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No.0182 SF・ミステリー 『悪人(上下巻)』 吉田修一著(朝日文庫)
2010.09.27
毎日出版文化賞と大佛次郎賞を受賞した作品です。先に映画のほうを観ていたのですが、映画ではいろいろと不可解だったことが原作を読んでやっと理解できました。
人間と社会の関係を問う問題作
長崎に住む青年・清水祐一は、幼い頃に母親に捨てられ、祖父母に引き取られました。彼は叔父が経営する小さな会社で土木作業員をし、祖父母の手伝いをする日々です。そんな中で、ヘルス嬢を真剣に好きになり、毎日のように通いつめたこともありました。
しかし、彼のあまりにも純粋で一途な態度に違和感をおぼえたヘルス嬢は、行方をくらましてしまいます。その後、彼は携帯の「出会い系サイト」で知り合った博多の若いOLと関係を持ちます。そして、デートの約束をすっぽかされた夜、祐一は彼女を殺害してしまうのです。
映画版では、主人公の祐一が幼い頃にフェリー乗り場で母から置き去りにされた過去、ヘルス嬢への恋愛感情と失恋といった重要なエピソードがカットされていましたが、そのためにOL殺害に至る祐一の心理描写が観客に伝わりにくかったと思います。
物語そのものは容易に展開が想像できるストーリーですし、そのメッセージも「罪を憎んで人を憎まず」というか「悪いのは、犯罪者を生み出す社会である」といったようなステレオタイプな印象を持ちました。かつて、「連続ライフル魔」として知られた永山則夫が書いた『無知の涙』みたいな話だなあとも感じました。
しかし、この『悪人』、非常に面白い小説ではありました。そして、その面白さは、一見、読み飛ばしてしまいそうな些細なエピソードにあるように思いました。たとえば、被害者の女性の父親である石橋佳男のこんな話。
彼は、JR久留米駅からほど近い場所にある理容店の店主です。休日だというのに、その店には客がほとんど来ません。彼は、閑散とした久留米駅の駅前広場を見るたびに、「もしも自分の店がJRでなく、西鉄久留米駅前にあれば、客の入りも少しは違ったのではないか」と思います。というのも、福岡市内と久留米を結ぶJR・西鉄の両路線はほぼ並行に走っています。
そして、JR特急が片道1320円で26分なのに対し、西鉄の急行なら42分と時間はかかるものの半額以下の600円で福岡市内へ行けるのです。つまり、16分という時間を取るか、720円の金を取るか。佳男は年々寂しくなるJR久留米駅前を店先から眺め、人というのは16分という時間を簡単に720円で売ってしまえるのだなどと思うのです。本書には、次のように書かれています。
「一度、佳男はJRと西鉄の差で、ある計算をしたことがある。16分を720円として、七十歳まで生きたとすると、いったい人間の値段というのはいくらぐらいになるのかと考えたのだ。計算機片手に計算してみると、最初、はじき出された金額を見て、計算間違いでもしたかと思った。出てきたのが、十六億に達する金額だったのだ。ただ、慌てて計算し直してみても、やはり同じ金額しか出てこない。人の一生が十六億。俺の一生、十六億」
もちろん、この16億という金額は、佳男が暇潰しに叩いた電卓上の数字に過ぎません。何の意味もない数字ともいえますが、この値段は客足が遠のくばかりの理容店の店主を一瞬だけ幸福な気持にしてくれるのです。このあたりの描写を、わたしは興味深く面白く読みました。
また、祐一と同じように被害者と携帯サイトで知り合った、林完治という42歳の独身男性がいます。彼は小学生相手の進学塾の講師をしているのですが、被害者の「石橋佳乃」という本名より「ミア」という偽名に魅力を感じます。彼の教え子の小学生には、そういう日本人離れした名前が多いというのです。
たとえば、彼が受けもっているクラスにも、零文(レイモン)くんとか、白笑瑠(シエル)ちゃんとか、天空星(ティアラ)ちゃんとか、教師泣かせの名前の子が多いとか。しかしながら自分はけっしてロリコンなどではなく、幼女には全く興味がないと強調した上で、彼は次のように語るのです。
