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2016.04.21
『言語としての儀礼』ロジャー・グレンジャー著、柳川啓一監訳(紀伊國屋書店)を読みました。1974年にイギリスで出版され、77年に邦訳が出た本です。著者は、1934年イギリス生まれの牧師、神学者です。王立演劇学校を卒業後、リッチフィールド神学大学にて神学修士号を取得。続いて、バーミンガム大学にて牧師の資格を取りました。ヨークシャーの精神治療院専任牧師も務めています。
本書のカバー裏には「本書について」という内容紹介があります。
「著者によれば、儀礼とは科学的因果律から意識的に逸脱することであり、現世的な出来事の流れを中断し、そうすることによって世界を再創造することである。それは過去と未来、近くにあるものと遠方にあるもの、現実と夢とを現在化する。われわれは様々な社会で、儀礼が豊富な象徴によって表現される事例を見ることができるが、とりわけ未開社会の集団的儀礼はその社会的思惟を生き生きと表現している。これに対して、近代の宗教とくにキリスト教においては、祈りや内面の信仰が強調されて宗教儀礼が過少に評価される傾向にある。本書は、宗教学、人類学、哲学、社会学などの成果を幅広く取り入れながら儀礼の復権を主張している。儀礼にある程度、関心をもちながらも、それを人間の集団意識の発散として位置づけたデュルケムや、儀礼的宗教を神経症の一系列とみなしたフロイトを批判し、エリアーデ、ヴァン・ジュネップ、レヴィ=ストロースなどを参照しながら儀礼独自の言語とは何かを考察する」
本書の「目次」は、以下のようになっています。
「序」
「まえがき」
第一章
儀礼の言語
1 宗教と社会
2 レヴィ=ストロースと文化の多様性
3 エリアーデと儀礼の相同性
第二章
儀礼の擁護
1 宗教儀礼に対するキリスト教の批判
2 精神病理学的批判
2 儀礼と人類学
第三章
儀礼と時間―現存としての儀礼
1 儀礼のシンボル
2 前―境界的儀礼―現在時への戸口
3 境界的儀礼―時間の休止
4 後―境界的儀礼―時間の更新
5 現代人と時間
6 永遠性の経験
第四章
儀礼と空間―演出された出会いとしての儀礼
1 真実の場
2 芸術作品の真実性
3 実存の舞台
4 神話と移行
5 儀礼と信仰
「註」
「訳者あとがき」
「文献目録」
「まえがき」の冒頭で、著者はいきなり儀礼の本質について述べます。
「儀礼とは何だろう。それは、集合的な芸術という形を与えられた宗教的熱望である。神と人間のことを語る特殊な言語である。この目的をはたすために、生きた人々、その身体、心、想像力を駆使するがゆえに、それは人間のこと、すなわち、人間の性格、力、限界に関して極めて率直、的確に物語ることができる」
続いて、著者は以下のように儀礼について述べています。
「儀礼において、人は『頭で考えたことを自分の身体でやってみる』。つまり演技の言語を用いるのだが、そこで演じられるのは、感情、思考、態度、生活の経験そのものが総て共有されるような人々の真の出会いである。
したがって儀礼は、『人間の基本的欲求の1つに対応』している。それは、単に精神にのみ関わるものではなく、全人格を巻き込む一種の自己表現の欲求であって、それは他人の存在によって阻害されるどころか、むしろ他人がいることによって自由に発現されることになる。この事実は、現在よりも過去の時代に、そして他の文明において、ようやく理解され、また受け入れられてきた。とくに古代では、儀礼は毎日の生活に力強く貢献し、『人間存在の基本的問題は、芸術的、ドラマ的な形において表現されたのである』(エーリッヒ・フロム)。これは、聴衆参加の劇、集団的儀礼の力と強さを得たドラマであった」
さらに、著者は儀礼について以下のように述べます。
「儀礼は構造化された精神としての人間の自己自身についての叙述である。人間は儀礼の中で、仲間でありながら見知らぬ者として出会いもする他人、いいかえれば、自分と似てもいるし、異なってもいる他人との関係において生きており、自身の身体によって、区別され定義され、個性を与えられ、具体化された魂として、限定され条件づけられた自由の総てをもって浮かび上がる。矛盾はそのままにしておかなければならない。それはわれわれの人間関係の理解に不可欠である。この自己と他人、同一性と差異の緊張から、人格が育っていくのだから。儀礼の構造は、相互に依存しながらも独立した、孤立することも混同されることもない人間の相互行為を可能にする」
続けて、著者は以下のようにも述べています。
「個人間のこの緊張に関わっている故に、儀礼は共同体に関係している。共同体は自由に関わっているのだから。逆説のように思われるかもしれないが、人類の統合は、人々を離れ離れにしておく何かにかかっている。それぞれの自己への分化、すなわち個々人の区別という障害こそが、関係の動き、魂の外へ向かっての身振りを許すのである。この動き、この身振りの上にこそ、社会が真に成り立っている。われわれ総ての上にかかってくる社会的な影響や圧力が社会的人間としてのわれわれの行動を支配しているといえるかもしれない。けれども、文字通りの、象徴的な、奪うことのできない何らかの特殊性がなければ、われわれはまったく人間ですらないのである」
