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2020.08.14
お盆には、仏教について学びたいものです。
『近現代仏教の歴史』吉田久一著(ちくま学芸文庫)を再読しました。著者は1915年、新潟県生まれ。1941年大正大学文学部卒業。日本社会事業大学、日本女子大学、東洋大学教授を経て、日本社会事業大学名誉教授。2003年仏教伝道功労賞受賞。2005年没。近代仏教研究の創始者の1人で、その晩年の1998年に刊行された名著の文庫版です。
本書の帯
本書の帯には、「画期的な仏教総合史」「幕藩体制下から20世紀末まで」「解説 末木文美士」と書かれています。カバー裏表紙には、内容紹介があります。
「今でこそ脚光を浴びる研究領域となった近代仏教は、少し前までは日陰の存在としてごく少数の先駆者によってひっそりと研究がなされているに過ぎなかった。そのひとりが吉田久一で、緻密な文献的実証をもとに多数の著作を残し、その成果が近代仏教研究の隆盛へとつながった。本書は近代前史としての幕藩体制下の仏教から、二十世紀末のオウム真理教までを含む仏教総合史的概説で、大教院分離運動、大逆事件、神道国教化政策、大正デモクラシー、戦争、社会主義、戦後思想、新宗教など主要な問題を公正にバランスよく網羅している。社会史、政治史を絡めながら思想史的側面を重視した画期的労作」
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「まえがき」
序章 「近現代仏教の歴史」について
(一)「近現代仏教の歴史」について
(二)近現代仏教における社会と思想・信仰
(三)ウェーバー宗教社会学と仏教
第一部 近代仏教の歴史
一章 近世幕藩体制下の仏教
(近代仏教史理解のために)
(一)幕藩体制と仏教
(二)寺院整理、排仏思想、「護法」論
(三)諸宗の動向、日蓮宗不受不施派ほか
(四)近世仏教の庶民化と戒律復興
二章 明治維新と仏教
(一)神道国教化政策と神仏分離・廃仏毀釈
(二)「護法」案、宗教一揆、国益活動
(三)仏教の啓蒙家、真宗の政教分離運動、
自由民権運動、社会活動
(四)仏教の教会・結社、在家仏教
三章 近代国家の確立と仏教の「革新」
(一)仏教の革新
(二)仏教とプロテスタントの交渉
(三)日清戦争と仏教、仏教の社会的活動
(四)仏教近代化の起点
四章 帝国主義国家への出立と仏教近代化の形成
(一)仏教教団の動向
(二)近代仏教の形成(1)社会運動と社会活動
(三)近代仏教の形成(2)信仰と教学
(四)日露戦争と仏教
五章 大正デモクラシーと仏教
(一)仏教教団の動向
(二)仏教の社会的活動
(三)仏教学の隆盛、自由討究、異安心
(四)大正文芸と仏教
第二部 現代仏教の歴史
六章 社会的危機=過渡期と仏教
(一)仏教界の動向、社会活動、新宗教
(二)社会主義思想、社会運動と仏教
(三)超国家主義運動と日蓮主義
(四)「仏教復興」、宮沢賢治
七章 日中戦争・太平洋戦争と仏教
(一)戦時下の教団仏教
(二)「戦時仏教」の動向
(三)戦時下の受難
(四)戦時下の仏教思想=禅学・浄土教学
八章 戦後の仏教
(一)教団仏教の動向
(二)平和と人権
(三)戦後思想と仏教(1)哲学・思想
(四)戦後思想と仏教(2)文芸・社会
九章 高度経済成長と仏教(低成長期を含む)
(一)経済の高度成長と宗教(低成長期を含む)
(二)教団仏教の動向
(三)仏教の社会的活動
(四)宗門教育、学術研究
十章 20世紀末社会と仏教
(一)世紀末の不安と「歴史的自覚」
(二)教団仏教の動向
(三)新宗教について
(四)歴史的反省、国際責任、21世紀への期待
「解説」末木文美彦
