No.0115 評伝・自伝 『カワサキ・キッド』 東山紀之著(朝日新聞出版)

2010.07.16

カワサキ・キッド』東山紀之著(朝日新聞出版)を読みました。

いわゆるタレントが自身の半生を書いた本としては、今では出版界の伝説となっている山口百恵著『蒼い時』以来の読み応えがある本でした。いや、こんなに面白い本を読んだのは本当に久しぶりだと言うべきかもしれません。

「ヒガシ」、ありのままのモノローグ

「週刊朝日」2009年1月2・9日号~2010年4月16日号に連載された「これまでと、これからと」に加筆、修正した内容になっています。著者は、言うまでもなく、少年隊の「ヒガシ」です。いまや芸能界最大の影響力を持つジャニーズ事務所。その次期社長は、「マッチ」こと近藤真彦か、この「ヒガシ」こと東山紀之のどちらかだと予想されているようです。

著者は、ストイックかつクールなイメージを持っています。幼少の頃に両親が離婚し、妹とともについていった母親が再婚相手とも離婚したために、かなり貧しい生活を強いられたようです。その生活の舞台は、川崎市のコリアンタウンの近くにある市営住宅でした。

貧しくとも元気な紀之少年が、少年時代に影響を受けた人物が3人います。王貞治、ブルース・リー、そして、マイケル・ジャクソンです。著者は、「王さんの精神。ブルース・リーの肉体。マイケル・ジャクソンの軽やかさ。それが僕の目標になる」と書いています。3人に対する熱い想いが本書には綴られていますが、中でもブルース・リーについての次のくだりが興味深かったです。

「なぜだかわからないが、男というのは万国共通、概して”割れた腹筋”に弱い。
“マッチョ”と言われれば、それまでなのだが、腹筋が割れるほど鍛えられた肉体には『こいつには敵わない』と思わせる何かがあるようだ。
ブルース・リーはまさにその心理を逆手にとった役者なのだ。
人種差別があるアメリカ社会で生まれ、ハリウッドではアジア人ということで主演が叶わなかったブルース・リーは、死ぬほどまでに肉体を鍛えあげ、その強さにアジア人、中国人のスピリッツを体現しようとする。
彼にとって肉体は、厳しい人種差別をはねのける強さの象徴だった。つまり、すさまじい反骨精神の表れだったと言える。」

著者は、ブルース・リーの肉体のみならず、その精神にも注目します。ブルース・リーには、体調を崩し、何もしないでひたすら哲学書を読んで過ごした時期がありました。大学も哲学科に進学していますが、そのとき中国哲学に目覚めました。

そして、武道を究めることによって、ついには自ら截拳道(ジークンドー)を創始します。ブルース・リーに多大な影響を受けた著者は、ニーチェの哲学書やシェークスピアの古典などを読み、その結果、次のように思い至りました。

「古今東西の偉人たちの生涯を知り、僕はあることに気づいた。
彼らは自分の中でルールを作り、それを徹底的に守ったということだ。
僕はまたブルース・リーを思い出し、日に千回腹筋をし、月に百キロ走るという自分のルールを定めた。体調管理という面だけでなく、肉体を自在に操れる俳優になりたかった。あれから一日たりともトレーニングを欠かしたことはない」

わたしは、この文章を読み、仰天しました。著者がトレーニングを開始したのは、デビューの2年後というから1987年です。つまり、今から23年前です。それから「一日たりともトレーニングを欠かしたことはない」ですって! その内容が、日に1000回の腹筋と、月に100キロ走るですって! 本当に驚きました。年間に3000冊本を読む人間が現れても驚きませんが、これには心底驚きました。著者は、次のようにトレーニングについて具体的に書いています。

「好きなマイケル・ジャクソンとプリンスの曲に八分づつ合わせて腹筋をすると、千回できるプログラムになっている。床の上や部屋の隅っことか、体を曲げることができる小さなスペースがあればどこでも始めることができる。風邪をひこうが、海外へ行こうが、欠かさない。”変人”に見られることもあるが、気にしていない」

うーん、すごすぎる!わたしも結構、筋トレは好きなほうで、自宅にダンベルや腹筋台なども揃えているのですが、最近は忙しくて怠りがちになっています。特に、ブログを始めてからは、夜の筋トレの時間がブログ書きに奪われてしまいました。その結果、腹まわりがたるんできて自責の念にかられているのです。(涙)わたしも、著者を見習って、また腹筋を鍛えたいと思います。

