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No.1869 心霊・スピリチュアル 『霊術家の黄金時代』 井村宏次著(ビイング・ネット・プレス)
2020.05.06
延長された「緊急事態宣言」を「読書宣言」と陽にとらえて、大いに本を読みましょう!
『霊術家の黄金時代』井村宏次著(ビイング・ネット・プレス)を読みました。明治末から昭和初めにかけて活躍した霊術家についての論考を集めた本で、著者が逝去した2014年に刊行されました。著者は、大阪生まれ。東洋医学・超心理学研究者。立命館大学法学部卒業後、商社に3年間勤務。退社後、明治東洋医学院にて鍼灸医術を習得するとともに、関西外国語短大英米語学科を卒業。鍼灸・東洋医学臨床歴30年、その間に英・米・欧人を含む精鋭の後進を育て日本式伝統鍼灸術を伝えました。1972年に生体エネルギー研究所を設立。主宰者として、超心理学、超医術を実践・研究する。「気」と「サイ」の実験的研究は30年に及び、「キルリアン写真」の分野では世界トップレベルの研究を行う一方、「気」と「気の医学」の実際をよみうり文化センター(大阪・千里中央)などで伝えました。著書に『霊術家の饗宴』(心交社)、『オーラ・テクノロジー』(三修社)、『栄える「気」の研究』『「気」を活かす』(以上、日本教文社)、『気の医学』(アニマ2001)、『スーパー・サイエンス』(新人物往来社)など。訳書に『サイ・パワー』(工作舎)、『生体エネルギーを求めて』『神秘のオド・パワー』(以上、日本教文社)、『癒しの医療チベット医学』(ビイング・ネット・プレス)など。
本書の帯
本書のカバー表紙には、浜口熊嶽、田中守平、浅野和三郎といった人々の写真が使われ、「『エイッ、エイッ、パアッ!』と気合い一声、虫歯を抜く浜口熊嶽、『私は必ず交霊会に再来する』と死後、遺言通り出現した浅野和三郎……明治から昭和初期にかけて、霊術家・霊学家たちの活躍と終焉」と書かれています。
アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「明治末から昭和初めにかけて出現し、病気治しや催眠術、健康法、霊との交流などに活躍した霊術家たちの破天荒な生涯と共に、その歴史的な意味を探る。催眠術で病気を治す清水英範、気合いで病気を治す浜口熊嶽、屈伸運動の健康法を開発した坂本屈伸、鎮魂帰神の浅野和三郎等々。西洋医学と科学に対する対立軸として、裏の医術として代替医療家的な役割を果たし、急激な近代化によって失われていった日本的なる者たち。彼らはどのような社会的・文化的背景の中で歴史に登場し、去って行ったのか」
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
序(大宮司朗)
第一章 呪術から霊術への道
【藤田西湖・萩原心眼】
第二章 幻の霊術家群像
――大衆とともに歩んだ霊術家たちの素顔
【浜口熊嶽】
第三章 清水英範と霊術家の時代
【清水英範】
第四章 新宗教と超能力の原景に迫る
【田中守平】
第五章 古神道行法と霊術
――霊術でソフト化された昭和の鎮魂帰神法
【松原皎月・松本道別】
第六章 大霊能者の黄金時代
――心霊科学の鬼才、浅野和三郎研究
【浅野和三郎】
第七章 荒深道斉の有史以前研究への超心理的アプローチ
【荒深道斉】
第八章 西坂祐瑞師の超常治療”イメージ手術”
【西坂祐瑞】
第九章 ” 裏の医術”としての霊術
――大正から昭和期の日本式気功術師たち
【村田桑石】
第十章 健康法の黄金時代
――近代日本における健康法の成立
【坂本屈伸】
本書は、著者が霊術家とその背景を紹介した『霊術家の饗宴』(1984年)の続編と言える内容です。『霊術家の饗宴』は『新・霊術家の饗宴』(1996年)として増補改訂版も出版されています。わたしも読みましたが、日本におけるオカルティズムを考える上で欠かせない名著です。同書の出版後、「歴史読本」や「Az(アズ)」などの雑誌に掲載したものをとりまとめたのが本書です。
