No.1490 芸術・芸能・映画 『1984年の歌謡曲』 スージー鈴木著(イースト新書)

2017.09.23

『1984年の歌謡曲』スージー鈴木著(イースト新書)を読みました。
著者は1966年大阪府生まれの音楽評論家です。早稲田大学政治経済学部卒なので、わたしの後輩ということになります。昭和歌謡から最新ヒット曲までを「プロ・リスナー」的に評論することで知られています。
最近、『サザンオールスターズ 1978-1985』(新潮新書)という著者の最新刊を読み、面白かったのでその感想を書こうと思ったのですが、せっかくならば、著者の『1979年の歌謡曲』とその続編である本書の感想から書こうと思った次第です。

本書の帯

本書の帯には、著者が1984年というより80年代を代表する一曲とまで絶賛する薬師丸ひろ子の『Woman “Wの悲劇”より』のシングルレコード(CDではありません!)のジャケット写真とともに、「そして、〈東京化〉する日本の大衆音楽=シティ・ポップが誕生した」「安全地帯『ワインレッドの心』 杉山清貴&オメガトライブ『君のハートはマリンブルー』 中森明菜『飾りじゃないのよ涙は』 チェッカーズ『ジュリアに傷心』・・・・・・etc」と書かれています。

 本書の帯の裏

カバー前そでには、「『田舎』と『ヤンキー』を仮想敵にした〈シティ・ポップ〉」として、以下のように書かれています。

「バブル経済前夜、1984年は日本の歌謡曲においても大きな転回点だった。70年代から始まった『歌謡曲とニューミュージックの対立』は、『歌謡曲とニューミュージックの融合』に置き換えられた。同時に、『シティ・ポップ』=『東京人による、東京を舞台とした、東京人のための音楽』が誕生。それは都会的で、大人っぽく、カラカラに乾いたキャッチコピー的歌詞と、複雑なアレンジとコードを駆使した音楽であり、逆に言えば、『田舎』と『ヤンキー』を仮想敵とした音楽でもあった。1984年、それは日本の大衆音楽が最も洗練されていた時代―」

本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

「はじめに」
第一章 1984年の歌謡「曲」
特別篇1 1984年までの沢田研二
特別篇2 1984年までの松本隆
特別篇3 1984年までのサザンオールスターズ
特別篇4 1984年までの秋元康
特別篇5 1984年までのイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)
第二章 1984年の歌謡「人」
第三章 1984年の歌謡「界」
「おわりに」
「参考文献」

「はじめに―歌謡曲とニューミュージックの一年戦争」の冒頭では、「1979年。あなたは当時、どこで、誰と、何をしながら、『1984年の歌謡曲』を聴いていましたか?」と書かれています。この年、わたしは早稲田大学の2年生でしたが、続けて、1984年のオリコン(オリジナル・コンフィデンス社)の年間トップ10が以下のように紹介されています。左から順位、楽曲名、歌手名、売上枚数(万枚)、となっています。なお、(*)印は前年リリースの楽曲を表します。

1位 『もしも明日が・・・。』
わらべ  96.9(*)
2位 『ワインレッドの心』
安全地帯  69.6(*)
3位 「ROCK’n ROUGE」
松田聖子  67.3
4位 『涙のリクエスト』
チェッカーズ  66.7
5位 『哀しくてジェラシー』
チェッカーズ  65.7
6位 『十戒(1984)』
中森明菜  60.9
7位 『娘よ』
芦屋雁之助  58.0
8位 『星屑のステージ』
チェッカーズ  57.5
9位 『北ウイング』
中森明菜  56.8
10位『サザン・ウインド』
中森明菜  54.3

この10曲から、著者は以下の3点を指摘しています。
1つめは、『1979年の歌謡曲』の主題だった、歌謡曲とニューミュージックの対立が、安全地帯の『ワインレッドの心』を契機に雪解けし始めること。2つめは、少女性を売り物にした松田聖子から大人っぽい中森明菜に、アイドルの王座が移行したこと。3つ目に、日本の芸能エンターテインメントの重心が渋谷・原宿から、六本木通りを上り、西麻布・六本木方向に移動した。その「大人性・成熟性」トレンドの間隔を縫って、福岡県久留米からチェッカーズがやって来たこと。

本書では、84年に発売された楽曲48曲の批評、オリコンでの最高位、年間ランキングなどのデータの他、著者による「名曲度」と「84年象徴度」を5点(5つ星)満点で採点しています。前作の『1979年の歌謡曲』と同じく、それぞれの楽曲や歌手についての著者のコメントには秀逸なものが多いので、いくつか紹介したいと思います。

まず、本書を通して著者は「1984年は、チェッカーズの年だった」と断言します。『涙のリクエスト』についてのコメントで、「フミヤのボーカルと最強のビジュアル・スタッフによる、『革命』の序章」として、「84年歌謡界、最大の事件。いや、むしろ『革命』に近いほどのインパクト。前年9月『ギザギザハートの子守唄』でデビューした、奇妙なファッションの7人組が、ヒットチャートを席巻―『チェッカーズがやって来た!チェ!チェ!チェ!』」と述べています。

