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No.0183 SF・ミステリー 『慟哭』 貫井徳郎著(創元推理文庫)
2010.09.28
先月、北九州市の門司にある某書店を訪れたとき、「店長イチオシ」みたいなPOPとともに本書が数十冊も平積みにされていました。
驚天動地の傑作
他にもPOPがあり、今年の8月だけで20冊近く売れた本と書かれていました。奥付を見ると、1999年3月が初版で10年以上前の本ですが、2010年6月には50版を数えています。すごいですね。
「日本推理作家協会賞」や「山本周五郎賞」を受賞しており、帯には「祝 受賞」の文字が「50万部突破!」の文字とともに記されています。また、「北村薫氏 大絶賛!驚天動地の傑作」とも書かれています。本書へ寄せる北村薫氏のコメントは、帯裏にも次のように述べられています。
「この作品について、あれこれいう必要はない。/読んでいただければ、慟哭、錬達、仰天、の線で納得していただけると思う。そして、人に話す時には《こういう類の本》であると、絶対に明かさないようにしてほしい。意地悪をしてはいけない。殺人の動機になる」
わたしは、この北村氏のコメントに全面的に賛成です。この小説に限っては、「あらすじ」も不用意に書けません。それほど、本書には衝撃的な結末が待っています。読者の常識と思い込みを完全に裏切る意外性は、かのアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』とか『オリエント急行殺人事件』を彷彿とさせるほどです。
物語は、痛ましい幼女誘拐事件の続発、難航する捜査と警察内部の軋轢、そして妖しげな新興宗教団体のエピソードが同時並行で進んでいきます。最後には、それらが一体となり、驚愕のラストを迎えるのです。
物語の核をなす幼女連続誘拐そして殺人のイメージが、あの宮崎勤事件から来ていることは明白です。娘を変質者に誘拐されて無残に殺される親の悲しみ、それも発狂せんばかりの父親の慟哭が本書には見事に描かれています。わたしにも2人の娘がいるので、被害者の父親の慟哭は胸に迫りました。
しかし、本書が単なる殺人ミステリーにとどまらないのは、文中に登場する宗教団体の存在が大きいでしょう。ネタバレになるので、これ以上は書きませんが、その宗教団体のあまりにも奇妙な特色に触れないわけにはいきません。この宗教団体は、なんと黒魔術を使う組織なのです。そして、その黒魔術のベースを「カバラ」に置いています。
「カバラ」とは何でしょうか。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった一神教の表層にはそれぞれの神学があります。神学にはアリストテレスなどの影響が強く、哲学がその正体であると言っても過言ではありません。そして、各宗教の深層にあって哲学の影響を受けていないもの、すなわち神秘主義こそが真の宗教であると思います。
では、神秘主義とは何でしょうか。すべての神秘主義に共通する根本思想とは、大宇宙(マクロコスモス)と小宇宙(ミクロコスモス)すなわち人間が対応しており、かつ両者間の要素とエネルギーは同じであるという認識です。それゆえ、神と人間とは一体となることができるのです。
宗教の究極の目的が「神と人間との合一」であるなら、神秘主義こそが宗教の純化した姿だと言えるでしょう。あらゆる宗教は、その神秘主義において神もしくは神的世界と直接的に接触し、交流し、秘められた神智の獲得を目指すのです。そして、ユダヤ教における神秘主義は「カバラ」として大成されました。
錬金術や占星術をはじめとする西洋の神秘思想は、そのほとんどがユダヤの神秘思想に起源を発しています。キリスト教やイスラム教がユダヤ教から枝分かれしたように、神秘思想もまたユダヤ民族の知恵に負うところが大きいのです。
