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2017.04.05
『幸福の科学』秋谷航平著(泰文堂)を読みました。 著者は、1962年東京生まれのノンフィクション・ライターです。 大学在学中よりフリーライターとして活動。卒業後は政治から社会風俗まで幅広いジャンルで取材執筆、月刊誌や週刊誌、インターネットなど多くの媒体で発表しているそうです。
本書の帯
本書の帯には、以下のように書かれています。
「たった30年で国内信者数1100万人と謳うまでになった巨大宗教法人『幸福の科学』」「本書はその巨大宗教団体の深部と大川隆法氏の生い立ちから教団創立までを真正面から取材したルポルタージュである」
本の帯の裏
また帯の裏には、以下のように書かれています。
「国内のみならず、全世界規模で布教している『幸福の科学』。活発な出版活動や全国公開される大型映画など、宗教法人らしからぬ斬新なメディア戦略。果てには政党・学校法人まで設立する巨大教団の真の姿に迫るノンフィクション。彼らは特異な集団なのか? それとも救世主なのか?」
清水富美加さんの出家騒動が取り上げられて以来、「幸福の科学」が何かと話題になっています。じつは最近、わたしの名前をグーグル検索すると、なぜか「幸福の科学」が補助ワードで表示されます。 実情を知らない人から、わたしが「幸福の科学」の信者ではないかなどと誤解されて困惑しています。といっても、わたしと「幸福の科学」との関係を示す記事など皆無です。ただ、元・幸福の科学の信者と名乗る匿名ブロガーが、矢作直樹氏とわたしの共著である『命には続きがある』(PHP研究所)を取り上げて、「パラパラと読んでみて思ったのは、『幸福の科学』とは大差無いレベルだということ」などと毒づいているぐらいです。
せっかくの機会ですので、この際はっきり言っておきます。 わたしは、「幸福の科学」の信者でも会員でもありません。わたしが社長を務める株式会社サンレーの本社のすぐ近くに「幸福の科学」の小倉支部がありますが、一度も訪れたことがありませんし、先方から一度も勧誘を受けたこともありません。「幸福の科学」に限らず、わたしは、いかなる特定の宗教団体の信者でも会員でもないことを、ここに明言しておきます。
それにしても、なぜ誤解を招いたのでしょうか。
いつくかの理由が推測できますが、まずは昨年、宗教哲学者の島田裕巳氏との共著『葬式に迷う日本人』(三五館)を上梓したことが理由として考えられます。島田氏は「オウム真理教」との関係が深く、反対に「幸福の科学」には批判的な立場であったことで知られています。「葬儀」をテーマにした島田氏とわたしの直接対決が「オウム真理教」と「幸福の科学」の代理戦争のようにとらえられた可能性があります。
それから、幸福の科学出版から刊行されている雑誌「ザ・リバティ」の取材をわたしが何度か受けたことも理由の1つかもしれません。
でも、「ザ・リバティ」は信者や会員以外の文化人や芸能人がバンバン登場しているので、別にインタビューを受けたからといって、わたしが信者と誤解されるいわれはないのですが・・・・・・。テレビにもよく出ている有名な人たちが「ザ・リバティ」には毎号登場していますよ。
たとえば、わたしが『永遠の知的生活』(実業之日本社)で対談させていただいた上智大学名誉教授の渡部昇一先生などもよく登場されています。もちろん、渡部先生は「幸福の科学」の信者ではありません。
それと、わたしは「ザ・リバティ」の取材にしてもいつも必ず受けるわけではありません。たとえば、「死」とか「読書」とか「人間関係」をテーマとした特集では、拙著の告知をするという目的もあって、インタビューを受けました。しかし、「UFO」とか「宇宙人」に関するインタビューの依頼が来たときは、きっぱりとお断りしました。それは、わたしのテーマではないからです。
なぜ、わたしが「ザ・リバティ」の取材を受けるようになったのかというと、幸福の科学出版部に知人がいたからです。なぜ、知人がいたのかというと、その昔、わたしが「ハートピア計画」というプランニング会社を経営していた頃、第1回「大川隆法IN東京ドーム」の演出企画に関する仕事をお受けしたことがあるからです。その仕事は電通からの依頼だったように記憶していますが、亡くなられた作家の景山民夫さんとともに、当時は紀尾井町にあった「幸福の科学」の本部会議室には何度もお伺いしました。清水富美加さんの件でテレビによく出ていた「幸福の科学」グループ専務理事で広報担当の里村英一さんも当時から知っていました。
