No.0150 評伝・自伝 『季刊at(15号 特集・賀川豊彦)』 (太田出版)

2010.08.22

『季刊at』15号(特集・賀川豊彦~その現代的可能性を求めて)を読みました。

これまで、ずっと賀川豊彦の著作などを読んできましたが、本書ではさまざまな立場の人々が賀川豊彦の人と思想について言及しています。とても興味深く、たいへん充実した内容となっています。

賀川豊彦とは何者だったのか

まず、本特集の扉には、賀川豊彦についての簡単な紹介と、なぜ特集を組んだかの説明が次のように書かれています。

◎日本近代を代表する社会運動家にしてキリスト者、小説家でもあった賀川豊彦は、戦後社会においてほとんど忘れ去られている巨人である。貧困救済から始まった彼の膨大な業績の中に何を見出すのか、経済恐慌と格差拡大の現在、私たちの歴史的想像力と社会的構想力が試されている。

◎賀川が関わり創始した社会運動はじつに多様である。労働運動、農民運動、生活協同組合運動、共済組合、医療組合、幼児教育、セツルメントなど、百科全書的広がりを示している。それらを貫いて、賀川の思想・信仰の根幹には、友愛=相互扶助のエートスがあり、全運動を駆動させていたことに思い至る時、戦後の社会政治運動が何を欠いていたのか、その反省の機縁を得ることになるだろう。

◎賀川豊彦の名前を知らないでも、日々の生協運動に関わる女性たちは一千万人のオーダーに達している。生協にかぎらず、賀川の撒いた種は各地各領域で枝を伸ばし花を咲かせている。今こそ、それらの意義を吟味し、より大きな展望と連携の中に据え直すことは、苦悶する資本主義と国家を内発的に超えるオルタナティブな回路を準備するだろう。本特集がその一端に連なることを願ってやまない。(『at』15号より)

このように、賀川豊彦の超人的な業績と現代的意味をコンパクトに紹介していますが、ここで気になるキーワードがありました。

彼のさまざまな社会運動を表現する言葉としての「百科全書的広がり」というキーワードです。わたしは「百科全書」というものに魅せられている人間ですので、そのキーワードに過敏に反応したわけですが、「賀川豊彦」と「百科全書」という取り合わせに「なるほど!」と納得してしまいました。

明治学院時代に図書館の本をすべて読み尽くしたという逸話が残っているそうですが、賀川豊彦は基本的に「博覧強記」の人です。そのことは『死線を越えて』をはじめとした彼の著作を読んでもよくわかります。それだけでなく、彼は高等数式を駆使しつつ、天文学や物理学などの自然科学から、政治や経済などの社会科学、さらには哲学や宗教などの人文科学まであらゆる知識を網羅した『宇宙の目的』という怪物的著作も残しています。

賀川豊彦が大正時代で最大の博覧強記であった可能性もあると思います。そして彼の人生とは、知識の習得のみならず、つねに行動し続けた「知行合一」の人生でありました。該博な知識の持ち主はたくさんいます。しかし、もし怪物的な「博覧強記」の人間が行動力を備えたとしたら、どんなことが起こるのか。彼の濃密すぎる生涯は、その証明であったのかもしれません。

それから、「百科全書」とか「博覧強記」というものは基本的に「知のコレクション」であり、蒐集とかコレクションの精神と深く関わっています。社会運動にかける賀川豊彦の異常な情熱には、コレクション的な要素も感じてしまいます。ちょうど、「総合生活情報文化企業集団」なるものをめざした往年のダイエーグループやセゾングループを率いた中内功や堤清二といった昭和の事業家のエートスにも通じるものかもしれません。

本特集の冒頭には、宗教学者の山折哲雄氏の「抑圧された賀川思想の回帰~M・ガンディーを超えるもの」が掲載されています。特集全体の中でも、少年時代に賀川豊彦の著作を愛読し、『復刻版 死線を越えて』(PHP)の序文も書いている山折氏の論考がやはり圧倒的に興味深い内容となっています。以下、その要点を紹介したいと思います。

なぜ、現代日本人は賀川豊彦を知らないのか?

