No.1907 芸術・芸能・映画 『映画には「動機」がある』 町山智浩著(インターナショナル新書)

2020.06.29

『映画には「動機」がある』町山智浩著(インターナショナル新書)を読みました。一条真也の読書館『「最前線の映画」を読む』で紹介した本の続編で、「Vol.2」となっています。著者は映画評論家。ジャーナリスト。1962年、東京都生まれ。早稲田大学法学部卒業。「宝島」「別冊宝島」などの編集を経て、1995年に雑誌「映画秘宝」(洋泉社)創刊。アメリカ・カリフォルニア州バークレー在住。これまで、著者の本は、一条真也の新ハートフル・ブログ『トラウマ映画館』『トラウマ恋愛映画入門』『映画と本の意外な関係!』『ブレードランナーの未来世紀』でも紹介してきました。

本書の帯

本書の帯には「『シェイプ・オブ・ウォーター』のヒロインはなぜ口が利けないのか?」「『君の名前で僕を呼んで』の美少年の顔に蠅がたかるのはなぜ?」「『スリー・ビルボード』の暴力警官はなぜABBAを聞くのか?」「映画のワンシーンに込められた監督の『わけ』を解読する!」と書かれています。カバー前そでには、「映画は、何も知らずに観ても面白い。でも、知ってから観ると100倍面白い。観てから知っても100倍面白い!」(町山智浩)とあります。

本書の帯の裏

本書の「目次」は、以下の通りです。
「はじめに」
第1章 なぜストリックランドは手を洗わない?
――『シェイプ・オブ・ウォーター』

第2章 なぜ暴力警官は「チキチータ」を聴くのか?
――『スリー・ビルボード』

第3章 なぜ観てるとこんなに眠くなるのか?
――『ツイン・ピークス シーズン3 The Return』

第4章 なぜ牧師は教会を爆破するのか?
――『魂のゆくえ』

第5章 なぜバス運転手は詩を書くのか?
――『パターソン』

第6章 なぜデザイナーはハングリーなのか?
――『ファントム・スレッド』

第7章 なぜスパゲティを汚らしく食べるのか?
――『聖なる鹿殺し』

第8章 なぜ少年の顔にハエがたかるのか?
――『君の名前で僕を呼んで』

第9章 なぜ母は最後にベランダに出たのか?
――『ラブレス』

第10章 結局、犬殺しの正体は誰だったのか?
――『アンダー・ザ・シルバーレイク』

第11章 最初と最後の女性は誰だったのか?
――『マザー!』

第12章 なぜ父は巨大な車を押し込むのか?
――『ローマ/Roma』

本書は2018年から19年にかけて作られた、アメリカ、メキシコ、ロシア、ギリシアなどの映画作家による映画の評論集です。「はじめに」で、著者は「こうしてまとめて読んでみて気づいたのは、自分が映画について考えるのは、ある疑問への答えを探しているんだということです。なぜ、この人はこの映画を作ったんだろう? 僕は映画を観て感動したり、逆に怒ったり、わけがわからなかった時、いつもそう思います。作り手の動機なんて、別に気にしない人が多いでしょう。多くの商業映画は依頼されて引き受けただけだったりもします。それに、映画を観ただけでは、その答えは見つかりません。普通の映画観客にとって、作り手の動機は知るよしもないことです。でも、僕は、それが気になってしかたがないんです」と述べています。

その一番わかりやすい例として、著者は『スター・ウォーズ』を挙げます。主人公ルーク・スカイウォーカーの宿敵であり、師匠オビ゠ワンの仇でもあるダース・ベイダーはルークに「私はお前の父だ」と言います。そして自分と共に父子で銀河帝国を支配しようと誘い、息子が拒否するとその手を斬り落とします。著者は、「その時のルークの絶叫は、物語を越えて、観る者の心に突き刺さるものがありました。これは作り手が頭だけでデッチ上げた話には思えなかったのです。こで、僕は雑誌や本を読み漁あさり、『スター・ウォーズ』を創ったジョージ・ルーカス監督について調べました。そして、彼と父親の確執を知りました。彼は強権的だった父親から事業を継ぐよう強制され、それを振り払って映画監督を目指したのでした」と述べます。

