No.1874 プロレス・格闘技・武道 | 評伝・自伝 『金狼の遺言―完全版―』 上田馬之助・トシ倉森/共著(辰巳出版)

2020.05.13

『金狼の遺言―完全版―』上田馬之助・トシ倉森/共著(辰巳出版)をご紹介します。2012年に刊行された本で、2011年12月に亡くなった名悪役レスラー、上田馬之助が”真実”だけを語った衝撃の自伝です。彼が自身の人生を赤裸々に振り返った東京スポーツ紙の人気連載(2007年1月~5月掲載)「上田馬之助 金狼の遺言」に、大幅な加筆・修正を加え、単行本化されました。1996年3月の交通事故後、壮絶なリハビリ生活を送っていた上田が生前に残した「真実」を、彼が最も信頼を寄せていたプロレス記者、トシ倉森氏が口述筆記。日本プロレス界を代表する名レスラーたちの実像や、現役時代に起こした数々の「事件」の真相を激白し、初めて明かす秘話が多数掲載されています。

上田馬之助は1940年6月20日、愛知県海部郡出身。大相撲を経て、60年に日本プロレスに入門。73年3月、大木金太郎とのコンビでインターナショナル・タッグ王座を獲得。日プロ崩壊後は全日本プロレスに合流するも、73年10月に離脱。フリーランスとなり、アメリカで活動する。76年5月、国際プロレスに逆上陸。翌77年1月からは新日本プロレスに参戦し、タイガー・ジェット・シンと合体。日本人ヒールとして確固たる地位を築きました。その後は全日本、NOW、IWAジャパンなどに参戦。96年3月、自動車事故で頸椎を損傷し、胸下不随となりました。以降、リハビリ生活を続けていましたが、2011年12月21日に呼吸不全により逝去。

本書の帯

本書の帯には在りし日の上田馬之助の写真とともに、「プロレス専門誌『G SPIRITS』単行本シリーズ第2弾!」「”昭和の名悪役”上田馬之助が残した最後の言葉を聞き逃すな!!」「日本マット界分裂の引き金となったアントニオ猪木クーデター未遂事件の真相も激白」「寛ちゃん、犯人は俺じゃない。裏切ったのは馬場さんなんだ」と書かれています。

本書の帯の裏

帯の裏には「試合前からやろうと思い、相手の腕を折ったレスラーは私くらいだろう――」「『セメント』をキーワードに上田馬之助がレスラー人生を赤裸々に振り返る」「道場で行われた俺と馬場、猪木のスパーリング/力道山の命令によりガチンコで開催された日本プロレスの若手トーナメント『関西の牙』/アメリカ人柔道家との知られざる果し合い/テネシーでのトージョー・ヤマモト腕折り事件/誰もが怖れる”最強”ダニー・ホッジとの不穏試合/大木金太郎の依頼で遂行したパク・ソンナン潰し/オリンピック・レスラーたちとの道場マッチ/ライバル団体の旗揚げ戦に殴り込み/賭けアームレスリングで一儲け/俺が認める日米のセメント・レスラーたち」と書かれています。