これは、わたしにとって大きな謎となっています。山折氏は、戦後の賀川豊彦が忘れられたのは、そこに賀川排除のメカニズムが働いたからだと指摘します。そして、賀川豊彦がキリスト教会からも、社会主義からも、文芸の世界からも排除されていった理由をさぐり、次のように述べています。

「賀川は色々な分野に手を出した人です。しかも教養・知識のレベルで手を出したにとどまらず、運動にまで行ってしまう人でした。労働運動、農民運動、消費者協同組合運動、幼児教育、信用組合など、その多様性と広がりはほんとうにたいしたものです。あれだけ手広くいろんな問題に関心をもち、しかもその運動を興していく、運動体の中心人物になっていく。その動機は貧民・弱き者を何とかしなければならない、というもので、それが賀川の原点です。そのためには社会主義、マルクス主義、自然科学など、必要とするもの役に立つものはなんでも取り入れようと、我流で一心に吸収していく。」

山折氏は、こういう流儀の人物は批判しやすいのではないかと推測します。日本人は、一つのジャンルで専門的に研鑽を積んで、その道だけを一貫させることを好みます。そういうあり方を選ばなかった賀川豊彦は批判されやすいというのです。

山折氏は、膨大な賀川豊彦の業績の中から、信用組合運動に注目します。彼の信用組合運動は、バングラディシュのノーベル平和賞受賞者ムハンマド・ユヌスのマイクロクレジットに通じるもので、同じ構想・思想であると言うことができます。そして、賀川豊彦における信用組合思想の源泉は二宮尊徳であったと指摘しています。賀川豊彦は二宮尊徳が好きで、尊徳の創始した「報徳会」をきちんと評価しているというのです。さらに、山折氏は次のように述べます。

「明治から大正にかけての時代、大衆的なリーダーたちはみな尊徳が好きです。『代表的日本人』に尊徳が描かれるように内村鑑三もそうです。箱根の開発に関わった福沢諭吉にしろ、自立農民の育成を農政官僚として問題にすえた柳田国男にしろ、尊徳思想をちゃんと評価している。しかし、実際の政策は富国強兵・殖産興業の近代化であり、明治国家によって農民農村は収奪源になってしまう。尊徳思想は国家によっては評価実行されなかった。戦後の農地改革以降も、信用組合が上手く機能したようには思えません。大きく見れば、賀川の信用組合運動が評価されなかった遠因は、そのあたりにあるのではないかと思います。」

この指摘には目から鱗が落ちる思いがしました。尊徳は神道、仏教、儒教を日本人の「こころの三本柱」として位置づけ、いわゆる「神仏儒一丸粒」を唱えました。この思想は、わたしも大きな影響を受けています。さらに尊徳は、すべての人民をあまねく照らす存在としての太陽の恵みに感謝するという「天道思想」を打ち出した人です。

わが社の社名である「サンレー」という言葉は「太陽光」という意味であり、まさに天道思想そのものであると日頃から思っていました。ですから、キリスト教の立場に立つ賀川豊彦が二宮尊徳を評価していたというのは意外でもあり、『死線を越えて』に見られる太陽への想いを見ると、大いに納得できる部分もありました。

また、山折氏は賀川豊彦が一筋の道を貫かなかったことに対する批判は、同時代の宮沢賢治に対してなされた批判に重なるとして、次のように述べています。

「賢治も最初は農業学校の教師になりますが五年で辞め、詩や童話などの文学作品を書くけど認められない。次には農業指導者になって農村改良運動に入っていく。そして挫折。信仰生活の問題もあります。知識としては天文学、地質学などに常人以上のものをもち、色んな問題・領域に手を出した男です。だからプロの文芸評論家などからすれば、賢治の文学的仕事はアマチュアのものだとされてしまう。『雨ニモ負ケズ』は詩としては完全な失敗作だという評価もあります。戦後間もない頃の賢治評価は、様々な方面に手を出して中途半端に終わった人、人生の失敗者であったというものであって、それは賀川に対する評価と質に同じものではないか、と私には映るのです。宗教信仰の問題、文学の問題、社会改良の問題、みんな重なってきます。」

しかし、生前はまったく認められなかった賢治が死後、時代とともにどんどん評価が高まっていくのに対して、賀川豊彦はどんどん忘れ去られていきました。

賀川豊彦は生涯を通じてキリスト教の牧師でしたが、そのキリスト教の世界からの評価は非常に低かったと言えます。国際的には高評価であっても、国内のキリスト教界からはほぼ無視されています。山折氏は、日本における代表的キリスト者である内村鑑三と比較して、賀川豊彦の伝道には常に「大衆性」があったことを指摘し、次のように述べます。

