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No.0163 経済・経営 『すでに起こった未来』 上田惇生+佐々木実智男+林正+田代正美訳(ダイヤモンド社)
2010.09.05
『すでに起こった未来』上田惇生+佐々木実智男+林正+田代正美訳(ダイヤモンド社)を再読しました。「変化を読む眼」というサブタイトルがついています。
1992年にアメリカで刊行され、日本版は94年に出ています。
哲学者ドラッカーの真髄を知る
ドラッカーは、重要なことは「すでに起こった未来」を確認することだと喝破します。すでに起こってしまい、もはや元に戻ることのない変化、しかも重大な影響力をもつことになる変化でありながら、まだ一般には認識されていない変化を知覚し、かつ分析することが必要であるというのです。
本書の各章は、政治・経済・社会・企業のトレンドについて、すでに起こった、未来を「観察した」ものです。いずれも、現代の激動と大転換の本質を知るうえで重要なヒントを与えてくれます。
また、シュンペーターとケインズという20世紀を代表する2人の経済学者について書かれた第4章、第5章を読むと、ドラッカーは経済学者になっていても一流の仕事をしただろうということが確信できます。おそらく、ノーベル経済学賞を取ったのではないでしょうか。
しかし、最も注目すべきは第12章の「もう一人のキルケゴール」です。ここでドラッカーは、人間の幸福について考えたときの究極の問題である「死の問題」について徹底的に思考の極限まで考え抜いています。
あらゆる人間が突然、死に直面していることを認識する。そしてそのとき、あらゆる人間が孤独な個となる。もし、彼の実存が社会の中にしかなければ、途方に暮れるだけである。なぜならば、社会における実存は無意味だからである。
哲学者キルケゴールは、この現象を診断して、「個であろうとしないがゆえの絶望」と呼びました。死が存在するかぎり、もはや人間は、社会における自らの実存について自信を回復することはできません。基本的には、彼は絶望に至らざるをえないのです。
人間が、人類という樹木の一枚の葉、あるいは社会という肉体の一つの細胞にすぎないのであれば、死は死でなくなります。集合的再生の中の一つの過程にすぎなくなります。
キルケゴールは、西洋における宗教的経験の偉大な伝統、すなわち聖アウグスティヌス、聖ボナベントゥーラ、ルーテル、聖ヨハネ、パスカルの伝統の中に堂々と立ちます。キルケゴールを際立たせ、今日彼を必要な存在としている理由は何か。それは、キルケゴールが信仰者たるキリスト教徒に対して、時間や社会における実存の意味を強調しているからである。このようにドラッカーは分析し、次のように述べます。
「全体主義の哲学は、人に死の覚悟を与える。そのような哲学の力を過小評価することは、きわめて危険である。悲嘆と苦難、破局と恐怖の時代、すなわち我々の時代にあっては、死ねるということは偉大なことだからである。だが、それだけでは十分ではない」
「死ぬ覚悟」を与えるだけでは十分ではないというのです。ドラッカーは、さらに続けます。
「これに対して、キルケゴールの信仰もまた、人に死ぬ覚悟を与えてくれる。しかし、それは同時に、人に生きる覚悟をも与えてくれるものである」
この論文は1949年に発表されたものですが、ドラッカーが哲学者としての正体を臆面もなく見せています。「信仰」の問題にまで深く踏み込んでおり、宗教哲学者と言ってもよいでしょう。こんなすごいドラッカーは見たことがありません。
わたしは、この論文を読んだとき、震撼しました。そして、ピーター・ドラッカーを生涯の心の師にしようと決めたのです。自分なりに「生きる覚悟」と「死ぬ覚悟」を与えられる社会について考えました。その結果、『ハートフル・ソサエティ』(三五館)を書いたのです。
考えてみれば、現在の日本のような「無縁社会」も、すでに起こった未来だったのかもしれません。『すでに起こった未来』は、わたしにとって忘れられない一冊です。
まだ読まれていない方は、ぜひ、お読み下さい。