序章「『近現代仏教の歴史』について」の(一)「『近現代仏教の歴史』について」で、著者は、「近代化について」として、「日本が近代初頭に宗教改革を欠いたことは、致命的欠陥であった。日本の近代社会は、精神革命や倫理的価値を欠いたまま、政治的価値が優位することになった。鎌倉時代に法然・親鸞・道元・日蓮等々による宗教革命はあったが、その後に展開する時代は、強固なしかも長い封建制度であって、近代社会ではない。宗教革命と近代社会は不可分の関係にあるのである」と述べています。
また、著者は「日本の資本主義が、倫理より国策が優先したことを承知しておかねばならない。西欧では、経済学の祖アダム・スミスの『諸国民の富』の前に、『道徳感情論』があったことはよく知られている。日本でも儒教倫理があり、人間の欲望その他の抑止力として働いたこともあるが、それも明治前期までのことであり、中心は効率的な技術革新などが資本主義の特徴である経済的合理性であった」と述べています。
続けて、著者は「付言しておきたいのは、倫理を欠いた早熟な日本資本主義の『競争主義』に対して、近代的内面化した宗教が、『反近代主義』の立場をとったことがある。例えば内村鑑三や清沢満之である。それはむろん前近代に立ち戻ることではない。日本の早熟な近代化の内面に迫り、そして、宗教とは何かを考えた結果である。それは『反近代』を掲げながら、宗教として、本当の近代信仰に迫ろうとした結果であるが、そうした例は余り多くない」と述べます。
一章「近世幕藩体制下の仏教(近代仏教史理解のために)」の(四)「近世仏教の庶民化と戒律復興」では、「近代への影響(正三・慈雲・無能・妙好人)」として、安土桃山時代中期の禅僧である鈴木正三を取り上げ、著者は「正三は武士出身で、43歳の遅い出家である。彼は幕藩体制下の寺院を、公儀による寺領安堵と、それに対する「役」としての民衆教化と位置づけた。つまり寺院住職を、仏法を以って国家を治める「役人」とみたのである。仏教倫理も現実的実益的立場で論じている」と述べています。
この鈴木正三こそは、日本人の職業倫理というものを打ち出した最初の人物です。彼の主著『萬民徳用』には、『何の事業も皆仏行なり』という思想で、出家や厳しい修行をしなくとも身分の上下別なくそれぞれの日々の仕事に精励することこそ仏の道であると述べられています。また、商売には物を売り買いし流通させる貴重な役割があるといい、商人の第一の心得はまずは利益をあげることであるといいます。さらに正三は、商売とはそのときどきの相手ではなく、天に象徴されるように社会に向かって行なうものであり、正直と利他の精神は商売に限らず人間関係の原則だと説きました。
鈴木正三の思想について、著者は「万民徳用としての職分倫理は、例えば『農人徳用』には『農業則仏行なり』等のことばが見える。農人は現世では『あさましき渡世の業』であるが、尽未来際極楽浄土の快楽を受けるべき存在で、そのために正直を旨として、因果の理をしるべきであるとしている。仏法を渡世身すぎの宝と考えたので、根本的な社会や生活についての発言は少ない。職場こそ道場というわけである」と述べています。
また、著者は「近世初頭という早い時期に、正三が仏教の『実学化』や、仏教の『庶民転化』を提起したことは重要で、伝統的保守的仏教に対する批判といえよう。『近代化』の倫理観には程遠いが、そこでの『現世』や『庶民』への注目は、既成教団に反省を促す面がある」とも述べています。
さらに著者は、「近世仏教の習俗化として評価できるものは講である」として、
「桜井徳太郎は『講集団成立過程の研究』(1962年)で、講を信仰的機能をもつ講、社会的機能をもつ講、経済的機能を持つ講に分類しているが、報恩講のような信仰的なものはむろん、仏教関係として、社会的機能や経済的機能をもつ講もあった。その他観音講・太子講・社寺霊験の参拝講等々各種のものがあった。中には民衆側の主導的立場で行なわれたものもあり、家や地域を越えたものもあった」と述べています。