本書の「目次」は、以下の通りです。
「まえがき」
第一章 5歳の時、私は左耳の聴力を失った
第二章 相撲部屋を抜け出し、力道山門下生になった日
第三章 力道山道場でセメント・レスリングをマスター
第四章 密室で行われた猪木さん、馬場さん、大木さんのスパーリング
第五章 猪木さんと2人で看取った師・力道山の最期
第六章 心の師・吉村道明さんの教え
第七章 オリンピック・レスラーとの道場マッチ
第八章 ビジネスを守るために挑んだ柔道家との他流試合
第九章 酒場での賭けアームレスリングで一儲け
第十章 トージョー・ヤマモト腕折り事件の真実
第十一章 ボブ・ループとライバル団体の旗揚げ会場に殴り込み
第十二章 NWA世界ジュニア王者ダニー・ホッジは最強か?
第十三章 幻に終わったエルヴィス・プレスリーとの対面
第十四章 猪木さんが追放されたクーデター未遂事件の真相
第十五章 日本プロレス崩壊後、馬場さんから受けた屈辱
第十六章 国際プロレス・吉原功社長への恩義
第十七章 ‟奥の手”を使って新日本プロレスに参戦
第十八章 憎き馬場さんの全日本プロレスに逆上陸
第十九章 セメントが強かった海外のトップレスラーたち
第二十章 私がセメントの実力を認める日本人レスラーたち
第二十一章 今こそファンの素朴な疑問に答えよう
第二十二章 力道山を破ったアンドレ・アドレーと再会
第二十三章 日本マット界再興のために、本物の強さを取り戻してくれ
第二十四章 96年3月16日、私のレスラー生命は絶たれた
第二十五章 生きる糧を失い、自殺を考えた日々
第二十六章 上田裕司より、最愛の妻・美恵子へ
第二十七章 オヤジの教えは「酒はレスラーらしく豪快に飲め!」
第二十八章 かつての盟友・アントニオ猪木への遺言
あとがきにかえて「上田vsホッジのセメントマッチを目撃したヤス・フジイの証言」

第二章「相撲部屋を抜け出し、力道山門下生になった日」では、プロレス入りする前に入った角界は封建的な事柄があまりにも多すぎましたが、その反面、「後の人生で役に立つ多くのことも学んだ」と書かれています。たとえば、礼儀作法もそのひとつだとして、以下のように述べられています。
「ある武道の達人が『挨拶さえしっかりしていれば、世の中の争いごとが3分の1に減る。それが世界平和にも繋がる』と話していた。まさしく正論だと思う。挨拶は、人間社会においてコミュニケーションの第一歩である。だから、多民族国家のアメリカでは、挨拶がなによりも重要視されている。最初に『私はあなたに敵意を持っていませんよ』とお互いに示すわけだ」

吉原功

第三章「力道山道場でセメント・レスリングをマスター」では、上田には2人の偉大なレスリングの師匠がいることが紹介されます。1人が吉原功です。
「吉原さんは、名門・早稲田大学のレスリング部で大活躍した人で、アマレス仕込みのテクニックは抜群だった。日本プロレスでも屈指の業師であり、力道山先生にもアマレスのテクニックを教えていた。レスリングのレの字も知らない私に、吉原さんはわかりやすく1から教えてくれた。大学出だけあって、教え方も理に適っていた。私は吉原さんの人柄も尊敬していたから、毎日レスリングを教えてもらうことがとても楽しみだった。お陰でアマレスのタックル、バックの取り方、グレコローマン流の投げ技など大事なレスリングの基礎を叩き込まれた」

大坪清隆

もう1人の師匠が、大坪清隆です。
「大坪さんは‟鬼の柔道”と謳われた木村政彦さんの団体、国際プロレス団にいた人で柔道五段の猛者だった。その大坪さんからは、スポーツ柔道ではない柔道、つまり柔術に近い関節技を中心に教わった。相手を極める危険な柔道技だ。68年にカール・ゴッチが日本プロレスにコーチに来た時には、アシスタントを務めるぐらい指導者としての腕も最高だった。もちろん実力はピカイチで、大坪さんには徹底的に関節技を仕込んでもらった。それこそ毎日が血ヘドを吐く稽古だった。だが、不思議とそれを苦とは思わなかった。スター候補生の猪木さんも同じ稽古に耐えていた。それを思うと、どんなに厳しくても我慢できたのである。今、私があるのは大坪さんのお蔭と言っても言い過ぎではない。私のバックボーンであるセメント・レスリングの要となるサブミッションは、ほとんどが大坪さんから教えてもらった関節技を自分流にアレンジしたものだ」