しかし、当時のわたしは日本でも唯一といってもよい「宗教プランニング」を業としていました。ですから、当時は「幸福の科学」に限らず、ありとあらゆる宗教団体や神社や寺院の関係者とお会いしていました。「法の華三法行」の福永法源氏に会ったこともあります。このときは東急エージェンシー・インターナショナルの依頼でした。結局、「法の華三法行」とは仕事をしませんでしたが、要するに、当時のわたしは宗教に強いプランナーとして広告代理店の助っ人的な立場だったのです。そのころの経験は、冠婚葬祭業という現在の仕事の役に大いに立っていることを告白します。
わたしが「幸福の科学」の信者でも会員でもないと言いましたが、だからといって、同教団にまったく関心がないわけではありません。そもそも、里村専務理事や「ザ・リバティ」の編集者の方々をはじめ、とても良い方というか、人間的に純粋な方が多いです。 それと、「幸福の科学」の創始者である大川隆法氏の著書は、最近のものこそ読んでいませんが、初期の『太陽の法』『黄金の法』『永遠の法』の三部作は興味深く読みました。わたしは、創価学会の『人間革命』、生長の家の『生命の実相』、GLAの『心の発見』など、新宗教関係の本は部分的ですがけっこう読んでいます。それらの本と比べても、大川氏の三部作は完成度が高い印象がありました。同じ頃に世間を賑わせていたオウム真理教の麻原彰晃の著書も何冊か読みましたが、「本として、あまりにもレベルが低い」と感じました。一方の大川氏の著書には「この教祖は教養があるな。かなりの読書家に違いない」と思いました。
そう、わたしは「幸福の科学」を宗教団体というよりも、教養団体、あるいは読書団体として見ていたのです。実際、「幸福の科学」の会員さんには読書家が多いです。幸福の科学出版から「教養の大陸」シリーズというのが出ているのですが、その創刊ラインナップはサミュエル・スマイルズ著『自助論 西国立志編』、R・W・エマソン著『エマソンの「偉人論」』、内村鑑三著『代表的日本人』、福澤諭吉著『学問のすすめ』の5冊で、まさに「教養ど直球!」といった感じです。わたしは全部読みましたが、素晴らしい編集でした。
ということで、教養団体・読書団体としての「幸福の科学」の実態を知るべく、本書『幸福の科学』を読んでみました。一読して、本書の著者は「幸福の科学」の信者ではないのかと思いました。あまりにも同教団に対して好意的な記述が多く、逆に批判的な視点はほとんど感じられなかったからです。しかし、著者は本書の冒頭に「最初にお断りしておきたいが、筆者は幸福の科学の信者ではないので本書はいわゆる『宣伝本』や『布教本』ではない。そのため熱心な信者の方が読むと、もしかしたらご立腹する内容が含まれているかもしれない」と書かれています。
また、著者は多くの教団関係者に取材をしているようですが、この点に関しても、「筆者の持論として、新興宗教取材は『外側』から見ていただけではなかなか深層に到達できないことが多いため、節度ある距離を保ちながら宗教団体の協力を得て内部取材を行うことが有意義だと思っている」と述べています。たしかに「幸福の科学」という団体そのものをテーマとした本は珍しく、その数は「創価学会」や「オウム真理教」をテーマとした本の数の比ではありません。その意味では、本書は意味があるのかもしれません。 わたしの正直な感想を述べれば、本書の編集スタイルとか、小見出しのクセとか、どうも「幸福の科学出版っぽいな」と感じます。しかし、そんなことはどうでもいいとも思います。要は、「幸福の科学」の概要や歴史が知りたいわけですから、版元の正体などに関心はありません。
本書の「目次」は、以下のようになっています。
「はじめに」
第1章 大川隆法氏の生い立ち
第2章 幸福の科学立宗
第3章 霊言の真相に迫る
第4章 幸福実現党を結党
第5章 幸福の科学学園
第6章 古参信者、漫画家さとうふみや氏に聞く
「おわりに」
「はじめに」で、著者は以下のように述べています。