第一章「儀礼の言語」で、牧師である著者は、教会で行なわれる通常の儀式について、「分析を拒むような、特殊な方法で現実を変えることができる」と述べ、さらに以下のように書いています。
「現実を記述するのではなく、記述を越えたところにそれを拡大することに関わっている。儀式は、現在ある限りでのわれわれの経験、測定可能な有限性の範囲内で、完全性の実際的なヴィジョンを提供する。換言すれば、われわれが始めからあると知っていたのに都合よく忘れ去ってしまったもの―宗教的行為―をである。したがって、以下のことを主張したい。教会での儀式は、宗教的な力の行為である。これこそがわれわれを引きつけるものの真の性格である。さらに、人々が儀式に吸い寄せられるのは真に宗教的な理由からであり、それを拒む人もまったく同じ理由によっている。われわれが既に取り上げた相反する感情、むしろ気恥しい恍惚を引き起こすのはまさに儀礼の力である」
また、儀礼と宗教との関係について、著者は以下のように述べます。
「実のところ、儀礼は宗教の付属品ではなく、弁護されるべきものでも、批難されるべきものでもない。真の意味で、それは宗教に他ならない。宗教一般と特定の宗教的儀礼の関連は緊密である。儀礼は宗教的意識のまさに核心―明白な形での実体、心、真髄である。宗教は総て、神学をもつと同様に儀礼をもっている」
著者は、いわゆる「高等宗教」について以下のように述べます。
「宗教学者が『高等宗教』と呼んでいる、ギリシア・ローマの密儀宗教、仏教、ヒンズー教、キリスト教は、人と神および人とその同胞の関係についての理解を具現化し、表示するために、またその関係のもつ重大な意味についての特別の意識を強調するために、複雑な脚本をもっている。それにひきかえ、オーストラリアのクルナイ族あるいはティエラ・デル・フエゴのヤマハ族の宗教儀礼は極端に単純である。しかし、どちらの場合にも、すなわち宗教が『発達している』ところでも、『未発達に』残されているところでも、儀礼が存在し、それらは中に含まれている思想と分かつことができない。宗教的行為の言葉を行為自体から切り離そうとするのは無意味な試みに過ぎない。儀礼の言葉は内省の産物である。しかし、行為は別種の理解あるいは意識を表現する欲求―とりわけ宗教的な1つの現実に対して即座に反応したいという衝動を表わしている。これは命題ではなく、認識以前の本能的なものである。宗教現象の基本的性格をじっくり研究してみると、言葉が行為にではなく、行為が言葉に先行することがわかる」
著者は、「言語としての宗教」について以下のように述べます。
「宗教は言語の一種なのだから。宗教は人間の思考が、つまりは人間のコミュニケーションが、論理的かつ類比的に自らを表現するように、類似と対立で成り立っている。言語と同様に、それは固有の法則に従っており、完全に意味をなすためには、全体として翻訳する他はない」
そして、書名の「言語としての儀礼」について、著者は述べます。
「儀礼の言語は、社会的次元に比べてさらに一貫したより完全な存在の次元、すなわち宗教の次元を表現するよう意図されている。この2つの言語は完全に相互の変換が可能なようには作られていない。実際のところ、別々の目的をもたされている。儀礼の文法は儀礼自体における登場人物間の関係である。儀礼は、人間であれ人間以外のものであれ、生ま身の登場人物を使う故に、抽象的思考を伝達するための言語であるというよりは、常に社会に関しての言語、関係の経験についての実在的言語である。けれども、そのあるがままの社会との差異は、それとの類似よりも重大である。儀礼の登場人物に扮する役者の役目は、われわれが日常生活で知っている彼らのように演じることではない。また儀礼の世界はわれわれの世界に似せるよう意図されているのではなく、より完全なあり方、よりよい関係の改善された世界を示すよう意図されている」
著者によれば、儀礼とは1つの実験室であり闘技場です。そのために、おびただしい数にのぼる儀礼は何らかの形で様式化された戦いです。そこには根本的な緊張関係がはっきりと見いだされます。すなわち「こうあるもの」と「こうあるべきもの」との間の緊張です。この緊張が解かれるのは実際に演じられる儀礼においてであり、著者は次のように述べます。
「儀礼の中で現実と願望は統合され、そこから質的に異なった新たな現実が生まれる。理想を演じることによってわれわれの日常世界での生活経験が変化を蒙るのである。ひとたび具体的に表現されると、われわれが求める形而上学的次元での完成は蔓延していくかのようである。ちょうど、話す上での言葉の選択が実際の経験―われわれが他の経験と比較しながら、限定し、定義を与えることによって表現する経験―に対して影響をもつように、儀礼の言語は自分のメッセージに注釈をつける。『儀礼は単に表現するばかりでなく、変容を引き起こす』。儀礼は経験を具体化するだけではなく実際にそれを創り出す」