第四章「密室で行われた猪木さん、馬場さん、大木さんのスパーリング」の冒頭には、力道山について以下のように書かれています。
「力道山先生、ここからは尊敬の念と親しみを込めて『オヤジ』と呼ばせてもらおう。オヤジは、大相撲という実力の世界で関脇まで登りつめた人だから、セメントの重要性を誰よりも知っていた。だから、道場での稽古はセメント重視の内容だったし、マスコミがいない時は若手レスラーにセメントのスパーリングばかりをさせ、セメントによるトーナメントも開催した」

プロレスの覇者・力道山は「強さ」を重要視していたわけですが、61年のある日、力道山は最も信頼していた往年の名レスラーで当時はレフェリーとして活躍していた沖識名だけを道場に残し、他の者を全員外に追い出しました。そして、3人のスター候補生である大木、馬場、猪木にセメントのスパーリングを命じました。上田は述べます。「私が後から聞いた話では、3人の中で、まず最初に馬場さんが脱落した。そして、残った大木さんと猪木さんが勝負した。激しいスパーリングの末、結局この勝負は付かなかった。この時、オヤジは将来を託すレスラーをこの2人に決めたのではないか。おそらくこの日から、猪木さんはライバルの馬場さんに対して絶対の自信を持ったのではないかと思う。だからこそ猪木さんはオヤジ亡き後、日本プロレスでトップとして君臨し続ける馬場さんに対して、挑戦の意志を常に持っていたのだろう。猪木さんの心の奥底では、『セメントができないレスラーがトップに立つのは許せない。セメントの強い者が上に立つのがプロレスの世界だ』というプライドがあったはずだ」

さらに、上田は馬場についてこう述べます。
「私は馬場さんをセメント・レスラーとは思わない。なぜなら、私はスパーリングで馬場さんの実力を知っているからだ。ある時、オヤジに馬場さんとのスパーリングを命じられた。私は馬場さんを首投げでマットに倒すと、得意の腕固めを極めた。すると、オヤジが突然ストップをかけた。オヤジにとっては、予想外の展開だったのだろう。この時、道場にはスポーツニッポンと日刊スポーツの記者もいた。これが結果的に、私にとって不運だった。機転を利かせた吉村道明さんが、中に入ってうまく絵を作った。結局、私は逆に馬場さんの股裂きを食う羽目になったのである。スター候補生の馬場さんだったから仕方がないと思う反面、非常に悔しい思いをした」

上田馬之助が望むレスラーの条件は、次の5つです。
1.基本がしっかりしていること。
2.誰が見ても体がレスラーに見えること。
3.打たれ強いこと。
4.お客さんと勝負できること。
5.いざというとき、セメントで勝負できること。

第五章「猪木さんと2人で看取った師・力道山の最期」では、恩師・力道山の臨終時に猪木と上田が立ち会ったことがリアルな筆致で書かれています。
「オヤジは苦しそうに『水をくれ!』『起してくれ!』と言った。だが、それは看護師さんに止められて叶わなかった。そして、それがオヤジの最後の言葉となった。容態が急変して、息を引き取るまで20分くらいだったと思う。見る見るうちに、オヤジの顔から血の気が引いていくのがわかった。私の頭は真っ白になった。昭和のヒーロー、一番強い私たちの先生が亡くなった。私と猪木さんはお互いに言葉が出なかった。まるで時間が止まったかのようだった。看護師さんが『口に脱脂綿で水を』と私たち2人に促した。最初に猪木さんが、その後に私も震える手でオヤジの口に水を浸した。それからは、看護師さんたちがオヤジに処置をする姿をただ呆然と見ていた」

第六章「心の師・吉村道明さんの教え」の冒頭には、以下のように書かれています。「私がオヤジ以外で最も尊敬するレスラーは、吉村道明さんだ。吉村さんの歴史は、日本プロレスの歴史と言って良い。スター選手たちのタッグパートナーとしても活躍した最高の功労者である。実際に吉村さんは、日本プロレスの6人のスター選手をリング内外でサポートし続けた。その6人とは、まず日プロを創設したオヤジ、継ぐがオヤジ亡きあとの看板だった豊登さん、オヤジの門下生の3人、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、大木金太郎、そして最後は坂口征二だ。オヤジを除けば、吉村さんがいたからこそ誰もがスターの地位を不動のものにできたといっても過言ではない。それほど吉村さんの縁の下の力は大きかった」

