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No.1896 宗教・精神世界 『バチカン・エクソシスト』 トレイシー・ウィルキンソン著、矢口誠訳(文春文庫)
2020.06.15
『バチカン・エクソシスト』トレイシー・ウィルキンソン著、矢口誠訳(文春文庫)を紹介します。カトリックの総本山バチカンには法王公認のエクソシストたちがいますが、そこへLAタイムズの女性敏腕記者が深く分け入った「現代の悪魔祓い」のレポートです。著者は、ロサンゼルス・タイムズのメキシコ支局長。90年代のボスニア戦争報道でジャーナリズム界で権威のある「ジョージ・ポーク賞」を受賞。
カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「バチカンには法王公認のエクソシストがいて、いまもハリウッド映画さながらの”儀式”が行われている。約2千年にわたるカトリックの歴史のなかで、それはどのように位置づけられ、悪に取り憑かれた人々を救済してきたのか? LAタイムズの女性敏腕記者がスリリングに暴きだす『現代の悪魔祓い』の闇と真実」
本書の「目次」は、以下のようになっています。
「プロローグ」
第一章 現代の悪魔祓い師たち
第二章 儀式は聖水とともに始まる
第三章 歴史
第四章 横顔
第五章 悪魔に憑かれた三人の女性
第六章 悪魔崇拝者たち
第七章 教会内部の対立
第八章 懐疑主義者と精神科医
「エピローグ」
「原註」
「参考文献」
「謝辞」
「訳者解題―日本のカトリック教会の場合」
「解説」島田裕巳
「プロローグ」で、著者は以下のように述べます。
「本物の悪魔祓いは精神科のセラピーとおなじで、一発勝負ではない。悪霊を追い払うには、祈禱の儀式を幾度となく重ねる必要がある。イタリアでは、非常に多くのカトリック教会で悪魔祓いが行なわれている。これは信仰心の篤い人々によって行なわれているバチカン公認の儀式だ。決してハリウッド映画の話ではない」
第一章「現代の悪魔祓い師たち」の冒頭を、著者は、「キリストが行なった悪魔祓い」として、「悪魔祓いはローマ・カトリック教会の歴史とともにある。その発祥の時代から、ローマ・カトリック教会は、悪魔祓いの儀式を正式に認可してきた。ただし、その態度は何世紀ものあいだつねに一貫していたわけではない。儀式を公然と奨励していた時期もあれば、困惑の種と考えているかに見えた時期もあった。聖書によると、イエス・キリストはいまから2000年以上もまえに悪魔祓いを行なった。ごく最近まで神の代理者を務めていた教皇ヨハネ・パウロ2世もまた、おなじようにこの儀式を行なっている。カトリックの信者たちは、悪魔祓いを”神に導かれた善なる意志と邪悪なる意志の大いなる戦い”とみなしている」と書きだしています。
また、悪魔祓いについて、著者は「現実には、悪魔祓いはカトリックの教義の一部として公式に承認されており、限られた範囲ではあるものの、一般に考えられているよりもずっと広く行なわれている。とくに、ローマ・カトリックのお膝元であるイタリアではかなり一般的だ。イタリアの司祭や敬虔なカトリック教徒の多くは、悪魔やデーモンと呼ばれている存在が正常な人々を苦しめ、憑依し、悪へ導くと信じている。しかし同時に、祈りの力が悪魔やデーモンを撃退するとも信じている。悪魔祓いという言葉は、”誓い”を意味するギリシア語からきたものだ」と述べています。
第二章「儀式は聖水とともにはじまる」では、著者は「歴史的に有名な第二バチカン公会議(60年代なかばにカトリック教会が開いた典礼刷新のための会議)で教会の現代化に関する草案が作成され、実施に移されてからは、カトリック信者たちは、論理と信仰のどちらも許されることになった。結局のところ、知性は神からの授かりものであり、その能力は神に許されている範囲で十全に使われるべきだというわけだ」と述べます。