「1991年(平成3年)に起きた『FRIDAY』騒動をご記憶の読者も多いことだろう。『大川隆法氏と幸福の科学に対して事実無根の批判的な記事を掲載した』(幸福の科学)ことから『誹謗中傷』『宗教弾圧』の抗議をするため、数百人の信者が連日にわたり発行元である講談社前でデモを行ったのである。作家の景山民夫さん(故人)や歌手の小川知子さんが先頭に立って糾弾するシーンが全国ニュースにもなり、争いは法廷にも持ち込まれた。裁判は最高裁まで争われ、『FRIDAY』の記事内容に違法性があることが認められた一方で、抗議活動については大川氏と幸福の科学による講談社に対しての業務妨害と認定された」
続けて、著者は以下のように述べています。
「このように何かと『新興宗教』が注目されるなか、1995年(平成7年)にオウム真理教が地下鉄サリン事件を引き起こした。この卑劣な事件がきっかけで、世間もマスコミも新興宗教をひとくくりにして『異質な団体』と見るようになってしまったのである」
第1章「大川隆法氏の生い立ち」では、大川氏は1956年(昭和31年)7月7日、七夕の日に徳島県麻植郡川島町(現在の吉野川市川島町)で生まれたことが紹介されています。父・中川忠義氏、母・君子さん、4歳上の兄の4人家族です。現在は、戸籍上の名前も「大川隆法」になっています。直木賞候補になったこともある伯母の影響で読書好きになったという大川少年について、著者は以下のように述べています。
「低学年のときのことである。大川少年は『世界名作全集』などの名作集を夢中になって読んでいたかと思うと、『月刊文藝春秋』も面白そうに読んでいたというのだ。およそ小学生が興味を持つ内容とも思えない『文藝春秋』だが、大川少年は時間を忘れて読んだという」
続けて、著者は小学生時代の少年について以下のように述べます。
「小学生だからもちろん漫画本も大好きだったようで『伊賀の影丸』『サイボーグ009』『サブマリン707』などを500冊ほど持っていたというから驚かされる。そして『蔵書』の噂を聞きつけた同級生が、大川少年の自宅に上がり込んで漫画本を読みふけっていたというのだ。『私の家の生活は決して豊かではなかった』と大川氏は述懐しているが、両親は本への出費は惜しまなかったという」
大川少年は読み終えたマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』や『トム・ソーヤーの冒険』、ジュール・ヴェルヌの「十五少年漂流記」、そしてデフォーの『ロビンソン・クルーソー』などの感想を大人たちに披露したそうです。また、ときには自分なりに考えた、あるいは空想したストーリーなども付け加えたとか。本当に、本が好きでたまらなかったのでしょうね。
大川少年の父親も大変な読書家でした。著者は述べます。
「興味深いエピソードがある。父の忠義氏の書棚には、蔵書量こそ多くはなかったそうだが『旧約聖書』『新約聖書』などの宗教本も並んでいたという。しかもそれらは、表紙が擦りきれるほど読み込まれていたのである」 「忠義氏は1921年(大正10年)に徳島県麻植郡樋山地(現・鴨島町)で生まれた。幼いころは赤貧をきわめ、職を求めて東京に転居したこともあった。10代後半に矢内原忠雄門下の無教会派でキリスト教を学び、その後に『生長の家』で谷口雅春氏の唯神実相哲学(「本来、物質なし。本来、肉体なし。本来、神のみ」という教え)を学んだという。終戦直後のことである」
以前、心霊主義関係の出版で知られる潮文社から『日蓮聖人の霊言の霊言』をはじめとした大量の「霊言」シリーズが刊行されていました。その編集に携わったのが、忠義氏でした。一連の「霊言」は幸福の科学における重要な教えとされ、忠義氏は幸福の科学内で「善川三朗」という法名も得ています。亡くなったときは、一般の葬儀にあたる「帰天式」が盛大に行われたそうです。
読書好きだった大川少年は、頭脳明晰な子どもだったようです。 著者は、「小学校時代のIQは200?」として、以下のように述べています。
「読書好きが奏功して、大川少年は漢字をよく知っていた。そして高い読解力も身に付けていた。そのことが国語のみならず算数や理科、歴史などにも役立ったようで、小学校3年のとき担任の先生が『すでに20歳の大人と同じ知能指数がありますね』と、大川少年のIQが『200はある』ことを示唆したという。余談だが、推定ながらアインシュタインのIQは160~190、レオナルド・ダ・ヴインチは180~190と言われている。それをはるかに凌ぐIQである」