第一章「呪術から霊術への道」では、「昭和の”修験”、霊術家の誕生」として、著者は以下のように述べています。
「”霊術家”たちは明治末年における3人の先駆者、最後の気合術師こと浜口熊嶽、インテリにして”精神学”の創始者(そして霊術開祖でもある)桑原天然、大本教と思想的に拮抗しつつ攻撃的な霊術を宣布した太霊道創始者・田中守平―――、の術とシステムを模倣し、つづく昭和期、霊術最盛期へとなだれこむのであった。ある調査によると、医療の不備と民衆の奇蹟願望に支えられた霊術家の数は昭和5年当時、3万人にも及んだという! この数字と彼らの術内容からみて、彼らは『昭和の修験』と呼ばれてしかるべきであろう」
第二章「幻の霊術家群像」では、「霊術の黄金時代」として、著者は「明治の世は大正にかわり、10年経った大正中期、熊嶽の術はなんら”科学的”に解明されなかったばかりか、熊嶽をはじめ、おびただしい数の〈霊術家〉たちが市中を跋扈していた。妖術・法術を売物にした行者の一群から、”科学的”体裁をとりつくろった近代霊術家にいたるまで、その数は1万人とも数万人ともいわれている」と述べています。
続けて、著者は「詐欺まがいの霊術で治療する者から、純然たる詐欺そのものを”秘法”と偽って行う者たちもすくなくなく、当局の取締りといたちごっこをくりひろげている一方、精神と霊が物質の優位に立つという哲学をかかげて、地道に活動する”霊術家”先生も数おおく活躍していたのである。まさに大正期は霊術の”黄金期”であったのだ」と指摘し、さらに「私はこの〈幻の霊術家〉を追跡すること15年。昨年、ようやくにして『霊術家の饗宴』なる一書をとりまとめたのである」と述べます。
『霊術家の饗宴』は宗教家や研究者に衝撃の念をもって迎えられたばかりか、ニューアカデミズムの旗手として知られた浅田彰、中沢新一両氏が選んだ「百冊の本」の一書に加えられました。著者は「それは、私が発掘した”霊術家の世界”が、興味本位で扱える対象のひとつではなく、東洋の小国が維新をもって、西洋化するプロセスにおいてまきおこされた、巨大なひずみのひとつであったこと、およびこのブームが〈霊術家運動〉ともいうべき、社会的・医学的・宗教的な改新運動であったという側面が、識者の注目を集めたと思える」と述べています。
さらに、著者は「最後の気合術師」と呼ばれた浜口熊嶽を取り上げて、以下のように述べています。
「浜口熊嶽は、その人物スケールの巨大さ(昭和初期、かれは政治家・尾崎行雄、真珠王・御木本幸吉と並んで”三重県三傑"と呼ばれ、『三重県史』に数ページを費して紹介されている!)、術の確かさなどの点で、霊術史の扉を飾るにふさわしい人物である。取材によると、かれの妾愛人の数は数十名、故郷である紀伊長島(現在は紀北町紀伊長島区)への全面的な貢献、飾らぬ人柄で故郷ではフンドシ一丁、マナイタ下駄で村落内を闊歩したエピソードなど、現代にはいそうにない怪物である。比肩しうるとすれば、最盛期の田中角栄元首相ぐらいであろうか。でも、熊嶽にはダーティなところは微塵もなかった」
続けて、著者は浜口熊嶽について、「しかし、霊術家である以上、その法力が問われようが、特に大正期まで、気合一閃による黒子や歯の抜きとり、各種疼痛の除去、リューマチ後遺症などの身体障害に威力を発揮したことは、各種文献や新聞、それに生存関係者の取材などからまちがいないと思われる。遺子稔氏の証言によると、昭和10年代の晩年にはやや力量がおちたといわれるが、それでも7割方は気合だけで治癒したという」と述べます。
