No.0001 評伝・自伝 『驚異の百科事典男』 A・J・ジェイコブス著(文春文庫)

2010.02.15

知識が知性に通じることを示す1冊

「一条真也の読書館」、その記念すべき第一冊目として、『驚異の百科事典男~世界一頭のいい人間になる!』A・J・ジェイコブズ著、黒原敏行訳(文春文庫)をご紹介します。昨夜読み終えたばかりなのですが、700ページ以上あるにもかかわらず、面白くて一気に読了しました。アメリカのジャーナリストが、なんと『ブリタニカ百科事典』を読破するというノンフィクションです。『ブリタニカ』といえば、1768年創刊の百科事典の代名詞的存在です。著者は、49ドルで買えるCD-ROMや月額いくらのオンライン版には目もくれず、模造革装幀の書籍版を1400ドルで購入。

全部で32巻、33000ページ、65000項目、執筆者9500人、図版24000点。

各巻の重さは約2キロで、約4400万語の単語が大判の薄い紙にびっしり刷られています。著者は、これをすべて1年かけて読み尽くすのです。いま話題の電子書籍「アマゾン・キンドル」も何も関係ない、究極のアナログ的読書マラソンです。

本書の解説を書いたフランス文学者の鹿島茂氏と同じく、この読書狂に対して、わたしも「同病相憐れむ」と感じました。『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)を書いて以来、わたしも読書狂と見られることが多いからです。

さて、『驚異の百科事典男』には、『ブリタニカ』のエッセンスというか、読みどころが簡潔にまとめられています。それが実に面白く、まさにトリビア的知識の宝庫です。

たとえば、伝説的バンド「グレイトフル・デッド」や「グリーンランド」の国名の由来とか。

ありとあらゆる知識をこんなに貪欲に吸収すれば、クイズ王になれそうな気がしますね。
そう、実際に、著者はあの「クイズ・ミリオネア」に出場するのです。果たして、驚異の百科事典男は100万ドルを獲得して、「世界一頭のいい人間」になれたのでしょうか?
その結果は、本書を読んでからのお楽しみにしましょう。

『ブリタニカ』を「A」のページから読みはじめた著者は、膨大な知識の蓄積とともに無常感のようなものを感じてきます。そして、最後近くの「W」のページまで進み、「war,technology of(戦争のテクノロジー)」という項目を読みます。
そこには、1945年8月9日、原子爆弾「ファットマン」が長崎に落とされた事実が述べられ、さらにこう書かれていました。「B-29は10分間、小倉の上空を飛んだが、目標地点を発見できなかった。そこで第2目標である長崎に移動」と。
著者は、小倉という街が最初の目標であることを知りませんでした。
「小倉」という名前すら聞いたことがありませんでした。 著者は、上空が曇っていたために何万人もの人々が命拾いしたという事実に驚きます。
そして、爆撃機が小倉上空を飛んでいた10分間のことを考えます。
その日、職場で電話をかけたり、子どもと遊んでいたり、食事をしていた人々は、想像を絶する破壊力を持つ爆弾が頭の上を飛んでいることを知りませんでした。
今にも自分たちを蒸発させてしまおうとしていることを知りませんでした。
爆撃機が投下目標を発見できなかったおかげで助かったのです。
その人々の中には、わたしの母もいました。母もわたしも、いま、小倉に住んでいます。
その日、小倉に原爆が落ちていたら、わたしはこの世に生まれて来なかったかもしれません。著者は、次のように書いています。 「『ブリタニカ』は繰り返し教えてくれる。歴史においては運が大きな役割を果たすということを。ぼくたちは歴史的事件を人間の合理的判断と計画の産物だと考えたがる。でも実際にはそれと同じくらいーーあるいはそれ以上にーー運命のちょっとした気まぐれに左右されるようだ。」 1年間の余暇時間をすべて百科事典を読むことに費やした著者は、ついに全32巻を読破します。そして、この世にも不思議な「知」の大航海記の最後にこう記しています。
「知識と知性は同じものではないが、同じ界隈に住んでいるのを知っている。ぼくは学ぶことの愉しさをふたたび知ることができた。そして今は普通の生活に戻り、もうすぐ妻と愉しい食事に出かけようとしている。」
本書を読み終えたわたしは、さわやかな心になっていました。 あらゆる読書は「こころの王国」につながっているということを再認識しました。

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