No.1933 小説・詩歌 『高丘親王航海記』 澁澤龍彦著(文春文庫)

2020.08.24

お盆休みに、『高丘親王航海記』澁澤龍彦著(文春文庫)を再読しました。1985年(昭和60年)から87年にかけて雑誌「文学界」に掲載され、同年の10月に単行本化された幻想小説で、著者の遺作にして唯一の長編小説です。最初はハードカバーの単行本で読みましたが、今回、約30年ぶりに文庫本で読み直しました。というのも、最近、澁澤龍彦の伝記本である磯崎純一氏の大著『龍彦親王航海記』(白水社)を読み、同書のタイトルの由来となった『高丘親王航海記』をもう一度読み返したくなったのです。

本書のカバー表紙には朱華氏の装画が使われ、カバー裏表紙には内容紹介があります。
「貞観七(865)年正月、高丘親王は唐の広州から海路天竺へ向った。幼時から父・平城帝の寵姫・藤原薬子に天竺への夢を吹きこまれた親王は、エクゾティシズムの徒と化していたのだ。占城、真臘、魔海を経て一路天竺へ。鳥の下半身をした女、良い夢を食すると芳香を放つ糞をたれる獏、塔ほど高い蟻塚、蜜人、犬頭人の国など、怪奇と幻想の世界を遍歴した親王が、旅に病んで考えたことは。著者の遺作となった読売文学賞受賞作」

本書は、「儒良」「蘭房」「獏園」「蜜人」「鏡湖」「真珠」「頻伽」の7つの章と高橋克彦氏の「解説」から構成されています。著者は、もともと第一章を「蟻塚」として書きましたが、単行本化に当たって「儒良(じゅごん)」と改題しています。久々に読み返した『高丘親王航海記』は、まことに幻想的で、登場する不思議な人間たちや奇怪な動物たちがすべて魅力的に思えました。

天竺に向かう物語なので『西遊記』へのオマージュともいえますが、著者がよく生前比較されたアルゼンチンの幻想作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『幻獣辞典』も連想させます。「解説」を書いた作家の高橋克彦氏は、「奇跡としか表現のできない大傑作なのだ。今世紀どころか、これまでの日本文学の中でも、これほどの水準に達した物語を私は読んだ記憶がない。高丘親王の日本から天竺に至る七つの夢幻譚は、読者である自分の垢染みた心の殻を一枚ずつ剥がしていく怖さと喜びに満たしてくれた」と絶賛しています。

高岳親王(Wikipedia)

高丘親王は実在の人物ですが、正しくは「高岳親王」といいます。延暦18年(799年)に生まれ、貞観7年(865年)に亡くなったとされています。平安時代初期の皇族・僧侶であり、法名は真如。平城天皇の第三皇子。異母兄に阿保親王、甥に『伊勢物語』で知られる在原業平がいます。品位は四品。Wikipedia「高岳親王」の「経歴」には、「大同4年(809年)に父・平城天皇が譲位して嵯峨天皇が即位すると皇太子に立てられるが、翌大同5年(810年)の薬子の変に伴い皇太子を廃される。弘仁13年(822年)、四品に叙せられ名誉回復がなされるが、出家し真如と名乗った」と書かれています。

また、「奈良の宗叡・修円、また空海(弘法大師)の弟子として修行した。弘法大師の十大弟子の1人となり、高野山に親王院を開いた。阿闍梨の位をうけ、また『胎蔵次第』を著した。承和2年(835年)に空海が入定すると、高弟の1人として遺骸の埋葬に立ち会っている。斉衡2年(855年)、地震により東大寺大仏の仏頭が落ちたとき、東大寺大仏司検校に任じられ修理を行う。老年になり入唐求法を志して朝廷に願い出、貞観3年(861年)に親王や宗叡らの一行23人は奈良より九州に入り、翌貞観4年(862年)に大宰府を出帆して明州(現在の寧波)に到着する」とも書かれています。