また、「聖人の研究」として、著者は「いまは亡き宗教家に祈りを捧げたことで誰かの病気が奇跡的に治ったとすると、バチカンは複数の医師からなる諮問委員会(委員のほとんどはイタリア人で、全員がカトリック教徒)に指示をあたえ、その治癒が科学的に説明できないことを証明させる。医師団は実際に自分たちの目で証拠を調べ、その治癒を評価し、多くの場合には「これは現代の科学では説明がつかない」と結論を下す。医学的な承認が得られると、バチカンは、その治癒が奇跡であると宣言し、聖人候補者の宗教家をまずは列福し、その後――第2の奇跡が実証されてから――列聖する。現代医学の手を借りて、ここにひとりの聖人が生まれるというわけだ」と述べます。
続けて、著者は以下のように述べています。
「この認定作業のもっとも最近の例として、マザー・テレサの列福が挙げられる。マケドニアで生まれ、その後コルカタで活躍したこの小柄な尼僧は、貧しい人々や病人のための慈善活動で世界的に有名になった。マザー・テレサは1997年に87歳で亡くなり、ヨハネ・パウロ2世によって、2003年の秋に列福された。ベンガル地方に住むインド人女性の治癒が、バチカンの諮問委員会によって”奇跡”と認められたのである」
不治の病にある患者を祈りの力で治癒させることは、カトリックでは「奇跡」とみなしますが、著者は「この”奇跡的な治癒”は、聖人候補者が死んだあとに起こらなくてはならない。なぜなら、ここではその人物に祈りを捧げたときに治癒が起こることに意味があるからだ。奇跡的な治癒とは、その聖人候補者が神とともにいて、病人に代わって神に力添えを頼むことができる証拠にほかならない。神とともにいることは、聖人になるための必須条件なのだ。ある意味で、この奇跡的な治癒は悪魔祓いに似ている。これらの現象は、中世の古い思想や伝統と現代の文化の交点ともいえるだろう。科学や合理的な論理はここでわきにおかれ、霊的な真実としての信仰に取って代わられるのである」と述べています。
著者は、「悪魔祓いの典礼」として、こう述べます。
「悪魔憑きが本物かどうかを見分けることは(これは”識別”と呼ばれている)、悪魔祓いにおける最初にして最大の難問である。これは普通、悪魔祓いを希望している者が聖水や十字架といった宗教的シンボルにどう反応するかが判断の決め手になる。たとえば、その人物が教会に入ることを極端に嫌ったり、司祭と顔を合わすことができなかったりする場合には、悪魔憑きの可能性が高い。ただし、ここでこれだけは言っておこう。アモルス神父をはじめとするエクソシストたちは、本物の悪魔憑きは非常にまれであると主張している。自分自身や家族のためにエクソシストを探している何千人ものイタリア人のうち、ほんとうに悪魔に憑かれている者はごく少数だという。ほとんどの場合、エクソシストは本格的な悪魔祓いを行なわず、”解放の祈り”を捧げるだけにとどまる。これは基本的に悪魔祓いとおなじものだが、儀式のすべてを行なうわけではない」
著者は、現代のイタリアでエクソシストの養成講座を開いたアモルス神父を取り上げ、「アモルス神父はいたるところに悪魔の存在を感じている。数年前、神父はハリー・ポッター・シリーズのイタリアでの出版禁止を求めて戦った。神父によれば、あのファンタジー小説が子供たちに魔術を教えるものだからだという。この世界に悪が蔓延しているのは、サタンが超過勤務をしている大きな証拠だとアモルス神父は主張する。儀式的な殺人、被害者を拷問してレイプする悪魔カルト、エスカレートする残虐な幼児虐待事件など、いまの世界には陰惨な事件が続発している。価値観や道徳律を奪われた社会は、悪のための肥沃な原野を創りだした。誰がそれを否定できるだろうか? 実際、悪魔のもっとも悪賢い計略は、悪魔などこの世には存在しないと人間に思いこませることなのだ……」と述べています。
第三章「歴史」の冒頭を、「悪魔祓いの起源」として、著者は以下のように書きだしています。