さて、本書がとてつもなく面白い本になっているのは、さまざまな芸能界のスターたちが次から次に登場し、その素顔をじつに魅力的に描いているからです。

少年隊の錦織一清や植草克秀はもちろん、「トシちゃん」こと田原俊彦、「マッチ」こと近藤真彦、シブがき隊の薬丸裕英、TOKIOの長瀬智也、国分太一、城島茂、山口達也、松岡昌弘などのジャニーズ事務所の面々をはじめ、萬屋錦之介、藤田まこと、若山富三郎、松方弘樹といった時代劇の大物から、森繁久弥のような芸能界の超大物、そして著者との関係が何かと取り沙汰される森光子まで・・・・・。

しかし、わたしが最も興味深く読んだのは、ジャニーズ事務所の代表・ジャニー喜多川氏について書かれたくだりでした。著者がジャニー喜多川氏に初めて出会ったのは、小学校6年生のときです。著者の母親が東京・渋谷にあるNHKの職員用の理髪店で働いていた関係で、歌番組「レッツゴーヤング」の公開収録のチケットを入手しました。

友人たちと一緒に公開収録を見た帰り、渋谷のスクランブル交差点で信号待ちをしていると、大きなアメ車が止まり、中からジャニー氏が出てきて、2人の目が合ったのでした。ジャニー氏は著書に「ちょっと」と声をかけました。警察から補導されると勘違いした著者は逃げようとしますが、人混みで走れず、たちまち追いつかれてしまいます。

この日、ジャニー氏は「レッツゴーヤング」に出演していた川崎麻世に付き添ってNHKに来ていました。著者が渋谷の交差点をもう少し早く渡っていれば、2人の出会いはなかったわけです。3日後、ジャニー氏から電話がかかってきて、川崎の市営住宅をアメ車で訪れます。

みんなで中華街に食事に行こうと誘い、車に乗り込んだところ、著者の妹が車酔いをして車中で嘔吐してしまいます。次の日曜日、車を汚したお詫びに菓子折りを持って、ジャニーズ事務所を訪問しました。その後、ジャニー氏に誘われてテレビ局のリハーサル場に立ち寄ります。そこから、著者が芸能界に入る道が開けたのです。

本書から、わたしは「人間・ジャニー喜多川」の凄みを色々と知りました。
まず、卓越したスカウト能力はもちろんですが、スカウトした少年たちに「ユーたち、食べておいでよ」と言って焼き肉店に連れて行き、腹いっぱい食べさせます。著者は、次のように書いています。

「正直な話、最初、自分とジャニーズをつなげていたのは、焼き肉だったといっても過言ではない。ジャニーさんがみんなと連れて行ってくれた焼き肉店で、肉を食べたときの感激は忘れられない。
『自由におかわりしていい』と言われ、育ち盛りということもあり、カルビ二十六人分を平らげたこともある。
子どもは順応が早い。最初はジャニーさんの英語交じりの話し方を不思議に思ったが、すぐに『ジャニーさん』と、親戚のおじさんのように親しく呼んでいた。
あれから三十年。僕らに接するジャニーさんの温度は一貫して変わらない。どんな子どもも大きな可能性をもっている、どんな子も大化けする可能性を秘めているというのがジャニーさんの持論だ」

父親がいなかった著者にとって、何よりもジャニー氏は父親代わりだったのでしょう。

また、タレントへの指導に関しても、ジャニー氏の達人ぶりがわかります。著者は、次のように書いています。

「ジャニーさんは、本人を面と向かって叱るが、本人のいないところでは悪口は言わない。そのかわり、相手をほめる。たとえば、シブがき隊のところへ行っては少年隊をほめ、僕らのところへ来てはシブがき隊を大いにほめるという具合だ。僕らの内なる闘争心に火をつけるのが、実にうまい」

「叱る」ことと「ほめる」ことは、コーチングの基本中の基本です。ジャニー氏は優秀なコーチであったことがよくわかります。しかし、わたしが最も指導者としてのジャニー氏に感心したのは、1986年の大晦日に渋谷のNHKホールで起こった出来事でした。

この日、著者は生まれて初めて「紅白歌合戦」に出場します。デビュー翌年の紅白であり、全国に少年隊をアピールする絶好のチャンスです。歌は、もちろんデビュー曲「仮面舞踏会」です。

しかし、白組キャプテンの加山雄三はあろうことか、「仮面ライダー」と曲名を間違えて紹介したのです。そうです、名高い「仮面ライダー事件」です。著者は動転し、慌てて走ったために、曲の途中で早替えするはずの衣装が脱げてしまいます。そのため服が絡まって、ダンスのタイミングも合いませんでした。生まれて初めて出演した紅白は、最悪の出来になってしまいました。