さらに、「貞観6年(864年)、長安に到着。在唐30余年になる留学僧円載の手配により西明寺に迎えられる。しかし、当時の唐は武宗の仏教弾圧政策(会昌の廃仏)の影響により仏教は衰退の極にあったことから、親王は長安で優れた師を得られなかった。このため天竺行きを決意。貞観7年(865年)、皇帝の勅許を得て従者3人とともに広州より海路天竺を目指し出発したが、その後の消息を絶った。16年後の元慶5年(881年)、在唐の留学僧・中瓘らの報告で親王は羅越国(マレー半島の南端と推定されている)で薨去したと伝えられている。虎の害に遭ったという説もある。現在、マレーシアのジョホール・バルの日本人墓地には、親王院が日本から御影石を運んだ親王の供養塔が建立されている」と書かれています。

わが書斎の澁澤龍彦コーナー

天皇の子として生まれ、空海の高弟となり、長安から天竺へ旅をし、最後は虎に食われたとされているなんて、なんとファンタスティックな人生でしょうか! 澁澤龍彦が小説の主人公にしたことによって、高岳親王の存在を初めて知った人は多いと思います。著者も、よくぞ、このような興味深い人物に目を付けたものです。思えば、著者ほど「幻想」や「奇想」を日本人に与え続けた人はいませんでした。高橋氏の「解説」には、「私がこうして物書きになれたのも、その大半は澁澤さんのお陰だと思っている。黒魔術、毒薬、ホムンクルス、地下世界、人形愛、ブランヴィリエ伯爵夫人、ユートピア、畸形、ノストラダムス、秘密結社、空中庭園、澁澤さんの本で触れて魅せられた事柄をここに並べればそれだけでこの文章のすべてが埋まる。これはなにも私に限ったことではなく、今の時代にSFやオカルト小説、幻想小説、そして伝奇小説を書いているほとんどの小説家に言えるのではなかろうか。皆それぞれがなんらかの形で澁澤さんの世界をコピーしている」と書かれています。かく言うこのわたしも、澁澤龍彦のエッセイに多大な影響を受け、『遊びの神話』(東急エージェンシー、PHP文庫)ではたくさん引用させてもらいました。

この『高丘親王航海記』という物語は、まず、エクゾティズムに満ちています。第一章「儒良」で、著者は「けだし、親王の仏教についての観念には、ことばの本来の意味でのエクゾティズムが凝縮していたにちがいないからだ。エクゾティズム、つまり直訳すれば外部からのものに反応するという傾向である。なるほど、古く飛鳥時代よりこのかた、新しい舶載文化の別称といってもよかったほどの仏教が、そのまわりにエクゾティズムの後光をはなっていたのはいうまでもあるまいが、親王にとっての仏教は、単に後光というにとどまらず、その内部まで金無垢のようにぎっしりつまったエクゾティズムのかたまりだった。たまねぎのように、むいてもむいても切りがないエクゾティズム。その中心に天竺の核があるという構造」と書いています。

また、本書はアナクロニズムの物語です。アナクロニズムとは「時代錯誤」という意味ですが、とにかく本書の中の時間の流れはデタラメで、鼻の長い奇怪な獣が親王一行の前に出現して、「おれは大蟻食い(オオアリクイ)というものだ」と名乗ったとき、従者の円覚という僧は「ふざけるな、まじめに答えろ。こんなところに大蟻食いがいてよいものか。いるはずがないぞ」と、いまにも相手につかみかからんばかりの剣幕で怒るので、親王は見るに見かねて、「おいおい円覚、なにもそう赤くなって怒ることはあるまい、ここに大蟻食いがいたとしても、べつだん、かまわないではないか」と言うのです。

すると、円覚は食ってかかるように、「みこはなにも御存じないから、平気でそんな無責任なことをおっします。それなら、わたしもあえてアナクロニズムの非を犯す覚悟で申しあげますが、そもそも大蟻食いという生きものは、いまから約六百年後、コロンブスの船が行きついた新大陸とやらで初めて発見されるべき生きものです。そんな生きものが、どうして現在ここにいるのですか。いまここに存在していること自体が時間的にも空間的にも背理ではありませぬか。考えてもごらんなさい、みこ」と言うのです。こんな変てこな会話が展開される小説が他にあるでしょうか。しかも、この物語には他にも、時間的にも空間的にも背理となるアナクロニズムが存在するのです。ちなみに、澁澤龍彦の盟友であったドイツ文学者の種村季弘には『アナクロニズム』という名著があります。もしかして、著者はこの本を意識していたのでしょうか。