人類学者や宗教学者は「宗教」をどのように捉えているのでしょうか。
著者は、この問題について以下のように述べています。
「社会人類学と宗教学の分野を代表して、人類学としてはエヴァンス・プリッチャードとクロード・レヴィ=ストロース、宗教学としてはメアリー・ダグラス、ロバート・グレーブスおよびミルチャ・エリアーデは、宗教は自立的現象であって、人間の経験および行動を説明するという目的においては他の現象と比較できるが、他の現象によっては説明できない、すなわち説明し去ることができないものであるという点で一致している」
著者は、儀礼と宗教の関係について以下のように述べます。
「儀礼は総ての公的宗教がその上に基礎づけられている岩盤である。事実、宗教の根本の筋書きはわれわれが注目してきた再生の、もしくは自己超越のドラマである。すなわち、ヴァン・ジュネップが構造を分析し、ミルチャ・エリアーデが世界の宗教の大多数にその存在を確かめた加入儀礼である。もちろん、エリアーデは、宗教的信仰および感情をこのような方法で表現することは人間の意識に基本的であると論じている」
イニシエーションは、明らかに宗教的な文脈か世俗化された文脈のどちらかにおいて、どの文化にも見いだされます。たとえ儀礼そのものを行なう習慣が絶えてしまったところでも、民話や文芸作品の中にその存在を知ることができます。著者は以下のように述べます。
「このような儀礼は、宗教的儀式として意識的に行なわれるにしろ、他の社会的相互行為の形をとるにしろ、人間の宗教的意識の基本的表現をなしている。通過儀礼、あらゆる加入儀礼は普遍的に行なわれていることにおいて社会的に重要である。人々と社会とを結びつけることにおいて、社会的に必要である。さらに、宗教を研究する上で、また人間の宗教的意識をわれわれが理解する上で、これらの儀礼は、研究の価値を確かなものにするから欠くことができない。通過儀礼は、人間本来の経験としての宗教的意識の存在に対して、覆すことのできない証拠を提供する」
第二章「儀礼の擁護」の冒頭で、著者は次のように述べます。
「宗教の根本の形態は儀礼であり、基本的に加入式のシナリオである。また、宗教の自律性、すなわちその独自の存在意義は、儀礼が普遍的に行なわれているばかりでなく様々な文化を通じて一貫しているということに示されている」
さて、「儀礼」と「儀式」の違いは何か。
牧師である著者は、以下のように述べます。
「キリスト教の教会文書では『儀礼は礼拝の形式であるのに対し、儀式は礼拝をとり行なう具体的方法である』として『儀礼』と『儀式』を区別するのが習慣であり、これは今なお正しいとされている。けれども私は、儀礼という用語をその双方を同時に意味するものとして使ってきているし、これからもそうするつもりである。これは意地を張っているからでも、また集団的崇拝という行為の表記法と実施の間に区別が可能であるとか、時には区別をつけなければならないとかいうことを認めたくないからでもない」
儀礼とは何か。著者は次のように、ずばり核心を衝いていきます。
「儀礼は芸術である。劇である。これを何か他のものと考えることは、その真の存在を壊すことである。すぐれた儀礼は、すぐれた劇と同じく、想像力の範囲内で自信を演じきる。英国国教会の祈禱書でさえ、「読むというよりは演ずる」ものである。儀礼は完結した経験であり、完成品である。それが行なわれるうちに、その特色を発揮する。儀礼は聖なるものについて語る故に真剣である。それは、聖なるものに属する生命を伝達可能な形でもっている。すなわち聖なるものの聖性はまったくの別物でありながら、その生命は余すところなく遍満している。したがって、儀礼は、最も無意識の時でさえ、常に自己を強く意識する。それは他の経験に比べて独特な異質さをもつ。神聖なことを行なっているという意識的経験を保つために自分の回りに殻を作る―そして教会で泣き出す赤ん坊、あるいは礼拝中とは知らずに侵入した観光客など、この殻を破るものは誰であれ呪われる」
牧師である著者は、儀礼に対する神学的立場からの批判に対して反論する必要があります。そこで、次のように述べています。
「まず第一に、神という本質的存在からの完全な分離と、この分離がおよぼす抗しがたい引力を経験することにこそ宗教的儀礼の実際の起源があることを指摘しなくてはならない。神が、人間の世界から遠く離れているからこそ、その宗教的本能が人間をして、世界を神のもとにもっていこう、神に捧げようという試みにかりたてるのである。人間は、この世界が、十分に神聖で完全であるという意味で神に捧げるに値するとは思っていないが、また人間自身が全く価値がないとも思ってはいない。人間は自分自身をこの世界の一部、演出の一部と見なしている。もし人間が登場してくるなら、人間の世界もあらわれてこなければならない。したがって、人間は世界から抜け出してくるのではない。神の不可能性とそれがもつ魅力は、彼らの現実の一部、環境の一部とみなされている。人間は、自らの現実を放棄せずに、より勝った現実を認める」
