No.1187 民俗学・人類学 『民俗学への招待』 宮田登著(ちくま新書)

2016.01.30

『民俗学への招待』宮田登著(ちくま新書)を読みました。
著者は日本を代表する民俗学者の1人で、1936年、神奈川県生まれ。東京教育大学文学部卒業。同大学大学院修了。筑波大学教授、神奈川大学教授を務めました。著書として『ミロク信仰の研究』『都市民俗論の課題』『江戸のはやり神』『妖怪の民俗学』『ケガレの民俗誌』など多数。その関心は民俗学にとどまらず、日本史学、人類学等、周辺諸学におよび、研究の成果は国内外で評価されました。2000年に逝去。

わが書斎の宮田登コーナー

本書の表紙カバーには、以下の言葉が記されています。 「世相の根っこの部分の深層をしっかりと照射して、民間伝承に刻まれた記憶をよみがえらせる。そういう視点を、民俗学がいだくことによって、はじめて現代そして近未来にとり組むことができる。そのための多くの知識、情報を、柳田国男、南方熊楠、折口信夫、渋沢敬三といった先達たちが用意していてくれた」

また、本書のカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。

「なぜ私たちは正月に門松をたて雑煮を食べ、晴れ着を着るのだろうか。雛祭りやクリスマスなどの年中行事。富士講などの民間信仰。震災とユートピア。真夏の夜を賑わせる幽霊や妖怪たち。「トイレの花子さん」や「メリーさん」と呼ばれる老婆など、超高層ビルの片隅で生まれては消える都市のフォークロア。民俗学のまなざしから見えてくるものはいったい何か。柳田国男、南方熊楠、折口信夫、渋谷敬三などの民俗学研究の豊かな遺産を受け継ぎながら、世相の根っこから掘り起こされた日本人の文化の深層を探る、現代人のための民俗学入門」

第1部 民俗学のまなざし
第一章 正月の神々―睦月・如月
第二章 震災とユートピア―弥生・卯月
第三章 富士信仰―皐月・水無月
第四章 幽霊と妖怪―文月・葉月
第五章 都市のフォークロア―長月・神無月
第六章 民俗学と世相史―霜月・師走
第2部 日本文化へのアプローチ
一、柳田民俗学の視点
二、南方民俗学の視点
三、折口民俗学の視点
四、日本文化の多元論的観点
「あとがき」
「事項索引」

第1部「民俗学のまなざし」の第一章「正月の神々―睦月・如月」の冒頭に、「民俗学の四大人」として、著者は以下のように書いています。

「すでに18世紀には、地方に古代からの奇妙な風習が残っていることに気づく都市の知識人たちが居り、西川如見や本居宣長が一文を記している。『古へざまのみやびたる事の残れるたぐひ多し』という宣長の指摘は、19世紀に入って、さらに具体化して民間に同じ疑問をいだく優れた学者たちが輩出し、その文化伝統は20世紀に引きつがれてきた」

そして、著者は以下のように柳田国男、南方熊楠、折口信夫、渋沢敬三という「民俗学の四大人」について以下のように述べています。

「日本はイギリスから約50年ほど遅れたが、各地に散在していた民間の研究者たちを糾合したのが柳田国男だった。大正2年(1913)、柳田が中心となった『郷土研究』には、折口信夫と南方熊楠も参画している。折口は柳田に私淑し、柳田は折口の才能を評価した。南方は、柳田より年長であり、日本人離れした活力の持ち主である。柳田と南方との交流は、膨大な書簡の往来によってよく知られている。結果的には両者は袂を分かつことになったが、両者のやりとりは、日本近代の民間学の極みといえよう。しかし他方不思議なことに、南方と折口との交流はほとんどなかったのである。この3人から遅れて実業家の渋沢敬三が民具収集をはじめ、物質文化を通して日本文化を語る視点を確立させた。渋沢は柳田とちがった意味での組織者だったといえる。 南方、柳田、折口、渋沢は、江戸時代以来の『古風』への人々の共通認識を民間学としてレヴェル・アップさせた。四者四様のアプローチの仕方をとったが、かれらは日本文化の根っこにある深層の部分を掘りあてたのである」