なぜ、チェッカーズが84年歌謡界のシンボルなのか?
ヒットを連発したことはもちろんですが、もっと深い意味がありました。著者は、以下のように述べています。

「『ニューミュージックと歌謡曲の融合』が、この年の音楽シーンを通底するテーマなのだが、そういう、歌謡界が『成熟化・高度化』していく流れを、西日本から来たヤンキーボーイズ、福岡県久留米からのチェッカーズと、『涙のリクエスト』リリースの10日後にデビューする吉川晃司(広島出身)が、やんちゃに、ぐるぐるとかき乱していく。そのあたりに『1984年の歌謡曲』の妙味がある」

また、『ジュリアに傷心(ハートブレイク)』についてのコメントの冒頭で、この曲がチェッカーズ史上最も売れた曲であり、「1984年」ではなくて翌「1985年」のオリコン年間1位に輝く曲であることが明かされます。つまり、84年に吹き荒れたチェッカーズ旋風は、翌年85年も止むことはなく、吹き荒れ続けたというわけです。

どうして、ここまでチェッカーズは大成功したのか?
その要因について、著者は以下のように述べています。

「チェッカーズの成功要因を図式化すれば、『キャロル+YMO』ということになると考える。キャロルは言うまでもなく、メンバーの憧れの存在。藤井郁弥は後に、キャロルのカバーアルバムまで出している。そして、西日本から東京に殴り込みをかけ、そして全国制覇したロックンロール・バンドとしての共通点。ただし、それだけでは、ここまでの成功に至らなかったであろう。加えて、チェッカーズのカラフルな衣装や、独特のヘアスタイル、そしてジャケットデザインなど、ビジュアル面でのセンスが、成功に大きく貢献したのである。そして、それらビジュアル面のスタッフが『YMO人脈』で固められていたのである」

このように著者は書いていますが、正直言って、84年当時、六本木に住んでいたわたしは、チェッカーズがけっしてビジュアル的に優れているとは思いませんでした。彼らの衣装やヘアスタイルはいかにも「原宿」の尖ったハウスマヌカンみたいでしたし、その尖り方がいかにも「久留米」的あるとも思いました。つまり、わたしにとってのチェッカーズのビジュアルは「原宿に憧れている久留米のお兄ちゃんたち」といったイメージそのものだったのです。
チェッカーズが優れていたのは、やはり音楽性であると思います。
そして、聴きものは、なんといってもフミヤのボーカルでした。
その圧倒的な歌唱力について、著者は以下のように述べています。

「やわらかくスーッと伸びる歌声の魅力。70年代後半あたりの沢田研二に通じるものがある。ただし沢田研二は、デビューから約10年、歌って歌って、あの歌声を身に付けたのに対し、フミヤはデビュー時にすでに完成品の歌声を持っていた」

 「ヤフー・ニュース」2016年12月3日より

わたしは、かつて、全盛期のフミヤのボーカルの凄味を間近で体感したことがあります。わたしのブログ記事「朝本浩文よ、安らかに眠れ!」に書いたように、昨年11月30日、小倉高校の同級生で音楽プロデューサーの朝本浩文君が亡くなりました。彼は高校時代に「昼あんどん」というバンドを組んでおり、アマチュアの大会で、久留米時代のチェッカーズと優勝を争ったことがあります。結果はチェッカーズ優勝、昼あんどん準優勝でしたが、フミヤをはじめとしたチェッカーズのメンバーは朝本君の音楽性を認め、両者の交流が始まったのでした。84年当時、朝本君はわたしの六本木の部屋によく泊まりに来ましたし、彼と一緒に六本木のディスコやカラオケにも行きました。当時人気絶頂だったチェッカーズのメンバーを紹介してくれて、みんなで朝まで六本木で飲んだ思い出もあります。そのとき、貸し切りにしたディスコで、フミヤがスタンドマイクを使い、「ロコモーション」とかチャック・ベリーのナンバーなどを歌ったのです。もう腰が抜けるくらい上手で、ビックリしました。そのとき、わたしは歌手になるという夢を諦めたのでした。

ビジュアル的に、チェッカーズは田舎臭かったと書きました。逆に、当時のわたしにとって都会的に見えたのは吉川晃司です。彼がテレビ出演の際に来ていた、ジャンニ・ベルサーチ風のスーツ、アーストン・ボラージュ風のジャケットなどがたいそうカッコ良かったです。彼のトレードマークだった大ぶりのサングラスも真似して買いました。
その吉川晃司のデビュー曲が『モニカ』です。ホリプロやサンミュージックなどに追われ、育ててきた人気歌手も次々に独立して凋落を続けていたナベプロが、なけなしの3億円を投じた「最後の賭け」が吉川のデビュー・キャンペーンでした。著者は以下のように述べます。

