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No.1513 芸術・芸能・映画 『ブレードランナーの未来世紀』 町山智浩著(新潮文庫)
2017.12.03
『<映画の見方>がわかる本 ブレードランナーの未来世紀 』町山智浩著(新潮文庫)を読みました。2006年に刊行された映画論が文庫化されたのですが、わたしは単行本も読んでいたので、再読となります。著者は現代日本を代表する映画評論家で、1962年東京都生まれ。早稲田大学法学部卒業。『宝島』『別冊宝島』などの編集を経て、1995年に雑誌『映画秘宝』(洋泉社)を創刊。アメリカ・カリフォルニア州バークレー在住。この読書館でも初会した『トラウマ映画館』、『トラウマ恋愛映画入門』、『映画と本の意外な関係!』の著者でもあります。
本書の帯
本書のカバー表紙には、映画「ブレードランナー」に登場する女性レプリカントのレイチェルが描かれ、帯には「映画に隠された現実の悪夢を読み解く!」「著者のライフワーク、待望の文庫化!!」「『ブレードランナー2049』10月27日公開」と書かれています。そう、本書は「一条真也の映画館」で紹介した映画「ブレードランナー2049」の公開にあわせて文庫化されたのです。
本書の帯の裏
カバー裏表紙には、以下のような内容紹介があります。
「この本は<映画の見方>を変えた! 『ブレードランナー』や『未来世紀ブラジル』、『ロボコップ』に『ターミネーター』・・・・・・今や第一線で活躍する有名監督による80年代の傑作が、保守的で能天気なアメリカに背を向けて描いたものとは、一体何だったのか―。膨大な資料や監督自身の言葉を手がかりに、作品の真の意味を鮮やかに読み解き、時代背景や人々の思考まで浮き彫りにする、映画評論の金字塔」
本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「はじめに」
第1章 デヴィッド・クローネンバーグ『ビデオドローム』
メディア・セックス革命
第2章 ジョー・ダンテ『グレムリン』
テレビの国から来たアナーキスト
第3章 ジェームズ・キャメロン『ターミネーター』
猛き聖母に捧ぐ
第4章 テリー・ギリアム『未来世紀ブラジル』
1984年のドン・キホーテ
第5章 オリヴァ―・ストーン『プラトーン』
Lovely Fuckin’War!
第6章 デヴィッド・リンチ『ブルーベルベット』
スモール・タウンの乱歩
第7章 ボール・ヴァ―ホーヴェン『ロボコップ』
パッション・オブ・アンチ・クライスト
第8章 リドリー・スコット『ブレードランナー』
ポストモダンの荒野の決闘者
「おわりに」
「参考文献・資料一覧」
「解説」吉田伊知郎(モルモット吉田)
「はじめに」の冒頭には、「『素晴らしき哉、人生!』をハートウォーミングなコメディだと考えている人々は、いったい何を見ているのやら」というデヴィッド・クローネンバーグの言葉が紹介されます。
『素晴らしき哉、人生!』というのは、毎年クリスマスになるとアメリカのテレビで必ず放送される映画で、フランク・キャプラ監督が第二次世界大戦直後の1946年に作った作品です。 ベッドフォード・フォールズという田舎町に住むジョージ・ベイリーにはさまざまな問題があり、クリスマスに自殺をしようとします。ジョージがまさに橋から身を投げようとしたとき、クラレンスという守護天使に助けられます。クラレンスはジョージがこの数年に行った善行がなかったら、この街がどうなってしまったかを見せるのでした。
ベッドフォード・フォールズは、ジョージを破産に追いやったポッター氏という悪い商売人に支配され、ポッターズヴィルという名に変わっていました。自営業者はみんなポッター氏に潰されて、代わりに酒場やキャバレーやストリップ・バーが乱立します。町にはけばけばしいネオンがきらめき、娼婦とギャングと酔っ払いがあふれています。著者は以下のように述べています。
「『素晴らしき哉、人生!』が奇妙なのは、荒廃したポッターズヴィルでジョージが画面に映っていないシーンでも別の人物たちの間でドラマが続く点です。つまりポッターズヴィルはジョージが見た夢ではなく、客観的な現実なのです。実は1940年代当時はポッターズヴィルのようなセックスと暴力と欲望が渦巻く夜の都会を描く『フィルム・ノワール』というペシミスティックな映画の全盛期でもありました」