心配した森光子や親友の清原和博が楽屋に来てくれましたが、著者はもう悔しくてたまらず号泣したそうです。錦織一清も廊下で泣いていました。そのとき、ジャニー氏が楽屋に入って来て、著者にこう言ったそうです。

「ユー、本当に良かったね!これでユーたちはみんなに長くおぼえてもらえるよ。加山さんに感謝だよ!」

著者はしゃくりあげながらきょとんとしたそうですが、後にジャニー氏の言う通りだとわかります。「仮面ライダー」のおかげで「仮面舞踏会」の知名度は飛躍的に上がりました。それにしても、このジャニー氏のセリフはなかなか言えないセリフです。いろいろと悪く言われることもあるジャニー氏ですが、氏が人並みはずれた指導者であることを思い知りました。

教育熱心でもあったジャニー氏は、ビデオが出まわり始めて珍しかった時代にも、たくさんのビデオソフトをジャニーズ事務所の合宿場に用意していたそうです。その内容は海外のダンスから、ロック・コンサート、ミュージカル、果ては時代劇映画まで、何でも揃っていました。

その中にマイケル・ジャクソンのビデオもありました。著者は、そのビデオを先輩である田原俊彦と一緒に観て、大きな衝撃を受けます。上へ上へと躍動するマイケルのスレンダーな肢体。そのあまりのカッコよさに、著者は言葉を失ったそうです。すでに田原俊彦が擦り切れるほど見ていたビデオをまた何百回と繰り返し見ました。すると、ビデオは本当に切れてしまいました。著者は、次のように書いています。

「僕はマイケル・ジャクソンなるスターがどのように誕生したかを知りたくなった。憧れのヒーローの背景を知りたくなるのが幼いころからの僕の癖である」

それは、著者とブラックカルチャーとの出会いでもありました。調べるうちに、「オフ・ザ・ウォール」以降のマイケルの曲は白人カルチャー向けにアレンジされたものと知ります。本格的な黒人音楽のリズムはポップすぎて、白人にはついていけません。それを万国、万人に受け入れられやすいものにアレンジしたわけです。その結果、「スリラー」という世界的大ヒットアルバムが誕生しました。

「スリラー」はブラックカルチャーと白人音楽の融合と進化の結晶でしたが、マイケルは意外にも白人俳優のフレッド・アステアとジーン・ケリーに触発されたことを著者は知ります。幸い、ジャニーズの合宿場にはアステアやケリーの古典的名作のビデオも揃っていました。それらの作品を何度も見るうちに、彼らが黒人のタップダンスに触発されたことを知るのです。原点は、やはりブラックカルチャーでした。その黒人のタップのルーツが、奴隷として鎖につながれてアフリカから連れてこられた人々の唯一の自己表現であったことを知り、著者は「踊りとはなんと奥深いものか」と感動をおぼえます。

このあたりのマイケルの踊りのルーツを探ってゆくさまは、まるでDNAハンターのようで非常に興味深いものがありました。それにしても、著者の好奇心と探究心には脱帽です!

本書の最後には、「心の原風景」というエッセイが掲載されています。それによれば、2007年に少年隊が主演する舞台「PLAYZONE」で、出演者が自らアイデアを出しながら”自分史”を語るという演出がありました。

そこで、著者は過去を、家族を、語るための曲として「ヨイトマケの唄」を選びました。工事現場で肉体労働する母親を歌った美輪明宏の名曲ですね。「母ちゃんのためならエーンヤコーラ」という歌詞が有名です。この曲をバックにして、汗まみれになりながら工事現場でツルハシを振りかざして働く労働者の姿が舞台にシルエットで浮かび上がりました。それは、著者が子どもの頃、学校の帰りに、川崎の工場地帯の駅前や線路でいつも目にしていた光景そのものでした。まさに、「心の原風景」です。

そして、「ユー、ちゃんと書いたほうがいいよ」とジャニー氏にアドバイスされた著者は、「僕には父親がいなかった」「母は再婚した。新しく父親になった人を僕はどうしても好きになれなかった」と、多くの観衆の前で正直な気持ちを語ったのです。

本書は、そのとき舞台で語られた著者の”自分史”そのものだと言えるでしょう。

ちなみに、著者は「ヨイトマケの唄」をずっとカバーで歌った桑田佳祐の曲だと信じていたそうです。その間違いを、自身もこの曲が好きだというジャニー氏に教えられました。

そして、美輪明宏本人に会ったとき、そのことを詫びたのだとか。

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