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2020.05.28
27日、社外監査役を務めている互助会保証の監査役会および取締役会にリモート参加しました。この日はZoomではなく、Microsoft Teamsを利用しましたが、ここのところリモート会議の連続ですっかり慣れました。コロナ終息後も、この方式は続きそうですね。もっとも次回会議は7月21日ですので、緊急事態宣言の解除された東京に行く予定です。
さて、『感染症と文明』山本太郎著(岩波新書)を読みました。いま、岩波新書の中でも最も読まれている本で、「共生への道」というサブタイトルがついています。著者は天下布礼日記「葬式ごっこを許すな!」で紹介した元国会議員と同姓同名ながらも別人で、1964年生まれ。1990年、長崎大学医学部卒業。医師、博士(医学、国際保健学)。京都大学医学研究科助教授、外務省国際協力局を経て、長崎大学熱帯医学研究所教授。専門は国際保健学、熱帯感染症学。アフリカ、ハイチなどで感染症対策に従事。
本書のカバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「感染症との闘いは人類に勝利をもたらすのだろうか。防疫対策による封じ込めは、大きな悲劇の準備にすぎないのかもしれない。共生の道はあるのか。感染症と人類の関係を文明発祥にさかのぼって考察し、社会が作り上げてきた流行の諸相を描き出す。共生とは理想的な均衡ではなく、心地よいとはいえない妥協の産物ではないか」
本書の「目次」は、以下の通りです。
プロローグ 島の流行が語ること
第一章 文明は感染症の「ゆりかご」であった
1 狩猟採集社会の感染症
2 疫学的転換
第二章 歴史の中の感染症
1 古代文明の勃興
2 ユーラシア大陸における疫病交換
コラム1「文明の生態史観」
第三章 近代世界システムと感染症
――旧世界と新世界の遭遇
コラム2「伊谷純一郎晩年の講義」
第四章 生態学から見た近代医学
1 帝国医療と植民地医学
2 「感染症の教科書を閉じるときがきた」
コラム3「野口英世と井戸泰」
第五章 「開発」と感染症
コラム4「ツタンカーメン王と鎌状赤血球貧血症」
第六章 姿を消した感染症
1 姿を消した感染症
2 新たに出現した感染症
3 ウイルスはどこへ行ったのか
エピローグ 共生への道
プロローグ「島の流行が語ること」では、北大西洋にあるフェロー諸島で1846年に麻疹が流行したことに言及し、7800人の島民のうち約900人が最後まで感染を免れたことを紹介した後で、著者は以下のように述べます。
「19世紀イギリスで起こった天然痘流行の際にも、ひどい流行にもかかわらず、感染を免れた人たちがいた。当時、最も多くの支持を得た仮説に、人から人へ感染を繰り返している間に、天然痘ウイルスの感染性が低下するというものがあった。すべての人が感染する前に流行が終息する理由として、この仮説はもっともらしいものだった」
しかし、モデル計算によれば、流行が終息していく理由として、病原体の感染性が低下する必要はありません。著者は、「流行の進展とともに、感染性をもつ人が接触する人のうち、感受性をもつ人の割合が低下する。そのことが流行終息の主な理由であることがわかる。言い換えれば、最後まで感染しなかった人は、すでに感染した人々によって守られたといえる。専門用語でいえば、これを『集団免疫』と呼ぶ」と述べます。最近、新型コロナウイルスの感染拡大についても、この「集団免疫」という言葉がよく使われますね。
また、「麻疹と人類史」として、著者は「麻疹は、人類最初の文明が勃興した頃、イヌあるいはウシに起源をもつウイルスが種を越えて感染し、適応した結果、ヒトの病気となった。ヒトが野生動物を家畜化し、家畜化した動物との接触が感染適応機会の増大をもたらした。ティグリス川とユーフラテス川に挟まれたメソポタミア地方(肥沃な三日月地帯)が、麻疹誕生の地となった。理由は、この地が人類史上初めて麻疹の持続的流行を維持するに充分な人口を有したからにほかならない」と述べています。
