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No.1870 オカルト・陰謀 | 心霊・スピリチュアル 『近現代日本の民間精神療法』 栗田英彦・塚田穂高・吉永進一【編】(国書刊行会)
2020.05.07
延長された「緊急事態宣言」を「読書宣言」と陽にとらえて、大いに本を読みましょう!
『近現代日本の民間精神療法』栗田英彦・塚田穂高・吉永進一【編】(国書刊行会)を読みました。「不可視な(オカルト)エネルギーの諸相」というサブタイトルがついています。編者の粟田氏は宗教学者で、愛知県立大学、愛知学院大学等非常勤講師。塚田氏は上越教育大学大学院学校教育研究科助教で宗教社会学者。吉永氏は舞鶴工業高等専門学校教授で、専門は近代仏教史、民間精神療法史です。
本書の帯
表紙カバーには日本髪を結った女性に手かざしで施術をしている霊術家の写真が使われ、帯には「霊術・精神療法を総覧するオカルト史」と大書され、続いて「催眠術は明治に輸入されて大正期に霊術・精神療法へと発展し、ヨーガと日本の腹式呼吸法が混じり合い、エネルギー概念が『気』に接合される。これは『呪術の近代化』『催眠術の呪術化』であり、西洋の近代オカルティズム、アメリカのニューソートと並行するグローバルなオカルティズム運動であった。その全体像を多様な視点から横断的に描く、初の本格的論集」と書かれています。
本書の帯の裏
アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「大正時代には霊術・精神療法と呼ばれる治療法が流行し、最盛期の施術者は三万人ともいわれる。暗示、気合、お手当、霊動などによる奇跡的な治病だけなく、精神力の効果を示すための刃渡りのような見世物的危険術や、透視やテレパシー、念力のような心霊現象が彼らのレパートリーであったが、最終的には健康法、家庭療法、新宗教へと流れ込んで姿を消していった。本書は、さまざまな領域に姿を現す民間精神療法の技法と思想の系譜をひも解き、歴史研究の基礎を構築することを目指す。序論では、先行研究を検討、民間精神療法の略史を祖述した上で、精神あるいは精神療法という語が定着したゆえんを思想史的に検討する。
第Ⅰ部では、海外から流入した最新の概念や技法の土着化を検討する。近代日本に誕生した物理療法は医学と霊療術をまたいで広まり、松本道別はメスメリズム的『人体放射能』をあやつり、ラマチャラカ(引き寄せの法則の元祖、ウィリアム・ウォーカー・アトキンソンの筆名)の「ヨーガ」技法は世界を駆け巡り、日本にも流れ込む。
第II部では、舶来の不可視エネルギーと混じりあって日本で生み出された技法や思想の形成過程を追う。川合清丸がこの法を以て天下国家を平地することを大発明した『吐納法』、日本の農学博士第一号にして貴族院議員にもなった玉利喜造が説き多くの療法家から歓迎された『霊気説』、右翼思想家・三井甲之が国民宗教礼拝儀式と位置づけ実践した『手のひら療治』、時代の要請に合わせて変容を遂げた野口整体の『活元運動』にその例を見る。
第III部では、世界中で行われている日本発の民間精神療法、レイキの形成過程と今に迫る。海外から移入された技法に影響を受けて成立した『臼井霊気療法』は、その概念ごと『翻訳』されて太平洋を渡り、アメリカで広まったあとレイキとして再度日本に上陸し、セラピー文化の基盤的知識となる。
第IV部では、主要な療法家48名とその主要著作を、『序論』の時代区分にしたがい、自己治療系と他者治療系に大きく分けて紹介する。
明治以降のグローバリズムの波を受けて流入したエネルギー概念や心身技法に、日本の伝統的宗教技法が混じりあって生み出された民間精神療法は、〈呪術の近代化〉という点で西洋の近代オカルティズムに相当し、〈催眠術の呪術化〉という点ではアメリカのニューソート運動と並行する。しかも、それらはグローバルオカルティズムという輪の中につながっていたのである。その全体像をさまざまな視点から横断的に描く、初の本格的論集」
本書の「目次」は、以下の通りです。
序論(吉永進一)
Ⅰ 流入する科学的エネルギーとヨーガ
