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No.1403 宗教・精神世界 『もうひとつの「空海の風景」』 篠原令著(阿部出版)
2017.03.20
『もうひとつの「空海の風景」』篠原令著(阿部出版)を読みました。
「誤解された日本人の無常観」というサブタイトルがついています。
著者は中国の4大地方語をはじめ、アジアの4カ国語を自由に操るフリージャーナリストで、アジア各国の仏教界の指導者に知己が多かった人物です。2015年11月6日に逝去。享年65歳でした。
本書の帯
本書の帯には「アジアの視点から日本を斬る」と大書され、続いて以下のように書かれています。
「パレスチナ問題や、9・11に象徴される文明の衝突は、それぞれの宗教が他を認めない一神教であることに問題がある。これらの宗教では永遠に世界平和は訪れないであろう。今、仏教のような排他的でない姿勢が、世界平和のために必要である。しかし、アジアの仏教国の視点から日本を見ると、日本は極めて異質な国に見える。無神論を決め込んでいても宗教戦争は否応なく向こうからやってくる。仏教を文化として理解するだけでなく、仏教の本質は信仰の中にこそ存在することをもっと我々は知るべきである」
本書のカバー表紙には、以下のように書かれています。
「司馬遼太郎『空海の風景』を超える、新たな空海論。すべては『空』と『無』の混同から始まった。空海は、尊大な政治的人物ではなかった。真実の空海を通して、仏教の世界観・宇宙観を解き明かし、日本人の宗教観・生き方の本質に迫る」
また、カバー裏表紙には以下ように書かれています。
「俗説に振り回される日本仏教の悲劇。般若心経の『空』とは、何もないこと、むなしいことではない。密教とは、宇宙の真理を解き明かす教えである。霊魂の否定、輪廻転生の否定から現代社会の様々なひずみが生じた。霊魂の存在を肯定し、輪廻転生を信じることから、新しい世界観が開ける」
本書の「目次」は以下のようになっています。
「日本仏教界について」
「『空』について」
「『輪廻転生』について」
「出逢い」
「霊魂の否定」
「空海の性格」
「三教指帰」
「理趣経とは」
「求聞持法」
「大日如来」
「恵果阿闍梨」
「不空伝説」
「般若心経と空」
「嵯峨天皇」
「即身成仏」
「入定」
「死後の世界」
「神秘世界と宇宙」
「あとがき」
「日本仏教界について」では、著者が元日経連会長の永野健氏を北京に招いて中国仏教教会の会長に紹介したときのエピソードが紹介されています。永野氏から「中国のお坊さんはどうやって葬式をしているんだ?」と尋ねられた著者は、「中国のお坊さんは葬式はしません。結婚式も法事もしません」と答えました。「では、どうやって葬式をするんだ?」と再び尋ねられた著者は、「中国でも韓国でもお寺は葬式をやりません。お寺には墓地もありません。中国の葬式は一般には追悼会か、田舎では儒教や道教の儀式に則ってやります。韓国でもキリスト教徒であれ、仏教徒であれ、死んだときには一族が集まって儒教でやります。お墓はお寺にではなく、一族の墓地に作ります。お寺が葬式をやるというのは日本だけの特殊な習慣です」と答えたそうです。
日本の仏教について、著者は以下のように述べています。
「日本では江戸時代になって檀家制度というのが設けられ、宗門人別帳という一種の戸籍によってすべての人々が管理された。仏教各派の寺院は葬式や法事を通じて、檀家の管理監督を請け負わされた。この制度によって、本来なら墓とは無縁なはずの禅宗各派までが墓守をやらされ、幕藩体制下に組み込まれた。日本の仏教は葬式仏教に成り下がってしまったのである。同時に、妻帯も許され、寺は世襲されることになった。仏教の僧侶は本来、多くの人の幸せを願い、世俗の欲を離れて出家するからこそ人々の尊敬を集め、お布施や寄進によってその立場が保護されてきた。ところが寺という財産を世襲し、駐車場や幼稚園を経営して金儲けに励むというのでは俗人とどこに違いがあるのか」