続いて、著者は「麻疹が社会に定着するためには、最低でも数十万人規模の人口が必要だという。それ以下の人口集団では、感染は単発的なものにとどまり、恒常的に流行することはない。数十万人という人口規模をもつ社会は、農耕が始まり文明が勃興することによって初めて地上に出現した。以降、人類は都市を作り、産業を興し急速に人口を拡大させていった。もちろん数百万年に及ぶ人類史のなかでは、こうした出来事も、きわめて近い過去のものでしかない」と述べます。
さらに、麻疹について、著者は「紀元前3000年頃メソポタミアに誕生した麻疹が、20世紀半ば、グリーンランドを最後についに『処女地』をなくす。麻疹が地球の隅々まで到達し定着するのに要した時間は、約5000年だった。これほど感染力の強い病気が、処女地をなくすのに5000年を要したとは。そのことに驚く」と述べています。
そして、著者は以下のように述べるのでした。
「5000年という時間をかけて、麻疹は処女地をなくし、あらゆる感染症のなかのありふれた病気の1つになった。麻疹の生物学的特性が、そうした時間を必要としたわけではない。むしろ人間社会の変化が、ついに麻疹をしてその処女地を失わせ、ありふれた病気の1つに押しやったというほうが正しい。大量輸送を含む交通手段の発達や、世界全体が1つの分業体制に組み込まれていく近代世界システムへの移行が、麻疹流行の様相を変えた。地球上のどのような辺鄙な場所であろうと、疫病的流行をするほど長く、麻疹の流入から隔絶される社会はもはや存在しなくなったのである」
第1章「文明は感染症の『ゆりかご』であった」では、「疫学的転換」として、人類と感染症の関係において転換点となったのは、農耕の開始、定住、野生動物の家畜化であったことが指摘されます。また、「病気とは何か」として、著者は「健康と病気は、ヒトの環境適応の尺度とみなすことができる。ここでいう環境とは、気候や植生といった生物学的環境のみでなく、社会文化的環境を含む広義の環境をいう」と述べています。
この考えは「健康と病気は、生物学的、文化的資源をもつ人間の集団が、生存に際し、環境にいかに適応したかという有効性の尺度である」というリーバンの定義と重なります。病気とは、ヒトが周囲の環境にいまだ適応できていない状況を指すわけです。一方、環境は常に変化するものであり、環境への適応には、適応する側にも不断の変化が必要になることを意味します。こうした関係は、小説『鏡の国のアリス』の中で「赤の女王」が「ほら、ね。同じ場所にいるには、ありったけの力でもって走り続けなくちゃいけないんだよ」と発言した言葉を思わせます。
第2章「歴史の中の感染症」では、「ギルガメッシュと疫病神」として、約1万1000年前に始まったメソポタミア文明の地における疫病の様子が、19世紀にアッシリア遺跡から発見された遺物のひとつ『ギルガメッシュ叙事詩』に記されていることが紹介されます。叙事詩の名は、主人公ギルガメッシュが、シュメールの都市国家ウルクに実在した王であることからこの名が付いたとされています。
叙事詩の中で、「大洪水よりまし」な4つの災厄の1つとして、疫病神の到来が挙げられています。著者は、「これは、麻疹や天然痘といった急性感染症が文明を周期的に襲ったことを示しているのかもしれない。メソポタミア文明は、急性感染症が定期的に流行するために必要なだけの人口規模を人類史上初めてもちえた文明であった。大洪水によって文明が消滅することがなかったように、急性感染症も文明を完全に破壊することはなかった。逆に、急性感染症の存在が、文明の中心地を狙う周辺の人口集団に対する生物学的障壁として働いた可能性もある」と述べています。
また、メソポタミア、中国、インド亜大陸、それぞれの地で興った文明と風土、感染症と社会について概略を見て後、そこには、「感染症と文明」を巡るいくつかの基本構造が存在することに気づくとし、著者は4つの基本構造を指摘します。第1は、文明が「感染症のゆりかご」として機能したということです。「メソポタミアに代表される文明は、人口増加を通して、麻疹や天然痘、百日咳に流行の土壌を提供した。結果として、これらの感染症はヒト社会に定着することに成功する」と述べています。
