No.0096 哲学・思想・科学 『生きることの意味』 田中美知太郎著(学術出版会)

2010.06.18

生きることの意味』田中美知太郎著(学術出版会)を読みました。

1902年に生まれ、1985年に亡くなった著者は、日本におけるギリシャ哲学研究の第一人者として知られた人です。ソクラテスやプラトンなどの研究を通じて、ギリシャ哲学をわかりやすく紹介し、哲学研究の分野で偉大な業績を残しました。また、西洋古典文献学の第一人者としても確固たる地位を築きました。長く絶版になっていた本書ですが、帯の背に書かれているように「待望の復刊!!」として、よみがえりました。

よみがえる名著

冒頭の「ひとつの序章」において、著者はいきなり「哲学の必要」について論じます。このテーマで執筆してほしいと、よく頼まれるというのです。

わたしは、「哲学は必要!」と思う人間です。というより、「哲学ほどおもしろいものはない」と常々思っているのですが、大多数の人は本気にしないでしょう。それほど、哲学を難解で無用の長物と見なす考え方が世の中では一般化しています。

しかし、哲学を求める人々が後を絶たないのも、また事実です。誰よりも哲学について知りつくした著者は、次のように喝破します。

「哲学は無用なものであり、不必要なものであると言われても、それに違いないような気がすることが多い。しかし哲学というのは、そういう無用、有用の区別のもとにある、低い目的性を問題にするところから始まるのである」

なるほど、無用、有用の区別とは低い目的性から生まれているわけですね。昨今の「葬式は無用か、必要か」という議論にも通じる問題ではないでしょうか。著者は、続けて述べます。

「むかしソクラテスは、ただ生きているということではなくて、よく生きるということが、大切なのだと言ったが、哲学というものは、そのように考えたソクラテスから、本来の道を歩むようになったのだと言われている。ひとはただ生きるために生きているのではなくて、何か生きがいのあるものを求めて生きているのである。哲学の問題とするのは、生きがいのことだと言ってもいいだろう」

哲学の問題とするのは、生きがいである。そして、生きがいを考えるためのキーワードについて著者は考察を深めていきます。たとえば、「死」「幸福」「美」「弁解」「常識と良識」「自由と偏見」などなど。

その中に、「教養」というキーワードも取り上げられています。教養など無力であると言われ続けてきました。「教養は人間をつくる」と考えられた時期もありましたが、むしろ実生活が人間をつくるのだと多くの人間が考えます。しかし、あくまでも「教養は人間をつくる」と考える著者は、教養が戦後において、ようやく「ヒューマニティ」として理解されるようになってきたと指摘し、次のように述べます。

「教養というのは人間形成のこと、あるいは人間らしさをつくることなのである。わたしたちは男女に分かれており、国と人権によっても区別され、職業や階級によっても別である。これを一つに結ぶ仕事というようなものは、具体的に存在しない。しかし教養は、それらの差別を越えてすべての人が共有しうるものなのである。なぜなら、それは人間性にほかならないからだ。これは古代ギリシャから西欧に伝えられた教養というものの、基本的な考え方なのである」

この著者の「教養」についての考え方は、経営学者ピーター・ドラッカーの「マネジメント」にも通じると思います。事実、ドラッカーは「マネジメントとは一般教養という意味に近い」との言葉を残しているのです。ちなみに、ドラッカーという20世紀の「知の巨人」は、孔子およびソクラテスといった東西の二大賢人の要素を兼ね合わせていると、わたしは思っています。

ところで、先に読んだ『これが「教養」だ』(新潮新書)によれば、「教養」という概念そのものは18世紀の西欧で生まれたとのことでした。では、本書で著者が述べている「これは古代ギリシャから西欧に伝えられた教養というものの、基本的な考え方なのである」という一文は間違いなのでしょうか。いや、そうではありません。

18世紀に生まれたのは、あくまでも「教養」という言葉そのものであって、それまでの西欧社会にはそれに代わる言葉が存在しました。すなわち、「古典学習」です。古代ギリシャ人は、すべての職業教育や専門教育に対して、ただ人間性を高め、これを美しく善く充実させようとする人間教育を理想とし、実際にこれを確立しました。著者は、次のように述べます。

「わたしたちが古典的な文学や哲学を学ぶのは、そういう教養の伝統のなかに、自己自身を人間として形成することにほかならない。西洋において教養と呼ばれるのは、何よりもまず古典を学ぶことなのである。わが国においても人間の形成は、やはり東洋の古典を学ぶことによって行なわれてきたのである。しかしいわゆる文明開化の必要が、そういう教養を破壊してしまうとともに、いわゆる近代化は西洋の教養の伝統に結びつくことのできる途をも、すべて閉鎖してしまったのである。だから、今日の日本人の教養は全く荒廃し、いわゆる教養学科も、中心となる人間形成の理想を欠いているために、単に雑然とした多様となり、真の内容は何もないものになってしまったのである」

これは、岩波書店から刊行された『プラトン全集』などの翻訳に情熱を傾け、ひたすら日本人に良質な古典を提供してきた著者の魂の叫びでしょう。敗戦によって日本人の精神が荒廃してしまうことを怖れた人々は多くいました。たとえば、柳田國男は『先祖の話』を書き、小林秀雄は『無常といふこと』を書きました。そして、田中美知太郎が『プラトン全集』を翻訳したことも、日本人の魂が栄養失調にならないための大きな贈り物でした。

そう、「栄養は体のため、教養は心のため」ではないでしょうか。その意味で、著者は戦後の日本人に「教養」を与え続けた人だったと思います。

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