わたしは、いま、『般若心経 自由訳』(現代書林)を書いています。 その参考に本書を読んだのですが、「般若心経」の思想の核心は「空」の一字に集約されます。「『空』について」で、著者は以下のように述べます。
「ホーキング博士によれば宇宙は三次元の世界に時間を加えた四次元の世界にさらに7次元の世界を加えた世界だという。この十一次元の世界から見たとき、四次元の世界は単なる膜のようなものでしかない。その膜の中から自由に外に飛び出しているのは『重力』だけだというのである。この『重力』は瞬時にしてどこへでも移動することができる。 私はこれを聞いていてさすがだと思った。この『重力』というのはただ単にホーキング博士がそう名付けただけで、私なら『霊体』と呼ぶだろう。時間も空間も超えて活動可能なあるもの、それは『霊体』に他ならない。そしてその膜のような四次元の世界の外に広がる広大な宇宙空間、それこそ正に般若心経に出てくる『空』の世界なのである。膜は『色』に他ならない」
続いて、著者は空海に言及し、以下のように述べます。
「空海の著作、『秘蔵宝鑰』『十住心論』は『般若心経』の『空』について巧みな比喩で説明している。まずひとつは『水波の不離』の理論である。この比喩によると海面の波が『色』であり、海中の海水が『空』である。『色』は人間が住んでいる四次元の世界である。密教用語では『現実仮相界』という。ホーキング博士の理論では『膜』になる。『空』は『色』と表裏一体の世界だが人間には特別な場合を除いて見ることができない、密教用語では『神秘実相界』という。波の表面を離れて海中に潜ってみないと分からない世界である。ホーキング博士の理論でいうところの宇宙そのものである」
わたしはかつて、『超訳 空海の言葉』(KKベストセラーズ)を監修しましたが、空海の「空」の解釈こそ正しいと思っています。日本人で最も「般若心経」のメッセージを理解した人物こそ空海ではないでしょうか。海面の波が「色」であり、海中の海水が「空」であるという比喩も素晴らしいと思います。わたしはずっと「空海」という法名を「SKY&SEA」の意味だったと思っていたのですが、じつはそうではなく、「空(くう)=海」という意味だったのかもしれないと思うようになりました。
著者は、空海の思想について以下のように述べています。
「人は『海を見る』と言いながら、実は『海』を見ているのではなく『海』の表面に表れている現象としての『波』を見ているにすぎない。しかし『波』はそれ自体として独自に存在しているわけではない。『波』の本体は『海』であり『海』あっての『波』であることは言うまでもない。『海』が(実体)であり『波』はそのはたらき(作用)である。 『色』と『空』も全く同様である。『空』という実相世界のはたらきとして表面に表れたのが『色』という仮相世界なのである。『色』も『空』も存在しているが、その存在のあり方、立場は『波』と『海』のように異なるのだということがわからないと、宮坂氏のように『色』も『空』も同次元で論じたり、『空』は『無』だと言ってみたりするのである。また『色』は人間界であり『空』は霊界であることはいうまでもない」
ここに出てくる宮坂氏というのは、仏教学者の宮坂宥勝氏のことです。著者は、宮坂をはじめ、多くの仏教学者は「水波の不離」という空海からの重大ヒントを見過ごしてきたと批判するのです。また、「『色』は人間界であり『空』は霊界であることはいうまでもない」という一文を読んで、わたしは雲海を連想しました。作家の芹沢光治良が「雲海とは霊界である」といったようなことを書いていたことも思い出しました。天理教を信仰し、『神の微笑』にはじまる一連の「神」シリーズを書いた人ですね。
海のような雲海を見て、「空」についての直観を得る
わたしのブログ記事『沖縄へ!』で紹介したように、昨年の12月15日、わたしは羽田から那覇へ向かう飛行機の中で、本書の続編『「般若心経」の真実』を読んでいました。「空」について考えを巡らせながら、ふと窓の外を見ると、そこにはまさに海のような雲海が広がっていました。わたしは「そうだ、空とは海で、色とは波のことなのだ!」という直観を得ました。そして、「空海」という法名を持った日本宗教史上最大の巨人の天才性を改めて痛感しました。