なぜ、浜口熊嶽は民衆に熱狂的に迎えられたのか。著者は、「明治以後、西洋医学の導入政策によって、医師は街中の人であることから高等教育を受けた名士になっていった。外国語を理解し,”高度な医療技術”をマスターした秀才たちが高収入を得るようになると、低学歴で生活苦にあえぐ民衆の気持から乖離していったのも、無理はない。江戸時代まで医者たちは村落の名士ではあったが、治療代にかわる米を貢がれる村の一員でもあった。白いクスリと注射、手術が生薬や骨つぎにとって代わるようになると、医者と大衆の肌のふれあいは急速に失われていったのである」と述べます。
続けて、著者は以下のように述べています。
「この動きと軌を一にして物質万能への危機感や、精神と霊の保存への思いが一部カリスマや、民族主義者の間にたかまっていった。この精神復権への衝動が西洋科学の一分野である催眠術と習合し、明治30年代から末年にかけて未曾有の『催眠術ブーム』を形成していったのだ。さらに、この”西洋魔術”と日本精神が合体した結果、まず、桑原天然が真理の体系『精神学』を唱導し、この学の応用技術として『精神霊動術』を編みだした。つまり、――これこそが、修験道秘術の最後の実践者であった熊嶽術にかわる〈新霊術〉となったのである」
さらに、著者は大本教の出口王仁三郎と並ぶ霊的カリスマとなった太霊道の田中守平に言及し、以下のように述べるのでした。
「天然の弟子団、熊嶽術の模倣者たち、加えて明治末年、青年国粋主義者・田中守平が編みだした〈太霊道)とその霊術(霊子術)が、大本教と鋭く拮抗しながら驚くべきスピードで、プロ霊術家を育てあげてゆくのである。つぎつぎと生まれては消える新霊術の群、それは、物質主義への潮流に抗う民族の叫びであり、大衆が抱いていたこころと身体の不安を吸収する”精神装置””霊的技術”であったのだ。事実、いっけん西洋心理学や心霊主義の日本的変形であるとみえる霊術には、ありとあらゆる日本そのものがからみついていたのである――、修験道や真言密教、香具師や大道芸、漢方仙術などの東洋的な術……などが。こうして霊術は、大正中期に第一次の黄金時代を迎えたのである〉
第四章「新宗教と超能力の原景に迫る」では、「大本教と太霊道にみる『近代日本』像」として、著者は「大正期に突如として出現した霊術団体『太霊道』、それは大本教と並んで、しかし大本教とは別なラジカリズムを放射し世に覚醒をうながした。両団体は、その活動のひとつひとつに衆目を集めていたのである。いや、衆目を集める必要から過激な活動を展開する必要があったのかもしれない――。大本教は鎮魂法と予言戦略をもって、太霊道は史上空前の激しい霊動法と超能力医術の宣布をもって。その戦略や法術の内容がどうであれ、両団体の出現は明治維新以後の東洋と西洋の国家的な出合いと、その後の急激に西洋化する日出づる国日本へのカウンターであったことは間違いない。それは、強力な民族的集合無意識をエネルギー源とした強力かつ強大な”衝動”であった、と思われるのだ」と述べます。
続けて、著者は「大正10年の第一次大本教事件のさなかに破壊されつくした大本教の神殿群が”純日本調”であったのに対し、太霊道の神殿がルネッサンス風であったことに見られるように、大本教においてはこの”衝動”が純大和民族的に、太霊道では日本精神の中に西欧風な外形を取り込む形で、それぞれ顕現したと思えるのである。このふたつのかたちは、とりもなおさず当時の(そして現代においても)国のあり方に関して日本国家がとりうる基本的なふたつの選択肢なのである。この意味で、新宗教の発祥原因を西洋の社会学的理論であるM・ウェバー風の『カリスマ論』や、マクファーランドやインガに代表される『アノミー理論』などの単純な理論でのみとらえることの、非現実性は究明されるべきであろう」と述べています。
さらには、著者は「今日、大本教については多くが語られつづけているにもかかわらず、太霊道は私が拙著『霊術家の饗宴』で発掘したにとどまっている。このことは、太霊道の不幸な末路と考え合わせ、残念なことであると言わざるをえない。単に感傷的に言うのではない。太霊道を嚆矢とする昭和5年までの〈霊術家運動〉が、その後の新宗教ブームに繰り返し影響してきたという私の『発見』から見て、太霊道を特に、その”術”の面から考究すべきであると思うからなのである」とも述べるのでした。