さらに著者が調べてみると、著者を感動させた映画の巨匠たちの多くが、そんな事抱えていました。「スティーヴン・スピルバーグの映画では、離婚家庭の子どもの寂しさが痛切に描かれますが、スピルバーグ自身、子どもの頃に父親が家を出て苦しみました。マーティン・スコセッシの映画では、それまで笑顔で話していた男が突然暴力を爆発させる恐怖が描かれますが、スコセッシは子供の頃、マフィアが仕切るリトル・イタリーでいじめられっ子として暴力に怯おびえながら育ちました。彼らのトラウマは、どこかで僕自身のそれとつながっていました。あんなに心を揺さぶられた理由がわかったような気がしました。だから、僕にとっての映画評論は、作品の出来不出来を評価することではなく、その映画が心に残したものの源泉をたどることになりました」と述べる著者は本書でも、監督に直接尋ねたり、インタビュー記事を探して、その映画に自分が感動した理由を探したといいます。そして著者は、「そんな謎を解く、一種のミステリーとして本書をお楽しみください」と述べるのでした。

第1章「なぜストリックランドは手を洗わない?――『シェイプ・オブ・ウォーター』」では、 一条真也の新ハートフル・ブログ「シェイプ・オブ・ウォーター」で紹介したギレルモ・デル・トロ監督が異種間の愛を描いたファンタジー映画を取り上げます。米ソ冷戦下のアメリカを舞台に、声を出せない女性が半魚人と心を通わせる物語で、第90回アカデミー賞で作品賞、監督賞、作曲賞、美術賞の4部門に輝きました。モンスター映画としては歴史に残る快挙です。

1962年、米ソ冷戦時代のアメリカで、政府の極秘研究所の清掃員として働く孤独なイライザ(サリー・ホーキンス)は、同僚のゼルダ(オクタヴィア・スペンサー)と共に秘密の実験を目撃します。アマゾンで崇められていたという、人間ではない”彼”の特異な姿に心惹かれた彼女は、こっそり”彼”に会いにいくようになります。ところが”彼”は、もうすぐ実験の犠牲になることが決まっており、イライザは救おうとするのでした。デル・トロ監督は少年時代にテレビでアメリカ映画「大アマゾンの半魚人」(1954年)や「半魚人の逆襲」(55年)を観て以来、ヒロインが半魚人と結ばれるハッピーエンドの物語を夢見ていたそうです。

「シェイプ・オブ・ウォーター」には、他にも「フランケンシュタインの花嫁」(35年)、「未来世紀ブラジル」(85年)、「ゴッド・アンド・モンスター」(98年)、「アメリ」(2001年)といった映画の強い影響を受けていることを、著者は指摘します。「シェイプ・オブ・ウォーター」は、「あなたの形は見えなくても、私の周りにあなたを感じる。あなたの存在が私の目を愛で満たす。私は何も欲しくない あなたはどこにでもいるから」という詩で終わりますが、この詩における「あなた」とは「水」のことです。デル・トロ監督によれば、「どうしても映画を締める言が見つからなくて、本屋に行ってイスラム教の詩の英訳本を見つけて、そこにあった数百年前の詩がテーマに近いと思ったんだ」と述べています。デル・トロは詩人の名前を明らかにしませんでしたが、13世紀ペルシャのイスラム教神秘主義者ジャラール・ウッディーン・ルーミーの詩をアレンジしたという説があるとか。

儀式論』(弘文堂)

この「水」の詩から、わたしは「こころ」を連想しました。水は形がなく不安定です。それを容れるものがコップです。そして、水は「こころ」のメタファーです。「こころ」も形がなくて不安定だからです。だから、「こころ」は「かたち」に容れる必要があります。その「かたち」には別名が存在します。「儀式」です。拙著『儀式論』(弘文堂)などにも書きましたが、人間の「こころ」は、どこの国でも、いつの時代でも不安定であるがゆえに、安定するための「かたち」すなわち儀式が必要なのです。そこで大切なことは先に「かたち」があって、そこに後から「こころ」が入るということ。逆ではダメです。「かたち」があるから、そこに「こころ」が収まるのです。人間の「こころ」が不安に揺れ動く時とはいつかを考えてみると、子供が生まれたとき、子供が成長するとき、子供が大人になるとき、結婚するとき、老いてゆくとき、そして死ぬとき、愛する人を亡くすときなどです。その不安を安定させるために、初宮祝、七五三、成人式、長寿祝い、葬儀といった一連の人生儀礼があるのです。

