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No.0145 社会・コミュニティ 『子どもの社会力』 門脇厚司著(岩波新書)
2010.08.18
『子どもの社会力』門脇厚司著(岩波新書)を読みました。
著者は、わが国を代表する教育社会学者です。現在は筑波大学名誉教授で、これまで筑波学院大学長、日本教育社会学会長、日本教師教育学会長なども歴任した、日本教育界の重鎮です。本書は1999年に刊行されましたが、今でも版を重ねているロングセラーです。
いかにして、子どもの社会力を育てるか
わたしの愛読書である重松清氏の一連の小説や、最近ではベストセラーとなった湊かなえ氏の『告白』などには、子どもたちの心の闇がリアルに取り上げられています。「いじめ」や「学級崩壊」や「少年犯罪」など、子どもたちをめぐる深刻な状況が叫ばれて、ずいぶんと時間が経った気がします。
著者によれば、子どもたちや若者たちのどこかが、何かが変わり始めたのではないかという疑いが大人たちの頭の中に広がり始めたのは、1980年(昭和55年)頃だといいます。1980年、川崎市に住む大学受験生が自宅で自分の父親と母親をバットで殴り殺すという、いわゆる「金属バット両親惨殺事件」があった年です。
それから3年後の1983年、横浜市の山下公園で、市内の中学生5人を含む14歳から16歳までの少年10人が公園で寝ていた浮浪者をなぶり殺すという事件が起きました。逮捕後の供述によると、少年たちは浮浪者を、人間ではなく、黒いかたまりと見ていたといいます。そして、そのような「汚物を処理してあげた」ことがどうしていけないのかわからないと話したというのです。
著者は、これらを知ったとき、今の日本の社会に生まれそこで育った子どもたちは、明らかに何かが変わり始めていると考えざるをえなかったそうです。著者は色々と考えた結果、「いまの子どもたちにみられる変化とは、煎じ詰めれば、他人への関心と愛着と信頼感をなくしていることであり、自分がふだん生活している世界がどんなところであるかを自分の体で実感できなくなっていることではないか」という見方が頭の中で固まっていったそうです。このような変化を、著者は「他者と現実の喪失」という表現をしています。
本書では、社会的動物ないし社会的存在たるに相応しい人間の資質能力を「社会力」と呼んでいます。似た言葉には、心理学の専門用語になっている「社会性」がありますね。「社会性」とは、「既にある社会に個人として適応する側面に重きをおいた概念」です。
それに対して「社会力」とは、「一つの社会を作りその社会を維持し運営していく力」という意味が込められています。文部科学省が唱える「生きる力」には「社会力」が含まれていると、著者は主張します。
本書は5つの章に分かれています。それぞれの章の内容は次の通りです。
Ⅰ 子どもの育ち方にどんな変化がみられるか
Ⅱ 社会を成り立たせる人間の条件とは何か
Ⅲ ヒトの子の社会力はどのように形成されるか
Ⅳ 子どもの成長環境はどう変わったか
Ⅴ 子どもの社会力をどう育てるか
それぞれの章には、いずれも重要なことが書かれています。わたしは、自分用の備忘録としても、各章の要点をメモ風に記録したいと思います。
まずⅠ章で興味深かったのは、現代の若者たちが人間嫌いで、それゆえに人のいない場所を好み、そういう場所で心を癒しているという点です。時代の空気を読む鋭い感性をもった作家や劇作家や写真家たちが、かなり前からそのことを指摘していました。たとえば、作家の日野啓三氏は著書『都市という新しい自然』に次のように書いています。
「郊外の雑木林と丘を切り崩して建てられた団地に生まれ育った若い世代にとって、懐かしい原風景とは林と丘とではなくコンクリートのブロックであるにちがいない。あるいはブランコと砂場のある遊び場。セメントを敷きつめた駐車場。ビニール製の怪獣人形。メカの玩具。そしてテレビとパソコンの画面。」
著者も、放送大学の授業用に、若者たちが好きだという場所やグッズやコミックや映画などをスライドに撮る中で、若者が好む場所や空間がわかったそうです。著者は、それを次のように具体的に説明しています。
「例えば、高速道路が何重にも交差するジャンクションとか、東京湾に面して林立する倉庫群とか、鉄骨とコンクリートがむき出しの列車のガード下とか、あるいは高層のインテリジェントビルが立ち並ぶ新宿西口の副都心とか、人がまだ通っていない早朝の丸の内のビル街とか、高層団地の中央部に位置する深夜の人のいない広場とか、ゴミの埋め立て地に造った臨海副都心のフジテレビ付近の空間とかいったところである。」
このような場所は、カルト的人気のSF映画「ブレードランナー」の舞台である核戦争で廃墟になったロサンゼルスや、大友克洋の人気アニメ「AKIRA」の舞台とされる、やはり核戦争で廃墟と化した東京を連想させます。著者によれば、こうした場所に共通する特性が2つあります。