第2は、文明の中で育まれた感染症は、生物学的障壁として文明を保護する役割を担うということです。「メソポタミア文明にこの構造の原型を見る」と述べています。第3は、文明は、文明の拡大を通して周辺の感染症を取り込み、自らの疾病レパートリーを増大させるということです。「文明が自ら取り込んだ感染症は、その後、文明を守るための生物学的防御壁となる。同時に、文明の拡大を支援する強力な道具となった。中国文明およびインダス文明に、この構造の原型を見る」と述べています。
そして第4は、疾病の存在が社会のあり方に影響を与えるということです。「インド亜大陸に興った文明と社会に、その原型を見ることができる。多様な感染症の存在を考慮することなく、インドの社会や宗教を理解することはできないと語る研究者は多い」として、さらに「それぞれの文明がどのような感染症を「原始感染症」として選択するかは、文明がもつ風土的、生態学的、社会学的制約によって規定される。ひとたび選択された疾病は、文明内に広く定着し、人々の生活に恒常的な影響を与えると同時に、文明に所属する集団に免疫を付与する。その結果、感染症は、文明の生物学的攻撃機構、あるいは防御機構として機能する。こうした考え方は、歴史の中で感染症と文明を理解するための1つの枠組みを提供する」と述べています。
「感染症と文明」というテーマでは、シルクロード、すなわち「絹の道」の存在を忘れることはできません。著者は、「『絹の道』の成立は、ユーラシア大陸の各文明がもつ原始疾病の交換を促した。中国起源のペストが大陸の西側に持ち込まれたのも、そうした交換と均質化の1つであると考えられる。この時期、共和政ローマ(紀元前509~紀元前27年)では、少なくとも10回以上の悪疫流行があった。また、2世紀にローマ帝国全域に広がった疾病は、メソポタミアでの軍事行動から帰還した軍隊によってもたらされ、15年以上にわたって地中海世界で流行を続けたという」と述べています。「絹の道」は「文明の道」であるとともに、「病の道」でもあったのです。
次に「コンスタンティノープルとペスト」として、著者は以下のように述べています。「ペストは、542年から750年にかけて、首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)を繰り返し襲った。特に542年の流行は『ユスティニアヌスのペスト』と呼ばれ、最盛期には首都コンスタンティノープルだけで1日1万人が死亡したという。ペストは港から内陸へと広がり、地中海世界人口の4分の1が死亡した。遺骸はあまりに多く、埋葬が間に合わなかった。コンスタンティノープルにあった砦は、死体を高く積み上げることができるように屋根が取り払われ、一部は筏で海へと流された。これが契機となって、東ローマ帝国は衰退し、以降、西アジアに本拠地を置くイスラム教徒が、地中海世界で活発に活動を開始することになる」
同じ時期、中国でも人口の減少が記録されています。589年、隋が南朝の陳を滅ぼして中国統一を果たしました。西晋以来、じつに405年ぶりのことでした。しかし、高句麗遠征の失敗、大規模土木事業による財政難によって、統一からわずか30年余の618年に隋は滅亡します。その隋の末期、610年に、ペストが流行したことが記録されています。著者は、「その後半世紀の間に、ペストは少なくとも7回流行した。ユーラシア大陸の西で、皇帝ユスティニアヌスの夢を破ったペストは、同じ大陸の東で隋の崩壊に手を貸した。人口減少、繰り返されるペストの流行、帝国の衰退。この時期、大陸の東西でいくつかの共通点が見られる。偶然の一致か、何らかの蓋然性があったのか」と述べています。
中世ヨーロッパにおけるペストの流行については、ジョヴァンニ・ボッカチオの『デカメロン(十日物語)』に、当時のヨーロッパ社会がいかにこの病気を恐怖したかが詳しく描かれています。「ボッカチオが描いたペスト」として、以下のように説明されています。