また、著者は「神の舟」として以下のように書いています。

「日本列島は海に囲まれ、長い海岸線をもっている。折口信夫が『ほうとする話』を書いたのも、『ほうとする程長い白浜の先は、また、目も届かぬ海が揺れてゐる』という海のはるかな彼方に想いを寄せた心の現れにもとづいている。南方熊楠は、若い頃から海外生活を送り、いささか日本人離れのする民間学を樹立した。熊楠は帰国後、紀伊半島の先端の地田辺に居を定め、いつも海の見えるこの土地から離れることはなかった。 柳田国男が、最晩年、70歳代にそれまで構想していた『海上の道』を提示したことは周知の事実である。フィリピンのミンダナオ島の東方海上から、日本列島を目指す巨大な海流黒潮が、さまざまな形で日本文化に影響を与えることを明らかにしようとした。この視点は、さらに谷川健一の『海神の贈物』にも引き継がれており、海はつねに幸運をもたらしてくれるのである」

「民俗学の四大人」の1人に数えられた渋沢敬三は「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一の孫であり、第16代日本銀行総裁、大蔵大臣も務めた人物です。しかし、若き日の柳田國男との出会いから民俗学に傾倒したのです。彼は、東京の港区三田の自邸の車庫の屋根裏に、二高時代の同級生とともに動植物の標本、化石、郷土玩具などを収集した私設博物館「アチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)」を開設しました。そこに収集された資料は、東京保谷の民族学博物館を経て、現在の大阪吹田の国立民族学博物館収蔵資料の母体となっています。この渋沢と柳田の違いについて、著者は以下のように述べています。

「渋沢が物質文化にのめりこんでいったのに対し、柳田はもっぱら精神文化に眼を注いだ。とりわけ日常生活の『モノ』の背後に隠されている2つの表徴を発見した。それが『ハレとケ』であり、この語はその後の日本人の生活文化を分析するための重要なキーワードとなった」

柳田国男の『木綿以前の事』にはさまざまな晴れ着の呼称が紹介されていますが、宮田登は以下のように述べています。

「人の一生のうちで、成人式を迎えることは今も昔も大切なことであり、晴れ着によって一人前となったことを表示しようとしたのである。振り袖の衣裳はその1つであり『振る袖』のことである。現在はひらひらと振るのは、タモトとよぶ部分であり、衣服の手をおおっている部分全体がソデとよばれている。振り袖のほかに被り物も重要な晴れ着だった。綿帽子や絹布の帽子をさす。以前は、カツギ(被衣)といって着物を頭からすっぽりかぶっていた。要するに頭部をおおうのである」

また、「寝宿」について、著者は以下のように述べています。

「柳田国男は、性とか婚姻は本来若者たちの間に必要不可欠な生活の営みとして、自主的にかつ自然発生的に生まれた民俗文化だと考えていた。『婚姻の話』とか『常民婚姻史料』といった著作に、彼の主張がよく表れている。寝宿の制度はムラの成立とともにはじまった。いくつかの家筋の連合から成り立っているムラは、その維持のために男女間の性と生殖機能が大切である。そこではじめから娘と若者は、親の住む家とは別に宿をもったという。この2つの宿仲間は互いに往来し合い、親兄弟も知らない話をしながら、お互いに心を通い合わせてゆき、やがて仲間の間から多くの夫婦が生まれるという機会が生じたのである」

「若者組」については、以下のように述べられています。

「若者組に入るのは、15、6歳であり、若者組への参加をもって一人前の男とみなされた。これが元服であり、成人式に相当している。伊豆半島の膨大な若者組の史料が『静岡県史』民俗編に収められているが、それらをみると、きわめて厳しい生活律が定められていることが分かる。掟を破れば当然制裁をうける。自主的な集団であったわけで、家長からは独立した若者の世界をもっており、かれらは家の仕事と村の仕事とを両立させ、年長者によって統率されていた。仲間同士の階級秩序もきちんとしており、一致団結、天災人災に備えた。夜警、消防、難破船の救助活動、村祭り、祝儀不祝儀の手伝いなどあり、また漁村の場合共同でする網漁には先頭に立って働いている。その一方で婚姻の媒介も行っていたのである。寝宿のある地域では、宿親が仲人をつとめて、仲間の友だちが中心となる結婚式だった」

日本人の民間信仰の対象についても、著者は以下のように述べます。

「日本には、さまざまな神が祀られており、多神教の国といわれている。アニミズムをベースにした民俗宗教が豊富であることは、これまでも指摘されてきた。大社名社に祀られる素性のはっきりした神さまよりも、道端の祠にひっそりと祀られている神々に注目するのは、民俗学の本領の1つでもある。なかでも稲荷、山の神、エビスは、民間信仰の花形といってよく、恐らく祠数の統計をとれば、1位を激しく争うのが、この三神である」