1つは、ガラスやセメントやメタル(金属)か化学合成物など、いわば無機質的な物質でつくられた空間であること。もう1つは、そこに、生きた生身の人間がいないということです。現実においても、若者たちは生身の人間、つまり他人を避けようとする性向があります。彼らは、大人はもちろん、自分と同じ世代に対してもかなり強い不信感をもっていることが各種の調査からわかるのです。こんな彼らを「イライラ型の若者」と名づけ、著者は次のように述べます。
「であればこそ、彼らは自分の心の世界から人影を排除し、人気のない無機質的な空間に癒しを求め、電子メディアを使って、生きた人間のいない仮想の空間にワープする(抜け出す)ことになるのである。人間への関心をなくし、他人を避ける性向は、そのまま社会への関心をなくし社会とのかかわりを避けることにもつながるものである。」
次にⅡ章ですが、冒頭に「人間は社会的動物である」という有名な言葉が紹介されています。この言葉は古代ギリシャの哲学者アリストテレスによるものです。今から2300年前の紀元前4世紀、彼は著書『政治学』において、「人間は本性的に国家社会的動物である」と書き記しているのです。
社会哲学者の金子晴男氏は著書『人間の内なる社会』において、アリストテレスが人間を社会的動物であるとした根拠として、次のように4つの人間の特性をあげました。
①人間は個人では自足的でありえず互いに他の人間を必要としていること。
②人間は言語と理性によって法治国家を作ること。
③個人は法的に秩序づけられた国家があってはじめて自足できること。
④その国家が人間を市民として完成させ徳のある生活に導くこと。
著者は、社会という実体が、人間と離れて存在することなどありえないと述べます。ここにこういう社会があるとか、あそこにああいう社会があるといって指し示してみせられる社会など存在しないというのです。著者は次のように述べます。
「社会の実体は生きた人間である。何人かの生きた人間が集まっている状態が社会なるものの実体である。とはいっても、幾人かの人間が、互いに何の関係もなく、ただ漫然と集まっている状態では社会とはいえない。複数の人間が、血縁とか地縁とか契約といった、何らかの関係やつながりをもって集まって生活し始めた人々は、そういう状態を互いに快いものにし、長く持続させようとするのが常である。そこで、いくつかの約束ごとが作られることになる。そうして作られた約束ごとを、一般には、総称して『文化』というが、その文化の中身が、言葉や仕組み(制度)やきまり(規範)やおきて(法)などである。こうした文化の数を増やし、改良を加えつつ複雑なものにし、それらを世代から世代に引き継ぎつつ、社会の規模を大きくし強固なものにしてきたというのが、人間社会のおおまかな歴史であると理解しておいていいだろう。」
生きた人間による血縁や地縁などの関係やつながりが「社会」である。ならば、流行語となっている「無縁社会」という言葉は形容矛盾ということになりますね。多くの人々がつながりあった「有縁社会」こそが、本来の社会なのです。社会とは、つまるところ「ハートフル・ソサエティ」であるべき存在なのです。
そして、著者は「社会性」と「社会力」の概念の違いについて次のように述べます。
「社会性の概念が現にある社会の側に重点を置いているのに対し、社会力という新しい概念は社会をつくる人間の側に力点をおいた概念であるともいえる。社会性が既存の社会への適応を旨とし、その社会の維持を志向する概念であるとしたら、社会力は既存の社会の革新を志向する概念であるといってもいい。」
いま、子どもたちや若者に欠けているのは社会性というよりも、社会力なのです。では、社会力の基盤になる事柄ないし能力とはどんなことでしょうか。
著者は、その内容を大きく2つに分けます。1つは他者を認識する能力であり、もう1つは他者への共感能力ないし感情移入能力です。後者の能力は、鎌田東二氏がいう他人を思いやる能力としての「礼能力」にも通じるものでしょう。
Ⅲ章では、ヒトの子が他人の心を推測する能力の素を先天的に持っていることが明かされます。ヒトの子がなにゆえこのような高度な能力を備えてこの世に生み落とされてきたのかを考える上で、著者は自説のポイントを次のように整理します。
(1)人間は他の人々とともに社会を作り、社会生活を営むことでしか生きていけない社会的動物である。
(2)社会生活を営むとは、具体的には、日々に他者と相互行為をすることである。
(3)他者と円滑に相互行為を取り交わすためには、言葉や価値や役割や現実への意味づけなど、社会的要素ともいえる諸々のことを他者と共有していなければならない。
(4)社会的要素を身につけるには、他者と相互行為を重ねなければならない。
(5)社会的要素の習得が社会力のもとになる。
Ⅳ章では、まず、家族のサイズが小さくなったと指摘されています。高度経済成長期以降の家族の変化は、さまざまな点でかなりのものでした。核家族の増加とか、マイホーム主義の進行とか、家族機能の外部化などの変化はよく指摘されますが、意外に注目されてこなかったのが家族サイズが小さくなったことです。