日本人は、ユダヤ神秘主義=カバラであると思っている者が多いようです。しかし、カバラはあくまでも中世プロヴァンスに始まる神秘思想であり、ユダヤ神秘主義全体を意味しない。カバラの起源が、中世以前のユダヤ神秘主義の伝承にあるとはいえ、カバラの起源とユダヤ神秘主義の起源は同じではありません。
ユダヤ教の思想体系によれば、「律法」あるいは「トーラー」と呼ばれる教えを基本として、その上に「法の魂」あるいは「タルムード」と呼ばれる上級の教えが存在し、さらに最高位には「秘中の秘」と呼ばれる「カバラ」が君臨しています。トーラー、タルムード、カバラの順でレベルが高くなるわけです。すなわちカバラを修めることは、ユダヤ思想の最奥義をきわめるのと同じことなのです。
カバラとは、「受け取る」という語源から派生した名詞、つまり「伝承」という意味のヘブライ語です。おそらく、少数の弟子が師の教えを受け継ぐ形でこの神秘思想が広まったことが考えられます。初期のカバリストは、誰が自分にカバラを伝えたのか、師弟の系譜をはっきりと自覚していました。カバラは、遠く『旧約聖書』の時代から伝えられたものと言われますが、11世紀以後次第にユダヤ人の中で広がり14世紀以後公然と大衆的に求められるようになりました。
ユダヤ神秘主義の源流も『旧約聖書』にありますが、天地創造の物語やイザヤ、エゼキエルの幻、ダニエルなど、多くの素材があります。『タルムード』でもこれらについての神秘主義的思索が見られます。とりわけ「創世記」一章に関する創造の業「マアセー・ベレーシート」という宇宙論的思索と、エゼキエルの幻に出てくる神の車「マアセー・メルカバー」に関するものが重要です。
これらの思索を背景として生まれてきた重要な書物が『創造の書』と訳される『セフェル・イェツィラー』です。これは、プラトンのイデア論と、フィロンによるそのユダヤ的解釈をふまえ、他方プロティノスの流出論をふまえながら、ユダヤ的天地創造論によって神の超越と内在をユダヤ的に調和させたものです。そこには、「エン・ソフ」や「セフィロト」というきわめて重要な概念が見られます。
カバラを含むユダヤ教の考えでは、神そのものは、神それ自身以外のいかなる存在者からも認識されることはなく、何らかの限定を意味する一切の属性から完全に自由なものととらえられます。よって、『旧約聖書』に描かれる怒りや妬みや愛などの属性を持つ神の姿は、人間のために示された断片的な幻像にすぎません。
本来の神は、見ることも、感じることも、思考の対象にすることすらもできない超越したものとされたのです。このような不可知の神を、カバラ神秘家は「隠れた神」、「すべての根の中の根」、「とらえがたきもの」などと呼び、また専門用語で「エン・ソフ」と名づけました。「絶対的無限」といった意味です。
またカバラには、ヘブライ語のアルファベットに関する宇宙論的解釈に基づく多くの象徴や表現が見られます。これを「ゲマトリア」といいます。具体的には、22個あるヘブライ語の文字記号から同時に数値記号としても用いられたことから、文字と数の組み合わせを鍵としてユダヤ教の聖典をすべて暗号解読しようという技術です。
本書『慟哭』では、ゲマトリアがある邪悪な目的のために悪用されています。さらにカバラには、このゲマトリアを使用した瞑想法も存在します。後にフロイトによって注目され、深層意識を引き出すために患者に自由な発言をさせていく精神分析法、つまり「自由連想」の開発へとつながりました。そう、フロイトもまた、ユダヤ人だったのです。
最近、20世紀の宇宙科学理論「ビッグバン」との奇妙な一致が話題となり、カバラは再び熱い注目を浴びています。カバリストの最終目標は、他のすべての神秘家や密教修行者の目指すものと同じく、神に帰すことです。カバラに限らず、宗教を真に理解するためには、その根の部分である神秘主義の理解が欠かせないと言えるでしょう。
いずれにせよ、衝撃の結末が待っている本書は、日本には珍しい前代未聞のカバラを題材とした小説でもありました。たしかに、「驚天動地の傑作」であると思います。