さて、1985年に『高丘親王航海記』の執筆を開始したときから、著者にはすでにのどの痛みが起きていました。翌86年になってもそれは治らず、悪くなる一方で、9月に慈恵医大病院で検査したところ悪性と判明し、ただちに入院。気管支切開で声を失い、下咽頭癌と診断されました。病状の進行と並行して『高丘親王航海記』は書き継がれ、「文学界」に第六章の「真珠」を渡したのは手術後の87年1月のことでした。この章で、主人公の親王は大きな真珠が獲れる獅子国(セイロン)に至り、海にもぐる真珠採りからとりわけ大粒なるものをさし出されます。その美しさは死の結晶かもしれないと思いながら、結局、親王はその真珠を呑み込みます。そして意識を失い、その場に倒れてしまいます。

長い昏睡状態から覚めると、親王はのどに痛みと異物感を覚えました。呑みこんだ真珠のせいなのか、自分の声も変わってしまいます。のどの痛みは本物で、その上、息苦しさも加わりました。本物の病気に違いありません。親王は、これで自分は一年以内に死ぬと考え、なぜかほっと肩の荷をおろしたような気分になりました。著者は、「死はげんに真珠のかたちに凝って、私ののどの奥にあるのではないか。私は死の珠を呑みこんだようなものではないか。そして死の珠とともに天竺へ向う。天竺へついたとたん、名状すべからざる香気とともに死の珠はぱちんとはじけて、わたしはうっとり酔ったように死ぬだろう。いや、わたしの死ぬところが天竺だといってよいかもしれない。死の珠がはじければ、いつでも天竺の香気を立ちのぼらせるはずだから」と書いています。

この「真珠」は「文学界」1987年3月号に掲載され、続いて4月に最終章「頻伽」が脱稿され、『高丘親王航海記』は完結に至りました。そして、著者は6月にその決定稿を渡しますが、8月に頸動脈瘤が破裂して死去します。まさに澁澤龍彦は高丘親王のように死んだのでした。奇妙なことですが、わたしは「のどの痛み」と「息苦しさ」という症状から、わたしは高丘親王は新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなったのではないかと思いました。もちろん、9世紀の人である高丘親王が、2019年末に中国の武漢で発生したという新型コロナウイルスに感染するはずはないのですが、そんなアナクロニズムもこの物語なら「あり」ではないかと思ったのです。この小説には、「死」の香りが濃くたちこめているという感想をもつ読者も多いようですが、わたしはぞうは思いません。親王は虎に食われて天竺へ行くというビジョンを持っていました。親王にとっての天竺とは「極楽」そのものです。そう、この『高丘親王航海記』という物語は、極楽への憧れに満ちたユートピア小説なのです。

わが書斎のアストロラーベ

最後に、この小説は航海記といいながら、実際はほとんどが高丘親王が見た夢の内容が綴られています。それでも航海の場面があるのですが、そこにはアストロラーベ(Astrolabe)という器具を操る船乗りが登場します。アストロラーベは、古代の天文学者や占星術者が用いた天体観測用の機器であり、ある種のアナログ計算機と言えます。用途は多岐にわたり、太陽、月、惑星、恒星の位置測定および予測、ある経度と現地時刻の変換、測量、三角測量に使われました。また、イスラムとヨーロッパの天文学では天宮図を作成するのに用いられました。じつは、わが書斎には2種類のアストロラーベのレプリカが鎮座しています。これらを眺めていたら、わたしはどこまでも空想の翼を広げることができます。『高丘親王航海記』を再読したとき、日本はGoToトラベルの最中でしたが、新型コロナウイルスの感染拡大も第2波を迎え、旅行に出かける人は少なかったです。わたしも、今年のお盆休みはどこにも行かず、本書のような幻想航海記を読み、アストロラーベを眺めながら、夢の天竺へと心を遊ばせました。いくら新型コロナウイルスの影響で海外旅行が夢のまた夢となろうとも、読書による「心の外遊」は自由です!

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