第一章 物理療法の誕生――不可視エネルギーをめぐる
近代日本の医・療・術(中尾麻伊香)
第二章 松本道別の人体放射能論――日本における
西欧近代科学受容の一断面(奥村大介)
第三章 ウイリアム・ウォーカー・アトキンソン
――別名、ヨギ・ラマチャラカ
(フィリップ・デスリプ:佐藤清子訳)
Ⅱ 産み出す〈気〉と産み出される〈思想〉
第一章 政教分離・自由民権・気の思想
――川合清丸、吐納法を以て天下国家を平地す
(栗田英彦)
第二章 玉利喜造の霊気説の形成過程とその淵源
――伝統と科学の野合(野村英登)
第三章 霊術・身体から宗教・国家へ
――三井甲之の「手のひら療治」(塚田穂高)
第四章 活元運動の歴史――野口整体の史的変容
(田野尻哲郎)
Ⅲ 還流するレイキ
第一章 大正期の臼井霊気療法――その起源と
他の精神療法との関係(平野直子)
第二章 臼井霊気療法からレイキへ
――トランス・パシフィックによる変容
(ジャスティン・スタイン:黒田純一郎訳)
第三章 「背景化」するレイキ――現代のスピリチュアル・セラピー
における位置づけ(ヤニス・ガイタニディス)
Ⅳ 民間精神療法主要人物および著作ガイド
(栗田英彦・吉永進一)
第一章 萌芽期 1868~1903年
第二章 精神療法前期 1903~1908年
第三章 精神療法中期 1908~1921年
第四章 精神療法後期 1921~1930年
第五章 療術期 1930~1945年
「あとがき」(吉永進一)
「執筆者・訳者紹介」
「人名・団体名索引」
「序論」の「はじめに」の冒頭を、吉永進一氏は以下のように書きだしています。
「戦前日本で、呼吸法、静坐法などの健康法や、さまざまな民間療法が流行したことは知られているが、なかでも大正時代には霊術あるいは精神療法と呼ばれる治療法が流行した。暗示、気合、お手当、霊動(身体の自動運動)などによる奇跡的な治病、精神力の効果を証明するための鉄火術(灼熱の鉄棒を握る術)や刀渡り術(真剣の上に立つ術)といった見世物的な危険術、さらにはテレパシーなどの超心理現象なども、そうした療法家のレパートリーとなっていた。しかも、ひとかどの療法家たちは、団体を組織し、機関誌を発行し、会員の募集と術の宣伝に努めた。大正期には彼らの業界を指す『霊界』という語も生まれ、昭和3(1928)年に発行された『霊術と霊術家』(二松堂)という霊術家名鑑には、治療家の数は3万人とも書かれている」
それでは、どのような療法家がいたのでしょうか?
『癒しを生きた人々』(専修大学出版局)の編者の1人である田邉信太郎氏は、大正期から昭和気にかけての民間療法を、食物療法、呼吸法、強健法、霊術(催眠術、宗教的行法、心霊学等の影響を受けたもの)、霊術(身体の自動運動を用いたもの)、霊術(手のひらによる療法)、療術(カイロプラティック、オステオパシー、指圧などの手技療法、電気療法、光線療法、温熱療法など)の7つに大別しましたが、これらの民間療法に加えて、催眠術や医学的な精神療法、大本教(正式名称、大本)が宣伝した鎮魂帰神法のような憑依技術、修験、密教、法華行者、御岳行者などの拝み屋、行者たち、あるいは修養運動など、さまざまな領域が、その周辺に広がっていました。
「先行研究」として、吉永氏は霊術という語を発掘した井村宏次『霊術家の饗宴』(心交社、1984年)を紹介します。ブログ『霊術家の黄金時代』で紹介した本の著者でもある井村は、霊術の発展と変容を、第1期(明治元年~30年)「気合術の時代」、第2期(~大正中期)「催眠術時代」、第3期(~昭和6年)「盛期霊術家時代」、第4期(~終戦)「霊術的宗教と霊術分解の時代」、第5期(戦後)「第二次新宗教時代」の5期に分けて分析していますが、吉永氏はこれを「今なお基本的には通用する時代区分である」と評価しています。
そもそも、霊術とは何でしょうか。井村によれば、霊術は二つの源泉からはじまります。ひとつは維新後、廃仏毀釈、祈禱禁止、西洋医学の普及という新政府の施策によって打撃を受けた修験道の遺産です。それらは単純化されて気合術のような治病術に変容し、あるいは真剣白刃取りなどの大道芸に流れ込んだとされます。吉永氏はこう書いています。