なぜ、宗教的儀礼というものが存在しているのか。著者は述べます。
「宗教的儀礼の目的は、人間的現実―有限である人間世界―の正当性を示すことにある。故に儀礼は、人間の創造と保護、さらには神に対する人間の義務といった教えにおいて教義的な形態を得ている現実の意味についての観念および理論を具現している。儀礼は、人間の用語によって神について語る。『限りある現実』は『無限の真理』を伝えるために使われる。この意図は率直でありかつ誠実である。儀礼は、神と人間との差異を宣言すると同時に、神のものと同じ文脈の中に並べることによって人間のものを聖化する。かくて、儀礼が避ける大きな危険は、人間と神の混同である。神のところに引き上げられることによって、人間は幸福に自分自身として立ち現われる。すなわち、人間の自己理解や、その願望、力、さらにはその限界を表現する一連の儀礼的行動の中で、人間は神の前にあるがままの姿を晒す」
また、著者は以下のようにも述べています。
「男なり女なりの存在と行為の総体としての人間の人格の分割不可能性は、礼拝における儀礼と言葉の分割不可能性に反映されている。儀礼は、言葉、身振り、リズム、および構造をもった儀式をまとめ上げて、この世界に生きる人間の存在の仕方―すなわち1つの観念としてではなく、1人の人間としての存在様式―を表現し、1つの礼拝形式をまとめあげる。儀礼は、人間としての定められた条件のもとで、『その肉体的、精神的、および感情的存在を神に対する応答において統合する』」
著者によれば、儀礼は古い摂理に属します。キリスト教徒は未来に考えを向けるように促されているとして、以下のように述べます。
「未来の時においては、人間と神の間を遮るこの世のものは既にその力や重要性をもたないために、『形式』はもはや必要でなくなり、さらに、『儀礼の虚飾』は『キリストの到来によって、太陽の明るい光に影がなくなるようにかき消され』、そこから解き放たれた礼拝は『純粋で定義されない』ものになる」
さらに著者は、以下のように述べています。
「神と人間の2つの現実の間によこたわる質的な違いは、神と人間が出会うことのできる『第三の現実』を儀礼において設定することを許さないし、許せるはずもない。このような設定は、人間による創造に他ならず、したがって、神の文脈にあっては冒瀆にならざるを得ない。儀礼は人工的である。神は、このように人間の作り出したものと交わると考えられるべきではない」
神と人間との間に言語は成り立つのでしょうか。
著者はそれこそが儀礼であるとして、以下のように述べます。
「神への対応にふさわしい言語は、儀礼という社会的言語である。あらゆる人間社会で、たとえ宗教意識が芽生えはじめたばかりの社会でさえ、礼拝は制度と儀礼的行為の中に具体的表現を与えられており、それらがさらに、礼拝の衝動の刺激、伝授、維持の強力な道具になっている。宗教と社会は基本的には密接に関連しているので、この衝動は、社会的なそれであって、社会的に表現される。これが、典礼に象徴される関係、典礼が表現し、かつ実現する関係である。なぜなら、総ての典礼が各々独自の自己理解をもってその世界観に生命を与えているように、それは独自の福音を説いているともいえるからである。儀礼の中で、共同体は自らについて学ぶ。儀礼的行為や儀式において芸術的に表現される集団的了解とは、集団的なものとしての生や世界に対する了解、すなわち、その中では個人の経験が共同体と分かちがたく関わり、依存している現実の了解である。宗教意識の社会的性格は、独自の象徴を―相互行為と相互依存からなる関係の現実を表現し確立する独自の象徴を必要とする。宗教の中核に位置すべく選ばれた象徴は儀礼である。この象徴は、メアリー・ダグラスが、『経験の結晶化』と名づけた内容と形式の出会いであるという意味で、本質的に芸術的な働きをもつ。つまり芸術を媒介とすることによって、宗教感情は社会的意識、集団的一体感の感覚を強化し、その結果、社会的行為を強化しうるのである」
それでは、神学にとって儀礼とは何か。著者は以下のように述べます。
「結論として、儀礼は2つの視点から『演じられる神学』とみなすことができる。それは、人間性と対照をなす者として神をたたえるものであり、また、社会を通じて伝達し、社会の中に自らを現わす者として神を具現化するものでもある。聖礼典では、神とその民の世界との隔たりは物質の聖化によって橋渡しされる。これらの人々にとっては、聖礼典の中で、有限の世界が神との完全なる媒介となる。かくて、儀礼は『全能の神』の超越性を照らし出すのみでなく、神によって創造され維持される人間と物質の世界の内部に神が存在するという事実をも神的啓示の光のもとに照らし出す。人間と事物がもつ本性によって、神学、すなわち神に対する人間の理解は実際に演じられることを必要とする。また、人間の宗教意識に自らを顕わす神の本質によって、その内在性と超越性の真理は、この演技をとおして他者との関係の奇蹟的な経験として表現されるに違いない」