「蜘蛛もいる部屋で勉強した大川少年」として、著者は粗末な離れの勉強部屋で、「大川少年は学校の宿題が終わると、市販の参考書や問題集を解いた。その後は夏目漱石、芥川龍之介、山本有三、下村湖人などを読んだ。大川少年の読書量は年に200冊にもなったという」と紹介しています。 中学時代はもちろん、高校時代も本の虫は相変わらずだったようです。 著者は「右手に参考書、左手に辞書、指の間に万年筆をはさんで・・・・・・」として、以下のように述べています。
「『動物農場』『1984年』(ともにジョージ・オーウェル作)、『キリマンジャロの雪』(へミングウェイ作)、『そして誰もいなくなった』『オリエント急行の殺人』(ともにアガサ・クリスティ作)を愛読していた。また、高校生にしてアメリカから『TIME』や『News Week』などを取り寄せて、原語で読んでいたともいう」
第2章「幸福の科学立宗」では、大川氏が一浪の後に東京大学に入学し、卒業後は総合商社のトーメンに入社したことが紹介されます。「大手総合商社勤務時代に霊道が開く」として、著者は「大川氏はトーメンに入社する直前の1981年(昭和56年)3月23日午後2時、『突然「霊道」が開いた』と語っている。霊界と同通できたということである」と述べています。
そして、そのときの様子を大川氏が書いた「若き日のエル・カンターレ―平凡からの出発」から以下のように引用しています
「3月23日の午後、私はちょうど、座椅子に座って、春のうららかさのなかにありました。その時に、内から何とも言えない暖かい感じが込み上げてきて、何者かが何かを自分に伝えようとしているという感覚に打たれたのです。そして何か書くものがないかと周りを探し、机の横にあったカード用紙を手に取ったのです。そのカード用紙を目の前に置くと、不思議と私の右手は鉛筆を握り、何かを書こうとしました。この時、直観どおり、私の手が他人のように動きはじめました。そしてカードのなかに、『イイシラセ イイシラセ』とカタカナで書いていったのです」。
このとき最初の霊人として大川氏に語りかけたのは、日蓮聖人の高弟である日興上人だったといいます。著者は以下のように述べています。
「『幸福の科学』と名付けられた由来だが、『日蓮聖人の霊言』による『要は世界の仕組みを知らせ、そこに住んでいる人々が幸福になれば、それでいいのです。これは幸福科学であり、幸福への哲学であります』という言葉から名付けられたそうである」
「無謀な(?)最先端ビルへの引っ越し」として、著者は紀尾井町ビルへの移転について以下のように述べています。
「幸福の科学本部は1989年(平成元年)12月に『紀尾井町ビル』(東京都千代田区)へ移転する。これは大きなニュースとしてマスコミに取り上げられ、『最先端インテリジェントビルのワンフロアを借り切り、年間家賃は3億円』と報じられたが、もともとは別の宗教団体が関係する西荻窪のビルを借りるつもりだったようだ」
わたしが通って、景山民夫さんと意見を交わしていた会議室はこのビルの中にありました。ホテル・ニューオータニの隣で、とても立派なビルだったことを記憶しています。
また著者は「御生誕祭」についても以下のように紹介します。
「1991年から開催されているこの『御生誕祭』は、『エル・カンターレ祭』と並ぶ幸福の科学最大の祭典である。信者たちが大川氏の生誕のお祝いと感謝を捧げる祭典として全国、全世界の支部や精舎で7月上旬の2週間ほど開催されているが、やはりメインイベントは大川氏の記念法話(大講演会)である」
この1991年の第1回の「御生誕祭」の企画にわたしも関わったのです。幸福の科学には「正心法語」という経典があるのですが、景山さんが「そうだ、『正心法語』のカラオケ版をつくろう!」というアイデアを思いつきました。結果、東京ドームでは5万人によって「正心法語」が同時に唱えられ、非常に盛り上がりました。当時は東京の上空に「時代は、今、幸福の科学」と書かれた飛行船が飛び、TVでもスポットCMが大量に流れていました。 「『幸福の科学』ではなくて『広告の化学』だ!」などとも言われていましたが、たしかに当時のプロモーションの過熱ぶりは凄かったですね。
さて、大川隆法氏といえば、膨大な著作数で知られています。 じつは、景山さんが大川氏の名前を初めて知ったのは書店の精神世界コーナーでした。そこに「大川隆法」という著者の本が大量に置かれているので、「きっと、おじいさんが長年かけて、これだけの本を書いたのだろう」と思って、著者紹介を読んだところ、まだ30代の若者と知って仰天したそうです。そして、「これだけの霊的な本を大量に書けるとは、ただ者ではない」と、一気に大川氏に興味を抱いたのでした。これは景山さん本人の口から、わたしが直接聞いた話です。じつは、わたしも景山さんと同じく、作家としての大川隆法氏に興味がありました。「いつか自分も、たくさん本が書いてみたい」という想いがありましたので、少しでもそのノウハウを学びたいと思ったのです。