「『デカメロン』は、1348年に流行したペストから逃れるために邸宅に引きこもった男3人、女7人の計10人が退屈しのぎにした小話を集めたという趣向の物語である。10人がそれぞれ1日1話を語る全100話は、艶笑に満ちた恋愛話や失敗談からなる。人文主義文学の傑作とされているが、作品の背景には、ペストに喘ぐ当時の社会状況が色濃く反映されている」
その『デカメロン』には、以下のような記述があります。
「1日1000人以上も罹病しました。看病してくれる人もなく、何ら手当てを加えることもないので、皆果敢なく死んで行きました。また街路で死ぬ人も夜昼とも数多くありました。また多くの人は、家の中で死んでも、死体が腐敗して悪臭を発するまでは、隣人にはわからないという有様でした」
「墓地だけでは埋葬しきれなくなりまして、どこも墓場が満員になると、非常に大きな壕を掘って、その中に一度に何百と新しく到着した死体を入れ、船の貨物のように幾段にも積み重ねて、一段ごとに僅かな土をその上からかぶせましたが、仕舞には壕も一ぱいに詰まってしまいました」
また、「ペスト以降のヨーロッパ」として、ペストがヨーロッパ社会に与えた影響が少なくとも3つあったことが指摘されています。第1に、労働力の急激な減少が賃金の上昇をもたらしたこと。第2に、教会はその権威を失い、一方で国家というものが人々の意識のなかに登場してきたこと。第3に、人材が払底することによって既存の制度のなかでは登用されない人材が登用されるようになり、社会や思想の枠組みを変える1つの原動力になったことです。著者は、「結果として、封建的身分制度は、実質的に解体へと向かうことになった。それは同時に、新しい価値観の創造へと繋がっていった」と述べています。
続けて、著者は「半世紀にわたるペスト流行の恐怖の後、ヨーロッパは、ある意味で静謐で平和な時間を迎えた。それが内面的な思索を深めさせたという歴史家もいる。気候の温暖化も一役買った。そうした条件が整うなかでやがて、ヨーロッパはイタリアを中心にルネサンスを迎え、文化的復興を遂げる。ペスト以前と以降を比較すれば、ヨーロッパ社会は、まったく異なった社会へと変貌した。変貌した社会は、強力な国家形成を促し、中世は終焉を迎える」とも述べます。
さらに、「結核の増加」として、著者は「結核菌は古い病原菌で、人類との関係が長い。近年行われた遺伝子解析から、結核菌の共通祖先が約3万5000年前に遡ることが明らかになった。人間と長い間共存してきた結核が、14世紀のヨーロッパにおいて流行した原因として、気候の寒冷化にともなう屋内居住時間の増加や毛織物供給の増大、公衆浴場の普及、栄養状態の悪化といった、この時代の社会変化を挙げる研究者もいる。しかし、確かな因果関係はわかっていない」と述べるのでした。
第3章「近代世界システムと感染症――級世界と新世界の遭遇」の冒頭を、著者は「ペスト流行の終焉と同時にヨーロッパ近代が幕を開けた。それは、やがて世界中の各地域が近代世界システムという名の分業体制に組み込まれていく前触れでもあった。交通や通信の発達によって、諸地域間の分業体制が形成され、固定され、再編されていく『世界の一本化』の始まりである。この動きは、大航海時代の16世紀以降本格化し、現在もなお進行中であるとされている」と書きだしています。
旧世界と新世界の接触は、「感染症をもつもの」と「もたざるもの」の遭遇でした。「生物地理学者ダイアモンドの説明」として、ジャレド・ダイアモンドは著書『銃・病原菌・鉄』で世界史を次のように読み解いたことが紹介されます。
「新世界になく旧世界が保有した感染症の大半は、家畜に起源をもつ。文明が、その初期に保有する感染症は、文明がどのような家畜を保有していたかに左右される。現在、世界で飼育されている家畜は、羊、山羊、牛、馬、豚、ラクダ、ロバ、ラマ、ヤクなど20種類に満たない。大半は、ユーラシア大陸に起源をもつ。新世界に起源をもつものは、わずかにラマやアルパカのみである。こうした家畜はすべて、数千年から1万数千年前の文明の勃興期に飼育されはじめた。以降、人類にとって主要な家畜となった野生動物はいない。このことは、家畜となる潜在的可能性をもつ野生動物はすべて、この時期に家畜化されたことを意味する。とすれば、文明がその初期にどのような家畜を保有したかは、地域固有の生態によって決められたということになる。具体的にいえば、文明が勃興した地域に、家畜に適した野生動物が存在していたか否かが決定的要因だったということになる」
