No.1962 プロレス・格闘技・武道 | 評伝・自伝 『ロレンスになれなかった男』 小倉孝保著(角川書店)

2020.11.03

『ロレンスになれなかった男』小倉孝保著(角川書店)を読みました。「空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯」というサブタイトルがついています。8月末に、わたしのオフィシャルサイトの連絡欄に「いつもレビューを読ませていただいています。プロレス、格闘技の本はいつも買うときの参考にさせていただいています。一条さんのレビューでみたいのが『ロレンスになれなかった男』のレビューが見てみたいです。とても面白かったので一条さんの感想がどんなものなのか見たいと思いました」という内容の読者からのメールが届きました。それで、直後に本書をアマゾンで求めて読んだのですが、なにしろ書評ブログのストックが多いため、ご紹介が遅くなりました。

著者は、1964年滋賀県長浜市生まれ。88年毎日新聞社入社。カイロ、ニューヨーク両支局長、欧州総局(ロンドン)長、外信部長、編集編成局次長を経て論説委員。2014年、日本人として初めて英国外国特派員協会賞受賞。『柔の恩人 「女子柔道の母」ラスティ・カノコギが夢見た世界』(小学館)で第18回小学館ノンフィクション大賞、第23回ミズノスポーツライター賞最優秀賞をダブル受賞。「女子柔道の母」に続いて、「アラブ空手の父」を描いた本書は、プレジデントオンライン、SNSで圧倒的反響を呼びました。

本書の帯

本書のカバー表紙にはアラブの少年たちに空手の指導をしている岡本秀樹の写真が使われ、帯には「サダト、ムバラク、フセイン一族――政官中枢に近づき暗躍した空手家がいた」「中東で秘密警察や政府要人に空手を指導、外国製品の闇ルート販売とカジノ経営に乗り出す。命運を賭したビジネスがイラク戦争開戦により頓挫した男は、ナイルに散った……。200万人に及ぶ”空手の種”を撒いたその光と闇の濃い人生を描くノンフィクション!」

本書の帯の裏

帯の裏には、「映画『アラビアのロレンス』に憧れ1970年、シリアに向かった岡本秀樹。空手の稽古を通じて、アラブ民族に自立への誇りと現地の活気をもたらしていく。稽古を通じ築いた政官中枢との人脈を生かしエジプト、イラクでビジネスに挑むが、イラク戦争勃発により計画は暗礁に乗り上げる。すべてを失った彼が、たどり着いた場所とは――。日本の外務省に徹底的に嫌われながら、灼熱の地でアラブ民族に”自立の精神”を刻んだ男――構想18年、国際ジャーナリストが満を侍して贈る!」と書かれています。さらに、カバー前そでには、「命がけでアラブに挑んだ。一人で砂の地を開いていった。あれほど破天荒な生き方をする男は今、日本にはいない」とあります。

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
 序章 「オカモト」が生まれた日
第一章  取材ビザを求めて(イラク前編)
第二章  空手との出会い(日本編)
第三章  中東の空手家(シリア・レバノン編)
第四章  闇商売に堕ちる(エジプト編)
第五章  最後の賭け(イラク後編)
 終章  岡本が遺したもの
「あとがき」
「主要参考文献」

「はじめに」で、岡本秀樹について、著者は「岡本は1970年にアラブに渡り、シリア、レバノン、エジプトを拠点に約40年にわたって空手を指導してきた。日本空手協会(本部・東京)の中東・アフリカ担当責任者として、空手の空白地帯だったこの地域に空手を普及させている。前立腺がんからの転移で全身をがんに冒された岡本は08年夏、日本に帰国し闘病の末、09年4月30日、67年の生涯を閉じた。現在、中東・アフリカ地域の空手人口は200万人を超えている。その源流は岡本にある。ゼロから空手を育てた彼は、『アラブ空手の父』と呼ばれてきた」と述べています。