第2章「なぜ暴力警官は『チキチータ』を聴くのか?──『スリー・ビルボード』」では、一条真也の新ハートフル・ブログ「スリー・ビルボード」で紹介した映画が取り上げられます。娘を殺害された母親が警察を批判する看板を設置したことから、予期せぬ事件が起こるクライムサスペンスです。登場する3つの看板は映画の3人の「主人公」を象徴しているとして、著者は「娘を何者かに殺された中年女性ミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)、地元の警察署長ウィロビー(ウディ・ハレルソン)、それに暴力警官ディクソン(サム・ロックウェル)映画は最初、ミルドレッドの物語として始まり、次にウィロビー、最後は、ディクソンが物語の中心になる。そして、最初に観客が彼らに抱いた印象とはまったく違う裏面が見えてくる。看板の裏側をのぞき込むように」と書かれています。そのビルボードのあたりで、ミルドレッドの娘は何者かにレイプされ、殺され、ガソリンで焼かれました。犯人のDNAが残されていたにもかかわらず、地元の警察は犯人を見つけられませんでした。

無能な警察に抗議する意味で、ミルドレッドは3つのビルボードの広告料を出して、警察署長ウィロビーを糾弾するメッセージを掲げたわけですが、ウィロビーを敬慕するディクソンに嫌がらせをされます。末期がんを苦にしてウィロビーが自死を遂げた後、改心したディクソンはミルドレッドの娘を殺した真犯人を追います。酒場で、ある男が女性をレイプして焼き殺したと自慢するのを耳にしたディクソンは命がけで、その男からDNAを採集します。しかし、それは犯人とは一致せず、アリバイもありました。当時、男は軍の仕事で「砂の多い場所」にいたというのです。著者は、「そう聞いても、鈍いディクソンはわからないが、その男は戦争でイラクにいたのだろう。2006年3月、イラクで五人の米兵が十四歳の少女を輪姦し、彼女の一家もろともガソリンをかけて焼いた。ブライアン・デ・パルマの映画『リダクテッド 真実の価値』(07年)でも描かれた、おぞましい事実だ。その男も似たようなことをしたのだろう」と述べています。何ともやりきれないというか、心が痛む話です。

第6章「なぜデザイナーはハングリーなのか?──『ファントム・スレッド』」では、一条真也の新ハートフル・ブログ「ファントム・スレッド」で紹介したポール・トーマス・アンダーソン監督の映画が取り上げられます。1950年代のロンドン。仕立屋のレイノルズ・ウッドコック(ダニエル・デイ=ルイス)は、英国ファッション界で名の知れた存在だった。ある日、ウエイトレスのアルマ(ヴィッキー・クリープス)と出会った彼は、彼女をミューズとしてファッションの世界に引き入れる。しかし、アルマの存在が規則正しかったレイノルズの日常を変えていきます。ウッドコックは、アルマが作った毒キノコ料理を食べて食中毒を起こします。寝込んでいるウッドコックは、母親の幽霊(ファントム)を見るのですが、彼は懐かしそうに「そこにいたんだね。僕はいつもお母さんのことを思っていたんだよ」と語りかけるのでした。

ポール・トーマス・アンダーソン監督は「幽霊を扱ってもホラーにならなかった。僕は幽霊が怖くないから。愛する人に死んでも会えるなら、いいことだと思うから」「スタンリー・キューブリックは『シャイニング』を監督したとき、幽霊は楽観的なものだと言っている。それは霊魂の不滅、死後の世界を信じることだから」と語っています。「ファントム・スレッド」には、「レディに捧げる殺人物語」(32年)、「レベッカ」(40年)、「美女と野獣」(46年)、「マイ・フェア・レディ」(64年)、「羊たちの沈黙」(91年)の影響も見られることを、著者は指摘します。アンダーソン監督は、「羊たちの沈黙」のジョナサン・デミ監督を師と仰ぎ、父子のように親密にしていました。そのデミ監督は『ファントム・スレッド』が公開される直前の2017年4月に亡くなり、映画は故人に捧げられました。