「修験者から気合術師に転じた濱口熊嶽(1878-1943)は、都市部に施術所を設け、多数の患者に安価な治療を提供し大成功を収めた。気合術はその後、霊術の重要な技法となる。もう一方の源泉は催眠術である。明治20年代には気合術と混交して幻術という日本的催眠術を生み出していた。明治30年代に霊術の祖と呼ばれる桑原俊郎(1873~1906)が登場し、催眠術を変革する。催眠術の実験を繰り返すうちに、被術者の催眠を要せず、施術者の精神力だけで治療が可能であること、さらには超能力も発揮できることを「発見」し、修験の行う危険術の類も精神力によって再現可能とも主張した。この桑原說が、その後の霊術の理論面に大きな影響を及ぼした」
続いて、大正期になると田中守平(1884-1928)が太霊道で大成功を収め、急速に霊術の市場が拡大します。その影響で、陰陽道占術、密教、鎮魂帰神など、それまで秘術とされていたものが出版され、大正時代の霊術シーンが生まれたといいます。吉永氏は「つまり井村は、脱文脈化された伝統宗教的技法と呪術化した催眠術(あるいは心理学化した呪術)が結びついて霊術ブームは発生したと指摘している」と述べ、さらに井村は「霊術と霊術家」を分類して、暗示、催眠などの心理療法を中心とする「精神療法派」、手技療法、温熱光線療法などの物理療法を中心とする「療術派」、宗教教師が行う霊術、療術を指す「信仰派」、スピリチュアリズムを土台とする「心霊主義派」と並べて、「霊術派」という分類を設け、気合術、霊動術、触手術、手かざし、観念力、祈禱などを含めていることを紹介します。これは田邉氏の分類とほぼ同じである。吉永氏は「霊術とは、その母体となった催眠術や信仰療法とは区別される呪術的な治療法であり、医学と宗教のあいだの領域に位置するということになる」と結論づけています。
井村の霊術論に影響を受けた宗教社会学の論文があります。西山茂「現代の宗教運動――〈霊=術〉系新宗教の流行と『2つの近代化』」です。吉永氏はこう説明しています。
「西山は、1980年代当時流行していた阿含宗などのオカルト的な技法主体の新々宗教と、大正期に流行した太霊道や大本教などの類似性に着目し、それらを〈霊=術〉系新宗教と呼び、『神霊・人間霊・動物霊とその構成素・作用などを操作し、それらの実在を「証明」したり、病気治しなどの除災招福をはかったりする反復的な霊術を、救済や布教の主要な武器とする新宗教』と定義した。あるいは教義信条に重点を置く『信の宗教』に対して『術の宗教』とも呼び、日本社会は明治と第二次大戦後の2度の近代化を経験したこと、近代化の盛んな時期には『信の宗教』、大正時代と1970年代以降という近代化の終焉期段階では、近代化がもたらす疲弊を非日常的な神秘経験によって回復しようとして非合理の復権が起こり、『術の宗教』が盛んになると分析している」
Ⅰ「流入する科学的エネルギーとヨーガ」の第一章「物理療法の誕生――不可視エネルギーをめぐる近代日本の医・療・術」では、「はじめに――霊とRay」の冒頭を、長崎大学原爆後障害医療研究所助教で科学史学者の中尾麻伊香氏はこう書きだしています。
「19世紀末のX線や放射線の発見は、科学界においていまだ解明されていない新種の光線発見ブームを巻き起こした。19世紀から20世紀にかけて、電気と磁気の性質が科学的に解明されていき、放射線の性質の解明とともにこれらの不明秤量流体が電磁波として定位されていく。エーテル粒子やN線など、その後否定される発見もこの時期に相次いで報告されるが、このような時期に登場したのが千里眼である」
続けて、中尾氏は「千里眼が流行現象となると、科学者たちはその科学的解明を試みる。1910年9月17日に東京帝国大学で行われた御船千鶴子の千里眼実験は失敗に終わったが、翌日の『東京朝日新聞』の記事から、その模様をうかがい知ることができる。そこには、『元良博士は極めて真面目な顔をして「レイが透るとすれば――」とか何とか言ひ出したら一時も黙つては居られないと言つたやうな田中館博士は「レイとは霊か、ラヂエーシヨンか」と反問をして元良博士が光線と云ふレイだと返答すると』などと記されており、心理学者と物理学者のRayと霊をめぐる混乱を伝えている」と述べています。