「悪魔という概念や悪魔祓いの儀式は、はるか昔、古都バビロンやエジプトのファラオの時代から存在していた。デーモンという言葉は”狂った”を意味する古典ギリシア語のダイモンやダイモニアンからきたものだし、サタンという言葉はヘブライ語の”敵対者”や”対抗者”から、悪魔は古英語のデオフェル、ラテン語のディアボラス、ギリシア語のディアボロスからきたものだ。キリスト教では、このほかにルシファー、ベルゼブブ、ゼブルン、メリディアン、ベリアルなどといった名前が使われている。言い換えれば、実体化した悪はあらゆる時代のあらゆる文化においてその存在を認められ、じつに多種多様な名前で呼ばれてきたのである」
また、イエス・キリストと悪魔祓いの関係について、著者は「イエス・キリストはキリスト教における最初の重要なエクソシストだった。キリストの時代、盲目や聾唖、狂気など、肉体および精神の病は、しばしば悪霊の仕業と考えられた。キリストはデーモンを追いだすことによって苦痛に悩む人々や病人を癒した。当時これは、キリストは救世主だという説を裏づける証拠と見なされた。キリストはこの地上で神の仕事をする権能をあたえられた選ばれし者というわけだ。キリストはまた、彼の名においてデーモンを追放する権能を弟子と使徒をあたえた。悪魔祓いや清めの儀式、もしくはプロテスタントが”教済”などと呼ぶところの同種の儀式は、ユダヤ教やイスラム教など、キリスト教以外の宗教にも見られる。しかし、そうした儀式を徹底的に成文化・制度化しているのは、ローマ・カトリック教会だけである」と述べます。
ピサの斜塔から130キロ離れたヴィアダーナで1529年に生まれたジロラヲ・メンギ神父は、悪魔や悪魔祓いに関する文献をまとめました。彼は、デーモンや悪魔に憑依された人間の兆候をリストにしたましたが、以下に挙げると、
●それまで知らなかった言語を話す
●知りえるはずのない事実を口にする
●超人的な力の発揮
●司祭や神聖なものに対する突然の(ときに暴力的な)嫌悪
●深い憂鬱
●悪魔の助けを求める
●ナイフやガラスの破片など、異常なものを吐きだす
となります。著者は「これは、現代のカトリックのエクソシストが基準にするチェックリストとほぼまったくおなじである」と述べています。
著者は、「魔女狩りをへて」として、「14世紀から17世紀にかけて、一般民衆はサタンの力を深く信じるようになり、そこから魔女狩りの火がついた。妖術を行なった、呪いをかけた、悪魔的な所業に及んだなどの理由で、女性を中心とする何万人もの人々が罰せられ、火刑に処された。事態を憂慮した教会は、ついに魔女狩りの弾圧に乗りだした。その結果、18世紀に入ると、悪魔祓いの儀式は次第に人気を失いはじめた」と述べています。
また、「『ローマ典礼儀礼書』の改訂」として、著者は「第二バチカン公会議の結果、教会の典礼の大多数は時流に合わせて改訂されたが、悪魔祓いを律する『ローマ典礼儀礼書』の改訂は棚上げにされた。教会はエクソシストの任命にあたって候補者の全員をひとりひとり審議するのをやめ、『司教だけがエクソシストを任命し、悪魔祓いに許可を出せるものとする』と宣言した。その後、振り子は反対方向に振れはじめた。第2バチカン公会議の後半を監督した教皇パウロ6世は、悪魔の存在を神学的に否定することに危惧を覚えはじめた」と述べています。
一方、大衆文化の世界では、悪魔祓いに再び興味が集まりだしたとして、著者は「理由のひとつには、黒魔術や悪魔カルトの急激な流行があった。また、1970年代から80年代にかけ、癒しと予言を信じるカリスマ派が着実に勢力を伸ばしてきたことや、教皇ヨハネ・パウロ2世が悪魔祓いに好意的な態度を見せ、この世界にいま存在する現実的な危険としてしばしばサタンの名前を口にしたことも大きかった。しかし、やはり最大の理由は、なんといっても映画『エクソシスト』の世界的な大ヒットだろう」と述べます。
さらに、「ヨハネ・パウロ2世による悪魔祓い」として、著者は「1987年、ヨハネ・パウロ2世は聖ミカエルの聖所を訪れ、こう語っている。『悪魔との戦いは……現在でもまだつづいています。悪魔はまだ生きており、この世界で活動しているのです。現代のわれわれを取り巻く悪や、社会に蔓延する混乱、人間の不調和と衰弱は、すべてが原罪ゆえのものではなく、サタンがのさばって暗い行ないをしている結果でもあるのです』信仰に対して神秘主義的で、本能的で、感情的でもあったヨハネ・パウロ2世は、サタンの敵であるマリアに何時間も祈りを捧げた。また、教皇在任中にすくなくとも3回の悪魔祓いを執り行なったと伝えられている」と述べています。