それだけ大量の本を書けば、当然ながら印税が発生します。著者は「膨大な著作の巨額印税はどうなる?」として、以下のように述べます。
「幸福の科学には『献本文化』が根付いている。信者は大川氏の著書を購入すると、信者になっていない友人や知人、各方面に献本をして教えを広めるのである。もちろん著書の購入は任意だが、多くの信者は同一作品を複数冊買い求める。 そうなると下世話ながら、これだけの著作数を発刊している大川氏だから印税収入も莫大なのではないだろうかと想像してしまう。大川氏もかつて『10年ぐらい連続して高額納税者番付に名前が載ったこともありましたし、日本の高額納税者のベスト100というようなランキングにも2回、入ったことがあります。そういう時代もありました』とざっくばらんに語っている」
しかし、今は全額を幸福の科学、幸福実現党などに寄付しているそうです。 大川氏は「成功の心理学」の講義で、その理由を語っています。
「新興宗教に対する世間の偏見は非常に強いので『まずは作家的な面で有名になり、世間の偏見を取り除いてから支持を受けるようにしたほうが、兵法的にはよい』と見たのです。作家として成功しているように見えれば、『みんなも読んでいるから、あなたも読みませんか』というレベルでもいけますので、高額納税者として作家部門に名前を出すような努力もしていました」
「法シリーズ」「霊言シリーズ」などの著作は27言語に翻訳され、発刊点数は1900冊以上にもなりました。また、年間52冊という発行数が「世界一の年間最多発刊記録」としてギネス・ワールドレコードに認定されたそうです。わたしは「本ばかり書いている」などと揶揄されることがあるのですが、大川氏に比べれば、わたしなど、まったく書いていないに等しいですね。
第3章「霊言の真相に迫る」では、今や幸福の科学の代名詞といってもよい「霊言」について書かれています。著者は「初めての霊言はイエス・キリストだった」として、以下のように述べています。
「大川氏の霊言は1981年(昭和56年)6月に始まったとされている。霊道を開いて、日興上人と通信した3ヶ月後のことである。『大川氏のもとに、イエス・キリストが降臨して、やや外国人なまりを伴いながら、誠実で、力強く、愛あふれる言霊で、衝撃の真実を語った』のだという。以降、霊言を収録するため大川氏はテープレコーダーを準備して『4年間をかけて、霊言の真実性、霊人の個性や話の内容に一貫性があるか検証しました。そして確証が得られた1985年(昭和60年)に『日蓮聖人の霊言』を刊行したのです』と古参信者」
続けて、著者は以下のように述べています。
「87年にかけて『キリストの霊言』『孔子の霊言』『坂本龍馬の霊言』『ソクラテスの霊言』『空海の霊言』などを相次いで刊行。約70回分の霊言が活字化されたという。やがて『週刊霊言集』と呼ばれるほどのスピードで矢継ぎ早に刊行され、年に50冊分ぐらいの霊言が収録されたのである。現在は2日に1回ほど霊言が行われているそうだ」 わたしの個人的な感想としては、さまざまな宗教の聖人や歴史上の英雄の霊を呼び出されて霊言を聴くのは構わないのですが、明治天皇や昭和天皇といった天皇だけはやめていただきたいです。何にでも「これだけは絶対にやってはいけない」という最低限のラインというものがありますから。
著者は「大川氏はなぜ霊言をするのか」として、以下のように述べます。
「大川氏は『霊』や『霊界』の存在を広く知らしめるために霊言を行っているということだが、その伝達手段として書物よりも表情やイントネーションなどが分かる肉声が適切であると判断したということである。公開霊言などに立ち合うことが多く、多数の霊人と対話した経験を持つ幸福の科学専務理事の里村英一氏にも『公開霊言の必要性』を聞いた。里村氏は幸福の科学の職員になる前は民放テレビ局の敏腕宣伝マンだった」
さらに著者は、大川氏の霊言について、「霊言は進化していて、宇宙人の霊言、ネバダ州米軍基地『エリア51』や月の裏側などへの遠隔透視、さらには台風などの自然現象に秘められた神意を探る試みもされています」という教団関係者の言葉を紹介し、「何やらすごいステージに入っているようだ」と感想を述べています。
