No.0023 メディア・IT 『紙の本が亡びるとき?』 前田塁著(青土社)

2010.03.18

『紙の本が亡びるとき?』前田塁著(青土社)を読みました。
最近、紙でつくられた書籍が失われるという内容の本が多くなってきました。

本書の冒頭には、「『ライブラリプロジェクト』と『紙の本の終り』、あるいは長い長い前書き」というプロローグが出てきます。
2009年のはじめ、米国グーグル社は日本の全国紙などで告知を行いました。その内容は、同社の「ライブラリプロジェクト」をめぐって米国内の著作権者の集団、作家組合、出版社、米国出版協会を和解したこと、そして同プロジェクトの効力はアメリカの枠を超えて全世界に及ぶというものでした。

さらに同社は、「グーグルブック検索著作権集団訴訟和解のための和解管理ウェブサイト」を立ち上げています。

「ライブラリプロジェクト」とは、いったい何か? まず、「グーグル ブック検索」というグーグルが提供するプロジェクトがあります。それは、登録される書籍の由来によって、「ライブラリプロジェクト」と「パートナープログラム」とに二分されています。

「パートナープログラム」は、著作者あるいは出版社とのあらかじめ合意と契約のもとで電子化が行われるものです。これは問題ありません。 問題なのは「ライブラリプロジェクト」のほうで、これは公共性を理由として一方的に電子化されるというものです。当然、「和解」を必要とします。

日本国内の出版界でも大問題となり、著者であるわたしのもとには、複数の出版社からグーグル社との「和解」についての見解文が送られてきました。この「ライブラリプロジェクト」によって、これまで情報の器として人類の歴史に大きな役割を果たしてきた「本」がどう変質するかが本書で考察されています。

読むことの未来を考える

グーグルは、開放型のデータベースです。それがネットワーク上のすべての情報の取捨と保管を試みるとき、その倫理性はどうなるのか。

著者によれば、それは、承認ないしは切断を放棄した「全体性の維持」と、ユーザーに示される「自由」が担保するというのです。

そして、単純消費者としての「自由」を拡張されたユーザーたちは、ミシェル・フーコーが『知の考古学』で述べた「言説を所有する」欲求にしたがって無数の書物の断片を集めてまわることになります。著者は次のように書いています。ちょっと長いですが、引用します。

「テキストベースのWEBコンテンツでは、コピー&ペーストによる切断/引用/加工が、Wikipediaでの例をはるかに超えて、日々無数に繰り返されている。ブログやサイトに『引用』される他者の言葉の様々はもちろんのこと、グーグルが検索結果を表示するときの『要約文』(と日本語では表記されるが実際には、該当フレーズの含まれた文の一部という『抜粋』)自体、『承認=切断』を放棄した機械的な切断/引用/加工にほかならない。加えてその裏面ではほとんど公然と、検索入力語句やメールに含まれた語を収集、さらには日本語入力システムを『無償』提供してまで、個々のユーザーと世界全体の日々用いられる語を収集整理しようとするのだから、おそらくは広告表示システムの合理化とそこで得られる利益のためといえどもその欲望はほとんどバベルの塔のそれに近い。」

「バベルの塔」という表現は言い得て妙ですね。「バベルの塔」ならば、いつかは神の怒りに触れるのでしょうか。

わたし個人は、グーグルという検索システムには不信感を持っています。それは、同じ検索システムであるヤフーと比べてみると、ヤフーのほうに安心感がある。というのは、グーグルで検索したときに上位で拾うものには、得体の知れない匿名ブログの類が多いことです。しかも、きわめて悪意に満ちた誹謗中傷的な内容のものまで平然と拾っている。きちんとチェックを経た言説である新聞社などのWEB記事よりも、根拠も明らかでない匿名ブログの言説を同等か、それ以上に扱うというのは、わたしには疑問です。

一方、ヤフーの場合は、その意味での情報の序列というものがきちんとなされています。ヤフーというのは、サイトやブログの歴史などを考慮し、それが検索順位に反映されているように思います。いわば、年功序列を取り入れているわけですね。

つまり、ヤフーの検索システムには「礼」がある! ヤフー・ジャパンの場合はヒューマン・パワーで、グーグルの場合はロボットが検索フレーズを拾うと聞きましたが、やはりロボットの作業には「礼」を感じません。もちろん、インターネットを使う限りは、グーグルの世話にならずにはいられません。また、わたしが信頼を寄せるヤフーそのものがグーグルを意識しながら作られていくことも知っています。それでも、グーグルがヤフーの良い面を取り入れてくれることを願っています。

話が脱線しました。タイトルに惹かれて本書を購入したのですが、「紙の本が亡びるとき」というテーマに言及した部分は最初のほうだけで、後は文芸書の書評が主だったのが少々残念でした。それでも、文芸雑誌の「群像」が活版印刷からオフセットに切り替わるというニュースを聞いて、著者が最初に思い出したのは、『銀河鉄道の夜』の一場面だったそうです。

著者は、次のように書いています。

「小さな鉛の塊が虫眼鏡で拾われ組みあわさって、時空を旅する物語や、世界の深淵を垣間見せる哲学へと姿を変える、そんな奇蹟を可能とする魔法の棒。左右反転の文字を浮き上がらせた金属体が、紙にわずかなくぼみをつくり、インクの溜まりを並べてゆく・・・・・・六百年近く昔にヨハネス・グーテンベルクが活版印刷を生み出して以降、文字通り『刻まれた』文字の足跡を拾いながら、漱石も芥川も太宰も谷崎も中上も、誰もが読んできたのだし、そのような彼らの作品を私たちもまた、同じように読んできたのだ。」

この文章は、亡びゆくものたちに対する美しいオマージュだと思います。もしかしたら、亡びるかもしれない紙の本。

わたしたちの「こころ」を豊かにしてきたくれた紙の本を支えた活版印刷。

活版印刷の発明者として歴史に名を残すグーテンベルク。 グーテンベルクからグーグルへ。

わたしたちは、いま、とてつもない時代を生きているのかもしれません。

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