霊とRayをめぐる混乱の背景を理解するのは難しいことではないとして、中尾氏は「肉体のない身体を可視化したX線は目に見えない存在について人々が信じるきっかけを与え、強力な放射能によって刻々とその性質を変化させていくラジウムは物質が生きているという考えを呼び起こした。新しい物質観は、写真術の発明などと相まって流行していた心霊主義を活気づけ、心霊現象を科学的に解明できるかもしれないという科学者や霊術家たちの期待を生み出す」と述べます。このあたり、「Sun-Ray」「産霊」「讃礼」という三つの意味を込めたトリプル・ミーイングの社名を持つ「 サンレー」という会社を経営しているわたしは非常に興味深く感じました。ちなみに、わたしにとっては「Ray」と「霊」、そして「礼」は三位一体の世直しの鍵であります。
このように、Rayと霊には不思議な関係が生まれましたが、中尾氏は以下のように述べています。
「近代日本における霊と放射線の蜜月関係は、科学者が心霊現象を科学的に解明することに失敗した千里眼事件によって、一旦終わりを遂げたかに見えた。しかしその後、霊術は勢いを増し、大正期には電磁波や放射線といった不可視エネルギーをめぐる科学知識をその療法に取り入れる霊療術が数多く登場することになる。明治末期から昭和初期にかけて大流行した霊術や精神療法などの民間療法において、霊術家たちはしばしば『霊気』『霊念』『霊子』といった用語のみならず、『ラジウム』『放射能』といった電磁波や放射線をめぐる用語をその療法名につけていた。これを霊療術による科学知識の曲解や歪曲と見ることも可能かもしれない。先行研究において霊療術はしばしば近代合理主義に対するアンチテーゼとして、科学や医学とは異なる次元のものとして解釈されてきた」
1874年(明治7)の医制により、漢方医学から西洋医学への転換が打ち出され、漢方医たちが医学制度のなかから排除されていきました。これ以降、漢方だけでなく、鍼灸や按摩といった療法も、民間療法として存続していくこととなるりますが、中尾氏は「しかし東洋と西洋という異なる出自を持った二つの医学は、精神療法や霊術などの民間療法を含め、治療法という医療における重要な部分で、重なりあっていた」と述べます。西洋医学と漢方医学・民間療法の橋渡しとなる療法、それが「物理療法」と呼ばれるものでした。
その物理療法について、中尾氏は「おわりに」で以下のように述べるのでした。
「物理療法は現在、医学のなかでは理学療法や作業療法という名で存続している。民間療法においても電気療法、光線療法、温熱療法といった名で存続している。物理療法がこのように医学と民間の双方で生きながらえているのは、その効果が科学と非科学のあいだにあるからに他ならない。不可視エネルギーが身体にどのように作用するかは、いまだ未知数――数値化することが不可能――である。それは、計測しえない心身の状態によって左右されうる。それゆえ、Rayと霊は、ともにこの世界に存在し続けているのである」
第二章「松本道別の人体放射能論――日本における西欧近代科学受容の一断面」では、文化史研究家の奥村大介氏が、日本の明治期から昭和前期にかけて主張された独特の自然観・人体観を、「放射能」と「不可秤量流体(ふかひょうりゅうたい)」という科学的概念に注目して考察しています。奥村氏は「そこには西欧科学思想需要期に特有の綺想的な思想文化が見出される。それは帝国大学を中心とするアカデミズムからは遠い、いわば辺縁にあった人物である霊術家・松本道別(1872[明治5]-1942[昭和17])を通して描き出される日本近代の一断面である」と述べています。
「不可秤量流体」とは聞きなれない言葉ですが、奥村氏は「不可秤量流体(les fluides impondérables)とは、文字どおり、重さや体積などを計量できない――しばしば目にも見えず知覚することもできないとされる――流体のことである。もともと西欧の近世・近代の科学思想のなかで物理・化学・生物現象を説明するために導入された概念であり、熱現象を説明するために想定されたカロリック(le calorique)、燃焼現象の説明のために用いられたフロギストン(le phlogistique)、生体のさまざまな仕組みの説明原理であった動物精気(les esprits animaux)、そして光や重力を伝えるとされたもっとも普遍的な流体であるエーテル(l’éther)など、各種の『微細な流体』(les fluides subties)が仮想された」と説明しています。
