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2016.04.06
『構造人類学』クロード・レヴィ=ストロース著、荒川幾男・生松敬三・川田順造・佐々木明・田島節夫共訳(みすず書房)を再読しました。1958年に書かれた本で、日本語版は72年に刊行されています。著者は20世紀を代表する人類学者として知られます。1908年ベルギーに生れ、両親はフランス国籍のユダヤ人でした。
著者は幼少時より動植物の観察や蒐集に興味を持ちます。1927年から30年まで、パリ大学法学部と文学部に在籍。31年に哲学教授資格を得ました。 3人一組の教育実習ではボーヴォワール、メルロ=ポンティと一緒になり、彼らと親交を結びました。33年にはローウィーの『未開社会』から感銘を受け、民族学と人類学に関心を持ちます。35年から38年までは新設のサン・パウロ大学社会学教授として赴任し、人類学の研究を始めました。41年にアメリカに渡って文化人類学の研究に従事。42年には亡命中のロマーン・ヤーコブソンを知り、言語学、とくに構造言語学の影響を受けます。59年からはコレージュ・ド・フランスの正教授となり、社会人類学の講座を創設しました。専門分野である人類学、神話学における高評価はもちろん、いわゆる構造主義の祖とされています。その影響を受けた学者には、人類学以外だけでもジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ルイ・アルチュセールらがいます。レヴィ=ストロースはまさに、現代思想としての構造主義を担った中心人物でした。
本書のカバー裏には、以下のような内容紹介があります。
「レヴィ=ストロースは、マルクスの有名な定式〈人間は自分の歴史をつくる。けれども歴史をつくっていることを知らない〉を引用し、前半の言葉で歴史学を、後半の言葉で民族学を正当化し、二つのアプローチは補完的で分ちがたいものであることを示しているといい、人類学の目的は、意識されない思惟の普遍的構造を明らかにし、人間への全体的考察に寄与することにあると述べている。この目的を果すために、無意識な言語活動に音韻上の体系をもたらした構造言語学の成果や数学の変換理論を人類学に適用することは、レヴィ=ストロースによりはじめて、ひとつの力をもった方法として確立した。本書は、未開社会の親族関係、社会組織、宗教、神話、芸術に構造分析の軌跡を具体的に例示した、構造主義人類学のマニフェストというべき画期的論文集。後半の諸章における人類学の方法と人類学教育の現状と未来についての考察も、きわめて示唆に富むものである。 〈レヴィ=ストロースは、創造的芸術家や精神分析の冒険者と同じ精神行為を内包する、トータルな仕事としての人類学を創造した。〉 (スーザン・ソンタグ)」
本書の「目次」は以下のようになっています。
「はしがき」
序 (生松敬三訳)
第1章 歴史学と民族学 言語と親族 (佐々木明訳)
第2章 言語学と人類学における構造分析
第3章 言語と社会
第4章 言語学と人類学
第5章 第3章、
第4章への追記 社会組織 (生松敬三訳)
第6章 民族学におけるアルカイスムの概念
第7章 中部および東部ブラジルにおける社会構造
第8章 双分組織は実在するか 呪術と宗教 (田島節男訳)
第9章 呪術師とその呪術
第10章 象徴的効果
第11章 神話の構造
第12章 構造と弁証法 芸術 (荒川幾男訳)
第13章 アジアとアメリカの芸術における図像表現の分割性
第14章 魚のつまった胴体をもつ蛇 方法と教育の諸問題 (川田順造訳)
第15章 民族学における構造の観念
第16章 第15章への追記
第17章 社会科学における人類学の位置、および、人類学の教育が提起する諸問題
〈訳者あとがきに代えて〉
人類学の視点と構造分析 (川田順造)
文献
索引
本書でわたしの心に強く残った箇所を抜書きしたいと思います。 第5章「第3章、第4章への追記」で、著者は社会とコミュニケーションの問題について以下のように述べています。
「社会あるいは文化を言語に還元することなしに、社会を全体としてコミュニケーションの理論によって解釈する『コペルニクス的革命』(この表現はオードリクール、グラネ両氏のものである)を起すことは可能なのだ。今日でもすでに、この試みは3つのレヴェルにおいて可能である。なぜなら、親族関係と婚姻の規則は、集団相互間での女性のコミュニケーションを保証しており、それは、経済上の規則が財貨や労力のコミュニケーションを、言語の規則が意思のコミュニケーションを、保証するのと同じだからだ」
続いて、著者はコミュニケーションの形態について述べます。 「コミュニケーションのこの3つの形態は、同時に交換の形態でもあり、それらの交換形態のあいだには、明らかに何らかの関係がある(なぜなら、婚姻関係には経済的な給付がともない、また言語はあらゆるレヴェルで介入してくるのだから)。それゆえ、これらの交換形態のあいだに相同性が存在するかどうか、それぞれのタイプを別々に考えた場合の形式上の特徴や、1つのタイプから他のタイプへ移行するための変換がいかなるものであるかを、探究するのは正当なことなのである」