著者は、「水波の不離」について以下のように詳しく説明します。
「『波』というものは『諸行無常』である。常に動いているが好き勝手に動いているのかというとそうではなく、因縁によって動いている。海、地球の自転、月や太陽の引力、風の影響、地震等を起因として変化する。これは人の一生と同じである。釈迦は人の一生に影響を与える十二因縁というものを説いた。『波』が独自に『波』本体として存在していないことは言うまでもない。人も霊体という生命の本体に支えられて仮の世を生きているのである。それ故に波も人も『仮相』というのである。同じように『色』も『仮相』であり、その本体は『空』ということになる」
さらに、著者は「水波の不離」について以下のように述べます。
「『自性がない』ことと『実体がない』ことは明らかに異なる。『波』の背後には『海』があるように『色』の背後には『空』がある。人の背後には霊体があるのはもちろんである。『海』の中には海藻もあれば魚もいるように『空』の中にも様々なものが存在していることは自明である。ホーキング博士は宇宙論の立場からこの事を次のように説明している。宇宙に存在する物質のうち、人類が認識している物質はわずか1%、残りのうち29%は暗黒物質と呼ばれ、70%は真空物質と呼ばれている。つまり宇宙に実在する物質のうち人類はまだそのほんの1%を解明しているにすぎない」
著者は、般若心経は「海」そのものについても言及しているとして、以下のように述べています。
「すなわち『空』は『不生不滅、不垢不浄、不増不減』であるというのだ。『海』を考えてみるとよくわかる。『海』には太古以来、生滅がなく(不生不滅)、清い流れも濁った河も共に流入し(不垢不浄)、また、すべての川が流れ入っても、海面が蒸発してもその絶対量に変化はない(不増不減)。これは2500年前の釈迦の教えだが、これをそのまま宇宙論としてみてもよい」
「『輪廻転生』について」でも、著者は「空」の本質について述べています。
「『色』と『空』、すなわち人間界と霊界の関係を説明している。霊体が人間界と霊界を行ったり来たりしていくこと、人間の立場からみれば、死んで霊界に戻り、また人間界に生まれかわってくる動き、これを輪廻転生という。その輪廻転生がどのようなものであるかということを、巧みな比喩で表したのが『金荘の不異』である。 金の塊をひとつの霊体としてみたとき、それがある時はブレスレットに、あるときはネックレスになりながら人間界に様々な姿で表れることを輪廻転生の比喩に用いたのである」
人間は、なぜ輪廻転生を繰り返さなければならないのか。 その理由について、著者は「輪廻転生と人間各人の使命というものが大事な関係にある」とした上で、以下のように述べています。
「信じるか信じないかはともかく、人がこの世に生まれてくるのはひとつの使命を持って生まれてくるのだと仮定してもらいたい。古来、歴史に名を残したような人物は皆、何かしらの使命を帯びてこの世に生まれてきたといわれている。坂本龍馬などその最たるものだろう。使命を終えた途端にあの世へ帰っている」
著者は、誰もが使命を持ってこの世に生まれてきますが、その為すべきことを知らないまま一生を過ごしてしまうことが多いといいます。そうすると、もう一度生まれ変わって来る必要があります。
その使命を知っているのは、人間界に送り込んだ神あるいは仏のみであるとして、著者は以下のように述べます。
「このことを比喩を用いて説明すると、親が子どもにある用事を言いつけて使いに出した。子どもはその使い自体がどれだけ重要なことであるのか分からない。途中でいたずらをして目的地まで行かなかったとか、お腹が痛くなったから行けなかったとか、お小遣いを無くしてしまったので行けなかったとか、帰ってくるとこのような言い訳をするものである。これを神仏と人に置き換えて考えてみると輪廻転生の意義が分かり易い。神仏としては、人間界に転生させてひとつの使命を与えた人間が、その使命を果たさずに帰ってきた場合、しかたがないからもう一度行ってこい、今度は寄り道をするのではないぞと言ってまた送り出すのである」