「でも、最近の子供の名前っていうのはあれですね、なんていうか、ちょうど出会い系で女の子たちに偽名を聞かされとるような気がしますもんね。もっと言えば、本人と名前がひどうアンバランスで、授業の始めに出欠なんか取りよると、不憫(ふびん)に思うこともありますよ。ほら、性同一障害なんてありますけど、今に氏名同一性障害なんて問題が起こるっちゃないでしょうかね」
このくだりも、わたしは非常に興味深く読みました。人生の値段の話といい、日本人離れした命名の話といい、著者の問題意識というか、社会への風刺を含んだ着眼点はとてもユニークであると思います。
主人公の祐一を取り巻く環境へも、著者は視線を向けます。母に捨てられたため祖父母と暮らしている彼は、愛車のスカイラインで入退院を繰り返す祖父の憲夫を病院に連れて行きます。そんな祐一について、祖母の房江は次のように語ります。
「しっかし、我が娘のせいとはいえ、祐一がうちにおってくれて、ほんと良かったよ。これで祐一がおらんかったら、じいさんの送り迎えだけでも、ふーこらめ遭うところやった」
そのセリフに続いて、本書には次のように書かれています。
「最近、房江は憲夫と顔を合わすたびに、そんな弱音を吐く。実際、若い祐一は役に立っているのだろうが、房江がそう言えば言うほど、若く無口な祐一がまるで老夫婦にがんじがらめにされているように思えなくもない。その上、祐一が暮らす集落には、独居する老人や年老いた夫婦も多く、ほとんど唯一と言ってもいい若者である祐一は、自分の祖父母だけでなく、それらの他の老人たちの病院への送り迎えを頼まれることも多く、頼まれれば文句を言うでもなく、黙って車に乗せているという」
祐一が車に乗せる老人の中に、岡崎という老女がいるのですが、高齢で独居の彼女は食料の買出しに行くにも不自由であり、祐一は代りに米などを買ってきてあげます。
もし殺人事件など起こさなければ、まことに模範的な好青年、すなわち「善人」そのものの祐一ですが、そんな彼はひょんなことから老女に助けられます。警察が殺人事件の容疑者として祐一のアリバイについて近所の住人に聞き回ったとき、祐一の車はずっと駐車場に置かれており、彼はどこにも出かけていないと老女が証言したのです。その夜、祖母の房江は祐一が車で出かけたことを知っていました。しかし、老女の証言に付き合わざるを得ず、次のように祐一に説明します。
「警察に訊かれたとよ。一応、その女の子の知り合い全員に訊いて回りよるとって。岡崎のばあさんが祐一はどこにも出かけとらんって言うたらしくて、嘘つくつもりじゃなかったばってん、私もそうやろって答えとったよ。岡崎のばあちゃんは、一、二時間、車で出かけても、出かけたうちには入らんけんねぇ。ところで、ごはんは風呂に入ってから食べるとやろ?」
岡崎のばあちゃんは、勘違いで祐一がいなかったと証言したわけではないでしょう。警察から質問されたとき、反射的に日頃から懇意の青年を救おうとしたのです。
わたしは最近、『隣人論』(仮題)という著書を脱稿したのですが、その中に、隣人と良好な関係を築くことは犯罪などの容疑者になった場合にメリットがあると書きました。
容疑者として逮捕されたとき、テレビのワイドショーなどでは必ずレポーターが隣家や隣室の住人にコメントを求めます。そのときのコメントは、だいたい次の2つのパターンに分かれます。
1つは、「明るい方で、お会いしたときは、いつも挨拶してくれた」というもの。
もう1つは、「暗い感じの人で、会ってもろくに挨拶もしなかった」というものです。
前者のコメントには「あの人に限って、犯人であるはずがない」というニュアンスがあり、後者のコメントには「あの人だったら、犯人である可能性は高い」というニュアンスがあるのではないでしょうか。
さらには、2009年5月から裁判員制度がスタートしました。同年8月3日には東京地方裁判所で最初の公判が行われました。この裁判員制度ですが、アメリカの陪審員などの事例を見ても、判決が裁判員の個人的な心情に負う部分が大きいと言えます。そして、普段は一般市民でしかない裁判員たちがテレビのワイドショーで容疑者の隣人のコメントを聞いて、容疑者に対する先入観を持つ可能性は大いにあるのです。