序章「『オカモト』が生まれた日」では、本書のタイトルのもとになった映画「アラビアのロレンス」が登場します。著者は、「日本空手協会での研修を終えて指導員になったとき、岡本は映画『アラビアのロレンス』を見た。1962年に制作され、翌年日本で公開されたこの映画は、オスマン帝国の支配下でのアラブの独立を支援した英国軍将校、トマス・エドワード・ロレンスを描いた名作である。当時、東南アジアで空手を指導したいと思っていた岡本は、ロレンスの姿をスクリーンに見て、アラブ世界で空手を教えるのも悪くないと考えるようになる」と書いています。わたしは、中学3年生になったばかりの1978年4月に日本テレビ系の「水曜ロードショー」で「アラビアのロレンス」を初めて観ました。オマー・シャリフ演じるアリが砂漠の向こうから蜃気楼のようにやって来るシーンを観て感動したことを記憶しています。とにかく壮大なスケールの映画でした。

映画「アラビアのロレンス」が描いたように、欧州の植民地政策に苦しめられたのは東南アジアや南アジアだけではなく、西アジアも白人に支配されてきました。著者は、「空手で彼らの自信や誇りを取り戻させることができないか。ベトナム反戦運動の高まりもあり、60年代後半は帝国主義に抗議する世界の若者たちが連帯した時代だった。日本赤軍などの共産主義と、岡本が影響されている民族主義から来る反帝国主義は立ち位置において違いがあった。ただ、熱に浮かされていた点では右も左も大きな差異はなかった。岡本は70年1月、意気揚々とシリアにやって来たのだった」と述べています。

シリアにやって来た岡本は、首都ベイルートで機動隊を相手に大立ち回りを演じます。この喧嘩で、シリア人の岡本を見る目は明らかに違ってきました。著者は、「日本人相手にやっていた方法でここの人たちを指導することはできない。この地域に合った指導法を作り上げる必要がある。日本ならば暴力的だ、規則に反していると厳しく指弾されるであろうあの乱闘、大立ち回りが、この国では『空手は強い。実戦的だ』という評価になる。ルールや規則よりも実際の力を重視する。それがアラブなのだ」と書いています。

乱闘以来、「空手は(実戦で)使える」との評判がアラブ各地に広まりました。しばらくすると岡本の下にパレスチナ・ゲリラやエジプト大統領の息子たちから指導を求める連絡が入り始めます。著者は、「岡本は空手の指導をシリア、レバノンから中東・アフリカ全域に広げ、結果的に約40年間で200万人以上の空手人口を持つ地域を作り上げた。警察・機動隊を相手にした彼の大立ち回りは、アラブでの空手普及の幕開けになった」と書いています。

第一章「取材ビザを求めて(アラブ前編)」では、著者は岡本の空手がアラブ各地で知られていったことについて、「国際空手道連盟極真会館が68年にヨルダンで国王のフセインに空手を指導するなど、岡本以前にもアラブで空手を指導する日本人や欧州人がいなかったわけではない。ただ、岡本の場合、シリアに渡って以降、途切れることなくこの地域で空手を指導してきた。中東・アフリカ各国は70年代から国レベルで空手道連盟を設立して空手を普及させる態勢を整えていくが、そのほとんどすべての連盟設立に岡本が関与している。過去に岡本よりも強い空手家はいたはずだ。ただ、彼ほど多くの連盟設立に携わった空手家は空前絶後だ」と書いています。やはり、岡本は「アラブ空手の父」だったのです。

第二章「空手との出会い(日本編)」では、再び映画「アラビアのロレンス」が取り上げられ、「アラブはこの戦争で何を得たがっているのか」と米国人記者に聞かれたロレンスが、「(アラブは)自由を望んでいる」と答えるシーンを紹介します。アラブ人が自由を手に入れるのは容易ではないと説く記者に、ロレンスは「私が与えてみせる」と語るのですが、著者は「岡本は多民族の独立のために戦ったロレンスに自分を投影した。『東南アジアだけではない。西アジアにも植民地支配にあえいだところがあったのか』岡本は立て続けに3回、この映画を見ている。さほど映像文化に興味のない彼が複数回、見た映画は、生涯、この映画だけである」と書いています。優れた映画には、人の人生を変える力があるのですね。