「出逢い」では、この読書館でも紹介した司馬遼太郎の小説『空海の風景』が登場します。わたしは『空海の風景』を司馬遼太郎の最高傑作だと考えていたのですが、本書の著者である篠原令の考えはまったく違います。以下のように書いています。
「司馬遼太郎も文化人の例に漏れず無神論者であった。それも強烈な。霊魂の存在も堂々と否定している。『空海の風景』は空海という一個の人間を思うままに描いたまでで、密教の解説書でもなければ研究書でもないのだからとやかく言われる筋合いはないと作者からは怒られるかもしれないが、『空海の風景』には作者が一所懸命、密教なり空海を理解しようとした努力のあとが随所に見られるだけに惜しい気がする。密教のことも、空海のことも根本的に理解できていないがために陳腐な想像力の羅列に終始してしまったのである」
「霊魂の否定」では、因縁説こそが仏教の根幹思想であるとして、著者は以下のように述べています。
「釈迦仏教の根幹ともいえる因縁説は輪廻転生を抜きにしたのでは成り立たない。因縁とは『一切の法は因と縁を離れては存在しない』ということで、釈迦の『悟り』の基本である。釈迦は感受性の強い青年時代、『無常』ということを強く感じて『人は何故生まれ、何故老い、何故病み、何故死ぬのか、何故常に同じ相(すがた)でいないのだろうか』と苦悶した結果、この真理探究のため出家して苦修錬行の末、『生老病死』は『因縁』によって生ずる現象であると悟った」
司馬遼太郎に『人間について』(中公文庫)という対談集の中で、「お釈迦さんは、唯物論者であって、霊魂の否定者でした。死んだらゼロになる。ドライなんです」と語っています。これについて、篠原令は次のように述べます。
「司馬遼太郎はここで大変な誤解をしている。仏教の『空』を『ゼロ』というふうに理解しているからである。『空』とは言うまでもなく『般若心経』の中に頻繁に出てくる『色即是空 空即是色』などの『空』である。古来多くの学者や宗教家がこの『空』を様々に解釈している」
著者によれば、司馬遼太郎は「空」を「ゼロ」と解釈してしまったがために、「ゼロ」イコール「何もない」ということで霊魂の存在も否定し、仏教の根本思想まで否定してしまったのです。
続けて、著者は以下のように述べています。
「岩波新書の名著のひとつに吉田洋一著『ゼロの発見』という本がある。密教はインド哲学と関係があると考えた司馬遼太郎はインドで生まれた数学の『ゼロの概念』と仏教の『空』とをどこかで混同してしまったようだが、数学史のうえで『ゼロの概念』が発見されたのは紀元7世紀頃のことで、釈迦の時代はそれより1100年ほど前である」
0としての「無」、永遠としての「空」
拙著『永遠葬―想いは続く』(現代書林)で、わたしは「0も∞も古代インド人が発明した」と書きました。もともと、「0」とは古代インドで生まれた概念です。古代インドでは「∞」という概念も生み出しました。この「∞」こそは「無限」であり「永遠」です。紀元前400年から西暦200年頃にかけてのインド数学では、厖大な数の概念を扱っていたジャイナ教の学者たちが早くから無限に関心を持ちました。無限には、一方向の無限、二方向の無限、平面の無限、あらゆる方向の無限、永遠に無限の五種類があるとしました。これにより、ジャイナ教徒の数学者は現在でいうところの集合論や超限数の概念を研究していたのです。
著者は、司馬遼太郎について以下のように述べています。