第二章「震災とユートピア―弥生・卯月」では、「震災と世直し」として、著者は以下のように述べています。

「『災害がもたらすなんともいえない不可思議さの1つに、明らかに災害は非常な喪失であるにもかかわらず、時に至福感に近い快い感覚をもたらすという点がある。これはしばしば災害ユートピアと呼ばれる』と社会学者マイケル・バークンは指摘している。生存者と救助に来た局外者との間に善意にあふれる人間関係が生まれ、それが一種の『至福感』を与えるのだろうか。江戸の安政大地震直後に流布した鯰絵の図柄にも、そのモチーフが見られた。大地震の元凶と目される大鯰が鯰男となって、被災者と一緒に一生懸命復旧作業に携わっている。江戸の庶民たちと仲良く働いている姿が描かれているのだ。擬人化した鯰男は、破壊者であると同時に救済者でもあると、人々によって認識されているのである」

また、「太陽のお伴」として、著者は以下のように書いています。

「春祭りとか春ゴトと称して、3月陽春の候に、太陽の光をたっぷり身体に受けとめようとする儀礼は、古くから行われていた。暦は月だけではなく、太陽の強い影響を受けていたことは明らかである。テントウサンの祭りは、関東地方には、天道念仏の名前で知られている。真ん中にやぐら状の建物をつくり、その周りを念仏を唱えながら踊るという形式である。恐らく太陽の光を中央の方形の構築物にとりこめようとする呪法であったのだろう」

続いて、著者は「天道祭り」について以下のように紹介します。

「天道祭りは、長雨のつづく梅雨の6月にもしばしば行われている。とくに千葉県下では、江戸以来、出羽三山の湯殿山行人が関係していた事実もあり、現在も文化財として毎年行われている。天を見上げて『天道さん金の綱』と大声で叫ぶと、天から鉄のくさりが降りてきて、山姥に追われた二人の子どもが救われたという昔話があるが、これも太陽の光がもつ不思議な力に対する思いの表現なのだろう」

「お彼岸」では、彼岸行事について以下のように述べています。

「彼岸行事が中国仏教の中でどういう形態をとっていたのかは、はっきりしていない。むしろ墓参りなどは日本的風習だろうといわれている。ただ太陽崇拝という一点に絞って比較すれば、仏教の日想観という考えが浮上してくる。日想観は西方に向かって精神を統一し、沈んでいく太陽をじーっと見つめていると、はるか彼方にあると思われる阿弥陀浄土を観想することができる、とされることであり、たとえばこれは四天王寺西門に落日を拝する風習と比較されるだろう」

第三章「富士信仰―皐月・水無月」では、「日本のメシア」として以下のように述べています。

「初期民俗学の最初の研究書といわれる柳田国男の『石神問答』には、現代の民俗宗教につながるいろいろな問題点が提示されている。とくに日本宗教というのは、道教をもとにした現象がはなはだ多い。これは陰陽師や修験者たちによる占いの宗教で、もしかれらが神道や仏教の方に習合されずに独立して予言や呪いをしていたとすると、20世紀の日本は、アジアの諸国と同様に、『巫覡歌舞の国』になっていたかも知れないという。それは人々が古代の常世の神に対して熱狂したり、お蔭参りやええじゃないかの大騒ぎの有り様になって現れていて、多数民衆の心理には『不可思議』の四字でしか説明できないような現象が多過ぎて、なまはんかな学問ではたちうちできないのだという。この柳田の発言は、今の私たちも肝に銘じるべきものといえる」

第六章「民俗学と世相史―霜月・師走」では、「クリスマス・ツリー」として、以下のように書かれています。

「年末直前に、お歳暮、冬至祭り、忘年会という一連の行事の一環として、年越しの意味をこめてクリスマスは行われている。クリスマスのシンボルというべきクリスマス・ツリーは、ちょうど日本の正月の門松のようなものなのである。この門松とツリーを比較しながら渋沢敬三が面白い一文を書いている。まず日本の門松は、マツに限らず、ツバキ、サカキ、シイ等あり、中国東北部では、モミの類らしい。ブータンやバリ島の門松なども紹介されている。門松は神のよりしろとしての迎え木であって、古い農耕儀礼にもとづいているのである」

クリスマス・ツリーと門松の比較は非常に興味深いテーマですが、さらに著者はクリスマス・ツリーについて以下のように述べています。 「クリスマス・ツリーも、北欧の古い農耕儀礼とキリスト教が結びついたもの。モミ、エゾマツ、ヒイラギ。18世紀からこの木に玩具を吊るす形となり、ドイツ、フランス、イギリス、そしてアメリカに伝播して、すっかり国際化した。商業化するに至って、原形がなくなったという。サンタクロースはトルコの聖者だったのに、北欧化して、赤色のマントを着てトナカイのソリにのり、むりやりに煙突にもぐりこむという羽目になったと渋沢は皮肉っている」