第三章「中東の空手家(シリア・レバノン編)」では、シリアでの指導にようやく熱が入り始めた岡本に、日本空手協会から「第一回世界空手道選手権大会にシリア代表を出場させろ」との連絡が入り、1970年10月10日から日本武道館を中心に開かれた大会について書かれています。主催は全日本空手道連盟(全空連)で、日本空手協会も全空連に参加する主要組織の1つでした。第一回世界空手道選手権大会には33カ国が参加していますが、中東から参加するのはシリアとイスラエルだけでした。イスラエルには欧米で空手を学んだ選手が多く、エジプトは「アラブ連合」の名で役員のみの派遣でした。著者は、「イランやトルコといった中東の地域大国ではなくシリアが代表チームを送ったのは、岡本の力が大きかった」と述べています。

靴をはいたまま試合のマットに上がって主審に怒られた選手もいましたが、岡本は「しっかりと礼をしろ」と大声で指導し、「礼に始まり、礼に終わる。何度言っても、それが伝わらない。武道には勝敗以上に大切なことがある。それがわかんないんです。勝てばいいのはスポーツです。武道は違う。勝敗は勝者の、そして敗者は敗者の振るまいがある。勝ち負けじゃないんです」と語っています。シリア代表は2回戦でフランスに敗れ、初の世界大会は終わりました。ただ、アラブ社会に空手を知らしめる効果は絶大でした。アラビア語新聞がシリア・チームの健闘を報じたことで、岡本のところにアラブ各国から空手指導の依頼が入りました。

世界大会を終えて、岡本がダマスカスに戻るとすぐ、東京から三島由紀夫自決のニュースが入ってきました。三島は自衛隊に決起を呼びかけ、それがかなわずに切腹したのです。アラブ人の空手の生徒たちはその精神性が理解できませんでした。岡本に対して「ミシマはなぜ自殺したのか」と質問します。「日本男児は夢かなわずと悟ったときは腹を切る。そうした覚悟で生きている」と答える岡本に、「でも、神からいただいた命をそまつにしてはいけない」と言うのでした。イスラム教は自死を戒めています。岡本がどれだけ三島の行動を説明しても、生徒たちは最後まで理解できない様子だったといいます。それから約30年後の2001年9月11日、米国同時多発テロでのイスラム教徒の自爆テロに世界は震撼することになります。

テロといえば、1972年5月30日午後10時、鹿児島大学農学部の学生だった岡本公三たち日本赤軍のメンバーがイスラエル・テルアビブのロッド空港(現在のベン・グリオン空港)で銃を乱射し、乗降客ら26人を殺害した事件が発生しました。アラブ・イスラエル紛争とは無関係と思われた日本人によるテロに世界中がショックを受けました。戦争イスラエルに負け続けていたアラブ人たちの中には、遠い極東の島国に自分たちを理解してくれる人間がいることを喜ぶ者が多かったようで、「日本人は兄弟だ」ということでダマスカスの街を歩いている日本人に抱きつき、「ありがとう」と言う者もいました。事件の翌日の31日の朝、岡本の空手道場の生徒も岡本に敬礼し、「我々の兄弟」と呼んだそうです。それぐらい、アラブ人の感情は鬱屈としていたのでした。ちなみに、岡本秀樹と岡本公三は「2人のオカモト」としてアラブ社会で有名になったとか。

岡本は空手家の顔の他に、実業家の顔も持っていました。空手を通じてアラブの特権階層と知り合になり、さまざまなビジネスに手を染めました。エジプトでは、スーパーマーケットやカジノも経営しています。中には闇商売のようなものもあったようです。本書のアマゾン・レビューでは、日御碕巌という方が「アラブに空手を伝えた知られざる武道家」のタイトルで、「アラブ社会では、ごく少数の政治・経済の特権層が権力をふるってきたことも本書からはうかがい知ることができる。小池百合子都知事のカイロ大学入学に便宜を図ったとされているエジプト三代の大統領顧問であったアブドル・カーデル・ハーテム氏も本書には登場するが、アラブ社会の闇をあらためて知らされるようだ。2011年の民主化要求運動『アラブの春』は、本書に現われるようなごく一部の特権階層によるアラブ社会の不正・不義を正そうとするものではなかったかとも思う」と書かれています。

終章「岡本が遺したもの」では、エジプトやイラクで闇商売にまで手を染めたとされる岡本の知られざる一面が明かされます。岡本は、「アフリカのエイズの子供達を支援する協会」を立ち上げ、南アフリカのエイズ孤児に空手を教える活動を行っていたのです。エイズ孤児とは両親、もしくはどちらかの親をエイズ(後天性免疫不全症候群)で亡くした子供(15歳以下)で当時、アフリカ全体で約1200万人いると推定されていました。岡本は南アフリカで空手を指導しているときに、教え子からエイズ孤児の現状を聞き、支援に乗り出したのでした。