「内村と異なり、大衆のなかに入っていく賀川のキリスト教伝道の姿勢は、時には世間的道徳倫理と妥協するし、戦争が始まれば戦争体制に妥協協力していく。大衆そのものがそれを望んでいるという面があるわけですし、香川はその大衆の側に与してしまう。逆に与することで大衆に支持される。その点で賀川のキリスト教伝道の世界は、文学に置き換えると大佛次郎や吉川英治の仕事とよく似ていると思います。大衆的感覚や視点をいつも忘れずに作品を書いていく。伝道だけではなく、賀川の詩や小説世界は大佛次郎の鞍馬天狗の大衆性、吉川英治の宮本武蔵の世界にどこか通じている。私は賀川が国民作家であり、だから『死線を越えて』が大ベストセラーになり、作家としての地位を確立したのだと評価しています。」

しかし、宮沢賢治の場合と同じく、ここでも不思議な現象が起きます。賀川豊彦、大佛次郎、吉川英治という3人のベストセラー作家は、ともに戦後になって戦争協力をしたという批判を浴びました。ところが、大佛と吉川は戦後の知識人に許され、大衆にも受け入れられていくのですが、賀川豊彦のみが免罪されなかったのです。

特に、本籍ともいうべきキリスト教界が徹底的に賀川豊彦を排除していきました。その核心となる理由は、『死線を越えて』にも書かれている彼の「神人合一」体験にあったと、山折氏は見ています。

賀川豊彦は、神の中に自分が溶け、神が自分の中に溶けると述べ、いわば空海の「我入入我」という真言密教の悟りの世界にも通じる神秘体験をしたと告白したわけです。山折氏は、次のように述べます。

「この神との一体化(神人合一)は、キリスト教正統派には絶対認められないものでしょう。西欧キリスト教史の中でも賀川のような信仰をもった流れ、例えばグノーシス派などがありますが、みな異端として斥けられる、血祭りに上げられた歴史があります。同じことが、戦後のパリサイ人によってなされ、賀川が排除され、葬られていく。大学や教会指導部にそういう人々がたくさんいた。大衆に近寄って様々な発言・活動を賀川はしたわけですが、そのことも槍玉にあげられていく。賀川の私的な活動として切って捨てられてしまう。」

すなわち、賀川豊彦は日本のキリスト教界にとって「異端者」でしかなかったのです。戦後社会の重要な課題として、知識人と大衆との文化的断絶をどう統合するのかということがありました。この点で、賀川の抹消は決定的にマイナスに働いたのです。

国内での冷淡な扱いとは逆に、海外では「トヨヒコ・カガワ」ほどに有名な日本人キリスト教徒はいませんでした。1937年、カナダのトロントでの世界YMCA大会においてジョン・R・モット会長は、「今日イエスにもっとも近い人物は日本のカガワである」と述べ、満場の喝采を浴びました。また太平洋戦争前、シュヴァィツアー、ガンディー、賀川豊彦は「20世紀の三大聖人」に数えられたことはよく知られています。

「聖人」として並び称せられたガンディーと賀川豊彦ですが、両者には「非暴力」という共通点がありました。さらに、山折氏は両者の共通点として、「母の力」というものを挙げています。「母の力」とは何か。それは、「母になること」の意味から知る必要があります。山折氏はガンディーの思想について次のように述べます。

「基本的に、ガンディーは非暴力運動を中身のあるものにするためには、男が女にならなければならない、さらに母にならなければならない、そういう一種の幻想というか妄想に取り憑かれたといえます。この幻想・妄想は凄い思想だと私は思います。一般化することも大衆化することもできない。しかし、思想的にはイエスやブッダが考えたことに匹敵する内容だと思います。ジェンダーを越えることができるのか、できないのか?ジェンダーを越えることがどんな思想的意義をもたらすのか、そういう大問題です。それが実現できないかぎり、人類は悲劇の影のなかをさまよい歩かなければならない、そういう認識ともつながっていく。その認識の果てに、イエスにしろブッダにしろガンディーにしろ、最後の最後のところで絶望していたのか、それとも希望を抱いていたのか、それは分かりません。宗教の究極、思想の究極ではないでしょうか。」

山折氏は、さらに賀川豊彦の詩に注目し、そこから「母親=乳房」に対する強い憧憬を読み取ります。「涙の二等分」や「妻恋歌」などの彼の代表的な詩を読むと、貧しい子どもたちをどう救うのか、救うためには自分が母親にならなければならないというイメージが基本になっているというのです。そして最後に山折氏は、ガンディーと賀川豊彦の本質を次のように語るのです。