そして、「現教皇の支援」として、ベネディクト16世が教皇に就任して数カ月後の一般謁見演説で、ちょうどそのときイタリアのウンブリア州で年次大会を開いていたエクソシストのグループを賞賛し、多くのエクソシストたちを喜ばせました。アモルス神父はベネディクト16世の承認を聞いて大いに安堵し、「ほんとうにすばらしい演説だった」と言ったそうです。また、彼は「過去において、悪魔祓いを行なった司祭は大いなる誤りを犯した。不運にも、彼らは人々を悪魔とみなした。多くの人々が魔女として裁判にかけられ、悪魔に憑かれた者は火刑に処された。この狂気への反動で、悪魔の存在を信じることさえもが否定された」と語りました。また、アモルス神父は「もうひとつ、一般的な思想の流れがある。このうち、とくに合理主義と物質偏重主義は、悪魔や悪魔憑きや悪霊を信じない傾向に拍車をかけた。もはや、エクソシストの時代ではない、というわけだ。その後の3世紀のあいだ、ローマ・カトリック教会は悪魔祓いをすっかり捨ててしまった。それがふたたび戻ってきたのは、ここ数十年のことだ」とも言いました。
アモルス神父がエクソシストになった1986年、イタリアには20人のエクソシストしかいなかった。しかし、現在(2007年)ではほぼ350人になっているといいます。アモルス神父は「わたしたちエクソシストの時代がきたのだ」と言いました。
第四章「横顔」の冒頭を、著者は「エクソシスト志願者のための大学講座」として、「教皇庁立レジーナ・アポストロールム大学には、エクソシストになろうとしている司祭のための講座がある。儀式や悪魔憑きの現象をもっと深く学びたいと思っている同祭も受講できる」と書きだしています。この講座こそ、アモルス神父が中心となって開いたものでした。
21世紀のイタリアを吹き荒れたエクソシスト・ルネサンスについて、著者は「こうした現象は、すべて現実的な説明をつけることもできる。暗躍する悪魔の影を非常に多くのイタリア人が見るのは、問題の原因を自分以外のものになすりつけたいからだ――そう考えると、実際には悪魔などいないことになるから、ある意味では安堵できる。しかし反対に、それはイタリア人が非常に迷信深い証拠でもある。問題の一部は、驚くほど多くのイタリア人が占い師や魔術師に頼ることだ。それでいて、やがて彼らは自分自身が魔術や邪悪な呪文の被害者になったと言いだす。この傾向は悪化してきているとダーミン神父は言う。しかし同時に、人々がオカルトに走るのは教会にも責任があると強く主張する。最近の司祭は頭でっかちな者ばかりで、一般信者との触れあいが減っている。混沌とした現在の世界において、多くのカトリック教徒は答えを探し求めているというのに、ほとんどの司祭は信者の話を聞く時間を持とうとしない」と述べています。
また、著者は「人々が求めているのは即効性のある解決法だ。大きな宗教はどれも、そんなものは提示していない。しかし、いわゆる新興宗教はしている。それに、魔術師もだ。この世界には不確実なことがあまりにも多い。司祭から助けを得られないとき、多くの人々は魔術師を頼る。教会の司祭たちは無能か、もしくは悪魔憑きを信じていない。多くの司祭はそれを迷信だと考えている。信仰はとても頭でっかちなものになってしまった。われわれ教会の人間は、ときとして、信仰の世界に生きるには知的すぎる」とも述べます。
第五章「悪魔に憑かれた三人の女性」では、「なぜ、女性が多いのか」として、著者は「自分は悪魔憑きだと信じている者の何割かはヒステリー症だと考えてまず間違いないだろう。このヒステリー症は、女性に結びつけられて考えられることが多かった。そもそも、ヒステリーという言葉は、ギリシア語で子宮を意味する”ヒステラ”からきている。古代のギリシア人は、子宮の異常が”ヒステリー症”の原因だと信じていた。いまや転換性障害という呼称が一般化しているヒステリー症とは、現代の定義によれば、抑圧された心理的(もしくは性的)不安が、麻痺や失明、痙攣などといった想像の身体的病気となって顕在化する現象である」と述べています。