心理学者のエリクソンは、「儀礼は社会が用いる1つの言語を構成する」という社会学者デュルケムの主張を受け入れています。宗教的儀礼は「コミュニケーションを目的とするシナリオ」であるというのです。著者は次のように述べます。
「世界の諸宗教を研究していくと、おびただしい数にのぼる儀礼が、子宮のイメージや存在の原初的状態への回帰の思想をめぐって、その形式をうちたてているという事実につきあたる。このことを考えれば、神経症を原初の安全な状態に退行したいという欲求の表われとして捉え、『失われたもの』―安全な子宮、心地良い胸―への幼児的探索の再現として捉える理論が、宗教儀礼の説明としていかにふさわしいかがわかる。そして、精神のこの原初的状態は、単に安全な状態として考えられているのみならず、力に満ちた完全に自律的な状態とも見なされている。したがって幼児は、周囲の環境を完全に統制可能な自己の延長として経験する。そこにおいては、彼が空腹なときはいつでも食物があり、満腹なときには煩わされない。つまり、感覚的に充足した状態である。この事実は、いうまでもなく、儀礼の呪術的目的に対する魅力的な理論的根拠を提供する」
また、著者は以下のようにも述べています。
「社会学的な傾向をもつ学者や比較宗教学の研究者は、集団儀礼を個人の精神病理をもって説明するような議論には強く反発する。儀礼の世界は、社会的意識の開かれた世界である。すなわち、『私は世界であり、世界は私である』といった完全な私的自律の原始的満足に戻れるような、閉じた世界ではない。集団儀礼は『分離における関係の具現化』であり、相互に独立した個人の一体化である。このようなものとして、それは子供が環境と自己を『原初的に同一視』することとはまったく異なった存在様式に属している。集団的である儀礼は、この種の幼児的一体思考に対しては、成熟した自我の勝利を宣言するのである。そこでは、儀礼行為をとおして個々の精神が、ある意味で新たな身体を獲得し、1つの新しい集合的人格、彼自身と関係のある何者か、彼自身の中の他者性、すなわち神秘的な統合とその完全さの象徴を形成するようになる。この新しい統合は自らを表現するのに必ず身体のシンボリズムを用いる。というのも、それは新しい身体であり、集合的な成熟と全一性、人間的に表現された理想だからである」
著者は、「私は何者でどこからやってきたのだろうか」という問い、そして「われわれは何者でこの世界は何なのだろうか、その目的は、その意味は?」という問いを提示します。これら2つの問いは双方の視点から同時に回答を与えられるとして、以下のように述べます。
「人間とその世界は共に同じ起源をもつと見なされるのである。人類の発生は、天地創造における帰属と全体性、すなわち全体の一致を表現するために、内的生成として語られる。人間は、神話を自然に投影するだけではなく、自然から神話をとって自分を解釈し、そうすることで2つの世界を関連づけるのである。したがってヴァン・ジュネップが指摘するように儀礼は直接的な意味をもっている。すなわち、儀礼が描くのは秘密なことではなく、平和と安泰が宇宙との一体性に依存しているという社会の一般生活に関する的確な情報であるという意味で、それは直接的である。儀礼は人間と世界とを和解させる―『儀礼は単にイメージを作る個々人の能力ばかりでなく、世界をも示すのである』」
心理学者ユングは、儀礼は「根源的な宗教経験の結晶化された形」であるとし、その機能は「集合的無意識の強烈な力」から個人の意識を保護することにあると主張しました。このユング説を紹介した著者は、以下のように述べます。
「すなわち、宗教的儀礼において得られるのは、知的な理解ではなく、このような認識に課せられた限界の意識である。儀礼の中に現われる原型的な象徴の形態は、意味深くもあり、不明瞭でもある。それは人類全体に関わる真理を求めての手探りである。人類についての集合的真理を探究する行為は、もし許されるならば、知的理解の先入観を介在させずに、その真理の幾分かを伝えるのである」
続いて、著者は以下のように述べています。
「本当の意味で象徴的な儀礼効果、すなわち命題によってはとらえられない背後の現実と真理を自らを越えて指し示すような集合的儀礼の効果は、その現実と真理をある意味で、そしてある程度、参加する者の手に届くものにすることにある。これは、われわれが存在について学ぶことによって、どのように存在したらよいかを教えられる1つの学習過程である。それは関わりを通しての関わりについての学習、分析不可能な全体についての、その全体性の経験に浸ることを通しての学習である。このような儀礼において表現される象徴的形態は、ユングが『錬金術的』と名づけた効果をもっている。つまり、通常の現実を、もっとずっと貴重な何かに変形するのである」
第二章の3「儀礼と人類学」の冒頭、著者は次のように書いています。