この中でも「エーテル」は特に有名です。奥村氏は「化学理論の発展、生理学・解剖学的知識の蓄積、熱力学の形成によって、フロギストン、動物精気、カロリックなどが否定され、各種のエネルギー概念や生体の定量可能な電気・化学的作用(神経の電位変化や内分泌系の作用)として理解されるようになっても、エーテルが本当に存在するのか否かという問題は、19世紀末あるいは20世紀初頭まで、西欧の科学思想において、重大な関心事であり続けた」と述べます。
「エーテル」と並んで、有名なのが「動物磁気」です。
動物磁気とは、ドイツに生まれ主としてパリで活躍した医師メスメル(Franz Anton Mesmer,Frédéric-Antoine Mesmer,1734-1815)が提唱した概念です。奥村氏は「メスメルが18世紀末に行なった動物磁気治療術(メスメリスム〉(le mesmérisme)は、宇宙にあまねく拡がる不可視にして不可秤量の磁気流体をコントロールし、人体内部のこの流体の流れを整えることで、心身の疾患を治療するという術であった。今日では、一種の催眠術と考えられるこの療術は、18世紀末の欧州各地そして新大陸をも席巻する一大流行となる。メスメルの一派は調和協会なる結社をつくってメスメリスムの普及をはかり、この活動は順調に成果をあげる。そしてこの協会は、フランス大革命へと至る政治的急進思想を育む秘密結社のような役割を果たす)と説明しています。
メスメリスムは明治期の日本にも影響を与えました。「日本におけるメスメリスムの受容と流行」として、奥村氏は以下のように述べています。
「明治期においてメスメリスム=催眠術は日本に盛んに紹介され、一種の文化的な流行現象の様相を呈している。たとえば、夏目漱石の『吾輩は猫である』(1905[明治38])には、苦沙弥先生が医師の甘木から催眠術を施される(が、まったく催眠にかからない)という描写がある。また、さきに言及した森鷗外にも『魔睡』(1909[明治42])という小説がある。これは妊娠中の妻が医師に魔術(催眠術)をかけられ眠っているあいだに陵辱されたのではないかという疑念をもつ夫(大学教授)の心情吐露という体裁の物語である」
続けて、奥村氏は「あるいは、谷崎潤一郎の『幇間』(1911[明治44])では、梅吉という芸者が幇間の三平に催眠術をかけ、実際には術は効いていないのだが、三平は梅吉を喜ばせるために催眠にかかったふりをするという場面がある。バルザックやシェリーら19世紀前半の西欧の文学者が作成のテーマを扱ったように、20世紀初頭の我が国の文学にも、紹介されたばかりの催眠術がさっそく描かれていたわけである」と述べています。
Ⅱ「産み出す〈気〉と産み出される〈思想〉」の第一章「政教分離・自由民権・気の思想――川合清丸、吐納法を以て天下国家を平地す」では、「はじめに」の冒頭を、栗田英彦氏が以下のように書きだしています。
「『気』は、東アジアの思想史において不可欠な概念である。古代中国に端を発し、中国思想の輸入とともに日本列島にもたらされた気の概念は、近世には、養生論(健康法)から社会政策にまでおよぶ、特定の思想や宗教に止まらない知の共通基盤となっていた。しかし明治維新以降、「文明開化」の推進によって西洋諸学の概念と方法が公式に導入され、気の思想の地位は相対的に低下していくことになる。とはいえ、これによって、気の観念が消滅したわけではない。気は、さまざまな日常語として状在し続けていたし、本書の諸論考が示すように、西洋諸学の概念を組み込みながら、民間精神療法(霊術)、修養、食養などの実践のなかで再構築されていた。近現代における気の思想と実践は、こうした代替療法運動のなかで賦活されていったのである」
続けて、栗田氏は以下のように述べています。
