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No.0129 評伝・自伝 『白川静読本』 平凡社編集(平凡社)
2010.08.05
白川静は、2006年に96歳で没した漢文学者であり、古代漢字学者です。そう、今年は白川静の生誕100年なのです。それを記念して、各界の47人の人々が「最後の碩学」と呼ばれた巨人の魅力と魔力を解明しています。
白川静はこんなにすごい!
『字統』『字訓』『字通』の字書三部作を独力で完成させ、「文字の力」を世に広く知らしめた白川静。その著書の中では、なんといっても、わたしは『孔子伝』に大きな影響を受けました。古代中国の葬送儀礼集団であった儒教グループの正体を初めて明かした本です。また、『文字逍遥』に出てくる次の言葉を読んだときにも大きな衝撃を受けました。
「遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人とともに遊ぶことができた。神とともにというよりも、神によりてというべきかもしれない。祝祭においてのみ許される荘厳の虚偽と、秩序をこえた狂気とは、神に近づき、神とともにあることの証しであり、またその限られた場における祭祀者の特権である」
白川静の著作を読んでゆくと、彼が丹念に研究した漢字の一つひとつから、中国の古代社会が立ち現われてくるようでした。そして、その古代中国の社会とは、文字の呪力に満ちあふれたマジカルな世界でした。白川文字学でもっとも有名な一字に「道」があります。白川静は著書『漢字百話』において、「道とは恐るべき字で、異族の首を携えてゆくことを意味する」と書いています。
白川静は、古代の呪術的な戦いは言葉によって展開したという考えを持っており、「文字が作られた契機のうち、もっとも重要なことは、ことばのもつ呪的な機能を、そこに定着し永久化するということであった」と、「中国古代の民俗」で述べています。白川静は、中国の『詩経』とともに、日本の『万葉集』の研究にも没頭しました。
白川静を敬愛してやまないという哲学者の内田樹氏は、本書所収の「白川先生から学んだ二三のことがら」において、「古代の人々は、中国でも、あるいは万葉古謡の日本列島でも、身体を震わせ、足を踏み鳴らし、烈しく歌い、呪い、祝ったのであろう」と推測しています。そのようにして人々は生命力を賦活または減殺するために死力を尽くしたと考えられますが、そのときに人々が発していた言葉はほとんど物質的な重みと手触りがあったはずだというのです。内田氏は次のように述べています。
「言葉がそれだけの重みを持った時代がかつてあった。それは白川先生のロジックを反転させて言えば、人間がそれだけの重みを持った時代があったということでもある。人間の発する烈しい感情や思いや祈念が世界を具体的に変形させることができた時代があったということである。そして、そのような時代こそは白川先生にとって遡及的に構築すべき、私たちの規矩となるべき『規範的起源』だったのである」
評論家の三浦雅士氏は、白川静が『詩経』と『万葉集』を重ね、古代中国と日本古代を対比した点が国学者の平田篤胤に通じると考えます。篤胤は、孔子の理想は古代日本にほかならないとまで断言しました。三浦氏は、本書所収の「白川静と平田篤胤」において次のように述べています。
「篤胤の孔子理解にしても、白川静のそれと驚くほど似ている。白川静は孔子を、知の切断の時代を生きた人間、知の過渡期を生きた人間として描いた。そしてそのために孔子の巫祝性を強調したが、篤胤もまた孔子の古代性を強調している。」
篤胤は、その著『鬼神論』において、世の儒者の見方とは異なり、孔子は鬼神や幽冥界を信じていたと断言しています。そして、篤胤自身も幽冥界を信じていましたし、後世の柳田国男や小林秀雄も信じていました。
民俗学者の谷川健一氏は、白川静の業績と柳田国男、折口信夫という日本民俗学の二大巨人の仕事とを対比しています。本書所収の「独学できわめた『神遊の学』」において、谷川氏は次のように述べます。
「白川先生は甲骨文や金石文の文字を一つ一つ解読するという、無限の忍耐を要する仕事から始められました。その解読によって、古代中国の民俗はもとより、その心意の深みまで分け入られ、当時の人々の世界観、死生観を明らかにされました。私は白川先生のお仕事を、柳田が終生をかけた厖大な民俗語彙の収集と比較してみたいのであります。中央から見れば取るに足りない地方民の生活の息づかいが、かすかな言葉にこめられております。その生活の襞々に残る言葉を見逃さず拾いあつめるという辛気くさい基礎作業があったればこそ、柳田の巨大な民俗学が構築されました。」
「先生が古代中国の民俗と文化の探求でなしとげられたことを、古代日本の民俗と文学で追跡したのが折口信夫であります。白川先生が中国における文字文化の起こりを神と祭祀者との関係に求められましたように、折口も日本文学の発生を神の託宣に置きました。中国と日本のちがいこそあれ、帰するところが一つであったことに、ふしぎな暗号をおぼえます。」
「先生の御著作の中でも、万葉集は重要な位置を占めております。また『字訓』のような字書においてもそうであります。万葉集と詩経との比較考究は先生によってはじめてなしとげられました。もし折口信夫が長生きして、先生の御研究に接することがあったとしたら、必ずや大いなる示唆を随所に受け取ったにちがいありません。」