「儀礼を『霊的でなく』かつ『偶像崇拝的』であるとして神学の立場から攻撃した中心人物がカルヴァンであり、また、『神経症的』ないし『幼児的』とみなした主導者がフロイトであるとすれば、共同で行なわれる儀礼を『呪術的』『原始的』な世界観の徴候とみなす通俗的な蔑視を生むのにおおいに責任のある大家はフレイザーである。『金枝篇』には、宗教が人類文化発展の三段階のうちの第二段階にあたるという主張が述べられている。その前の段階は呪術であり、宗教の次には科学がくる」
ところで、神話と儀礼とはどのような関係にあるのでしょうか。
「人類にとって神話と儀礼は不可欠である」というのがわが持論ですが、著者は以下のように述べています。
「神話は儀礼と同じところに属している―したがって多くのことは明瞭である。神話と儀礼は双方ともに実存的危機の表現であり、象徴的行為の中で再認識されなければならない不可避的な宗教意識の表明なのである。儀礼とはそれと感ぜられた危機であり、神話とは思考されうるにいたった危機である。神話はそれが儀礼から派生したとか、儀礼に対する一種の注釈としてその高みに位置するとかいう意味でこれを説明するものではない。それは儀礼の意義と意図を截然と区別しながら儀礼の中に生きていて、『神話的歴史』に蓄えられた出来事の権限を儀礼に授け、それによって現在起こりつつある出来事としての現実性をそこに付与する。『神話的歴史』とは宗教的信仰をとおして把握された歴史であり、その出来事は儀礼と不可分に結びついている。いかなる儀礼もそれぞれの神話をとおして初めて『説明可能』といえる。これは、神話そのものが儀礼的演出と分かちがたく、また言葉で表現するにはあまりにも深遠な事柄についての、すなわち人間の魂の非合理的で論証不可能な活動についての儀礼のシナリオからそれが出現するとしても妥当することである」
第三章「儀礼と時間―現存としての儀礼」の1「儀礼のシンボル」の冒頭には、以下のように書かれています。
「儀礼をよく理解するためには、言語やコミュニケーションのコードとしてそれを把握せねばならない。言語といっても、それは特殊な知識を伝える一種独特な言語である。そこに伝達されるのは、時間・空間・関係という3つの事柄に関する経験的な知識である。実際には、儀礼経験の内部で、これらの3つの事項を分離することはできない。まさに、その不分離性と相関性こそがとりわけ儀礼の関与する点であるといえよう」
著者は、人生における儀礼の意味について、以下のように述べます。
「人生の危機には、その1つ1つに固有の古くから伝えられた儀礼が伴う。経験に対する防御行為とみえるもの、現実から人間を隔てるために演ぜられる単なるゲームとみえるものが、他ならぬ現実の核心へと通ずる道なのである。知性に向けられた『正面攻撃』を避けてとおることは、その打撃が心的外傷をもたらすほど甚しい場合には、必ずしも真実の回避を意味しない。現在の自己に苦痛と危害を与えるようにみえるとはいえ、もしも適切に対処して同化するならば自己を健全にし豊かにさえもしうる状況を処理するにあたって、意識的な精神が何ら信頼するに価わぬ存在であることは自明である。これは、人生の打撃を中和すべく積み重ねられてきた人間の歴史が明らかにするところである」
儀礼とは象徴の具体的表現です。著者は以下のように述べます。
「宇宙全体の、ひいてはその外部におよぶ意味を担いながらも、個々人を対象としてまったく個性的な状態を作りあげるところに象徴の機能がある。英雄たちの範型的な生涯を描く神話と、その神話を再現し再体験する場としての儀礼が結合するにいたるのはこの象徴においてのみである。超越性と内在性は象徴の中でのみ接合しうるのである。儀礼と神話が結びつくにいたるのは、前者が後者にそのまま符合してゆくという意味ではない。両者は一定の象徴を基軸としている。儀礼参加者の現存から直接性と力を獲得するのは神話であるとしても、その神話から意味、力、生命を汲みとり、儀礼固有の実在と生命に豊かさを与えるのは象徴である。神話は範型的な生から生まれる。象徴は現在にたいする神話の意味から生まれる。最後に、この象徴は儀礼的『演出』を施され、共有の経験に翻訳される。要するに、英雄の生涯すなわち神話であり、その神話のもつ意味が象徴である。そして、儀礼とは象徴の具体的表現に他ならない。すなわち儀礼は『肉体から肉体へと象徴を媒介として』移行する運動といいかえることができる」
さらに著者は、儀礼を一種の社会的装置と見て、以下のように述べます。
「儀礼とは実存的危機を生きぬくための1つの装置、いわば社会的にも是認され個人的にも正当とみなされる方法によって不安に対処するための装置である。これをいいかえて、個人と社会とが出会い、過去が廃絶されると同時に未来が尊厳と勇気に直面しなければならぬ時点にあっての、不安の共有様式であるということもできる」
第三章の4「後―境界的儀礼―時間の更新」では、葬送儀礼の問題が語られます。
著者は、葬送儀礼について以下のように述べています。