「それぞれの文化圏における母の力は、文化圏ごとに小さくない差異を含んでいるのでしょうが、日本人にとっての母は、相変わらず重大な働きと意味をもっていると感じられます。ガンディーが実験としてしか提示できなかった母への変身を、日本の賀川豊彦は生活の中で実質的に生きたのではないでしょうか。その変身が自然にできた。賀川は伝統的風土に生きた詩人であり、類希な社会運動家だったのではないでしょうか。そうであるが故に忘却の淵に追いやられたのですが、その賀川の意義と豊かな可能性はこれから甦ってくるだろうと思います。」

本特集に集められた論考では、なんといっても山折哲雄氏のものが出色ですが、他にも多くの人々が興味深い賀川豊彦論を展開しています。それぞれ、簡単に注目すべき意見を引用していきたいと思います。

最初に登場するのは、新党日本代表で作家の田中康夫氏です。田中氏は、「『KOBE』、その引力と斥力」で次のように述べています。

「終生、賀川豊彦に付きまとったのは、日本独特の妙な精神論というか『かたち』論というか、社会福祉事業やボランティアはかくあるべしという、即ち高校野球精神的な石頭な心智の持ち主からの批判だったのでは、と推測します。しかし、食うや食わずでは隣人愛を説けません。実行する体力も気力も生れない。神父も坊主も、一枚のパン、一杯のお粥を食べられればこそ、腹八分目ではなく腹四分目でも隣人愛を説けるのです。逆に、腹九分目になっても私利私欲を求め続ける人は独占禁止法の領域に入ってしまい、神の見えざる手が働くのでしょう。」

賀川豊彦記念松沢資料館館長で明治学院大学名誉教授の加山久夫氏は、「賀川豊彦の『神の国』を考える~友愛社会・協同組合の構築へ」で次のように述べています。

「賀川が構想した互助社会の根底には友愛の思想がある。友愛とは、賀川の場合、兄弟愛(ブラザーフッド)であり、キリスト教的兄弟愛の思想を源としている。それはしかし、キリスト者(だけ)の共同体ではなく、その外に開かれたものである。血縁や地縁、民族や国家の垣根を越える、開かれた、相愛扶助の共同体でなければならない。隣人観における『内』と『外』を乗り越える超越の視点は、賀川の場合、キリスト教信仰、殊に、イエスの教えから得たものであった。もしこの視点が仏教、イスラーム、神道、その他の宗教、あるいは、無宗教からも得られ、共有されうるとすれば、兄弟愛社会の可能性はさらに広がることになる。賀川はキリスト者として匿名的に生きたのではなく、現役の牧師として生涯を全うした人であるが、彼の開かれた思想と生き方には、宗教的立場を越えて、学ぶべきところが多い。」

神学者の栗林輝夫氏は、「不況の中で賀川の神学を再読する~神人合一と『行動する』神秘主義」で、日本に宣教師として長く滞在したアメリカ人神学者リチャード・ドラモンドの「賀川のもっとも深い洞察のひとつは、最底辺の人々の間に神が宿られるという確信だった」という言葉を紹介した上で、次のように述べます。

「概して今日の教会人の賀川に対する評価は、貧しい者の側に立とうとする信仰的な動機と熱意は評価するものの、その神学はいただけない、というものである。賀川を自由神学の落とし子と見る新正統主義のキリスト教は、賀川がイエスをただの宗教的達人のひとりに押し下げた、それが説くキリストも『神意識』を映し出す鏡以上の人物ではなく、その信仰も神に拠らずに人間の力で救済を試みる人間中心主義だったと片付ける。」

しかし、栗林氏は実際の賀川豊彦のイエス観について、次のように述べています。

「キリスト教神秘主義の積極性は15世紀のトマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』がそうであるように、キリストを礼拝するだけでなく、自らもキリストのごとくになる、キリストの道を歩むという実践性にある。香川によればキリストは『完全な神人合一の心境を持つことが出来た』地上の唯一の存在だった。」

中国史学者の倉橋正直氏は、「賀川豊彦と満州キリスト教開拓団~満蒙開拓団の虚構性とアジア認識の限界」で、戦時中の賀川豊彦の戦争協力について振り返りながら、1940年8月に、反戦を唱えた容疑で憲兵隊に拘引され取調べを受けたときに死ぬべきであったと述べます。彼にはイエスのように殉教を恐れない強い信念が必要であり、大杉栄のように憲兵隊に惨殺されるべきであったというのです。