フィルム・ノワールに比べると、ベッドフォード・フィールズのハッピーエンドのほうがジョージが見た甘い夢のように思えます。著者は「キャプラは残酷な現実を見せたうえで、ハッピーエンドでアメリカが目指すべき理想を示したのです」と述べています。 しかし、50年代のハリウッドは、キャプラのような現実社会を告発するメッセージを込めた映画を避けました。なぜなら、そんな映画を作れば社会主義的であるとされてアカ狩りの標的にされたからです。そこで、ポッターズヴィルという残酷な現実が出てこない『素晴らしき哉、人生!』のような、ひたすら甘くて美しい現実逃避的なお伽噺が多くなりました。
ところが、60年代になると、ヒッピー、学生運動、フリー・セックス、人種暴動という激動の時代に入ります。その混乱期に若い映画監督たちが、ヨーロッパや日本の映画、さらにはロック・ミュージックに影響された映画を作って若い観客を魅了しました。
そして、70年代の映画の最大の特徴はリアリズムでした。この時代の映画作家たちは、弱く貧しい反逆者たちが権力や資本家に屈していく現実のアメリカを殺伐としたロケ撮影で観客に突きつけました。それは、まるで天使がジョージにポッターズヴィルを見せたかのようでした。
70年代のアメリカ映画について、著者は以下のように述べています。
「70年代映画のリアリズムに、観客は最初、目を開かれましたが、すぐに『嫌な現実をわざわざ映画館で観たくない』と思うようになりました。そこに登場したのが『ロッキー』です。『ロッキー』(76年)は、70年代の他の映画のように荒み切った街の風景で始まります。しかし、1人の負け犬ボクサー、ロッキーが勝ち目のない試合に命を懸けることで、人々の心を繋いでいくのです。街をランニングするロッキーが人々の励ましを受けて両腕を空に突き上げるシーンは明らかに『素晴らしき哉、人生!』の最後にジョージが町を駆け抜けるシーンの再現です。『ロッキー』の国民的ヒットによってハリウッドでは再びFeel Good Movie(幸福な気持ちになる映画)が蘇り、家族向けの娯楽として観客数を取り戻していきます」
1980年、『ディア・ハンター』の大ヒットで「天才」と呼ばれたマイケル・チミノ監督が、西部開拓時代に起きた悲劇を描いた壮大な歴史ドラマ『天国の門』を作りました。スター監督であったチミノは思う存分に予算を使って超大作を作ったわけですが、これが興行的にも批評的にも大失敗して、ハリウッドの老舗スタジオであったユナイテッド・アーチストが倒産します。その結果、ハリウッドは映画作家たちを追い出し、50年代のきらびやかな「夢工場」に戻ります。著者は「それはちょうどレーガン政権が50年代への回帰を掲げた新保守主義と、バブル経済の快楽主義とマッチしていました。そんな保守的で能天気な80年代ハリウッド映画の陰で、スタジオから締め出された映画作家たちは異様な映画を作っていました」と述べます。
彼らが作った異様な映画こそ、この本に集められた作品です。
「はじめに」の最後に、著者は以下のように述べています。
「クローネンバーグやリンチやダンテやギリアムなどが描いたアメリカは、70年代映画のような現実のアメリカでも、50年代映画のような理想のアメリカでもありませんでした。奇妙なことに、彼らの映画の多くが『素晴らしき哉、人生!』から深い影響を受けているのですが、画面に展開するのはベッドフォード・フィールズがそのままポッターズヴィルと混じり合ったような悪夢の世界なのです」
第1章「デヴィッド・クローネンバーグ『ビデオドローム』~メディア・セックス革命」では、著者は以下のように述べています。
「『ビデオドローム』(82年)はおそらく、80年代で最も難解な映画だ。『2001年宇宙の旅』(68年)はスタンリー・キューブリックが意図的にわかりにくくした映画だからまだマシだ。ところが『ビデオドローム』は、作ったデヴィッド・クローネンバーグ監督本人ですら完璧には理解できず、『わかった、と思うとすぐにその手からすり抜けてしまう。つかみどころがない』と言うほどの難物なのだ。わからない理由の1つは、他のどんな映画にも似ていないからだ。『私はいかなる映画の影響も受けていない』とクローネンバーグは言う。『私は熱狂的な映画ファンだったことは一度もない。私の映画には他の映画からの引用はない。私の映画が言及しているのは私自身だ』」