「こうした運動の思想的意義については、島薗進『〈癒す知〉の系譜』(2003年)が論じている。島薗によれば、代替療法運動は、単に『迷信』として切り捨てられるべきものではなく、『正統文化』『主流文化』となった近代科学のゆがみを照らし出す『異種の光源』とも呼べ『民間』の知であり、さらに、生活現場から立ち上がりながら、『生きがいある生とは何か』という問いに答えうるような宗教思想、宗教運動であるとされる。近代思想史において代替療法を扱う意義を示した重要な議論だといえよう」
また、「平田国学と気の思想」として、栗田氏は、明治維新は近代科学と結びついた「文明開化」のみならず、「復古」の側面を持つことを指摘します。それはまず、1868(慶応3)年の王政復古の大号令、翌明治2年の神祇官設置、翌々年の大教宣布の詔に始まる大教宣布運動として現れますが、この運動を推進するにあたって重要な役割を果たしたのが、平田篤胤(1776-1834)の国学であったとして、「明治維新のイデオロギーとして、平田派国学が果たした役割は大きい」と述べています。
篤胤の描きだす神道的世界観(復古神道)は多元的な構造を持ちますが、栗田氏は主に3つに分けます。1つめは、造化三神(天之御中主神・高産霊神・神産霊神)の働きによって天地万物が生まれたという創造神話です。2つめは、天を天照大御神が地を皇孫(=天皇)が主宰するという統治神話であり、平田独自の顕幽の二元的世界です。そして3つめは、天皇が「顕界」(=現世)を主宰するのに対して、大国主神が死後の霊魂の行き先である「幽界」を主宰するというものです。栗田氏は「平田は、死後の霊魂の行方を定めることが『大倭魂』の確立において重要だと考えていた。こうした創造神話や祭神や顕図の世界観を重視する神道説を、ここでは〈神道=神話論〉と呼んでおく」と述べています。
Ⅲ「還流するレイキ」の第一章「大正期の臼井霊気療法――その起源と他の精神療法との関係」では、「レイキ」が取り上げられます。「レイキとは何か」として、明星大学等の非常勤講師で宗教社会学者の平野直子が、「『レイキ』というピーリング技法がある。手のひらを体にあて、そこから「レイキ(霊気)」と呼ばれる一種の生命エネルギーを流すことで、心身の調子を整えようというものだ」と説明しています。平野氏は、「レイキは宇宙に満ち、万物に流れる癒しのエネルギーであり、基本的に人間は誰もがそれを利用できるとされる。ただし、人間は普通の状態ではそれをうまく扱えない(『つまっている』『うまくつながらない』などと言われる)ため、『マスター』『ティーチャー』などと呼ばれるランクの高いセラピストから『霊授』『アチューンメント』という一種の儀式を受け、それを調整する必要がある」とも述べています。
「儀式」と聞くと興味が湧きますが、平野氏は「この儀式はたいてい、セラピストが開くセミナーにおいて、基本的な知識のレクチャーや、手当てや呼吸法などの実修などとあわせて行われる。セミナーを受けるには、一定の受講料(日本では数万円台)が必要とされる。初級のセミナーを受ければ、レイキを使った癒しが自分でできるようになるが、さらに『遠隔治療』などの高度な能力を得たければ、より上級のセミナーを受け、より『深い』知識や技法、癒しの力を強める『シンボル』(手当ての前に指で描いたりする特殊な図像)を学ぶことになる」と説明しています。
また、「レイキと日本の1920年代におかる『精神療法』」として、平野氏は以下のように述べています。
「世界中のレイキ実践者にとって、日本は非常に重要な国なのである。日本は彼らが尊敬するレイキの考案者、臼井甕男の出身地だからだ。宇宙の癒しのエネルギーに身を預けてリラックスし、心身ともにこだわりをなくすことで、より良い状態へと向かう――こうしたレイキの考え方は、臼井を生んだ日本の霊的・精神的背景から生まれたのだと理解されやすい。臼井は禅の修行を行ったあと、京都の鞍馬山で21日間の断食を行った末、レイキを『感得』したとされている。鞍馬山には今、この臼井の体験をしのび、レイキの真髄に触れようと試みる、世界中のレイキ実践者が訪れている」
臼井甕男が考案したレイキとは何だったのか?