続けて、著者は「長い歴史において、集団ヒステリーが席巻した時代の主役はつねに女性だった。15世紀から17世紀にかけて(一部ではさらに18世紀のなかばまで)、ヨーロッパ全土で魔女狩りが大流行した。黒魔術を使った、瀆神行為を行なった、悪魔と交わったなどの理由で糾弾され、多くの女性が魔女裁判にかけられた。カトリック教会とプロテスタント教会も――さらには当時の官憲当局までもが――この糾弾に手を貸した。じつに興味深いことに、魔女狩りはドイツやイギリス、スウェーデンなど、ヨーロッパ北部の国々で猛威をふるい、イタリアやスペインではあまり見られなかった。熱狂的なカトリック国であるイタリアのように、信仰が確固と根づいているところでは、一般民衆がパラノイアに飲みこまれなかったという説もある」と述べるのでした。
第八章「悪魔祓いと精神科医」では、「解離性障害として説明できる」として、著者は「悪魔祓いに批判的な者の多くは、悪魔祓いの儀式は被術者を催眠状態に陥らせ、催眠術をかけられたときとおなじ意識の状態をつくりだすと考えている。司祭のリズミカルな祈禱、自分の内面に向けられた被術者の意識、外界からの遮断――こうした要素がすべて組み合わさることによって、患者はトランス状態に陥り、催眠術をかけられたときと同様、無意識に自分の役割を演じはじめてしまう。ある種の感情伝染が、患者に特定の行動をとらせる合図になる。腕の立つ催眠術師は被術者を犬のように吠えさせることができる。エクソシストは催眠術師ほど意図的ではないが、被術者を悪魔のようにしゃべらせることができる。悪魔祓いの批判者たちによれば、この現象は迷信的な宗教環境によって引き起こされるものであり、これによって被術者は憑依を信じこみ、病気の原因を外部に求め、内面的な原因から目をそむけてしまうのだという」と述べています。
また、「催眠術の一種か」として、著者は「自分は憑依されたと人が考えるとき、脳のなかではなにが起こっているのだろうか? その問いに対する科学的な説明でもっとも一般的なものは、解離性障害である。解離性障害は『正常なときには統合されている脳が、いくつかの部位に分断されている状態』によって引き起こされる。簡単にいえば、脳のそれぞれの部位がおたがいに話をしなくなっているということだ。なかでもとくに重要なのは、脳の一部が、メインの意識(脳のなかの”自覚”を司っている部分)に話しかけなくなってしまうことである。するとそれが原因になって、その人物は自分の気づいていない(もしくは予期していない)行動をとってしまう。もしその行動が自分の性格から著しく逸脱しているときや、なんらかの形で卑しむべきものであるとき、その人物はそれを外部の邪悪な力のせいにしたがる。非常に信仰の篤い家庭、もしくは迷信のはびこった村などは、この思いをさらに助長する。統合失調症の初期患者は、自分の問題を正当化、もしくは合理化しようとすることが多い。そうすることで、自分の属している社会集団から排斥されることを避けるのである」と述べます。
「訳者解題―日本のカトリック教会の場合」では、訳者の矢口誠氏が「結論からいえば、日本のローマ・カトリック教会に公式なエクソシストは存在していないという。「カトリックの司祭は、叙階と同時に誰もが祓魔師(悪魔祓い師)の権能を授けられています。しかし、実際の祓魔を行なうエクソシストは非常に高い徳性と経験を求められます。誰にでも行なえるというものではありません」と、その方は話してくれた。「日本で最近祓魔が行なわれたという話は聞いておりません。過去の古い時代に、外国人宣教師が祓魔を行なったという話は伝わっています。しかし、日本人の司祭が祓魔を行なったという話は聞いたことがありません」と述べています。最後に、「解説」をあの島田裕巳氏が書かれていますが、残念ながら無難な一般論に終始されており、印象に残る記述は見当たりませんでした。