また、賀川豊彦が憲兵隊の弾圧に屈せず、長い牢獄暮らしを選び、戦後まで生き延びて無事に釈放された場合のことを倉橋氏は想像します。その場合は、彼をアメリカ占領軍はほっておかなかったと推測します。アメリカが真剣に物色していた人物とは、左翼でなく、しかも国民的な人気を誇る人物でした。隣国の韓国の大統領に李承晩を選んだように、アメリカが新生日本の首相として賀川豊彦を選んだ可能性は大であったというのです。倉橋氏は述べます。

「獄死すれば、殉教者にして英雄。また、獄中に長く呻吟し、それこそ『死線を越えて』、戦後、晴れて釈放の日を迎えれば、日本国首相。―こういった道が賀川の前に開けていたのに、おしいことをした。賀川豊彦は死にどころを間違えた。彼自身と日本のプロテスタントのために、残念でならない。」

元コープこうべ副組合長の増田大成氏は、「今、生活協同組合の賀川豊彦を問う~コープこうべの経験が教えるもの」で次のように述べます。

「生協は地域との関係づくりが苦手なところが多い。しっかりした考え方を確立して、地域のなかで活動をする必要がある。生協は地域に同和しない。生協は地域の問題を自分の組織に持ちこんで取り扱い、地域のなかで解決しない。地域の問題に少しかかわっているだけで、自分は地域化したように錯覚してしまう。生協は地域の中の一員と思っているが、地域は異物を体内に飲み込んだような違和感をもっている。」

「かつて村落共同体は稲作文化の特性で生産の協同、くらしの面では冠婚葬祭をはじめとして広い分野での協同が一般的で、くらしと地域が一元的に一体化していた。現在では生産段階からくらしの多くの場面で個人化がすすみ、くらしと地域の関係が分化してきている。都市ではむしろ共同化が例外的なくらいで、くらしと地域は分離された状態にある。くらしの場面が多様化すればするほど、この状態が進行している。ここをとらえれば生協が地域のなかではたしうる役割と活動の可能性が無限に広がってくるのである。」

わたしは村落共同体の機能を部分的に代用している生活協同組合と冠婚葬祭互助会は相互補完的な存在であり、両者が協力すれば地域社会にとって多大なメリットがあると思っています。そのため、互助会であるわが社は、九州最大の生協であるエフコープ生協さんとさまざまなコラボに取り込んでいるのです。エフコープ生協の組合員の方々の冠婚葬祭もわが社がお世話させていただいています。

最後に賀川豊彦研究で知られる北陸大学准教授の小南浩一氏は、「賀川の労働運動論と『社会化』主義~世界経済の惨憺たる状況の中で考える」で次のように述べます。

「賀川の社会化の特徴は以下の三点に集約される。一は、なによりも個人の『我の覚醒』、あるいは個の意識改革による人格の完成が期待される。二は、個人と個人、集団と集団を結ぶ『中間団体(組織)』ないしは、中間団体の連合体が社会を運営する。それが賀川の場合は、すでに見た生産者組合であり消費者組合であった。三は従って、人々に相互扶助による連帯や協同の精神を促す。」

小南氏によれば、賀川流の経済組織の社会化が協同組合運動であるとすれば、共産主義とは経済組織の国家化、あるいは官僚化であり、資本主義とは経済組織の企業化、あるいは企業による独占化であるといいます。賀川豊彦の協同組合主義は、資本主義や共産主義とは異なる「第三の道」なのです。

最後に、加山久夫氏の次の言葉を紹介したいと思います。

「(賀川豊彦が構想した)生産者協同組合、販売協同組合、信用協同組合、共済協同組合、公益協同組合、消費協同組合など、その領域は社会全体に及んでいると言って過言ではない。しかも、利益追求を目的としない非営利の経済活動や公正・公平な余剰利益の分配などの構想は、社会改良を目指してさまざまの社会活動を展開してきた彼のたどり着いた安住の地であった。彼はさらに、協同組合国家を構想し、その先に、世界協同組合連盟の設立を提案した。それにより、世界平和の実現への道があると確信していたのである。」

協同組合国家!世界協同組合連盟!!なんというスケールの大きさでしょうか。互助会を経営するわたしは「互助会から互助社会へ」ということを考えているのですが、賀川豊彦が構想していたのは、まさに「互助社会」だったように思います。

いま、日本は「貧困社会」「格差社会」「無縁社会」などと呼ばれています。しかし、賀川豊彦という巨人の発想は、まさに現代社会のさまざまな難問を解決しうるヒントに満ちているのではないでしょうか。わたしは、これからも「天下布礼」の旗を掲げながら、「隣人愛」を実践した賀川豊彦という先達の足跡をたどってゆきたいと思います。

互助会から互助社会へ

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