No.0080 社会・コミュニティ 『互助社会論』 恩田守雄著(世界思想社)

2010.05.23

互助社会論』恩田守雄著(世界思想社)を読みました。「ユイ、モヤイ、テツダイの民俗社会学」というサブタイトルがついています。

500ページを超える大冊に横組みの小さな活字が並んでいます。著者の専門は、経済社会学、開発社会学、民俗社会学などです。2006年の刊行ですが、著者は日本の村落社会でかつて多く見られた互助行為とそれに基づく互助社会を解明すべく、本書を書いたそうです。

ユイ、モヤイ、テツダイの民俗社会学

互助行為にはさまざまな種類がありますが、本書ではそれらを「ユイ」「モヤイ」「テツダイ」という言葉に集約しています。

「ユイ」とは、互助行為の行為者が特定の相手と互酬的な関係にあり、主体と客体が双方で入れ替わる「互酬的行為」のことです。一般には、田植え、稲刈りの農作業や屋根の葺き替えなどの「交換労働」をさします。

「モヤイ」とは、行為者間で資源の配分を公平に行って、その成果を順次成員間で再分配するように、主体と客体が特定の行為者関係に限定されない「再分配的行為」のことです。一般には、道普請などの村仕事や共有地(コモンズ)を維持管理する「協同労働」をさします。

「ユイ」も「モヤイ」も双方向の互助行為ですが、「テツダイ」という一方向の行為も存在します。「テツダイ」とは「手伝い」のことですね。地域によっては、「スケ」とか「カセイ」とも呼ばれてきました。

互助社会の見取り図

テツダイという「片助行為」は、共同体が前提にしている成員間の対等なヨコの社会関係に基づく「支援的行為」と、行為者間に「助力」格差が存在するタテの社会関係に基づく「援助的行為」に大別されます。著者は、次のように述べます。

「冠婚葬祭に見られる手伝いは、このテツダイのうちヨコの社会関係を反映した互助行為である。それはユイやモヤイが労力提供の依頼を前提にするのに対して、相手からの要請が少ない自発的な『支援的行為』でもある。このような一方向の行為は労働力や物品の提供を返礼として相手に求めず、その好意を受けとることに相手が負担を感じることが少ない行為である。この種の行為は村落内のツキアイであり、『社会の潤滑油』として機能してきた」

経済人類学者のカール・ポランニーは、社会背景をもつ経済的行為として、「互酬」「再分配」「交換」という3つのパターンを示しましたが、著者によれば、そこにはテツダイという片務的な「支援」が抜け落ちているわけです。

「血縁」と「地縁」と第三の「助縁」

著者によれば、互助行為は多様な「助縁」に基づく社会関係を構成します。最も普通に見られるのは親戚関係(血族、姻族)の行為です。これは、祖先からつながっているタテの血縁関係に基づく互助行為が中心でした。

しかし血縁だけでは不十分なとき、非血縁関係にある他者からの協力を必要とします。これが地縁関係に基づくヨコの互助行為です。都市化とともに、タテの社会関係から、しだいにヨコの地域住民による互助行為が多くなりました。わたしは、つねづね、血縁という「タテ糸」と地縁という「ヨコ糸」を張らなければならないと主張しています。

しかし、著者はさらに、従来の血縁や地縁とは異なる第三の「助縁」関係をきっかけに、ナナメの社会関係とも呼べる新しいボランティアの「縁」に基づく互助行為を生み出していると指摘します。これは、タテの親戚とヨコの地域住民だけではない、広く、一般市民による第三の社会関係といえるでしょう。

もちろん血縁と地縁の他にも「縁」はあります。わが社では、「学縁」とか「職縁」といった言葉とともに「道縁」という言葉を使っています。父である佐久間進サンレー会長が考案した言葉ですが、趣味を同じくする人々や志を同じくしてボランティアなどに励む人々の絆が「道縁」です。この「道縁」と、著者がいう第三の「助縁」関係は同じものだと思いますが、これが「ナナメ」の糸であることに気づきました。本書を読んだ大きな収穫です。「道縁」にしろ第三の「助縁」にしろ、インターネットなどを通して自由な互助ネットワークを拡大してゆく可能性を持っています。

さまざまな互助組織

また、本書には「組」や「講」といった互助活動の単位も取り上げられています。村落生活では、地主神や産土神などの土着信仰が相互扶助の精神的な支えになっています。そこで、そういった信仰面での組織が早くから生まれました。家族とともに、信仰組織が誕生したといってもよいでしょう。

村民の「こころ」の絆は寺社への信仰基盤が強固なところほど強く、信仰組織が互助ネットワークの基礎となっていました。そこでは血縁よりも地縁的な社会結合が発達していましたが、だんだん協同の村仕事のようなものが必要になってくると、「組」あるいは「講」と呼ばれる小集団が重要な役割を担ってきました。面白いのは、「組」や「講」は、非常にバラエティ豊かであることです。

