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No.0073 社会・コミュニティ 『コミュニティを問いなおす』 広井良典著(ちくま新書)
2010.05.17
『コミュニティを問いなおす』広井良典著(ちくま新書)を読みました。「つながり・都市・日本社会の未来」というサブタイトルがついています。
著者は、厚生省勤務を経て、現在は千葉大学法経学部教授です。『友愛革命は可能か』を書いた小林正弥氏と同じ大学、同じ学部の教授ですね。「著者プロフィール」によれば、広井氏は、社会保障や環境、医療に関する政策研究から、時間、ケアなどをめぐる哲学的考察まで、幅広い活動を行なっているそうです。
つながり・都市・日本社会の未来
「無縁社会」が時代のキーワードになっています。これからの日本社会や、そこでのさまざまな課題を考えていく上で、最大のテーマは「コミュニティ」でしょう。
戦後の日本社会とは、一言でいえば「農村から都市への人口大移動」の歴史でした。都市に移った日本人は、独立した個人と個人のつながりを持とうとはしませんでした。その代わりに、会社や家族という、「都市の中のムラ社会」というべき閉鎖性の強いコミュニティを築いていきました。しかし、そうした「関係性」を可能にした経済成長の時代が終わりを告げ、個人の社会的孤立は深刻化しています。
1998年より12年にわたって自殺者が年間3万人を超えていますが、その背景には経済的要因だけでなく、人と人との「関係性」のあり方、そしてコミュニティのあり方が何らかの形で働いているようです。
本書では、このコミュニティというテーマを、都市、空間、グローバリゼーション、福祉ないしは社会保障、土地、環境、科学、ケア、価値原理、公共政策といった多様な観点から、新たな「つながり」の形を掘り下げています。
まず著者は、「コミュニティ」という言葉あるいは概念を次のように定義します。
「コミュニティ=人間が、それに対して何らかの帰属意識をもち、かつその構成メンバーの間に一定の連帯ないし相互扶助(支え合い)の意識が働いているような集団」
そして、「コミュニティ」というとき、次の3つの点を区別して考えることが重要だと述べています。すなわち、
(1)「生産のコミュニティ」と「生活のコミュニティ」
(2)「農村型コミュニティ」と「都市型コミュニティ」
(3)「空間コミュニティ(地域コミュニティ)」と「時間コミュニティ(テーマコミュニティ)」
それぞれを簡単に説明しますと、まず(1)において、都市化・産業化が進む以前の農村社会において両者はほとんど一致していました。すなわち、農村の地域コミュニティが、そのまま「生産のコミュニティ」であり、かつ「生活のコミュニティ」でもあったのです。
やがて高度成長期などで都市化・産業化を迎え、両者は急速に”分離”していきます。そして、「生産のコミュニティ」としての会社が圧倒的な優位を占めるようになります。しかし、経済が成熟して、急速な拡大・成長の時代が終わりつつあり、会社や家族といった存在も変化してきました。
次に(2)についていえば、「農村型コミュニティ」とは、”共同体に一体化する個人”ともいうべき関係のあり方です。それぞれの個人が、ある種の情緒的あるいは非言語的つながりの感覚をベースにしています。また、一定の「同質性」ということを前提として、強く結びつくような関係性です。
一方、「都市型コミュニティ」とは”独立した個人と個人のつながり”ともいうべき関係のあり方です。個人の独立性が強く、そのつながりのあり方は共通の規範やルールに基づきます。また、言語による部分の比重が大きく、個人間の一定の「異質性」を前提としています。
ここで、国際的に見て、日本が最も「社会的孤立」度の高い国であるというOECD(経済協力開発機構)のデータが示されます。
「社会的孤立」とは、家族以外の者との交流やつながりがどのくらいあるかという点に関わるものですが、日本社会は”自分の属するコミュニティないし集団の「ソト」の人との交流が少ない”という点において先進諸国の中で際立っているとし、著者は次のように述べます。
「現在の日本の状況は、『空気』といった言葉がよく使われることにも示されるように、集団の内部では過剰なほど周りに気を遣ったり同調的な行動が求められる一方、一歩その集団を離れると誰も助けてくれる人がいないといった、『ウチとソト』との落差が大きな社会になっている」
著者は、このことが、人々のストレスと不安を高め、高い自殺率にもつながっているのではないかと推測します。つまり、生きづらさや閉塞感の根本的な背景になっているのではないかというのです。
続いて著者は、「したがって、日本社会における根本的な課題は、『個人と個人がつながる』ような、『都市型コミュニティ』ないし関係性というものをいかに作っていけるか、という点に集約される」と述べます。
これについては二つのポイントがあります。