続けて、「家畜だけではない。農耕の開始も、地域の生態学的条件が大きな影響を与えた。現在、世界で消費される農作物の約80パーセントは、わずか数十種類の植物から供給されている。具体的にいえば、小麦、米、大麦、トウモロコシといった穀類、大豆などのマメ類、ジャガイモ、キャッサバ、サツマイモといった根菜類である。こうした植物も、数千年以上前に栽培されるようになったものばかりである。人々は、地域固有の植物群のなかから食料生産に適したものを選択した。メソポタミアの肥沃な三日月地帯は、麦と羊の原産地だった。それが農耕と家畜をもたらし、文明を育んだ。一方、エジプトやヨーロッパは、農耕や家畜を先進的技術として移入した。先進技術の移入に影響を与えたのは、大陸が広がる方向という地理的自然環境だった」というダイアモンドの説明が紹介されます。さらには、拡大したユーラシア大陸の感染症レパートリーが、16世紀以降本格化した「世界の一体化」と分業体制(近代世界システム)のなかで、ヨーロッパを中心とする世界を作り上げることに寄与しました。つまり、「旧世界と新世界の遭遇の結果は、何十万年も前から決まっていた」というのが、ダイアモンドの説明です。
第4章「生態学から見た近代医学」の1「帝国医療と植民地医学」の冒頭を、著者は「アフリカに進出したヨーロッパの前にたちはだかったもの、それが感染症であった」と書きだしています。また、「熱病を引き起こしたのは土着の感染症であった。これがヨーロッパ人のアフリカ侵出に対する生物学的障壁となった。マラリアであり、アフリカ・トリパノソーマ症(眠り病)である。ヒトはマラリア、ウシやウマはトリパノソーマ症で倒れた。そのためアフリカは長く『暗黒大陸』と呼ばれた」と述べています。
また、「帝国医療・植民地医学」として、著者は「近代医学は、熱帯地域の医療実践から多くの発見と知見を得た。西洋医学は、熱帯地域で、それまでに経験したことのない、多くの謎の病気に出会った。熱帯熱マラリアであり、アフリカ・トリパノソーマ症であり、黄熱であり、さまざまな寄生虫性疾患であった。そうした病気の原因を探り、感染経路や自然経路を明らかにし、病原体の生活環を解明し、さらには治療法や予防法を開発することで、植民地医学は近代医学の発展に大きく貢献した。それは、西洋近代医学が科学の体系として、他の医学体系を圧倒する理由の1つとなった」と述べています。
「国際防疫体制の確立と感染症対策の政治化」として、著者は、1894年に香港で起こったペスト流行を紹介し、国際協力の成功によって、隔離検疫が有効に機能した結果、欧米へのペスト移入は予防できたと指摘します。そして、香港のペスト流行が与えた教訓は2つあるとして、「第1に、とにもかくにも、それまで欧米社会が植民地経営を通じて蓄積した医学的経験が十全に発揮されたこと。国際協力下での検疫体制がなければ、この時のペスト流行が世界規模での惨禍となった可能性もあった。第2は、感染症とその対策が、近代国際政治の表舞台に登場してきたことである。そうした事例は現在でもある。重症急性呼吸器症候群(SARS)や新型インフルエンザは、近年における例であるし、根絶された天然痘ウイルスの保管をめぐって、国際社会のパワーポリティクスが働いたこともある」と述べます。
さらに「帝国主義がもたらした流行」として、著者は「第一次世界大戦末期の1918年から19年にかけて流行したスペイン風邪は、世界全体で5000万人とも1億人ともいわれる被害をもたらした。最も大きな被害を受けた地域や国が、アフリカやインドであった。サハラ以南アフリカでの被害は、約238万人と推定されている。当時のアフリカの人口の2パーセントに相当する。これほどの人口が1年から2年という短期間に死亡したことは、アフリカ大陸における人口学的悪夢だった」と述べています。
1918年から流行し始めたスペイン風邪についても、著者は「植民地のスペイン風邪」として、こう述べています。