第2章「ジョー・ダンテ『グレムリン』~テレビの国から来たアナーキスト」では、著者は以下のように述べています。
「『グレムリン』を観て日本人(たとえば山崎浩一氏)は、この映画の怪物は日本人のことを言われているように感じた。テレビやアニメが大好きで、現実との区別がつかずに何でもマネする。機械をいじるとすぐに使い方を覚えてしまう。外国製品嫌いのフッターマンは酔っぱらってクダを巻く。『外国製の機械は信用できねえ。奴らは機械にグレムリンを隠してやがる。最近は小さなグレムリンを時計にまで仕込んでやがる』。80年代当時はセイコーの時計やソニーのビデオがアメリカを席巻していた時代だ。そして日本は、グレムリンと同じく、かつて中国人に育てられたが、西欧文明に感化されて武装して大東亜戦争と太平洋戦争を起こした」
第3章「ジェームズ・キャメロン『ターミネーター』~猛き聖母に捧ぐ」では、キャメロン監督の記念すべき出世作であるSFアクションの「ターミネーター」(84年)と、キャメロン監督の代表作にして映画史上最大のヒット作でもある「タイタニック」(97年)の類似点が紹介されます。ショーン・フレンチ著『「ターミネーター」解剖』の「訳者あとがき」での矢口誠氏の指摘を踏まえて、著者は以下のように述べます。
「まず、タイタニックを探査する現代と、タイタニック号沈没時の過去という2つの時間軸が並行して進む構造がよく似ている。カイルがサラの写真に一目惚れしたように、主人公の貧しい画家の卵ジャックは上流階級の令嬢ローズを見た途端に恋に落ちる。好きでもない資産家と結婚させられるローズは、サラと同じように、人生にうんざりしている。そしてジャックと結ばれ、愛を知って強くなったローズは水中に取り残されたジャックを救出するなど大活躍。最後にジャックは息絶えるが、ローズは彼からもらった勇気を胸に強く自立して生きていく」
第4章「テリー・ギリアム『未来世紀ブラジル』~1984年のドン・キホーテ」では、最初に、SF映画の名作『未来世紀ブラジル』(85年)がその題名を1939年のヒット曲「ブラジル」から取っていることが明かされます。なぜ「ブラジル」かというと、ギリアム監督が南ウェールズに映画のロケで行ったとき、ポート・タルボットという鉄鋼産業の町で、真っ黒な煙の中、トランジスタ・ラジオから楽園のようなラテン音楽が流れてきたからです。その曲こそ、この灰色の世界を忘れさせてくれる「ブラジル」でした。著者は「では、サンバのリズムに逃避したくなる世界とはどこか」と問い、こう述べます。
「アメリカである。アメリカで生まれたテリー・ギリアムは自由を求めてイギリスに逃げ、そこで母国アメリカで彼が体験した数々の幻滅を込めて映画『ブラジル』を作った。しかし、そのアメリカ公開をめぐって、皮肉にも再びアメリカの映画システムに苦しめられるのである」
第5章「オリヴァ―・ストーン『プラトーン』~Lovely Fuckin’War!」では、ヴェトナム戦争を実際に戦った兵士による、最初のヴェトナム戦争映画である『プラトーン』(86年)が取り上げられます。この映画は米軍のヴェトナムでの残虐行為を描いたために、公開当時は、反戦的・左翼的な映画だと評されました。戦場で殺人を繰り広げる多くの若いアメリカ兵たちが登場しますが、著者は以下のように述べています。
「アメリカ兵たちは決して冷酷な殺人鬼ではなかった。『貧しく教育もなく人生経験もない田舎の少年に銃を持たせて、毎日拷問すれば誰だって女子どもを殺すようになる』。ストーンはヴェトナムの戦友たちを糾弾するのではなく、無垢な若者たちが殺人マシンになる悲劇を描きたかったのだ」
第6章「デヴィッド・リンチ『ブルーベルベット』~スモール・タウンの乱歩」では、奇妙なスリラー映画『ブルーベルベット』(86年)が取り上げられます。製材が主産業ののどかな町ノース・キャロライナ州ランバートン。よく晴れた日、大学生のジェフリーは、野原で異様な物を見つけます。手に取ってみると、それは切り落とされた人間の片耳でした。そこから悪夢のような物語が展開されるのですが、著者は「ジェフリーは『素晴らしき哉、人生!』のジョージと同じように、暗黒の世界を体験させられてから、平和で明るい日常に戻ってきた。しかし、その暗黒の世界は夢などではなく現実だ。それはどこか遠い世界にあるのではなく、ジェフリーが自分の耳の中から出てきたように、我々の心の奥に潜んでいるのだ」と述べています。