「いかなる葬送儀礼も、時を更新し、再開するという意味で後-境界的である。そもそもこの種の儀式そのものが、全体にわたって―つまり、前-境界的儀礼(葬儀そのもの)、通夜と喪の期間、後-境界的儀礼の全体にわたって―最後に行なう後-境界的儀礼の特徴を分ち与えられている。この最後の儀礼は、ある文化では現実に行なわれる再埋葬である。また別の文化においては、通夜に続いて火葬や埋葬の実質的儀礼を行なうこととし、前-境界的儀礼は死者の魂を鎮めるとともに霊前に感謝を捧げる短い礼拝に切りつめられている」
第三章の5「現代人と時間」の冒頭には、「さらに儀礼は、時間を操作して最大限に活用するための手段でもある。それは時間を『増幅』し、溢れるばかりの豊かさと深みを与え、その硬直性を緩和することによって住みやすい状況を作るのである」と書かれています。
また6「永遠性の経験」には、「時の停止をもたらすのは、人間とその状況についてのこうした本源的な事実の再認識である。フォン・ヒルデブラントによれば、礼賛、讃美、告白、記念、感謝というキリスト教の儀礼的職務は、ことごとく『永遠の現存』の中で執行される」と書かれています。
儀礼にとって、時間とは何なのでしょうか。著者は述べます。
「儀礼は『人類全体の初原状態を一時的に再現』することに成功する。それは、時間の要請とか圧力とかいう人間の固定観念や、それらの要請、圧力に対処するための習慣的方式から人間を引き離し、それによって、永遠の価値を現在の経験―現在の時間的実存に浸透させてゆく。エリアーデは、シャマン儀礼において、いかにして『人間的条件が破壊されることなく超越され』、神々と英雄のものである原初的な高みへといかにして人間が回帰していくかを例証している。それによれば、神話の原初的出来事が儀礼を介して現前化するにつれて、演技者の内的実在は『始原の一体的情況』の中で神話的出来事と結びつくに至る。これを評して『神話的儀礼による高邁な治癒活動』であるという。外部と内部の真実は『その昔』そうであった一致状態を回復し、人間は再度その外界と結合する。回帰したものとして全体性が経験され、かくして儀礼において完成される関係は常に原初の関係に他ならない」
さらに、儀礼と時間の関係を見ていきましょう。
「儀礼には、時間を旅する人間に再保証と再確認を与えるという人類普遍の必要性が見出される。キリスト教の儀礼である聖礼典は本質的に『通過儀礼』である。それは、人間の本性と同じように遍くゆきわたり、この人間の本性を否定せぬ限り否みようのない一制度の典型―よしんばキリスト教徒にとっては別格の典型であるとしても―である。いいかえるなら、私的な自己に施された公的な確証であり、個人とその環境の変化、発展しつつある関係パターンに見られる大切な段階の区切りである」
さらに著者は、儀礼の効果について以下のように述べています。
「儀礼の効果はその開放性と率直さに依存し、まさに治癒的効果を有するコミュニオンとしての儀礼的本質にのっとっている。生成発展途上にある境界指標への到達は明示されねばならず、しかも公的に刻印されなければならない」
著者は「儀礼とは人間の聖性の表現に他ならない」と喝破し、以下のように述べます。
「われわれは儀礼の中で本来の自己確認、人間の意味と真実を再発見し、われわれに呼びかける聖なる他者、切望の的である未知なる存在、非-自然的存在に対してそれら再発見したものを委ねるのである。この運動は応答において外向的、発見と一体化において内向的である。すなわち、自分が何者であるかをさらに深く掘りさげるとともに、自分ではない存在に向けていっそう遠くに到達せんとするのである。遠くに手を差し延べることによって、われわれは自己の内部へと浸透し、自己の存在と和解するに至る。自然に即応した儀礼、あるいは時の経過に即して行なわれる―生の本質である隔たりと差異が認識されることになる―通過儀礼、人間本来の在り方の中で自己を再発見する猶予を与え、人間とは何かを教えてくれる儀礼、こうした儀礼の力によって、われわれが、相互に授与しあい他者の呼びかけに応答する処分自由の存在であることが明らかになる。こうして公示された真実は、現実的であると同時に、人間にとって体験可能な真実へと変化する。意味を儀礼の中で行為化することは、意味の聖性を生に付与し、生きた肉体の中にその意味を具体化し、それを永遠化することである」
そして第三章の最後で、著者は以下のように述べています。
「われわれは儀礼において、未知で支配しえぬものに献身する。生きてゆくためにはかくも帰依しなければならぬとする認識の上に、他者なるもの、非妥協的存在、聖なるものへと顔を向ける。儀礼は献身の象徴である。儀礼を合理化しようとしたり、その象徴的現実以外の現実性を与えてみたりすることは不可能である。もし、そのような聖なるものへの侵犯を企てるなら、儀礼はもはや儀礼ではない。それは未知なるものへの帰依ではなく、自己を遮蔽するもう1つの手段、自己崇拝のもう1つの印へと転化してしまう。儀礼においては、その分離性ゆえに価値を付与された個々の登場人物の自己確認が、象徴的に世界の確認を表わしている。人間が実存の裂け目を越えて応答する他者、敵対的でありながら人間を引き寄せようとする他者を象徴するにあたって、身体と精神、人と人との結合からなる儀礼以上にふさわしい象徴がありえようか」