吉村道明は、61年4月に初来日したカール・クラウザー(カール・ゴッチ)とシングルマッチを行いましたが、それについて以下のように書かれています。
「2人のテクニックが文字通り流れるようにリング上で繰り広げられた。ゴッチのヨーロッパスタイルのテクニックに対して、吉村さんは日本人レスラーの意地を見せて一歩も引かなかった。テクニックでがっぷり四つに組み、甲乙付けられなかった。この一戦を見て、プロレスファンになった人も多いと思う。まさに西洋と日本を代表するテクニシャン同士の対決で、私も手に汗を握った一戦だった。これだけの実力がある吉村さんが、タッグマッチでは自分を捨ててパートナーを大いに引き立ててみせた。周りの石がみんなダイヤモンドだったら、どれも輝きは同じに見えて目立たない。だが、吉村さんは自分の放つ光を微調整しながら、試合を進めることができたのである。今のマット界には吉村さんのようにうまく光をコントロールしながら試合を展開できるレスラーは、私の知る限り数えるほどしかいない。これは私が勝手に思うことだが、吉村さんは海軍に志願しただけあって日本人特有の潔さがあった、それが‟火の玉レスラー”と呼ばれるゆえんだろう」

一条真也の読書館『最強の系譜』で紹介した本では、真のセメント・レスラーとして、ルー・テーズ、カール・ゴッチ、ダニー・ホッジらが紹介されていました。第十二章「NWA世界ジュニア王者ダニー・ホッジは最強か?」では、「ホッジは私が対戦したジュニアヘビー級の選手の中で、最強だったことは間違いない」とした上で、さらには「最高のセメント・レスラー」としてルー・テーズの名を挙げています。タッグマッチながら、テーズと2度対戦した上田は以下のように述べます。

「テーズは、オヤジとやり合った世界のチャンピオンである。私は試合の前から、かなり興奮していた。テーズと対戦することが、レスラーになってからの目標であり、夢だった。この時、嬉しさのあまりか試合で初めて足が震えたのを憶えている」

上田が実際に戦ったテーズの印象はどうだったのか?
「私がファーストコンタクトでまず感じたのは、テーズの体が本当にガチガチだったことだ。よく‟鉄人”というニックネームを付けたものだと感心する。まさに全身が鋼鉄のようであった。試合を通して一番うまいと思った点は、相手が力を抜くタイミングを見逃さないことである。テーズは、相手が息を吐く瞬間に攻撃してくる。息を吐く時は、当然どんなレスラーも力が入らない。そこをレスリングの鉄人はちゃんと心得ている。言わば、闘いの極意だ。サブミッションの技術もアメリカのレスラーの中では最高だった。仕掛け方が私のスタイルに似ていた。相手の力を利用し、自分は無駄な力を出さない。肉体もヘビー級ならではの重量感と圧力があった」

第十七章「‟奥の手”を使って新日本プロレスに参戦」では、上田にとって最高のタッグ・パートナーであったタイガー・ジェット・シンとの出会いを語っています。
「正直に言えば、最初に会った時は『態度がデカいヤツだなあ』と思った。彼も一匹狼としてアメリカやカナダで苦労してトップを取って来たので、ナメられたくなかったのだろう。驚いたことに、タイガーは私のリング内外のアドバイスに最初から耳を傾けた。彼が日本でビッグチャンスを掴もうと考えていたことは間違いない。さすが一流レスラーの頭は柔軟だと感心した。私も彼となら今までにない凄いチームが組めるかもしれない、と直感的に思った。想像していた通り、タッグを組むにつれて、私たちはリング上でも息がピッタリと合ってきた。初対面の印象とは異なり、タイガーは人間性も悪くない。なによりヒールレスラーとしての度胸と実力があった。まさにヒールをやるために生まれてきた男をパートナーに得て、今までにない不思議な感覚が私に芽生えた。その後は、まさに阿吽の呼吸というやつである。タイガーも私とのコンビを大いに気に入ってくれたし、公私ともに私を信頼してくれた」

