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2016.07.14
『日本再発見』岡本太郎著(角川ソフィア文庫)を読みました。「芸術風土記」のサブタイトルがついて居ます。1958年9月に新潮社から刊行された本ですが、2015年7月に角川ソフィア文庫入りしました。岡本太郎自身が各地で撮影した写真図版、約170点が完全収録されています。
文庫カバーの裏には、以下のような内容紹介があります。
「『逞しく人間が息をし、生活する場所には、どこでも第一級の芸術があり得る。』戦後、縄文との鮮烈な出会いを果たした太郎は、同時代の日本を歩く旅を思い立つ。多忙な制作の合間に訪れる、秋田、岩手、京都、大阪、出雲、四国、長崎。各地で目のあたりにする人や風土は、失われた原始日本をしのばせると同時に、伝統と近代にひき裂かれた現代日本の矛盾を鋭く突きつけるものだった。著者撮影の写真を完全収録。解説・赤坂憲雄」
本書の「目次」は以下のようになっています。
「秋田」
「長崎」
「京都」
「出雲」
「岩手」
「大阪」
「四国」
「日本文化の風土」
「あとがき」
「解説」赤坂憲雄
最初の「秋田」には、以下のように書かれています。
「雪の壁は深く、ここには別の時間が流れているようだ。私の主張する芸術と、いったいどういう関係があるか、―いささか絶望的な気がしないではなかった。
だが私はこのような、いわばとり残されたところに、古くから永遠にひきつがれて来た人間の生命の感動が、まだなまのまま生き働いているのではないかと思った。たとえば『なまはげ』の行事などに。アヴァンギャルド芸術というのは中途半端なモダニズムとはまったく別ものだ。もっとも現在的な、未来に投げかけられた課題と、人間の根源的なものとの対立を正しく掴まえ、その対極を徹底的にぶつけ合せるところに芸術が生れると考える私は、心に期するところがあった。『なまはげ』の本場は男鹿半島である。東北地方いったいに、こういう特異な風習があったのかどうか、今はわからない。痕跡は能登にも津軽にも、その他方々に残っているらしいが、しかしここほど色濃く古い儀式の様を伝えているところはない」
続けて、著者は「なまはげ」について以下のように述べます。
「『なまはげ』は年越しの晩に行われる。(近年、男鹿市では新暦の大晦日に統一された)
深夜、見るから恐ろしい面をかぶり、藁(あるいは海草)のケラ、腰ミノ、ハバキ(脛当)、テウェ(手甲)で擬装した若者たちが、カショケ(手桶)とギラギラする銀紙ばりの大庖丁や刀をふりかざして、白雪の中をウォーウォーと吠えながら、家の中になだれ込んでくる」
著者は「なまはげ」を子どもが大人になるためのイニシエーションと見て、次のように述べています。
「獅子舞などはそもそもの形からすっかり変って来ているのだろうが、いずれにしてもこれらのすべてが子供をおどかすということにおいて共通しているのは興味ぶかい。
何のために?
簡単にいってしまえば、大人の社会に仲間入りさせるためのエデュケーションである、と同時にその儀式でもあると考えたい」
著者はイニシエーションとしての「成年式」について述べます。
「かつての軍隊や、学生の寮生活の、残酷な初年兵・新入生いじめなどこれに通じるところがあるが、成人式は神秘的な原始宗教のおもみのもとに行われる秘儀であるだけに、遥かに深く人間的である。
成年式は死の霊との対決が強い。実際に怖しいマスクをつけた妖怪があらわれて、食っちゃうという象徴は、多くの原始社会に認められる。子供はそこで一度死に、新しく大人として、社会の成員として再生するのである」
「京都」では、安土・桃山時代から慶長・元禄にかけて、日本が大変な革命期であったことが指摘されます。貴族的権威にかわって、田舎武士、百姓、町人、新しい階級が勃興し、ぐんぐん力を自覚してくるとして、著者は以下のように述べます。
「革命期というのはリアリズムとロマンティスムがあやしくからみあう時代だが、そういうときこそ、世には大きなイマジネーションがわきおこる。あらゆる革命はまたイマジネーションの産物だ。余談だが、今の日本で革命なんていってる連中がてんでダメなのは、彼らにイマジネーションがまったく貧困、というよりも皆無に近いからだ、と私は思っている」
「出雲」では、荘重な出雲大社の構成美に感動した著者は以下のように述べます。
「日本の過去の建築物で、これほど私をひきつけたものはなかった。この野蛮な凄み、迫力。―恐らく日本建築美の最高の表現であろう。
ふと、私は積木の美しさを思いだした。この建築は本来釘とかその他の接着剤を1つも使わないで出来上ったもの。素材自体が鞏固に噛みあって、空間に抱きあい、動かし難い力学的な美を現出する。そして久しい歴史の暗やみから、建築の根源的な感動を今ここに伝えて来ているのだ」
「岩手」では、脈々とつながってきた東北の自然と文化の中に「オシラさま」信仰に代表されるような馬と人間の関係性に注目し、著者は以下のように述べます。
「馬はシャーマニズムとも深い関係がある。これは全アジア的な現象であるが、わが国でも明らかにこの動物は宗教的神秘に結びついていた。
御神体が馬だったり、或は神が馬に乗ってくるという伝説は極めて多い。雨乞いにも馬が使われた。馬の首を切って神に捧げた、いけにえの神事が、首なし馬の伝説になって残っている所もすくなくない。すべてシャーマニズムの痕跡である」
続けて、著者は馬について以下のように述べます。
「後世は生きた馬を奉納して神馬とした。やがて木像、石像になり、ついに板きれ1枚の絵馬となった。更にその絵づらからも姿は消え失せて、絵馬の名だけ残る。それでも霊界、神の国と交通するかつての役割は、かすかに保っているわけだ。