第四章「儀礼と空間」の1「真実の場」では、著者は以下のように芸術に言及します。
「レッシングによれば、芸術は『ここにないものを現にあるものと思わせ、また、仮象を現実と感じさせる。それは錯覚を起こさせるのであるが、この錯覚は心地よいものである』。とはいえ、芸術は欺瞞にみちたものではない。それは、現在の経験と、想像、想起、想定された経験という2つの現実の隔たりを測定し、後者の現実に前者の特性を浸透させようという公正な企てである。両者のうち、時間に拘束され日常の論理法則にしたがっているのは前者だけであって、これに対する後者はそれが本来もつ力に応じて自由と豊饒性をもって前者を感化する。共有化された想像力、共有された希望と目的、あるいは契約関係といったものに潜在する力はまことに巨大である。宗教的儀礼にみられる『芸術的仮象』とは、『精神と真実において』『ここにない』ものを『現にある』ものに変えながら人間の還元的論理の障壁を打破していく最高位の現実を象徴するものに他ならない。芸術的な仕組みの利用によって、儀礼の象徴する現実の一部であり、限定と工夫の加えられた実存が公正な形で表現を与えられる」
第四章の3「実存の舞台」では、再び神話の問題が取り上げられます。
著者は、神話と儀礼について以下のように述べています。
「神話も、また、儀礼も神的存在との出会いから生じ、絶対的他者に対する原初の応答の言葉を表現したものである。かくして『儀礼(すなわち儀礼行為と神話)は様々な行為の中の単なるひとつの型ではない。それは、此岸の世界での人間の表現と了解を意味する原初の言葉に結びつくかぎり、また、その表現と了解が本来そのままにして宗教的である程度に応じて典型的な人間行為なのだ』。儀礼行為は、神話に対して優位を占める。それは、儀礼の根源的意味を伝達し内包する象徴が形成されるのは儀礼行為によってのみ可能だという意味においてである。ボイヤーによれば、神話という装飾の働きは、儀礼から生ずる聖なるものの知覚―儀礼によって明らかにされた聖なる現存とその力の認知―を宗教の哲学的枠組の中に固定させるところにある。それは儀礼行為に座標軸を与えるといってもよい。神話なくしては、儀礼はすぐさま呪術に堕してしまう」
ここで、「神話なき儀礼は呪術にすぎない」という指摘は重要であると思います。
著者によれば、神話によって時間の内部にある生特有の状況が顕わにされるのです。換言すれば、時間を超越したところに歴史的枠組が与えられるのです。神話という衣装を身につけた儀礼は、生成しつつあるものとして表現されてゆきます。それは、時間が理解することのできる―人間に了解可能な―永遠についての言語です。
著者は、神話と儀礼について以下のように述べています。
「神話と儀礼行為、想像力と演技、精神と身体といった組合せは儀礼全体を通じて対の関係にある。そもそも儀礼とは、1つの物語でありながら複数の演技者でもあり、1つの意図でありながら複数の身体でもある。儀礼に生命を与えるのが両者のいずれであるかといえば、それは両者である。神話と行為は相互に関係しあいながら儀礼にそれ固有の生命と特徴を付与してゆく」
さらに、神話について以下のように述べられています。
「神話はそれ自体の中から創造物を生み落す想像力もつという意味で、一般に儀礼行為に対する優位が与えられている。G・S・カークが示したように、たとえ神話が世界の無意味と人間の不条理についての物語でしかない場合でさえ、儀礼が神話を伴わざるをえないのに対して必ずしも神話は儀礼を必要としていない」
第四章の5「儀礼と信仰」には、以下のように書かれています。
「人間は儀礼の中で故郷に帰り、原初の豊穣と充足の中に舞い戻ることになるのだが、その故郷がまさに実存性に満ちた故郷であるがゆえに再び放浪の旅に発つときには、精神、肉体、魂にわたって活性化と更新を施されているのである」
最後に、著者は以下のように述べるのでした。
「永遠性と時間性、此岸と彼岸、近接と遠方、不可能と可能、直接的情況の現実との究極的実在(無限の唯一存在)、―そのいずれにも儀礼は属している。勿論、儀礼の狙いが、これらの項目を紛糾させることにではなく揺ぎないものにすることにある、という事実を忘れてはならない。此岸はいっそう此岸たるべくされ、現在はさらに現在性を強化されるのである。儀礼とは収斂する過程であって分散する過程ではない。それは、天上と地上の全事象、ありとあるものが収束する真の瞬間である。これこそが儀礼本来の姿に他ならない。すなわち、それは、深く実在的な意味での『一体化の秘蹟』である。この事実は祭儀を伴ういかなる文化、いかなる宗教にも当てはまる」
本書は常日頃から「儀礼とは何か」を考え続けているわたしにとって、儀礼についての定義をふんだんに示してくれる、とても贅沢な内容でした。何度も読み返したい名著ですが、現在は絶版になっていることが残念でなりません。復刻を切に望みます。