第7章「ボール・ヴァ―ホーヴェン『ロボコップ』~パッション・オブ・アンチ・クライスト」では、『危険な愛』(73年)や『グレート・ウォリアーズ/欲望の剣』(85年)といった背徳の問題映画を作ってきたヴァ―ホーヴェン監督が『ロボコップ』(87年)で「鋼鉄のキリスト」が描かれたことが指摘されます。じつは、ヴァ―ホーヴェンは『ロボコップ』製作と並行して「キリスト学会」に出席していたそうです。これはワシントン州セーラム(「セーラムの魔女」で有名)で77人の研究者たちが、実在の人間としてのキリストを明らかにしようとした研究会でした。著者は以下のように述べます。
「そこでは考古学的資料に基づいて、『キリストはマリアの長男ではない』『大工として生計を立てていた』『磔刑の後、復活しなかった』などの結論が導き出された。ヴァ―ホーヴェンは新約聖書のギリシア語版を持って出席し、積極的に発言した。さらに学会の研究結果に基づいた映画『その男キリスト』を企画した。『実在の人間として、真実のキリストを描きたい。キリストは、二千年にわたって、教会や国家や権力やさまざまな集団に勝手に解釈され、都合のいいように利用されてきたからね』」
そして、第8章「リドリー・スコット『ブレードランナー』~ポストモダンの荒野の決闘者」では、カルト的な人気を誇るSF映画の金字塔『ブレードランナー』(82年)が取り上げられます。さすがに書名になっているだけあって、本書全体の中でこの『ブレードランナー論』が圧倒的に優れています。この偉大な映画について、著者は「『ブレードランナー』は間違いなく1980年代で最も重要な映画だ。映画としてだけでなく、アート、音楽、建築など、あらゆる方面で論じられ、引用され、影響を与えた。とくに80年代を席巻した『ポストモダン』の象徴とされた」と述べています。
わたしは広告業界にいたことがありますが、当時は「ポストモダン」の全盛時でした。その頃、『ブレードランナー』のビデオを何度も観たものです。巨大電飾看板だらけの未来都市の風景が新鮮でした。著者は述べます。
「『ブレードランナー』の広告都市とでもいうべき風景は、『すべての公共空間は広告によって浸食される』『都市全体が1つのスクリーンになる』『広告それ自体が我々の現代建築なのだ』など、フランスの思想家ジャン・ボードリヤールの言葉と一致する。ボードリヤールはフレドリック・ジェイムソンと同じく、フィリップ・K・ディックを早くから評価していた」
この読書館でも紹介した『象徴交換と死』の著者であるボードリヤールについて、著者は以下のように述べています。
「ボードリヤールは『消費社会の神話と構造』(70年)などで、消費社会では広告は商品そのもの以上に重要になると論じた。資本主義の基本である『等価交換』は、商品の価値は品質と機能によって決まるというルールだが、商品があり余る状態になると商品そのものは重要ではなくなる。その商品がまとうイメージが価値を決めることになる。同じ機能と品質ならよく知られているブランドのほうが高く売れるわけだ。だから商品の品質よりも広告のほうが重要になる。つきつめると、ブランド名だけ宣伝すれば商品そのものは見せなくてもいいわけだ」
著者によれば、『ブレードランナー』を理解するキーワードは「シミュラクラ」と「ハイパーリアル」だといいます。『ブレードランナー』の原作は、フリップ・K・ディックが1968年に発表したSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』ですが、それ以外の作品でディックは、人間にそっくりのものを指して「シミュラクラ(うわべだけのもの)」という言葉を使いました。著者は以下のように述べています。
「ディックの小説ではあらゆるものが突如にニセモノだと発覚する。ニセモノの人間、ニセモノの記憶、ニセモノの感覚、ニセモノの社会・・・・・・。現実とまったく区別ができないニセモノは、それが存在すると知っただけで人を不安にさせる。これは贋札と同じことだ。本物とまったく見分けがつかない贋札が作られたら、本物の札の信用度はゼロになる」