わたしも、宇宙人やネッシーや吸血鬼ドラキュラのモデルとなった人物などの霊言を読みましたが、これも幸福の科学が本来持っている「教養」や「真面目さ」を損なう内容であると感じました。やめたほうがいいと思います。もっとも、幸福の科学の信者たちが、プロレスを「真剣勝負ではない」とわかった上で楽しむような感覚で霊言を楽しんでいるのだとしたら、これはもう高度な「遊び」というか、立派な1つの文化ジャンルなわけで、部外者であるわたしには何も言う資格がありませんね。はい。
そして、「おわりに」で著者は以下のように述べるのでした。
「幸福の科学がなぜ『大川隆法総裁という1人の人物のもとでこれほど巨大になったのか』ということの結論である。教義への共鳴はもちろんだが、僭越ながら筆者は大川氏の『カリスマ経営者』としての一面が大きかったと思っている。ギネスに認定されるほど大量の著作を世に出し、ほぼ全ての信者がそれらを複数冊買って幸福の科学を経済面で支える。さらに購入した著作を各方面に献本(ボランティアである)して教えを広めるという、これまでの宗教活動には例がない『斬新なモデル』とも言える形を大川氏は築いたと思う。信者も『高価な壺や仏像』を買わされるといったことがないため金銭的な負担がない。こうした背景が信者数を1200万人まで増やしたのだろう」
わたしは、ここに出てくる「カリスマ経営者」という言葉こそ、大川隆法氏の本質を最も的確に表現しているような気がします。
『神化論―神との遭遇』(世界文化社)
じつは、わたしは大川隆法氏との共著というか、同じ本に登場したことがあります。1991年7月1日に世界文化社から刊行された『神化論―神との遭遇』という本です。この本、計80ページで定価700円でしたが、現在は古書として1万円近い価格がついています。 『神化論―神との遭遇』は3部構成で、第1部が「私と『神』、そして愛・・・・・・」として、景山民夫、田辺聖子、高橋幸宏、桑原茂一、小川知子、森下洋子、一条真也、ティナ・グレース、平野敬子、秋吉満ちるといった人々の「神」についての考えが語られています。第2部は「『神』を感じたいま―奇跡の軌跡」で、ルポライターの佐伯省三氏が書いています。そして第3部が「いま、なぜ『神』なのか」で、大川氏が書いています。
『神化論』より
『神化論』より
今から思うとすごいメンバーが揃っていますが、当時28歳だったわたしは「僕たち人間の進化の方向ははっきりしている。それは、まさに『神化』ではないかと思う」というタイトルで「神」や「宗教」についての考え方をど直球で語っています。当時は1991年の10月に上梓した『ロマンティック・デス』(国書刊行会)の執筆の最中であり、わたしはアポロの宇宙飛行士が月面で感じた「神」について述べています。そして最後には「宗遊」というオリジナルのコンセプトを持ち出して、以下のように語っています。 「宗教の『宗』は『もとのもと』という意味である。したがって、宗教というのは、宇宙の法則とか、愛や平和といった、人間の生き方のベースになる部分を言語レベルで表現した『教え』だと思う。そういう意味で、非言語レベルで『宗』を表現できる方法もあるのでないかと考えている。それが、歌であったり、踊りであったり、つまり『遊び』であっても、そうしたメッセージを送ることは可能である。いわば『宗教』ならぬ『宗遊』である。 宗教というと、すぐに特定の宗教団体などをイメージして拒否反応を示す日本人は少なくないが、愛と平和のメッセージとか、宗教ではなく『宗遊』と言ったりすれば、若い人をはじめとして、たくさんの人に誤解なく受け入れられるのではないだろうか」
このときの考えは、四半世紀以上経った今も変わりません。 近著である『唯葬論』(三五館)の「宗教論」、『儀式論』(弘文堂)の「宗教と儀式」「芸能と儀式」においても、まったく同じ主張を展開しています。 そして、このわたしの考え方が「幸福の科学」の教義といかにかけ離れているか、ちょっと宗教に詳しい方ならばすぐ理解できると思います。 想像するに、この『神化論』に大川氏とともに登場したことによって、わたしが「幸福の科学」のシンパであると考えた人がいたかもしれませんね。 繰り返しますが、わたしは「幸福の科学」の信者でも会員でもありません。