たとえば、「組」では行政組織としての「五人組」や「隣組」、経済組織としての「ユイ(田植)組」、社会組織としての「葬式組」や「子供組」「若者組」「娘組」「嫁組」「主婦組」「年寄組」など。

「講」にいたっては、経済組織としての「頼母子講」や「無尽講」、社会組織としての「屋根葺講」「茅講」「無縁講」、さらには多様な文化組織としての「講」があります。

文化組織にもいくつかの種類があり、教養互助組織あるいは宗教講としての「伊勢講」や「富士講」や「念仏講」「観音講」「大師講」「稲荷講」、趣味娯楽組織としての「茶講」や「汁講」・・・・・この他にも多くの種類の「講」が存在し、まさにテーマ別互助サークルといった観さえあります。わたしたち日本人は、このように何かと目的を見つけては集い、仲間で楽しみ、助け合うという素晴らしい文化を持っていたのです。

しかし、現在の日本社会における互助活動はどうなっているか。著者は、次のように述べます。

「今や互助行為の『原風景』が失われつつある。行政の対応では馴染まない領域では民間の私企業が市場で互助サービスを提供している。それはツキアイに縛られることがない個人生活を尊重する傾向と軌を一にしているようである。これらは葬儀社やブライダル産業など冠婚葬祭のビジネスに典型的に見られる。個人がバラバラになり連帯が薄れているとき、この種のビジネスは煩わしい近隣関係にとらわれることなく、ビジネスライクに処理できる点は一面便利ではある。『互助会』という名称をつけたビジネスが隆盛をきわめているのは、互助行為があまりにも希薄化した現代社会への警鐘と受け取れる皮肉な名称である。必要なときに貨幣と引き替えでないとサービスが受けられないのは、社会関係を冷淡なものにしないだろうか。こうした過度な市場志向の互助行為が地域社会の互助ネットワークを切断してきたと言えよう。この種のサービス業が都市から村落に浸透するにつれ、ムラ社会のヨコの社会関係に代替することで自生的な『共生互助組織』も衰退してきたのである」

これは、著者のいう「『互助会』という名称をつけたビジネス」の当事者としては、言いたいことがあります。互助会のルーツは「ユイ」や「講」です。互助会が成長したから、自主的な「共生互助組織」が衰退したのではなく、その逆で、敗戦により日本社会における互助ネットワークが崩壊したので、それらに代わる新しいシステムとして互助会が誕生したのです。いわば、戦後の日本社会の要請によって互助会は生まれ、国民のニーズに合致したため発展してきたのです。また、「必要なときに貨幣と引き替えでないとサービスが受けられないのは、社会関係を冷淡なものにしないだろうか」などというのは、まったくの言いがかりにすぎません。互助会というのは純粋な会社組織であり、そのほとんどは株式会社です。

著者がいうような「必要なときに貨幣と引き替えなくてもサービスが受けられる」というのは行政の話です。逆にいえば、互助会は行政がなすべきサービスを民間の側から補完していると言えるでしょう。「社会関係を冷淡なものにしないだろうか」というのも、たとえば「外食産業が発展したから主婦が料理を作らなくなって家族関係を冷淡なものにした」という意見と同じレベルですね。早い話が、言いがかりです。

しかし、著者は本書の最終部分で次のようにも述べています。

「冠婚葬祭、特に葬儀は地域社会の重要な儀式であり、近隣の人たちが総出で手伝ってきた。葬儀ビジネスがこれにとって代わり、社会関係はますます希薄化しているのが実態であろう。この種の互助ビジネスの存在意義を否定するわけではないが、互助行為と互助ビジネスを融和させることで、たとえば地域住民の運営によるコミュニティ・ビジネスも考えられる。行政に依存し過ぎることなく、また企業の市場に飲み込まれることなく、ユイやモヤイ、テツダイの伝統的な互助行為を見直したい」

これには同感で、現状の冠婚葬祭のサービス提供だけでなく、わが社では「隣人祭り」「婚活セミナー」「グリーフケア・サロン」などの新しい互助行為の提案を試みているわけですが、さらに新時代の互助会を創造するためには「ユイ」「モヤイ」「テツダイ」の中から多くのヒントを求められると思っています。

他にも、本書には沖縄、特に石垣島の互助組織や互助行為の事例が豊富で、たいへん参考になりました。また、後の信用組合に大きな影響を与えたとされる二宮尊徳の「報恩社」、大原幽学の「先祖株組合」などの研究も非常に興味深かったです。尊徳も幽学も、ともに、神道と仏教と儒教を日本人の「こころ」の三本柱と見た思想家であり、社会運動家です。今後、この2人の思想や活動についてはさらに深く勉強してみたいと思います。

それにしても、500ページ超の本書は、じつに新書5冊分の内容の濃さでした。この本を読破した人が、わたし以外に何人くらいいるのか知りたいですね。いや、ほんとに。

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