第五章「古神道行法と霊術――霊術でソフト化された昭和の鎮魂帰神法」では、「古神道と霊学、霊術の接点」として、著者は以下のように述べています。
「近代霊術そのものは明治20年代の催眠術ブームの産物であった。日本史の中で、主として修験たちが担っていた宗教的民間医療は、明治政府の西洋医学と科学の導入政策によって著しく抑圧された。しかし、民衆の中には依然として宗教的民間医療へのニーズがくすぶっていた。奇妙なことに、そのニーズを汲みあげたのは催眠治療であり、”催眠による運命開拓法”であったのだ。このブームは日本古来の『俗霊術』とドッキングし、大正以降、〈霊術〉として結実したのである」
一方、平田篤胤を祖とする神道的〈霊学〉は、本田親徳(文政五年生)によって実践的に再興されました。その主軸をなしたのが鎮魂帰神であったとして、著者は「この秘法は長沢雄楯を経てかの大本教の出口王仁三郎へ、そして友清歓真、松本道別などの人々へと受け継がれていく。この間に、霊学の流れは〈古神道〉の名においても語られるようになったのである。明治政府の国家神道推進政策により、神道はその儀礼面が重視され行法面は軽視された。そして民間にわだかまっていた宗教的治療術は迷信であるとされ、強力に抑圧規制されるにいたったのだ。古神道という一種漠然とした呼称、催眠術と伝統的俗霊術の奇妙なドッキング形態である霊術は、こうした時代背景の産物なのである」と述べています。
第六章「大霊能者の黄金時代――心霊科学の鬼才、浅野和三郎研究」では、明治以来の催眠術と霊術は奇妙な副産物を生んだことが指摘されます。それこそが催眠から超能力ブームへの架け橋となった「透視能力者」の誕生であったとして、「四国の長尾郁子、九州の御船千鶴子両名は日本の霊能者史のトップを飾る巨星である。明治末年、東京帝国大学心理学科助教授、福来友吉博士は長尾、御船両女性について研究し、彼女たちが透視能力の外に『念写能力』を持つことを世界で初めて発見したのであった。というのは、同種の現象はずっと以前にアメリカで発生していたが、学者たちはその奇妙な写真が”霊の力”によって写るのだと主張していた。福来は、霊の力というよりも、彼女たちが放射した『念のエネルギー』によって”写る”のだ、と主張したのである。しかし、福来は、人間の心がエネルギーとして働くはずはないという物理学上の定説に固執する東大の理学者たちの圧力によって、学問の世界から追放されてしまった」と述べています。
一方、霊術のほうは桑原天然、田中守平という霊術大家の誕生をみたことにより、快進撃を繰り広げてゆきます。しかし、ゆきすぎた霊術ブームは再び政府による規制令によって昭和5年以降、びしびしと取り締まられることになりました。次の大ブームになる〈大霊界時代〉の大立役者の二人、浅野和三郎と亀井三郎が出会ったのは、前年、昭和4年の5月のことでした。浅野和三郎はもともと東京帝大の英文学の教授でしたが、わが子を亡くしたことがきっかけで大本教に入信します。そこで出口王仁三郎に次ぐナンバー2の地位にまで上りつめます。
浅野和三郎について、著者はこう述べます。
「高名な英文学者から審神者へ、しかも短期間に……。この驚くべき変転は浅野にとって何の不思議もなかった。王仁三郎の厚い信頼のもと、ナンバーワン審神者として浅野は無数の見えざる世界の居住者たちと対話を繰り返した。神々から古代霊、動物霊や自然霊(龍や稲荷神)、そして幽界で迷い苦しむ人霊たち――、この世とあの世を隔てるヴェールの彼方から一時的に呼びだされる神霊群と語り、時には教えを受け、暴力的な対決をする事も一再ではなかった。この時の経験が後の心霊家としての時代にどれほど役に立ったか、いうまでもない」