第二十章「私がセメントの実力を認める日本人レスラーたち」では、日本人のセメント・レスラーとして、アントニオ猪木、坂口征二、長州力、前田日明、藤原喜明、山本小鉄、ヒロ斉藤、天龍源一郎、ジャンボ鶴田、星野勘太郎、安達勝治(ミスター・人)、北沢幹之、木戸修、鶴見五郎、栗栖正伸、鈴木みのる、アポロ菅原らとともに、高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)の名前を挙げ、「高千穂クンは早くから海外で活躍し、後に”東洋の神秘”ザ・グレート・カブキとなって全米に旋風を巻き起こした。これは偶然ではなく、彼の努力の結晶だと思う。基礎がしっかりしていてセメントも強いから、本場アメリカでも常に堂々とメインを張っていた。一時期、私はテングーというリングネームでダラスのリングに上がったことがあるが、この時に高千穂クンには公私ともに大変お世話になった。いつも私のことを先輩として立ててくれた。彼に『ここはアメリカで先輩後輩は関係ないよ。それに君がここの大スターなんだから』と言ったことがある。彼の大成功は、私も本当に嬉しかった」と述べています。

また、上田の付き人をしていた桜田一男(ケンドー・ナガサキ)の名前も挙げて、こう述べています。

「桜田クンは相撲の世界でも将来を大いに嘱望されていたが、十両入り目前でプロレス界に入ってきた。親方も非常に残念がったようである。だから、誰よりも馬力があり、喧嘩も滅法強かった。桜田クン独特の蹴りは、空手の達人も非常に実戦的だと認めていた。後年、桜田クンは総合格闘技の試合に出て敗れたが、レスラーの宿命である相手との『間』を見過ぎたのではないかと思う。彼はストリートファイトでは無敵だった。安達クンの話では、ピストルを持った男に対しても臆することなく向かっていったそうだ。普段は非常に穏やかだが、怒らせると怖い男である」

さらには、桜田と71年入門同期のキラー・カーンこと小沢正志の名前も挙がっています。

「彼は桜田クンと同じく相撲の幕下まで務めた。幕下まで上がる力士は相撲力が強く、喧嘩も強い。私は桜田クンと同様に、小沢クンにも日プロの道場で稽古をつけた。若手時代から私より体が大きくて、素質も十分だった。いつかは開花すると思っていたが、ニューヨークに行って大きく花が咲いた。WWFで本当のトップを取った日本人はキラー・カーンだけだと思う」

そして、聞いた話を総合すると髙山善廣もトップ・クラスのセメント・レスラーであるとして、以下のように述べています。
「私は、髙山クンとドン・フライが壮絶な殴り合いを繰り広げた試合をビデオで観て唸った。オヤジが観たら、きっと喜んだと思う。あれこそ、レスラー魂だ。私が日プロに入った頃、オヤジがみんなにああいうど突き合いの稽古もやらせていたのを思い出した。髙山クンも脳梗塞という重度の病を乗り越えてリングに立っていると聞いたが、体を大事にしてほしい。ダニー・ホッジが彼の雰囲気を『日本のハルク・ホーガン』と絶賛していたそうである。セメントはホーガンより髙山クンの方が強いだろう」
その髙山は、現在、「頸髄完全損傷」からのリハビリに懸命に挑んでいます。上田馬之助といい、髙山善廣といい、プロレスラーが重傷を負うと、無性に悲しいです。