「スペイン風邪は、インドでも被害を出した。インドだけで2000万人もの死者を出した。追い討ちをかけたのは飢饉だった。飢饉による栄養失調がインフルエンザに対する抵抗性を減弱させ、インフルエンザが労働力の低下をもたらした。穀物生産量は5分の1に低下し、食料価格は数倍に高騰した。にもかかわらず、重要な戦時物資であった穀物は、戦時下であったイギリスへ輸出された。悪循環に拍車がかかった。こうして見てくると、第一次世界大戦は植民地を巻き込んだ総力戦だったことがわかる。アフリカにおける列強の代理戦争がインフルエンザ拡大の土壌を提供し、植民地経営の屋台骨を支えた鉄道がインフルエンザを運んだ。被害を悪化させたのは、植民地からの収奪であった」
第5章「『開発』と感染症」の冒頭を、著者は「先進国の人々が感染症制圧というバラ色の夢を見ていたころ、地球の裏側では、開発という名の環境改変のなかで、感染症が静かな流行を始めていた」と書きだし、さらに「産業革命以降、とりわけ20世紀以降、『開発』という名の自然への介入は、それまでとは比較にならない規模と速度と複雑さをもつようになった。そして、その規模と複雑さと速さゆえ、副次的に引き起こされる変化はしばしば予想困難であり、想定を超えるものとなった。そうした開発によって引き起こされる疾病を『開発原病』という」と述べています。
第6章「姿を消した感染症」では、「超ばら撒き人」として、著者は以下のように述べています。
「SARSの流行では、超ばら撒き人(スーパースプレッダー)の存在が疑われた。超ばら撒き人とは、多数の人に病原体をばら撒く人をいう。SARS患者がウイルスを広める人数は、通常多くても3人程度である。しかしなかには、10人以上、多い例では数十人にウイルスを広めた人がいた。香港メトロポールホテルに宿泊し、少なくとも12名を感染させた広東省在住の腎臓学の老教授や、WHOの感染症専門官ウルバニが初発患者と報告した中国系アメリカ人、あるいは、メトロポールホテルからカナダやベトナムに飛び立ち、そこで病気を流行させた人々は、病原体の超ばら撒き人となった。体質的に、病原体が体内で増殖しやすく、多数の病原体を保有し、容易に他人に感染を起こす人もいただろうが、多くの場合、行動範囲や交友関係が広い人たちが、超ばら撒き人となった。超ばら撒き人がいなければ、これほど広範囲な流行はなかったかもしれない」
エピローグ「共生の道」では、「適応の限界」として、著者は「適応に完全なものはありえないし、環境が変化すれば以前の環境への適応は、逆に環境への不適応をもたらす。その振幅は適応すればするほど大きくなる。過ぎた適応の例を、私たちは、マラリアに対する進化的適応である鎌状赤血球貧血症に見た。過ぎた適応による副作用は、社会文化的適応にも見られる。狩猟がうまく行きすぎると、生態系のバランスは崩れる。牧畜がうまく行きすぎても牧草地は荒廃する。ある種の適応が、いかに短い繁栄とその後の長い困難をもたらすか。感染症と人類の関係についても、同じことが言えるのではないかと思う。病原体の根絶は、もしかすると、行きすぎた『適応』といえなくはないだろうか。感染症の根絶は、過去に、感染症に抵抗性を与えた遺伝子を、淘汰に対し中立化する。長期的に見れば、人類に与える影響は無視できないものになる可能性がある」と述べています。
最後に、著者は「感染症のない社会を作ろうとする努力は、努力すればするほど、破滅的な悲劇の幕開けを準備することになるのかも知れない。大惨事を保全しないためには、『共生』の考え方が必要になる。重要なことは、いつの時点においても、達成された適応は、決して『心地よいとはいえない』妥協の産物で、どんな適応も完全で最終的なものでありえないということを理解することだろう。心地よい適応は、次の悲劇の始まりに過ぎないのだから」と述べるのでした。東日本大震災が発生した2011年に刊行された本書ですが、9年後に日本を襲う国難を予見していたかのような箇所が多々ありました。本書を読めば、「文明」と「感染症」は人類交流の「光」と「闇」であることがよく理解できます。