そして、もうひとつの出会いもあったとして、著者は「それこそが大本教が霊母艦であったことの証明なのであるが、昭和年間を通して活躍した多くの霊的指導者たちはその若き(あるいは初期の)時代に、大本教の薫陶をうけ、あるいは浅野を審判者とする鎮魂帰神を受けているのだ。その面々は、後に霊術家として立った栗田仙道、生長の家の谷口雅春、世界救世教・岡田茂吉、神道天行居・友清歓真、『近代日本霊異実録』の著者・笠井鎮夫、など十指に余るのである」と述べています。まさに大本教は「日本霊学のダム」でした。
「新しき死後の証明」として、著者は述べています。
「続々と誕生する霊媒のニューフェイス、霊媒たちの生命がけの実験を実見した人々の中から浅野の主旨に同調し、研究に入る知識人や科学者も増加してきた。浅野の寝食を忘れた精進が実ってきたのだ。しかし、天は浅野の使命はこれまで、と思ったのか、昭和12年2月3日、享年64歳で彼は自らが研究のためにのめりこんでいた「霊会」へと還っていったのである。”私は必ず交霊会に再来する”の言葉を残して。研究界は巨星逝くの報に茫然自失の体であった。あまりにも彼は強力で巨大であったのだ。そして、弟子の霊能者をはじめ、関係者はすべで彼の遺言を信じてやまなかったのである」
ちなみに、心霊研究家の小田秀人によれば、浅野が帰幽して2日後の、かねて開催予定になっていた萩原霊媒の交霊会に突如として出現したといいます。
第七章「荒深道斉の有史以前研究への超心理的アプローチ」では、「困難さを増幅させる精神的霊的次元の混入」として、著者は「霊能者、霊媒、神代、神台と呼ばれる人々である。この人たちは身に備わった透視能力を用いて過去と未来を瞥見し、神や霊の憑り台として異界神の口になり、あるいは身体から”幽体”を脱出させて”神界”や”霊界”を訪問したり、過去と未来の世界に遊ぶ」と述べています。従来、ともすれば、あの世とこの世をまったく別物であると考える傾向がありました。しかし、八幡書店の社主でポップ・オカルティストの武田崇元氏によれば、この両者は「型」によって結ばれた”フラクタル次元”を共有しているといいます。つまり、この霊的な次元にこの世の出来事の鋳型が存在するからこそ現界からみた過去や未来に関する情報が、霊能者たちによって”解読”されるというのです。
実際、古史古伝の多くが神社の奥深くに秘められてきたという事実は興味深いとして、著者は以下のように述べます。
「そこには長年にわたる神職や神台のかかわりがみられたはずであるからだ。特に『竹内文献』にその色彩が濃い。竹内巨麿、この怪異な神官によって世に明らかにされた同文書は、破天荒な内容にうずまっている。神武以前に数百億年にわたって皇統が連綿すること、『ミヨイ』『タミアラ』というアトランティスとムーに相応するとみられる古代大陸の一代記など、民族性はむんむんしているものの、デニケンの超古代考古学などぶっとぶ迫力である」
第十章「健康法の黄金時代」では、病気治しや健康法といった分野でも霊術家たちが活躍したことに言及した後、著者は「病気をしてはじめて人間なのである。だから病気を敵視することなく、その病気が何を教えているかを冷静に考えてみることも必要ではないだろうか。逆に病気に負け、のみこまれると病気は重くなる。あせって自分を誤った方向に導かぬよう注意することだ。病気を冷静かつ客観的に見ることが正しい治病術の第一歩なのである。もう一つ、ほとんどの人間は病気によって死ぬ。しかし、死にいたる病気を経験するのは一生のうちただの一度である。ほとんどの病気はその一度の病ではないからあせらないことだ」と述べるのでした。本書を読んで、新宗教の教祖たちのように組織は作らなかったけれども、巨大なヒーリング・パワーを発揮した霊術家たちに大きな興味が湧いてきました。書斎のどこか片隅にあるであろう『霊術家の饗宴』を探して再読してみたくなりました。