著者は、アンダーソン監督に取材したときに「デミ監督の『羊たちの沈黙』も、『ファントム・スレッド』に似ていますね」と言ったことがあるそうです。アンダーソン監督は、自分で「引きこもりで尊大な男、貧しい田舎者のヒロイン、男はメンター気取りでヒロインを教育するが、ヒロインは彼の予想を超えて才能を開花させ、そんな彼女を男は愛し、立場は逆転する……」という共通点をしたとか。そして、監督は「たしかに……でも、それは影響を受けたんじゃなく、そういう物語の『型』があるんだよ」と答えたそうです。ちなみに、その「型」は、『美女と野獣』、『ジェーン・エア』、『レベッカ』、『マイ・フェア・レディ』、『ミスティ・ベートーベン』、『羊たちの沈黙』と引き継がれ、今、『ファントム・スレッド』があるのでした。

第11章「最初と最後の女性は誰だったのか?──『マザー!』」では、ブログ「マザー!」で紹介した日本公開中止になった超問題作が取り上げられます。わたしはDVDで観ましたが、ぶっ飛びました。こんなにも観る者に不安をあおり、かつ不快な感情を与える映画は初めてでした。著者は「この映画は2時間の拷問」と言っていますが、わたしは「よくぞ、ここまで奇妙な映画を作ったものだ」と感心さえしました。ダーレン・アロノフスキー監督の作品ですが、ある郊外の一軒家を舞台に、スランプに陥った詩人の夫を持つ妻が、次から次へとやってくる不審な訪問者と彼らを拒むことなく受け入れる夫に翻弄されていくさまを描いたサイコスリラーです。ジェニファー・ローレンスとハビエル・バルデムという、アカデミー賞に輝いたことのある実力派2人が夫婦を演じ、エド・ハリスとミシェル・ファイファーら名優がその脇を固めています。

アロノフスキー監督はロシア系ユダヤ移民の、厳格なユダヤ教徒の両親に育てられました。監督デビュー作『π』(98年)は、「数字の中に神の真理が隠されている」「それを解明できれば未来も予測できる」というユダヤ教神秘学に取り憑かれた男の物語でした。その後もアロノフスキーは聖やユダヤ教にこだわり続け、『ファウンテン 永遠につづく愛』(2006年)は、ユダヤ神秘思想「カバラ」にあるセフィロト(生命の樹)についての物語でした。『マザー!』も聖書のメタファーとなっており、エド・ハリスとミシェル・ファイファーの恥知らずな夫婦はアダムとイブです。著者は、「彼らの息子はカインとアベル。弟アベルばかり神に寵愛されることに嫉妬した兄カインは弟を殺してしまう。これは間違いない。なにしろ、トロント国際映画祭のプレミア上映の後、アロノフスキー本人が舞台に上がってそう説明したのだ。エド・ハリスとミシェル・ファイファーが落として割ってしまうクリスタルは、アダムとイブが食べた知恵の実。すると、彼らを追い出したハビエルはエデンの園からアダムとイブを追放した、神、ということになる」と述べています。

では、ヒロインであるジェニファーは?
著者は、「『マザー!』のジェニファー・ローレンスは、マザーアース(母なる地球=ギリシャ神話におけるガイア)、つまり地球の象徴だったのだ」と種明かしし、さらに「上映後、アロノフスキー監督は、ハリケーンがアメリカを次々と襲っているとき、この映画のアイデアを思いついた、と言っていた。近年、アメリカでは地球温暖化によって異常に強力なハリケーンが発生したり、南部に雪が降ったり、カリフォルニアでは異常乾燥で山火事になったり、異常気象が続いている。それに対する憤りから『マザー!』が生まれたという」と述べています。『マザー!』の前作となるアロノフスキー映画は一条真也の新ハートフル・ブログ「ノア 約束の舟」で紹介した作品ですが、これももちろん旧約聖書に出てくる「ノアの箱舟」伝説の映画化でした。そして、『マザー!』の水道管の破裂はノアの大洪水を意味していると、著者は指摘します。これには、わたしも気づきませんでした。本書で取り上げたさまざまな映画に影響を与えた作品の指摘とともに、わたしは「さすがは町山サン!」と感心した次第です。本書はシリーズ第2弾ですが、出版社によれば第3弾、第4弾もあるそうですので、楽しみにしています。

 

Archives