シャーマニズムでは、馬は人間を死の国に運び、またつれもどしてくる。シベリアのバイカル湖付近に住むブーリアット族では、これは8本足の馬である。凄みのあるイメージだ。
しかし一方、私は馬の現実的ないのちにひかれる。
ニイチェが晩年、往来で荷車を引っぱってくる駄馬に、突然抱きついて、その生命力を讃え、ぼうだと涙を流した。彼は既に発狂していたのだ。―心をかきみだす、悲劇的なエピソードだ」
また著者は、縄文文化と弥生文化について、以下のようなきわめてユニークな見方を示しています。
「縄文文化は馬的だ。それが全面的に栄えていた原始日本へ、大陸、あるいは南方から、稲作農耕文化が流れこんで来た。弥生時代。この方は牛の文化だ。
段階からいえば確かに高い。ここには富の蓄積があり、また労働力の必要からの繁殖、領土の拡張、植民がある。田を耕しながら次第に東進し、その勢力がひろがり、やがてそのセンターが大和に定まる。経済力は驚異的に拡大され、この高度な土台の上に最も強力な首長が中央集権的な権力を握り天皇家となってわが国の運命の方向を定めた」
著者は、この画期的な文化論をさらに進めます。
「狩猟民は小単位の部族がそれぞれに孤立して統一がなく、共同防衛するだけの国家意識、民族結束の態勢がなかったから、フロンティア時代のアメリカインディアンのように、各個撃破されて行った。そして馬の文化は、とことんまで牛の文化に制圧されてしまうのだ。その宿命を象徴しているのが平泉だ」
そして著者は、馬と牛の文化について以下のように述べるのでした。
「馬と牛のインネンは、しかしここで終らない。なお日本史を動かして行く。
馬をただ生活のために乗りこなしていたエゾは、ながい中央との戦いによって、それを巨大な軍隊の組織の上に使うことを覚えはじめた。それに必要な、大規模な牧畜もはじまる。
馬の文化は一たび牛に屈服し、否定された後に、ようやく次元を新たにして再び猛然と生きかえってくるのだ。地方武士の勃興。この、古代貴族の荘園制をくつがえす革命、新しい階級の力、封建制の芽ばえは、まさに馬の上に成り立った。
源氏のヒーロー義経が、藤原秀衡のうしろだてで、みちのく産の駿馬の足なみを揃え、なだれをうって、西国、牛の文化に襲いかかった。
明らかに、馬と牛の決戦だ」
「四国」では、著者は俗に「気違い踊り」とか「阿呆おどり」とも呼ばれる「阿波おどり」について以下のように述べています。
「原始宗教には、たとえば『黒い魔術』の行事のように、見るものと隔絶し、自分だけで熱狂的に踊りくるい、入神してしまう秘儀がある。だが実はここにも、神性に己を捧げ、それに見られているという初動的な意識がある。
阿波おどりは日本のマンボなどといわれている。先年のブーム以来、大分影響を受けたとも聞いた。私など大いにマンボ礼讃をやって、流行をケシカケたものだが。
たしかにそういえば日本の他の踊りにくらべて、そんな気分があり、またまさにそっくりな踊り方をしているのもある。
しかし男女が肉体的にいどむようなエロティスムはここにはない。一しょに踊っていながら、男は男、女は女、とさっぱりして、わき目もふらない。日本的性道徳のあらわれだろうか」
また「四国」では、人形師、大江巳之助をたずね、人形の顔に「霊魂そのものの凄み」を感じた著者は、以下のように述べています。
「私は能面の迫力はその死相にあると思っている。しかしマスクは人間がそれをかぶってはじめて生きる、魂が入るものであり、何といっても肉体的部分の役割にすぎない。そのような効用において技術的に計算され、作られたものである。従ってはじめっから生身の人間を前提とし、それに対して1つの観念的な、象徴的な役割を果す。
しかし人形はちがう。それはいわば人間とは関係ない、人間を超えたものである。存在としてのふしぎな神秘感。―全体が死んでいる。まったく反応を示さない。つまり”物”である。しかしだからこそそれは逆になまなましく生きているのだ」
続けて、著者は人形というものの本質について述べます。
「われわれが人形を眺めていて、ふっと戦慄させられるのは、その死影の裏側の生命の不可思議。死と生の交錯。
人形は人間文化のはじめからあった。石器時代の石像や土偶を見たらわかる。人間が人間であること、その生命を意識しはじめる。生きることの歓びと死ぬことの怖しさ、いや生きることの怖しさと死ぬことの歓びといった方が正しいかもしれない。それがつまり芸術そのものなのだが―その感動の初めから、人間とともに、分身として、また神格として、また呪術的な役割をもって人形は存在した。
最初の人形劇は宗教劇だったに違いない。やがて人形も人形劇も芸術に昇華されるのだが。・・・」
「解説」では、学習院大学教授の赤坂憲雄氏が以下のように書いています。
「太郎は宮本や、柳田国男や折口信夫など、民俗学者の著作をそれなりに読んでいたが、同時に、パリ時代にマルセル・モースから学んだ社会学=民族学の素養も豊かに持っていたのである。太郎の紀行には、注はひとつもなく、参照した文献が明示されることもなかった。それはまるで学術論文とは異なる、あくまで紀行エッセイだった。むろん、太郎自身がそれを望んだのである。しかし、『日本再発見』の秋田紀行など、あきらかに欧文原書で読んだはずのミルチャ・エリアーデの『シャーマニズム』の影が、いたるところに射している。少なくとも、同時代に、太郎のように、秘密結社やシャーマニズムの問題としてナマハゲについて論じた者はいない。太郎の日本紀行には、まさしく民族学者の眼差しが息づいていたのである」