平野氏は、「臼井が考案したレイキ(霊気療法)は、当時流行していた代替療法―近代的な、生物医学に基づく医療制度が普及した社会で、それらへの不満を背景に生まれるオルタナティブな医療――のひとつであり、なかでも当時『精神療法』と呼ばれていたグループに属するのだった。この『精神療法』は、催眠術を下敷きに、古今東西の心身に関する知や技法を組み合わせて作られたもので、その発案者たちからすれば伝統を受け継ぐものというより、『最新(もしくは次世代)の治療法』だった」と述べています。
さらに、「精神と身体をつなぐ理論」として、平野氏は以下のように述べています。
「1903(明治36)年を中心とした大ブームのあと、1908年に催眠術の濫用は法的処罰の対象になったのだが、桑原天然や古屋鉄石といった催眠術の教授団体を主宰していた人々の一部は、そのまま『精神療法家』『霊術家』として活動を続けていった。このことから、在野の催眠術教師たちが規制をきっかけに『精神療法』に看板を掛けかえていったと表現されることが多い。ただそれだけではなく、催眠術のブームは当時の人々が『精神療法』を理解する土壌を作ったとも考えられるのである」
では、「精神療法家」とは何だったのか?
「精神療法家」たちは、古今東西のさまざまな概念や考え方を寄せ集め、組み合わせて、しばしば壮大な世界観や体系をつくり出したとして、平野氏は以下のように述べています。
「『不可視であるが物質にはたらきかけ得るもの』という発想は、当時の物理学における『エネルギー』『光線』『放射線』などと重ねあわせられた。つまり、精神や霊は、不可視ではあるが身体の生物学的・生理学的プロセスに影響を与えうる、生命の『エネルギー』なのである。さらにこの生命エネルギーたる精神や霊は、『気』や『プラーナ』『オーラ』といった、各地の伝統のなかにあった「生命力」のような概念と結びつけられた。このような精神や霊の力は、瞑想や座法、呼吸法などの実践で、活性化させたり、操作したりすることができるとされた。これにより、心身の状態を整えたり、向上させたりすることが、病気治療となるのである。また、活性化した精神や霊の『エネルギー』をお手当てなどで伝達することにより、他人の病気治療も行えるという」
そして、平野氏は「このような考え方の代表例は、やはり田中守平の太霊道だろう。太霊道は1910年に創設された、『精神療法』団体の草分け的な存在で、しばしばその代名詞でもあった。田中は、宇宙や社会、自己などすべての根本となる実体を『太霊』と呼び、物質も精神も、太霊の一部である『霊子』が『発現』したものであるとした。霊子の『有機的発動』が精神、『無機的発動』が物質(身体)で、両者の結びつきが生命であるとされる。田中は太霊と霊子の理論により、心身を一元論的にとらえて扱うことを目指しているが、その説明には一貫して『無機/有機』『物質/精神』という二項対立が貫かれている」と述べるのでした。
井村宏次の『霊術家の饗宴』や『霊術家の黄金時代』を読んで、霊術や精神療法というものに興味を抱いたわたしに、本書は最新の研究成果を学ばせてくれました。最近は感染症やウイルスの本ばかり読んでいたわたしは、未知の身体科学についてのイマジネーションの翼を広げることができました。現在、新型コロナウイルスが世界中で猛威をふるっていますが、100年前はスペイン風邪が猛威をふるっていました。当時は霊術家や精神療法家の全盛期だったはずですが、彼らは不可視のウイルスに対してどのように考え、どのように感染予防し、どのように治療していたのでしょうか。そのことが非常に気になりました。