「実際にアンドロイドなんか存在しない」と安心はできません。
シミュラクラという実体などなくても、シミュレーション(仮想すること)だけで充分、現実は脅かされるのです。『ブレードランナー』が公開される前年、ボードリヤールは『シミュラークルとシミュレーション』という評論を書きました。そこで彼は、高度なシミュレーションが蔓延することで本物の価値が下がっている現状を指摘し、例として「ポルノはセックスのシミュレーションだが、実際のセックスでアダルトビデオのように女性が反応しないと男性は自分が本物のセックスをしていないように感じる」ことを挙げました。現実(リアル)よりも完璧なシミュレーションをボードレールは「ハイパーリアル」と呼びましたが、『ブレードランナー』に登場するアンドロイド「レプリカント」こそはハイパーリアルなのです。
「ハイパーリアル」の問題は「分裂症」と深い関係があります。じつは、ディックは精神科医に「分裂病」と診断されていました。著者は述べます。
「分裂病は現在、統合失調症と呼ばれている。その症状は多様だが、一般によく知られているのは、自分の内側と外側の区別が曖昧になる症状だ。自分の頭の中に他人の考えが入ってくると感じる『考想吹入』、頭の中のことが他人に抜き取られていると感じる『考想奪取』、自分の行動は自分の意志ではなく他人に操られているのだと考える『被影響体験』・・・・・・どれもディックのSF小説そのものではないか。実際、ディックは統合失調症による妄想をSF小説として表現したのだといわれている。ディックの小説はどんどん関係ない方向に展開していくのも特徴の1つだが、それも『連合弛緩』と関係があるようだ。考えが1つのテーマから他のテーマに何の脈絡もなく飛躍し、話の流れが『支離滅裂』でまとまらなくなる症状だ」
『ブレードランナー』以降、映画に登場する未来都市はみんな『ブレードランナー』になってしまったとして、著者は「『未来世紀ブラジル』『ロボコップ』『ターミネーター』『AKIRA/アキラ』『攻殻機動隊』・・・・・・。その間にサイバーパンクというSF小説のジャンルが生まれ、消えていった。ポストモダンという言葉に流行遅れになった。それでも、『ブレードランナー』のロサンジェルスに代わる未来都市のイメージは生まれていない」と述べました。そう、思い起こせば、ポストモダニストの学者たちは「これから先にあるのは過去のスタイルの組み合わせだけで、まったく新しいものはもう生まれない」と予言したのでした。
未来都市だけでなく、すべてのハリウッド映画がポストモダン建築のように過去の映画の寄せ集めになってしまったとして、著者は述べます。
「昔の映画の続編やリメイクだらけ。オリジナルのアイデアの映画は本当に少なくなった。しかも、いちおう『オリジナル』の映画も、ほとんどは過去のアイデアのパクリや引用、オマージュ、インスパイア、リスペクト・・・・・・。技術の発達でビジュアルだけはずっと派手で豪華で、まさにハイパーリアルになったが、今までまったく見たこともないイメージはない。それは映画に限ったことではなく、音楽、美術、文学、どれもコラージュ、パスティーシュ、サンプリング、シミュレーションばかり。本当に『革新的』で『革命的』なものは生まれなくなった」
本書を読み終えたわたしは、著者の深い物の見方と博覧強記ぶりに感銘を受けました。じつは、わたしは一方的に著者を「わがライバル」と思っています。拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)を書いたときも、著者を意識しながら書きました。それだけに、本書はかなりの集中力をもって読みましたが、著者と同年代の映画好きにはたまらない内容でした。
本書の「おわりに」の最後には、「小学校4年生だった僕に『ポセイドン・アドベンチャー』を見せて映画狂に洗脳した父にこの本を捧げます」と書かれています。わたしが映画好きになったきっかけは4歳の頃に父に見せられた『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』だったことを思い出しました。