しかし、社会力の形成という視点から見たとき、毎日一緒に生活している家族の人数が年々少なくなったという事実はもっと注目すべきであると、著者は訴えます。
それからⅣ章では、「地域」と「コミュニティ」の違いが述べられます。著者によれば、「地域」とは、人間が住んでいる一定の居住区域のことを指しています。そこには、川や池や丘などの自然物と、役所、郵便局、駅、学校、商店、食堂、洋品店、図書館、公園といったさまざまな生活関連施設、すなわち人工物があります。
これに対し、「コミュニティ」とは、目に見えるものではなく、そこに住む住人一人ひとりの心の中にある志向であり、その志向にもとづいた活動の継続です。地域への愛着心や定住意識や地域改革意識が住民の心の中にあり、それにもとづく何らかの地域づくり活動を住民が一緒になって続けているとき、そこにコミュニティがあるというのです。著者は述べます。
「果たして、都市に移った新住民たちはこのようなコミュニティを作ったのか。残念ながら、答えはノーである。地域に住宅は密集していても、互いに『隣は何する人ぞ』と無関心、地域に何か不都合があれば、役所に電話して『早く何とかしろ!』と声を荒げるだけ。地域はあってもコミュニティなし、といったところがほとんどである。大人たちに地域社会への関心や地域をよくする活動がないところで、子どもの社会力が形成されるはずはない。」
子どもたちには、家庭、地域、学校の他に、いきいきと活動できる大事な空間がありました。第四の生活空間とも呼ばれる「街」です。著者は述べます。
「この街には、かつて、路地があり、空き地があり、原っぱがあり、神社の境内があり、墓地があり、秘密の空き家などがあった。場所によっては川が流れていたり、鎮守の森があったりもした。そうした場所は、ガキ大将に率いられた一団が、夕方暗くなるまで縦横無尽に遊んでいたところである。」
しかし、そうした場所は高度経済成長が本格化した1965年あたりから、都市開発の進行とともに姿を消していきました。代わって、無味乾燥なオフィスビルや高層住宅や駐車場、あるいは高速道路などが出現したのです。それらの場所には、当然ながら、子どもたちは立ち入り禁止。活動場所をなくして、ガキ大将とその一味もまた消えていったのです。
さらに、変化はそこで止まりませんでした。今度は、合理化、効率化の進行によって、街から人影がなくなっていったのです。「無人化」の進行です。お使いで出かけた角のタバコ屋さんからお人好しのお婆さんの姿が消え、酒屋さんからおじさんの姿も消えました。
「ボク、感心だね」と言葉をかけてくれる大人たちがいなくなったのです。消えた大人たちの代わりに、そこには自動販売機が置かれていました。商店だけでなく、銀行も駅もどんどん無人化が進み、その気になれば一日誰とも口をきかずに過ごすことも可能になりました。著者は述べます。
「こうして、街もまた、人と人が出会い新たな交流が始まる場所ではなくなった。商店街恒例の祭りの行事も最近は人出がなくなりさびれる一方という。街は、いまや、人々の人間嫌いをつのらせる場所ではあっても、子どもや若者たちの社会力を育てる場所ではなくなった。」
そして最後のⅤ章で、著者は「子どもの社会力を育てるにはどうするか」を問います。そこで出された結論は、「地域の子を地域で育てる」というものでした。多くの人は、子どもの社会力が形成される場として学校の存在をあげるでしょう。しかし、著者は次のように述べます。
「さまざまな個性をもったクラスメイトとのさまざまな場面での付き合いが、子どもたちの他者認識や他者への共感を育てるのに何ほどかの貢献をするのは間違いない。それはそうであるが、だからといって、学齢期にある子どもたちの社会力形成の主要な場が学校であるというのは当たらない。この時期の子どもたちにとっても、彼らの社会力を育むもっとも重要な場は地域社会である。」
その理由を著者は2つあげています。
1つめの理由は、地域は子どもたちにとっての全生活領域だからです。そこには多くの家があり、さまざまな店があり、工場があり、駅があり、郵便局や児童館や公園があり、川や林がある。というわけで、学校も地域社会の中のひとつの場所でしかありません。
2つめの理由は、地域社会には多彩な人々が住んでいるからです。学校には同じ世代の子どもしかいませんが、地域社会には高齢者も幼児もいるし、男もいれば女もいる。仕事をしている人だって、おまわりさん、駅員さん、商店の人たち、役所の職員、病院の看護婦さんもいる。
というわけで、人間の多彩さは学校などの比ではありません。学齢期以降の子どもたちにとって、社会力形成の場は地域社会をおいて他にはないのです。
わが社では、「隣人祭り」というもののサポートに力を入れてきました。その理由としては高齢者の孤独死を防止する意味が強かったのですが、本書を読んでからは、子どもたちの社会力形成という面からも「隣人祭り」は重要であると思いました。子どもの社会力を育てるのに地域ほど適したところはありません。
そして、子どもの社会力を育ててくれるのは地域の隣人たちなのです。