また、著者はコミュニケーションに続いて、言語について述べます。
「言語のうちに、他のコミュニケーション形態の構造を理解する助けとなる論理的モデル―とうのは言語の方が完全であり、またよく知られてもいるからだが―を求めることと、言語を他のコミュニケーション形態の起源と見なすこととは、まったく別のことである。 だが、社会には、たしかに、婚姻、経済、言語という変換形態以外のものがある。そこには、芸術、神話、儀礼、宗教といった一種の言語があって、オードリクール、グラネ両氏も、それらが存在すること、それらが通常の言語と類似していることを認めているし、私もまたいままでに何度かそれらを論じてきた。社会にはさらに、その本性によるのかわれわれの知識の不足によるのかは別として、とにかく今日では構造化できない多くの要素がある。ところで人は、これらの要素を引きあいに出して、何か不思議な神秘説を擁護しようとするのだ」
第8章「双分組織は実在するか」では、マルセル・モース、ラドクリフ=ブラウン、マリノウスキーらが「相互性」という概念にもとづく心理学的・社会学的な解釈を立てることにより民族学的思考の革命をもたらしたことが指摘され、著者は以下のように述べます。
「相互性の理論は問題にされていない。今日、民族学的思考にとってそれは、重力の理論が天文学にとってそうであるように、確固たる基盤の上に立ちつづけている。しかし、この比較からもう1つの教訓が得られる。すなわち、リヴァースにおいて民族学はそのガリレイを見出し、モースが民族学のニュートンであった。われわれは、その沈黙がパスカルを恐れさせた無限の空間よりも無頓着な世界において、なお活動しているこの珍しい、いわゆる双分組織が、惑星よりもはるかに保護されることなくその崩壊の時を告げ知らせる前に、彼らのアインシュタインを見出すことができるよう願うのみである」
第11章「神話の構造」では、著者は神話的思考について以下のように述べています。
「神話的思考の論理は、実証的思考の基礎をなす論理と同様に厳密なものであり、根本的にはあまり異なっていないようにわれわれには思われた。相違は知的作業の質によるというよりは、むしろこの作業が対象とする事物の本性によるからである。久しい以前から、技術の研究者たちは彼らの領分でこのことに気づいていた。鉄の斧は石の斧よりも、『よく出来ている』からまさっているのではない。どちらも同様に『よく出来ている』が、鉄は石と同じものではないのである」
続いて、著者は神話的思考と科学的思考について以下のように述べます。
「おそらくいつかわれわれは、神話的思考と科学的思考においてはたらく論理が実は同一のものであること、そして、人間はいつも同様によく考えてきたことを発見するであろう。進歩はおそらく―仮にこの言葉がその場合にもなおあてはまるとすれば―意識ではなく世界を舞台としていたのであり、恒常的能力を賦与された人類は、その長い歴史を通じて、この世界でたえず新しい対象ととり組んで来たであろう」
第12章「構造と弁証法」では、神話と儀礼との関係について述べられています。同章を著者は次のように書き始めています。
「ラング以来、デュルケーム、レヴィ=ブリュールおよびファン・デル・レーウをへてマリノウスキーにいたるまで、神話と儀礼との関係に興味をもった社会学者や民族学者は、それらを重複するものとみなした。ある学者たちは、各神話の中に、儀礼に根拠をあたえるための、儀礼のイデオロギー的投影を見る。別な学者たちは、その関係を逆にして、儀礼をいわば動く絵画の形を取った、神話の一種の挿絵のようなものとしてとり扱う。どちらの場合にも、神話と儀礼とのあいだには整然たる対応、いいかえれば相同関係が要請される。両者のいずれに、原本かそれとも写しかの役が帰せられるにしても、神話と儀礼とは、一方は行動の面において、他方は観念の面において、たがいに他を再生するのである」
わたしはつねづね「人類は神話と儀礼を必要とする」と広言していますが、本書を読んで神話と儀礼の関係がよく理解できました。
それにしても、「構造」とは途方もない考え方であると痛感します。 最近、「現代思想」3月臨時増刊号(青土社)を読みました。宗教人類学者の中沢新一氏の監修で総特集が「人類学のゆくえ」となっています。冒頭、人類学者にして作家の上橋菜穂子氏と中沢氏が「人類学=物語的想像力の”不自由な”跳躍」と題する対談を行っています。そこで中沢氏が述べた「お釈迦様が『法(ダルマ)』と呼んだものを、人類学者は『構造』と呼んだのだと、私は思っています」という言葉が非常に印象的でした。この言葉は、クロード・レヴィ=ストロースに対する最大の賛辞であると思いました。