「結論から言えば、大成功と言えるだろう。この曲と、映画『すかんぴんウォーク』によって、この身長182センチの若者は鮮烈にデビューし、矢沢永吉、   吉田拓郎、西城秀樹と並んで、日本音楽シーンを彩った、広島出身・長身シンガーの一翼を担うこととなる。
時代感覚を失った当時のナベプロが、よくこんなに個性的で先鋭的な曲をプロデュースできたなと驚く。三浦徳子の歌詞は、80年代後半のニオイがぷんぷんするし、矢沢永吉のバックから出てきた気鋭の音楽集団、NOBODYによるメロディやサウンドも実に斬新である」

『モニカ』に続く吉川のセカンド・シングルが『サヨナラは八月のララバイ』です。わたしもカラオケでよく歌う名曲ですが、そのコメントの冒頭に著者は「84年の音楽界と言えば、チェッカーズと吉川晃司がチャートで大暴れしていたイメージがある。しかし、チェッカーズに比べて、吉川のセールスは半分以下である」と書いています。

本書には『モニカ』『サヨナラは八月のララバイ』と並んで、吉川晃司のサード・シングル『ラ・ヴィアンローズ』も取り上げられています。大沢誉志幸が作曲したスタイリッシュなナンバーで、「MTV」で流れたミュージックビデオもカッコ良かったです。著者は、この歌のサビ前に出てくる「♪西風が優しすぎるプールサイド」という売野雅勇が作詞した歌詞に注目し、次のように書いています。
「『西風』―これは、矢沢永吉『時間よ止まれ』に出てくる『♪西風が笑うけれど』へのオマージュではないか。そういえば歌詞世界も、かなり『時間よ止まれ』に近い。広島出身、身長180センチの矢沢永吉が作り上げた日本のロック。同じく広島出身、身長182センチの西城秀樹が発展させた歌謡曲。その中間に新しいジャンルを構築するのが、広島出身の後輩、身長182センチの吉川晃司である」

チェッカーズと吉川晃司が多大なインパクトを残し、中森明菜も歌姫の座をつかんだ1984年でしたが、この年最高の名曲というか、日本の歌謡曲の歴史に残る大傑作として著者が絶賛する曲があります。薬師丸ひろ子の『Woman “Wの悲劇”より』です。著者は「1984年の歌謡曲 総合ベストテン」の1位にこの曲を選び、「執筆前から、この曲の1位は決まっていた。80年代を代表する一曲とまで思う。この曲の名曲性を世に問うために、この本を書いたという気持ちすらある」とまで言い切っています。

一連の角川映画で主演を務め、一世を風靡していた薬師丸ひろ子が『Woman “Wの悲劇”より』の前に歌ったのが『探偵物語』でした。作詞はともに松本隆で、『探偵物語』の作曲は大瀧詠一、『Woman “Wの悲劇”より』の作曲は呉田軽穂=松任谷由実です。著者は以下のように書いています。

「名人は名人を知る。『探偵物語』の完成度に対して、松任谷由実はかなりのジェラシーを感じたはずだ。そして、『このユーミン様が、もっとすごいメロディを作ってみせるわ!』と奮い立ったはずである。そして、条件が揃ったガチンコ勝負とするためか、キーや転調という『ルール』はそのままにしながら、『探偵物語』と並び立つ、もう1つの名曲が生み出された―。80年代前半の音楽シーンにおける、まさに最高水準の切磋琢磨」

松任谷由実は高い音楽性を保ちながら、必ず曲をヒットさせました。彼女は天才でありながら、商才も併せ持っていたのです。著者は述べています。

「お湯が出る蛇口と、水の蛇口、二つの蛇口からの水量を調整しながら、浴槽の湯温を決めるように、『天才』性と『商才』性を調整して、世の中に流してみて、黄金比率を探っていた時代。それが、松任谷由実にとっての80年代前半ではなかったか。そして84年の暮れ、『Woman』とアルバム『NO SIDE』が発売される。『天才』性と『商才』性、『荒井』姓と『松任谷』姓の配合比率が五分と五分。独特の歌詞世界やコード進行を保持しつつ、それでいてポップでセンチメンタルで、大衆的」

この文章、著者の非凡な筆力が炸裂した素晴らしい名文ですね。

本書を読みながら、わたしは大学生の頃の日々をなつかしく思い出しました。1984年。日経平均株価が1万円を超えて、後に「バブル」と呼ばれた景気回復の足音が聞こえてきた頃。日本のマスコミが三浦和義の「ロス疑惑」を騒ぎ始め、アメリカでは「アップル・マッキントッシュ」という斬新なパーソナル・コンピュータが発売された頃。そして、北九州から東京に出て、いきなり六本木のど真ん中に住んで、毎日が「お祭り」状態だったあの頃。そのすべてが、なつかしく脳裡に蘇ってきました。やはり、歌謡曲はタイムマシンです。

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