平田篤胤のような国学者と対比され、柳田国男や折口信夫のような民俗学者とも対比される「知の巨人」白川静。しかし、篤胤も柳田も折口も、自国である日本の古代や民俗や文化を追求したのです。
いっぽう、白川静は外国である中国の古代や民俗や文化を解き明かしたわけで、これはいくら賞賛してもし足りない偉業であると言えるでしょう。
なぜ、これほどの偉業が一個人に可能であったかを考えると、「天命」という言葉が自然と浮かんできます。天は人に命を授けますが、かならず職をも授けると『荘子』にあります。作家の宮城谷昌光氏によれば、人は天から授けられた職が何であるのかを天に問うことはできず、おのれで知らなければなりません。それを知った上で、天からの特命を知ることが「天命を知る」ということなのだそうです。宮城谷氏は、本書所収の「不沈の太陽」で次のように書いています。
「おそらく天によって選ばれた者しか天命を知ることはできぬであろう。天職を知る者は多くても、天命を知る人は稀ない。五十にして天命を知る、と述べた孔子には、大いなる自負があった。同時に天命に従って成就をめざし、実践にはいった。天の代行者としての行動は、かならず人民の幸福につながるものであり、政治的か文化的に、空前の道を拓くことであるから、比類なき困難を創造することでもある。それを白川博士の閲歴と業績にあてはめても、さしつかえないであろう。」
福井に生まれ、小学校卒業後、大阪の法律事務所に住み込みで働きながら夜学に通った白川静は「独学の人」でした。その独学の人が、独自の分野を切り拓き、既成の権威を揺るがすオリジナルな説を次々に打ち出したわけですから、アカデミズムの風当たりも並大抵ではありませんでした。哲学者の故・池田晶子氏は、本書所収の「学者の魂」に次のように書いています。
「『私はいつも逆風の中にあり、逆風の中で羽ばたき続けてきたようである』と、氏は語ったそうだ。評価されず、黙殺され、しかし一貫して変わらなかった学究への情熱、その信念とは何か。嬉しいではないか、これこそが自身としての伝統への深い信頼なのである。知ることに命を賭けてきた精神たちの歴史としての学問、我こそがそれに参与しているという確信と自負である。覚悟としての学問である。個に徹するほど普遍に通じるという人間の逆説がここにある。」
そして、続けて池田氏はこう格調高く述べます。
「評価され始めたのは、最後の十年間ほどだそうだ。『評価』だなど、おこがましい。理解はできなくとも、その徹底した姿勢の持続に、人は畏れを抱いたのだ。続けたが勝ちである。勝負に最後まで居続けたものが、最後は勝利するのである。」
わたしは池田晶子の愛読者なのですが、この一文には心から感動しました。これを読んで、わたしは「自分も、勝負に最後まで居続けよう」と覚悟を決めました。
終わりに、歌人としての白川静について触れたいと思います。硫黄島に散った軍人の栗林正道の辞世の歌を取り上げた『散るぞ悲しき』の著者であるノンフィクション作家の梯久美子氏が、本書所収の「歌人・白川静」でいくつかの短歌を紹介しています。
まず、白川静は平成3年に菊池寛賞を受賞しています。そのとき、こんなユーモラスな歌を詠んでいます。
「菊池寛賞内定といふ電話ありおまへどうすると妻に諮れる」
「一つぐらいあつてもと妻の言ふなへに我もその気になりにけるかも」
「賞といふもののほしきにあらざれど糟糠の妻に贈らんと思ふ」
白川静は大変な愛妻家でしたが、夫人も非常に良妻だったようです。
初期の著作はみなガリ版刷りで費用は自己負担でした。夫が「本を出すぞ」と宣言すると、夫人は「これからしばらくは耐乏生活よ」と娘にささやいたそうですが、愚痴をこぼすようなことは一度もありませんでした。
夫よりも夫人のほうが三年早く亡くなっていますが、入院中、白川静が故郷の福井県から表彰されたことを報じる新聞をながめながら、「ほんとうにえらいなあ、私のダンナ」としみじみと言ったそうです。後日、夫が病室を見舞ったときには「いま、ダーリンの写真見ていた」とのろけるほど、仲の良い夫婦でした。
梯氏は、「白川氏の短歌は、夫人へあてた恋文のようなものだったのではないか」と書いています。戦時中から終戦の頃を思い返す歌に次のようなものがあります。
「赤子を負ひ左右に幼き手を曳きて食菜を求めて君はさまよふ」
「我がために弁当二つ作りたりあとに食ふべきもの有りやいなや」
そして、夫人の臨終から納骨までを詠んだ感動の歌の数々を最後に紹介します。
「我が眼守る計器の針の揺れ乱れやがてま白き画面となりぬ」
「厳つかりし手のやさしさよ指細り細りたる手を静かに握る」
「立ち去らば千代に別るる心地してこの室中を出でがてにすも」
「焼きあげし屍かこれが白雪の散りまがふがに色冴えてあり」
「尺ばかりの骨壷に君は収まれりやがて我も寂しなゆめ」
「意識絶えて今はの言は聞かざりしまた逢はむ日に懇ろに言へ」
白川静も研究した『万葉集』に収められた膨大な歌の数々は恋の歌である「相聞歌」と死者を悼む「挽歌」に大別されます。まさに、白川静は「相聞歌」と「挽歌」を詠んだ偉大な歌人でした。
わたしは、白川静という人の正体は「言葉の神様」であったと思います。