当時の岡本を知る中東研究者の佐々木良昭氏は、岡本の生き様を考えるとき、アフガニスタンで凶弾に倒れた「ペシャワール会」の中村哲医師との共通点を見出すといいます。佐々木氏は、「中村医師はアフガンに命を賭けたわけでしょう。同じように岡本さんは命がけでアラブに挑んだ。1人で砂の地を開いていった。あれほど破天荒な生き方をする男は今、日本にはいないよね。突破力がないというのかな。社会がエネルギーを失ってしまっている。今の若者に彼のような爆発力があるか。ないよね。無理を承知でやってみようということにならないんだから。『そんなことやっても無駄だ』ってなるでしょう。大人っぽいと言えば、大人っぽい。でも、それで社会を変えることができるか。俺は今こそ、日本社会に彼のような人間が必要な気がするね」と語っています。

岡本が亡くなった後、著者は遺骨をエジプトに返そうとしました。岡本は飲むたびに、著者に「私の骨はピラミッドの近くの砂漠に埋めるか、ナイルに撒いてほしい」と口にしていたのです。李香蘭こと山口淑子にも語っていたそうですが、岡本はシリアに渡った頃から、アラブに骨を埋める覚悟を固めていたのです。著者は「彼の人生劇場は、遺骨をアラブに返して初めて終幕となる」と思ったといいます。そして、本書の最後は以下のように書かれています。
「映画のロレンスは結局、この地を去った。仲間同士で対立し、いつまでも自立できないアラブ人に失望したのだ。彼は、『砂漠など二度と見たくない』とまで語っている。一方、ロレンスに憧れた岡本は最後までアラブに失望することはなかった。騙され、陥れられても彼はアラブを愛し、信じ、子供たちを励まし続けた。岡本はすべてを失いながらも、この地域に200万人を超える空手家を育てた。砂漠にまいた空手の種は大輪となって咲いている。ロレンスになれなかった男は、ナイルの水となった」

「あとがき」で、本書のタイトルを『ロレンスになれなかった男』としたことについて、著者は「映画『アラビアのロレンス』に憧れシリアに渡ったものの、その後、女性に溺れて闇商売に手を染め、最後は国の保護(生活保護)を受けることになった点を念頭に置いたタイトルだった。ただ、彼の生涯を書き進めるにつれ、彼はロレンスに『なれなかった』のではなく、『ならなかった』のではないかと考えるようになった。映画のロレンスは最後、アラブに絶望して祖国(英国)に帰った。ロレンスはあくまで英国のためにアラブ人を鼓舞した。一方、岡本は最後までアラブの若者、子供に期待し、決して絶望しなかった。祖国を顧みず、アラブで生きようとした。彼はロレンスよりも何倍も純粋にアラブを愛した」と述べるのでした。

もともと、わたしの「プロレス・格闘技・武道」関連の書評の愛読者の方から教えてもらった本でしたが、空手家の生涯というよりも、1人の日本人の破天荒な生涯に興味を抱きました。「強さ」というものを求めながらも、女性や商売にも色気を出し、不可能なことに次々とチャレンジし続けた破天荒な人生といえば、アントニオ猪木氏を連想します。湾岸戦争時、イラクで日本人46人が人質となりましたが、その際にサダム・ フセイン大統領(当時)と交渉をして、彼らを全員救出したのは外務省でも時の政府でもなく、猪木氏でした。

わたしも、ロレンスになりたかった!

いま、日本の若者は海外や国際問題への関心が希薄になっているそうです。青年海外協力隊員の応募者も激減するようになったと聞きます。その傾向は新型コロナウイルスによって、さらに加速していることでしょう。ぜひ、本書を若い人たちに読んでいただき、日本人のバイタリティーは世界でも通用することを知っていただきたいと思います。最後に、岡本秀樹の人生に絶大な影響を与え、本書に何度も登場する映画「アラビアのロレンス」はわたしの大好きな映画です。じつは、わたしもロレンスになりたかった男の1人であったことを告白いたします。

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