もちろん実際の裁判に際しては、裁判長から「新聞やテレビで見たり聞いたりしたことは証拠ではない」という注意が裁判員に対してなされます。
でも、そうは言っても、日頃は裁判などと無関係の一般人として暮らしている裁判員たちの先入観までコントロールするのは難しいでしょう。いずれにしても、隣人に親しく挨拶したり、親切にすることにメリットはあってもデメリットはないのです。
このように、隣人と仲が良いこと、逆に仲が悪いことの差は、あまりにも大きいのです。わたしは、「隣人と仲良くすることは倫理上あるいは道徳上必要なだけではなく、じつは現実面においてもご利益があることを知りましょう」と書きました。もちろん、岡崎のばあちゃんの証言が意図的であったとしたなら、それは偽証です。けっして褒められたことではありませんし、それどころか、その偽証のおかげで犯人逮捕が大幅に遅れてしまったわけです。それでも、人間は自分に親切にしてくれた人間を本能的に守ろうとするのだということが本書には描かれており、興味深く感じました。
最終章で、おそらく最重要となるセリフを石橋佳男が吐いています。これは、映画版でも大きく扱われていました。
まず、佳男は鶴田という学生に対し、「あんた、大切な人はおるね?」と問いかけます。「大切な人」とは、「その人の幸せな様子を思うだけで、自分までうれしくなってくるような人」だと佳男は言います。そして、彼は次のように語るのです。
「今の世の中、大切な人もおらん人が多すぎったい。大切な人がおらん人間は、何でもできると思い込む。自分には失うもんがなかっち、それで自分が強うなった気になっとる。失うものもなければ、欲しいものもない。だけんやろ、自分を余裕のある人間っち思い込んで、失ったり、欲しがったり一喜一憂する人間を、馬鹿にした目で眺めとる。そうじゃなかとよ。本当はそれじゃ駄目とよ」
この佳男のセリフを聞いて、わたしは大阪の幼児置き去り死事件のことを思い浮かべました。「あの母親は、なぜ親や隣人に助けを求めなかったのだろう」と思いました。
現代社会では、若者をはじめ多くの人々が「自立」ということを勘違いして、単なる「孤立」を生んでいるような気がします。その意味で、佳男の発言は「無縁社会」に生きるすべての人々に向けられたものかもしれません。
本書には、さまざまな「縁」が描かれています。殺人事件の被害者と両親、加害者と祖父母との「血縁」、加害者と岡崎のばあちゃんとの「地縁」、そして携帯サイトで知り合ったという加害者と被害者との「電縁」まで。
「無縁社会」などと言いながらも、人は「縁」を結ばずにはおれない存在なのです。もともと「社会」という言葉そのものが何らかの縁のある人々の集まりという意味です。社会とは、本来が「有縁社会」なのです。
そう、本当は「無縁社会」などという言葉はありえないのです! ですから、「善人」だ「悪人」だなどと言う前に、アリストテレスの言葉にあるように「人間とは社会的動物である」ことを知るべきでしょう。
最後に、一緒に暮らすアパートまで借りていた祐一から逃げた元ヘルス嬢が事件を振り返って言う次の言葉が印象的でした。
「最近、テレビや雑誌で、あの人や、最後まであの人と一緒におって殺されかけたって女性の供述みたいなのが、大きく扱われとるじゃないですか。あれを見たり、読んだりするたびに、なんか引っかかるとですよ。『・・・・・でもさ、どっちも被害者にはなれんたい』って言うたときのあの人の顔が」
「どっちも被害者にはなれない」
この言葉こそ、本書のメインテーマではないでしょうか。しかしながら、映画版では、この言葉は完全にカットされていました。
祐一が母親に捨てられたエピソード、ヘルス嬢に捨てられたエピソードも重要ですが、この「どっちも被害者にはなれない」という言葉を切り捨てたことが、映画「悪人」の最大の失敗だと思います。いくら時間的制約があっても、この言葉だけは絶対に残さなければならなかったと思います。
「悪人」と同じく、人間の倫理を問う作品として、「告白」が思い浮かびます。湊かなえ原作の『告白』と映画「告白」は互角の勝負でしたが、吉田修一原作の『悪人』と映画「悪人」は完全に小説の勝利だと言わざるを得ません。
ある意味で、小説の持つパワーを思い知らせてくれた作品でした。
映画を超える小説のパワー