されると捉えた」
奥野氏は「希薄化する〈葬送〉」として、以下のように書いています。
「波平恵美子は、日本の死の文化について以下のように評価している。現代日本は、国家による社会制度が隅々にまで行きわたり、物品の生産と流通がさかんに行われている近代社会である。他方、家族の社会的機能も高く、個人の人間づきあいが物事の決定に大きな役割を果たす。そのため、簡略化されたとはいえ、葬儀だけでなく、死者を追悼するための一連の儀礼が必ず行われ、それへの参加が親族や知人にとっては義務となっている」
「しかし、現代日本の葬儀には、死者を送る〈葬送〉の観念が希薄になってきていると、波平はいう。そうだとすれば、現代日本の葬儀にも、エルツのモデルは必ずしも当てはまらないことになる。かつて、日本の葬儀では、葬列を組織して、野辺へと遺体を運ぶことを通じて、死者をあの世へ送ることに注意が払われていた。現在では、参列者が霊柩車に手を合わせて見送ることや、火葬場で火葬炉の扉が閉められる瞬間などに、かつての〈葬送〉観念の名残が認められるぐらいで、焼香が終ると一般の参列者は散会し、また、司会者役の葬祭業者の社員が散会を促すこともあり、死者を送る〈葬送〉の観念が明確なものではなくなってきているという」
なお、「現代日本の葬儀の形式上の変化の最も重要なものは、1960年代の葬祭業者の葬儀への介入である」と説明されています。