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No.1822 プロレス・格闘技・武道 『力道山対木村政彦戦はなぜ喧嘩試合になったのか』 石田順一著(北國新聞社)
2020.01.18
『力道山対木村政彦戦はなぜ喧嘩試合になったのか』石田順一著(北國新聞社)を読みました。著者は、1952(昭和27)年、石川県金沢市生まれの力道山史研究家です。子どもの頃にテレビで観たプロレスの力道山体験から、伝説と謎に包まれた力道山に惹かれ、力道山の研究に取り組む。著書に『プロレス発「加賀☆能登」行きエキスプレス』『私だけの「力道山伝説」』などがあります。
アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「力道山研究の第一人者が、戦後70年の節目の年に、解明されずに残されてきた力道山の謎の数々を解き明かす。中でも最大の謎となってきた1954年の力道山対木村政彦戦については、2011年に『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』が柔道側の視点で取り上げて定説化しているが、本書はプロレスの側から当時の新聞記事などを渉猟し反論する。ほかに世界タイトル戦の勝敗やチャンピオンベルトの謎解きなども楽しい。巻末の『力道山国内試合記録』は貴重」
本書のカバー前そでには、「謎の表裏を検証・解読」として、作家の村松友視氏が以下のように書いています。
「戦後の日本に彗星のごとく出現し、疾風怒濤の大活躍で希代のヒーローの座にのぼりつめ、一方で毀誉褒貶の噂につつまれたまま、突如としてその〈生〉の幕を閉じた力道山――この本は、長年にわたり熱病のごとき執念を燃やし、力道山の遺した謎の表裏を検証・解読しつづけた著者ならではの、力道山研究の壮大な〈卒業論文〉である」
本書は「力道山全史」と「力道山国内試合記録」の二部構成で、「力道山全史」のほうは26本の論考が収められています。そのほとんどは、力道山のチャンピオンベルトの製作秘話とか、マルベル堂のブロマイドの裏話などマニアックな内容で、よくいえば「力道山マニア」、悪くいえば「力道山オタク」のトリビア的な書籍になっています。「はじめに」には、「力道山のプロレスは、戦後混乱期が高度成長期へと向かう時代の中でひときわ異彩を放ち、人々の魂を揺り動かし、社会現象を巻き起こして、日本全国を席巻しました。まさにヒーローと呼ぶにふさわしい、他の追随を許さない、それもとびっきりのスーパーヒーローでした」と書かれています。
戦後70年となる2015年(平成27年)に出版された本ですが、「あとがき」の冒頭にはこう書かれています。
「一昨年の12月、50回忌を迎えた力道山を追悼する企画で、石川県のFMラジオ局『ラジオかなざわ』で毎週金曜夜8時から放送されている『プロレス発 加賀・能登・越中行きエキスプレス』の番組に出演して、力道山特集を全10回にわたってしゃべったところ、リスナーからこれらを1冊の本にしてほしいといった声が寄せられました。そこで、これまでに週刊プロレスなどで力道山について書いた何本かあった原稿を加筆補正し、新たに書下ろしも加えて、私の力道山研究の集大成にすることにしました」
26本の論考の中で、興味深く読んだのは、1「伝説のセメントマッチ 力道山対木村戦 プロレスの運命を決めた謎の一戦」です。すでに一条真也の読書館『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』で紹介したベストセラーをはじめ、多くの本で語られていますが、著者は以下のように述べています。
「試合の映像を見て気付いたのは、力道山と木村の体格差です。パンフレットによると、力道山の身長・体重そして年齢は五尺九寸、三十貫(178・8センチ、112・5キロ)で30歳、木村の身長・体重・年齢は五尺五寸、二十四貫八百(166・7センチ、93キロ)で37歳、その差は身長で約12センチ、体重では約20キロの力道山の方が大きく、年齢は力道山が7歳下ということになっています(木村の年齢は新聞では36歳、パンフレットでは37歳と書かれています)。組み合ったり持ち上げたりすると、木村の体が意外と小さく見えるのですが、力道山はヘビー級、木村はジュニアヘビー級の体重だったのです」
だから、力道山のほうがセメントでは木村よりも圧倒的に強かったのだと言いたいのでしょうが、2人の体格差や年齢差など、当時の観客ならば誰でも知っていたことです。また、著者は木村の確約書のエピソードなども持ち出していますが、これも『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の中で、著者の増田俊也氏が詳しく紹介しており、新鮮味はありません。一条真也の読書館『VTJ前夜の中井祐樹』で紹介した本で、増田氏は『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』にまとめられた連載は、最強の柔道家でありながら世間に忘れられた木村政彦の魂を救うために書いたと述べています。フェイクにまみれた世間を引っ繰り返すという目標のために著者は必死に書き続けたわけですが、しかしとんでもない方向へ進んでいきました。
増田氏は、『VTJ前夜の中井祐樹』で述べています。
「真剣勝負なら木村が勝っていた――。その結論へ向けてすでに書き上げていた原稿が、ほかならぬ中井祐樹によって引っ繰り返されてしまったのだ。中井は連載開始前に木村vs力道山の試合動画を分析して、私に『はじめから真剣勝負なら木村政彦が勝っていた』と私に言ったのだ。だから私も草稿ではそう書いていた。それが連載途中で会ったときに、迷いに迷った末、『すみません。あのとき増田さんがあまりにも真剣な表情で「真剣勝負なら木村先生が力道山に勝っただろ」と言うので、つい肯いてしまったんですが……』と前言を翻してしまった。この証言によって連載はまったく予期せぬ方向へ進んでいくのである。他の人間の証言なら私は書き直さなかったかもしれない。しかし中井祐樹が言ったのだ。あれだけのことをやった中井祐樹が言ったのだ。連載はそこから、木村政彦が力道山に負けたことを証明してしまう辛い改稿作業になっていく」
これはまた、実際に行われた力道山対木村戦、中井対ゴルドー戦とは違った意味での人生のセメントマッチであると思いました。こんなショックを受けながら、あれだけの大著を完成させた増田氏に心より敬意を表します。
話を本書に戻しましょう。次に興味深かった論考は、4「プロレスブームと力道山景気論」です。「力道山のプロレスがテレビ普及の原動力」として、著者はこう述べます。
「昭和29、30年といえば、時あたかも日本列島は力道山の‟プロレスブーム”の真っ只中にありました。この神武景気の牽引役を果たしたのは、実はプロレスの力道山だったと考えるのです。力道山の登場が昭和29年2月、テレビの出現が前年の28年で、2月にNHK,8月には日本テレビが放送を開始しました。街角に設置された街頭テレビの前には、力道山のプロレス中継が始まると黒山の人だかりができました」
また、著者は以下のようにも述べています。
「日本におけるテレビの普及率は、諸外国に比較してとても高い数値を示したそうですが、それは力道山のプロレスが要因だったと言われています。力道山からエネルギーを、パワーをもらった人々は一生懸命働いて、家庭にテレビを購入し、そして力道山のプロレスを見てさらに労働に勤しんだ――つまり力道山のプロレスは、戦後の国民に心理的、経済的効果を与えたのです。プロ野球で読売巨人軍が優勝すると、大きな経済波及効果が生まれるといわれますが、プロレスの力道山の場合は、なんと景気自体を引き寄せたのです。神武景気の牽引役を果たしたのは、プロレスの力道山であったという、これがどんな経済書にも出てこない私独自の『力道山景気論』であります」
この「力道山景気論」には、思わず膝を打ちました。本書は、詳細な力道山研究の数々も素晴らしいですが、何よりも力道山への愛情に溢れた本です。