四章「帝国主義国家への出立と仏教近代化の形成」の(一)「仏教教団の動向」では、こう書かれています。
「日露戦争後政治では家族国家観が強調され、祖先崇拝が宗教的装いを持って、日本国民統合の精神的基軸の1つとなった。また中央に靖国神社、地方に護国神社が創設され、宗教的対象とした。日露戦争後政府は国民道徳の振興に努め、08年10月戊申詔書を発した。中に『宜しく上下心を一にし、忠実業に服し、勤倹産を治め、惟れ信惟れ義、醇厚俗を成し華を去り実に就き、荒怠相誡め、自彊息まざるべし』とある。いわゆる「醇厚美俗」の強調である。日露戦争後は報徳主義の流行、武士道の鼓吹、儒教の復活をみた。そして、家族国家観を政治思想とする政府は、仏教の恩の思想や祖先崇拝に注目した」
(三)「近代仏教の形成(2)信仰と教学」では、「島地黙雷らの国益仏教、井上円了らの百科全書的仏教を離れたところで、清沢の信仰仏教は樹立された。『如来の仏教』という信仰の純粋性と、『地獄・極楽の有無、霊根の滅否は無用の論題なり』と従来の伝統的宗学から離れ、『異安心』ともみれる信仰に、清沢の近代信仰があった。清沢の死の1週間前に書いた『わが信念』によくその信仰が現われている。清沢は一級の哲学者であり、その著『宗教哲学骸骨』は学問的書であると共に、その信仰と不可分の関係にある。哲学を突き抜けながら、しかも信仰にまで高めたところにも、その近代性がみえる」と書かれています。
また、「仏教学の近代化」として、著者は「釈迦や各宗祖の現実が歴史的研究によって明らかになると、近代思想家や文学者による研究・創作の対象となった。親鸞・日蓮・法然が好んで取り上げられた。思弁的な仏教の哲学的研究より、生きた現実的な仏教史が問題となった。その意義はすでにのべたが、その結果である明治の大乗非仏説論の双璧は、村上専精と姉崎正治である。姉崎には『仏教聖典史論』(1899年)その他があり、村上の『仏教統一論』についてはすでに触れた」と述べます。
本書の「解説」で、宗教学者の末木文美士氏は、「近年の研究は、近代仏教が決して一方向的に合理的宗教へ向かうわけではないことを示している。例えば、鈴木大拙や宮沢賢治など、近代を代表する思想家は単に合理的な仏教観に終始したわけではなく、神智学の大きな影響を受けて、合理化できない神秘主義的な要素を強く持っている。また、政治の方面にも深く関係する日蓮主義も、単純に合理的とは言えないことは明らかである。こうしたことを日本の近代化が後進的であるが故の屈折という点にだけ求めるのは無理があり、じつは西欧の近代化の中にもこのような非合理的な方向性が顕著に見られるのである。オカルト的な神智学の形成はその典型である」と述べています。
アマゾンの「VINEメンバー」であるレビュアーのソコツ氏が、「ファウンダーが遺した通史」として、本書について、こうコメントしています。
「清沢満之に代表される社会を超越する信仰の開拓と、様々な仏教者や教団による社会事業の展開を特に重んじつつも、仏教系の新宗教の発展を追跡して伝統仏教とは別の可能性を示したり、宮沢賢治の思想に近代的なヒューマニズムを超える宗教的な福祉のあり方を求めてみたりと、議論の幅が実に広いです。現代に関しては、オウム事件について、これはやはり近現代における仏教の問題として捉える必要があると指摘しており、たとえば先の戦時下には『大乗』の名の下に殺人が遂行されていたことを想起させながら、オウムという難問に仏教者として向き合うための方法を示唆しています。近代仏教は、現代仏教を考えるためにこそ学ぶ必要がある。そうした認識を活性化させてくれる、現代の古典です」
いつも、ソコツ氏のレビューを読むたびに、「この人は相当、宗教、それも仏教に詳しい人に違いない」「もしかして、プロの宗教研究者ではないか」と思っていましたが、本書のレビューも非常に的確で、大いに参考になりました。