「司馬遼太郎は文化人といわれる人の多くがそうであるように、無神論者であることも得々と語っている。『司馬遼太郎の日本史探訪』(角川文庫)の中で海音寺潮五郎と意気投合し、南蛮人が比叡山を焼き討ちした織田信長の無神論に驚いているのをみて『無神論が、西洋よりはるかに先んじて信長によって日本に出現している。その点からいっても、まあ、叡山の坊さんには気の毒ですけれど、信長は我々の誇るべき人物ですね』と述べている。無神論者であることを誇りに思うという感覚は霊魂を否定する信念と共通している。司馬遼太郎はこれをあたかもコモンセンスのようにして読者の共感を得ようとしている。『空海の風景』にはそうした傲慢さがあちこちに感じられる」
わたしは「空海」という法名について、「空(くう)=海」という意味だったのかもしれないと先述しましたが、「求聞持法」の最後に著者は述べています。
「空海という法名は、この室戸岬の洞窟からの風景にちなんで名付けられたともいわれている。大空と水平線以外何も見えない洞窟からの風景である。もうひとつは、所謂、般若心経の『空』を『海』という比喩をもって説明しているというものである。『十住心論』や『秘蔵宝鑰』の中で『水波の不離』として説明されているが、神秘実相界を現している。いずれにしても天と地が、宇宙と自己が一体になった経験をした空海にとって、この命名はなによりもふさわしいということができるだろう」
「大日如来」では、著者は仏像について以下のように述べます。
「仏像というのは、実相世界における如来や菩薩たちの姿である。誰かが勝手に考え出したものではない。様々な印はそれぞれの境地を現している。仏画、仏像というものは仏師が自らの感応をもとにして制作するのが本来の姿である。どこかのお手本をもとにして作るのではない。昔の仏師たちは神仏と感応道交する術を知っていたのである」
「般若心経と空」では、著者は問題の核心に迫ります。
「末法思想にういては詮無きこととしても仏教そのものが、無常観や厭世観に支配されてしまったのは、やはり般若心経の『空』の解釈によるところが大きいと思われる。仏教の無常観、厭世観は西行や平家物語を通じて現代にまで影響を及ぼしている。般若経は『無の哲学』であるとか、仏教は『虚無的な諦念の教え』だといった間違った解釈が特に知識人の間には蔓延している。司馬遼太郎は『空海の風景』を執筆する前から、『空』は『ゼロ』であるという概念にとりつかれていた。『ゼロ』とは『無』である。したがって霊魂の存在も、輪廻転生も認めなかった。そのような立場から『空』を解説しようとして支離滅裂な理論を展開している」
著者は、「般若心経」について以下のように述べています。
「般若心経は現実仮相界と神秘実相界の両方にまたがって真理が説かれている。現実仮相界は色とか五蘊という言葉であらわされているのに対して、神秘実相界は”空”という言葉であらわされている。『空即是色』の段では空と色が同一のごとくに説いている。ところが次の『空中無色』の段では空の側からみて空の中に色はないと説いている。そして空の中には現実仮相界のものは何もないと説いたために、『空』イコール『無』または『ゼロ』と誤解されてしまったのである。空の中には実は『有』がたくさんある。しかし般若心経では『空中有?』の『?』については何も説いていない。わずか262文字の中でそこまでは説けなかったのかもしれない」
著者は「『空』について」と「求聞持法」のところで紹介した空海の「水波の不離」の解釈を繰り返します。 「五蘊(人間)は海面の波にたとえられる。風や月の引力の影響を受け、波どうしでも影響しあう。自性がなく、仮相である。”空”は海そのものである。不生不滅、不垢不浄、不増不減で永遠に存在している。海と波とは表裏一体であるが、これは人間界(現実仮相界)と霊界(神秘実相界)が表裏一体なのと同じである」 また、「空」の誤った解釈について、著者は以下のように述べます。
「西行法師をはじめ、古今、新古今の和歌集の中には無常を題材としたものが非常に多い。それらがすべて般若心経の『空』を『空しい』と解釈してしまったところから始まったのか、それとも日本人はもともと『無常』が好きで、その感性に合わせて般若心経を解釈したのか、日本人の美意識の根幹にも通じる問題かもしれない」
「入定」では、著者は密教について以下のように述べています。