ひとつは、「規範」のあり方、すなわち、集団を超えた普遍的な規範原理の必要性。
もうひとつは、日常的なレベルでのちょっとした行動パターン、すなわち、挨拶、お礼の言葉、見知らぬ者同士のコミュニケーションなど。
これは、わたしもまったく同感です。というより、小笠原流礼法や江戸しぐさ、さらには隣人祭りといった、わが「天下布礼」の一連の活動は間違っていないという自信につながりました。
さて、続いて(3)について見ましょう。
著者は、人間の「ライフサイクル」に注目し、それを全体として眺めます。その場合、「子どもの時期」と「高齢期」という二つの時期が、いずれも地域への”土着性”が強いという特徴を持っていることを発見します。その発見をふまえて、著者は次のように述べます。
「戦後から高度成長期をへて最近までの時代とは、一貫して”「地域」との関わりが薄い人々”が増え続けた時代であり、それが現在は、逆に”「地域」との関わりが強い人々”が一貫した増加期に入る、その入り口の時期であるととらえることができる」
そして、「地域」というコミュニティがこれからの時代に重要なものとして浮かび上がってくるのは、「ある種の必然的な構造変化」であるというのです。
最も興味を引かれたのは、第2章「コミュニティの中心~空間とコミュニティ」でした。著者は、まず全国にある神社やお寺の数を示します。神社の数は8万1000、お寺の数は8万6000です。これは平均して中学校(約1万)区にそれぞれ8つずつという大変な数です。これについて、著者は次のように述べます。
「考えてみれば、祭りや様々な年中行事からもわかるように、昔の日本では地域や共同体の中心に神社やお寺があった。”日本人は宗教心が薄い”というような見方は、戦後の高度成長期に言われるようになったことだと思われる。これほどの数の人口移動と、共同体の解体そして経済成長への邁進の中で、そうした存在は人々の意識の中心からはずれていったのである」
ちなみに最近、神社やお寺を高齢者ケア、子育て支援などの場所として活用する試みが各地で生まれつつあることは興味深いと言えるでしょう。
さて、「(地域)コミュニティ」というとき、その”範囲”や”単位”は何をさすのでしょうか。市町村のアンケート調査の結果を見ると、「自治会・町内会」が群を抜いて多く、次が「小学校区」、その後は「市町村の行政単位」「中学校区」「地区社協」が続きます。
そもそも日本において、そうした「コミュニティの単位」の”原型”えおなすものは何か。時代を明治以降にひとまず限定して、著者はポイントとなる制度的な経緯を次にように示します。すなわち、
(a)1871年(明治4年)戸籍法制定
(b)1878年(明治11年)新戸籍法制定(郡区町村編成法)
(c)1889年(明治22年)市制・町村制・・・・・自然村を大字・小字に格下げ
(d)1906年(明治39年)神社合祀
最後の神社合祀については、かの南方熊楠が反対したのは有名です。南方は、そのような神社の統合が、「自然」「コミュニティ」、そして八百万の神々につながる「スピリチュアリティ」が一体となった地域社会を解体してしまうからでした。鎌田東二氏によれば、明治初期の神社の数は約18万余であり、これは自然村の数とほぼ同じだったそうです。
しかし、神社合祀の結果、明治末には約11万余にまで減少したとのこと。それが現在では、さらに減って8万余というわけです。一方、郡区町村編成法のときの自治体の数は約7万でした。市制・町村制のときの自治体の数は約1万6000でした。つまり明治末期には、神社数約11万に対して自治体数約1万6000ということです。行政上の自治体の成立は、神社を中心とする地域コミュニティが次々に集約・統合されることとパラレルに進行したことがわかります。
やがて第二次世界後の「昭和の大合併」(1953年~61年)で自治体の数は約1万から3472に減ります。そして「平成の大合併」でさらに1760(2009年末時点)にまで減少するのです。著者は、「これらは農村から都市への人口移動と平行して進んだ事態であり、少なくとも都市圏に関する限り、神社や『鎮守の森』と地域コミュニティの関連といったものはほとんど消滅していったことになる」と述べています。
神道は日本人の大きな「こころ」の柱です。そして、神道には日本人の「血縁」と「地縁」を強化するという機能があります。神社の数が減少の一途をたどったことと、日本人の血縁や地縁が薄くなり、無縁社会化していったこととは、明らかな相関関係があります。しかし、まだ日本には8万を超える神社が存在します。まだ、あきらめるのは早い!
父であるサンレーの佐久間進会長は、いま、神社において「隣人祭り」を開催する運動を進めています。今こそ、「日本人のこころを守る」という南方熊楠の志を思い起こさねばなりません。そして、神社をステーションとした新たな地域コミュニティを再構築する必要があるのではないでしょうか。