第2部「日本文化へのアプローチ」の「一、柳田民俗学の視点」では、著者は次のように書いています。

「柳田自身の方法が結実した成果の1つに『先祖の話』がある。柳田は日本文化あるいは日本人の個性、特殊性をこの書物で力説した。具体的には祖先崇拝のカテゴリーにおける祖霊信仰であり、これはごく普通の農民生活の中で、農家が家ごとに祀っている家の神の伝承の実態を究明して、結局同族の先祖の霊を代々祀るという本来の祖霊信仰を摘出したのである」

お盆のルーツになった先祖祭についても、著者は述べます。

「先祖祭という民俗は、一般に仏事供養の中に位置づけられているが、柳田は日本人の固有信仰が仏教以前に存在したという歴史認識に立っており、そのためには民間伝承を再構成して神仏が習合する以前に遡源しようとしている。たとえば法事とか法要といっても、『仏法の教へにも無く、又日本の古い慣行でも無く、寺が僅かな檀家で支持せられるやうになつてから後の事』『念仏供養の功徳によつて、必ず極楽に行くといふ事を請合つて置きながら、なほ毎年毎年この世に戻つて来て、棚経を読んでもらはぬと浮ばれぬやうに、思はせようとしたのは自信の無いことだつた』『盆の祭はたゞ法事の附録の如く、近頃死に別れた者のある家だけの、悲しい行事のやうになつて来たのである』(『先祖の話』)といった叙述のなかに、柳田の主張は端的に表現されているのである。日本人の霊魂観や他界観についての解釈はきわめて合理的で、たとえば死後十万億土のような遠隔地に赴くことはなく、身近な隠り世にあって、子孫の求めに応じて現世に戻ってきたり、生まれ変わって出現するという霊魂の存在を民間伝承の中から説明したのであった」

第2部「日本文化へのアプローチ」の「二、折口民俗学の視点」では、著者は冒頭に以下のように書いています。

「折口信夫の文化研究には、およそ他者の真似ができない発想と方法があったとされ、折口学の日本研究に与えた影響はきわめて大きいのである。折口学といえば、その主要な概念に、『まれびと』と『常世』とがあり、両者はセットとなっていて、折口のもっとも独創的な仮説として提示されたのであった」

「まれびと」は折口信夫を思想におけるキーワードです。 著者は、「まれびと」について以下のように説明しています。

「『まれびと』は、来訪する神で、とくにこれをまれ人と称したのは、民俗事象の上では、人が神に扮装して出現することを調査体験で知ったためであった。この来訪神は毎年時を定めて訪れてくるが、その原郷は常世国であり、『海の彼方の常世の国から、年に一度或は数度此国に来る神』というイメージである。それは、蓑笠をつけて、農家の門口に訪れて来て祝言を唱える者あるいは妖怪の姿へと変化していった。民俗芸能の立役者というべき祝言職は、厄払い、ほとほと、なまはげ等々、日本各地に枚挙のいとまがないが、折口のまれびと概念のベースには彼自身による沖縄調査の反映があると指摘されている。赤また・黒また、まやの神、などの異装の神々の出現は、折口の直観を鋭く刺激したらしい。それはいわば「古代」の実感であり、現実の沖縄の宗教生活の核になっている現象である」

しかしながら、この「まれびと」こそは、柳田民俗学と折口民俗学を分け隔てる思想でもあったのです。著者は次のように述べています。

「このまれびと論と、柳田の祖霊論とは相容れなかったことも、指摘されている。1つは、まれびとが来訪神であるとする実証性について資料が乏しいとする点があり、さらに門口にくる物貰いまでをまれびとに包括することへの疑問が呈せられていた。つまり柳田の『先祖の話』での立論では、まれびとに相当するのは祖霊であり、祖霊は氏神信仰の中枢にある。本家の守護霊としての祖霊は、村の氏神にも昇華する性向は備えているにしても、折口の説く大道芸人や乞食をも包括し得ないだろうし、いわんや妖怪変化が神の零落した姿であっても、その出自は、祖霊の変化とは異質なものだという考えが柳田には強くあったのであろう」

このように、本書は二部構成となっており、第一部では、正月、震災、幽霊と妖怪などの身近な話題を取り上げて、民俗学的な考え方をわかりやすく説いています。けっして伝統的な素材だけでなく、現代の都市におけるフォークロアも取り上げられており、読み物としても非常に面白かったです。第二部では、柳田国男、南方熊楠、折口信夫といった偉大な民俗学者の思想が概論的に説明されており、これも初心者には大いに参考になるものと思われます。民俗学を学ぶ上で、本書は最適のテキストでしょう。

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