「釈迦は仏陀(大正覚者)であったのでその教えを仏教という。釈迦仏教である。空海も仏陀であったので、系統だった教えが残されていれば、当然、空海仏教ということになる。密教というのは『神ながらの道』を発展させていえば『神自らの教え』ということになる。密教というのは巷間、理解されているような加持祈禱が主でもなければ、目的でもなく、大宇宙の真理を人間以外の力によって極めようとする深遠な教えである」
続けて、著者は以下のように密教について述べます。
「宗教の始めの芽生えはすべて密教である。キリスト教にしろ、釈迦仏教にしろ、日本の古神道にしろ、皆、元は密教である。ヨガにしてもバラモンにしてもすべて密教の流れを汲んでいる。密教とは秘密の教えという意味で、神と人との間における道交の現れを悟り、悟らしめる教えである。顕教との違いは、密教は神と人との直接の教えであるという点である。第三者を介さない。宗教というものは神の啓示に基づくものであるが、『神自らの教え』、『密教』は神の啓示そのものということができる」
著者は空海こそはブッダの生まれ変わりであると考えているようですが、さらに以下のように述べています。
「弘法大師が再びこの世に現れるとき、私たちは果たして救いをうける立場にいるか、不幸になる運命にあるのか、自らの行いを点検するしかない。人類の発展史が常々感じていることは、全世界の人々が輪廻転生の理を理解したなら、地球上に本当の平和が訪れるだろうということである。日本人だ、ロシア人だ、アメリカ人だという対立意識を解きほぐすには、自分はこの世では日本人だが、前世ではロシア人であった、来世ではアメリカ人になるかもしれないという意識を共有することが一番大事である」
「死後の世界」では、著者は「空」とは神秘実相界のことであり、そこには無限の宝が秘められていると繰り返します。空海は『十住心論』や『秘蔵宝鑰』の中で「金荘の不異」という比喩も用いて「空」を説明している。「金荘」とは黄金と、黄金を用いて作った装飾品のことです。
「神秘世界と宇宙」では、著者は法華経について以下のように述べます。
「法華経信徒の救いは、法華経を信ずる者は、やがて神秘世界の教えを説く密教によって救われるとの予言があることである。法華経は釈迦が初めて弟子たちに神秘世界の一端を見せたものである。釈迦の説法を聞くため、幾多の仏菩薩があるいは地の底から、あるいは天空のかなたから集まってくる。人々は神秘世界の実相を目の当たりに見て、あるいは驚愕し、あるいは歓喜した。あのような世界を目の当たりに見せられたら、いまでもほとんどの人間は、魔術か催眠術かのようにしか考えないであろう」
また、著者は人間の不安恐怖心について以下のように述べます。
「人類は太初以来、この不安定な地球の上で生活してきた。であるから人間の不安恐怖心は本能的なものだといえる。そして人類は不安恐怖心を見服するために大自然を神とあがめ、信仰心をもって安心立命を得ようとしてきた。宗教の根本は人類のこの安心立命を得ようとする心にある。宗教心というものは本来、水や空気と同じくらい人類にとって不可欠のものである」
さらに、著者はマンダラについて以下のように言及しています。
「マンダラという言葉がある。字義だけを説明すると、マンダラとは、マンダとラに分けられる。マンダとは宇宙一切、そしてラとは完結を意味する。つまり宇宙一切の実相を示し現した完結体をマンダラという。密教というとマンダラという言葉を思い浮かべる人が多いと思うが、密教とはそもそも宇宙の真理を説く教えなのである」
そして、「あとがき」の最後では、著者は以下のように述べるのでした。
「今後の宗教界の動向は、好むと好まざるとにかかわらず密教から再出発していくことになるだろう。これは密教が末法時代の唯一の正法であることを釈迦や弘法大師が予言しているからである。そして生の始めと死の終わりを、人間がどこから来てどこへ行くのかを極めたければ密教に拠るしかないのではなかろうか。恵果阿闍梨と弘法大師がさりげなく現代人に残したメッセージを再考すべきときが来ているのである」