第二十三章「日本マット界再興のために、本物の強さを取り戻してくれ」では、セメント・レスラーとしての誇りを持つ者として、以下のように訴えます。
「プロレスの人気回復には、本当にセメントが強いレスラーを育成することが先決である。30歳台の現役時代に総合格闘技の出場オファーが来ていたら、私は間違いなく出ていたと思う、そして、プロレスの威信を賭けて戦った。こう見えても、私は打たれ強い。さらにヘッドバットがOKなら、文句ナシである。人間の大きな武器のひとつであるヘッドバットを禁止するのはナンセンスだ。だから、何でも有りでヘッドバットも許されるプロレスが最強だと思う。私の知る限り、昔から頭での攻撃が許されていたのはプロレスと大相撲だけだ」

上田馬之助は、96年3月、自動車事故で頸椎を損傷し、胸下不随となりました。以降、苦しいリハビリ生活を続けました。第二十五章「生きる糧を失い、自殺を考えた日々」では、耐え切れない痛みと生きる糧が定まらない苦しさから自殺を考え続けた後、やっと自分の力で車イスの車輪を押せるようになったことを告白し、以下のように述べます。
「なぜ『押す』という表現を使うかと言えば、握ることができず、上から車輪を押さえながら前に進むからだ。ここに来るまでも、私は革の手袋をいくつか潰しても誰もが驚くほどリハビリに励んだ。日本プロレス時代の厳しい稽古が、いつも脳裏にあった。私は稽古で弱音を吐いたことはない。車輪を1回押すたびに、ヒンズースクワット1回だと思った。これを100回、200回、300回と無意識で数えるようになった。道場で聞いた吉村道明さんの『努力はウソをつかない』という言葉を思い出していた」

そんな上田を献身的に支えてくれたのが妻の恵美子さんでした。本書には、恵美子さんのひとかたならぬ苦労の様子が紹介されています。そんな彼女に上田も心から感謝の念を抱くのでした。
「恵美子は私が事故に遭って不自由な体になってから、籍を入れてくれた。そして、いつも『2人で頑張りましょう』と言ってくれた。これが、なによりの励みとなった。恵美子の支えがあったからこそ、こうして私は最高の”上田病院”で生きていられるのである。すべて恵美子がいなければ、できないことばかりだ。いつも恵美子に言っていることがある。それは今度生まれ変わったら、私はレスラーよりも大統領になりたい。それも、これからは宇宙の時代だから”宇宙の大統領”になりたい。恵美子をもっともっと幸せにしたい。そして、弱者にも優しく住み良い宇宙にしたい。それが私の願いである」この一文を読んだとき、あまりに切なく、わたしは泣きました。これほど感謝と愛情に溢れた妻へのラブレターを他に知りません。

上田馬之助は師匠であった力道山をこよなく尊敬していましたが、第二十八章「かつての盟友・アントニオ猪木への遺言」で、力道山と似ているのが猪木であり、「オヤジの薫陶を得たからか、同じ感覚・感性を引き継いでいる」として、以下のように述べます。
「第一にレスリングの実力だ。レスラーとしても奥の深い猪木さんは相手の力をうまく引き出せるし、その上でベストの試合を提供できた。ドリー・ファンク・ジュニアを筆頭にクリス・マルコフ、カール・ゴッチ、タイガー・ジェット・シン、アンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガンと数えたら切りがないほどだ。ファンのみなさんにはわからないと思うが、猪木さんのスラィディングしてのキックと延髄斬りは、相手に致命的なダメージを与えることができる。これは嘘ではない。試合で何回か食ったが、そこでこちらの攻撃が止まってしまう。単なる見世物的な技ではない。猪木さんはことプロレスに関しては、天才的なセンスを持っている。やはりプロレスラーになるために生まれて来たのだろう」

上田馬之助が、ここまでアントニオ猪木を高く評価していたとは知りませんでした。本書は貴重な証言にが満載で、セメント・プロレスについての第一級の資料であると思います。上田馬之助選手は、2011年12月21日に呼吸不全により亡くなられました。心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。

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