No.0272 社会・コミュニティ 『チョコレートの真実』 キャロル・オフ著、北村陽子訳(英知出版)

2011.02.16

昨夜、東京出張から帰ったら、自宅の書斎の机の上に手作りのチョコレートが入った袋が置かれていました。妻と娘が作ってくれたバレンタインのチョコレートです。

また今朝、会社へ行くと社長室にたくさんのバレンタイン・チョコが届けられていました。

家族がくれた手作りチョコレート

みなさんから頂いたチョコレートの一部

みなさんの心を思うと、感謝の気持ちでいっぱいです。

たとえ虫歯になろうが、体重が増えようが(苦笑)、必ず食べさせていただきます。

バレンタイン直後の数日は、一年で最もチョコレートを食べる時期ですね。こんなタイミングで紹介するのはどうかとは思いましたが、チョコレートに関する本を読みました。

『チョコレートの真実』キャロル・オフ著、北村陽子訳(英知出版)という本です。

カカオの国の子供たちは、チョコレートを知らない

非常にショッキングな内容ですが、帯に大書されている「カカオ農園で働く子供たちは、チョコレートを知らない」という言葉が本書の内容を端的に要約しています。

また、カバー折り返し部分には次のように書かれています。

「私の国には学校へ向かいながらチョコレートをかじる子供がいて、ここには学校にも行けず、生きるために働かなければならない子供がいる。少年たちの瞳に映る問いは、両者の間の果てしない溝を浮かび上がらせる。なんと皮肉なことか。私の国で愛されている小さなお菓子。その生産に携わる子供たちは、そんな楽しみをまったく味わったことがない。おそらくこれからも味わうことはないだろう。これは私たちの生きている世界の裂け目を示している。カカオの実を収穫する手と、チョコレートに伸ばす手の間の溝は、埋めようもなく深い」(本文より)

「ショコラ」や「チャーリーとチョコレート工場」などの映画にも描かれているように、チョコレートは世界で最も愛されているお菓子です。

本書の序章「善と悪が交錯する場所」の章扉には、「ショコラ」の原作であるジョアン・ハリス『ショコラ』の次の文章が引用されています。

「夢の中で私は、チョコレートを夢中で頬ばり、チョコレートの中に寝転がります。少しもごつごつしていないのです。むしろ人の肌のように柔らかで、まるで無数の小さな口が小刻みに休みなく動いて、私の体をむさぼっていくようです。このまま優しく食べ尽くされてしまいたい。それはこれまで味わったこともない、誘惑の極致です」

しかし、原題を『BITTER CHOCOLATE(苦いチョコレート)』という本書『チョコレートの真実』には、チョコレートの甘さの裏にある苦い真実が描かれています。

著者は、ユーゴスラビアの崩壊からアフガニスタンにおけるアメリカ主導の「対テロ戦争」まで世界中の多くの紛争を取材・報道し続ける気鋭のカナダ人女性ジャーナリストです。本書では、カカオ生産の現場で横行する児童労働の実態や、巨大企業・政府の腐敗を暴きだしています。

西アフリカのコートジボワールは世界最大のカカオ豆の輸出国として知られています。

この国の密林奥深くの村を訪れた著者は、カカオ農園で働く子供たちに出会い、彼らが自分たちが育てた豆から何が作られるのかを知らないことに驚きます。

子どもたちは、自分に課された過酷な労働によって先進国の人々が愛するお菓子を作っていることも、さらにはチョコレートが何であるかさえ知らなかったのです!

著者は、古代メソアメリカ文明、すなわちマヤ・アステカの時代に始まるチョコレートの魅惑の歴史をたどりながら、その中で生まれ、今なお続く「哀しみの歴史」について危険をおかしてまで取材しました。まさに、著者のような本物のジャーナリストが示す「真実」には重みがあり、読む者の胸を打ちます。

コートジボアールでは独裁政権が続き、農民の利益はほとんどが搾取されています。

そのような奴隷労働を排斥するために、「フェアトレード」というシステムが生まれました。カカオに関わる企業は当初この「フェアトレード」を推進していましたが、いつのまにか、みな大企業に身売りされたそうです。ひたすら利益を追求する大企業の関連会社になったフェアトレード企業の多くは、「フェアトレード」の定義を変えてしまい、より安価に製品を市場に出そうと画策するようになりました。

わたしたち日本人を含めた経済的に豊かな国々に安価で美味しいチョコレートを提供するために、西アフリカの子どもは奴隷的に働かされ、農民は最底辺の生活を強要されているのです。そして、大企業だけは儲かると言うお決まりの図式ですね。

企業という存在には、「コストは最小に、利益は最大に」という命題が常に課せられます。その命題は、南半球に多い発展途上国の一次産品を北半球に多い先進諸国が加工・消費するという図式で遂行されるのです。

わたしも経営者の端くれですので、常に「利益」というものを意識していますが、企業の利益を社会の利益とリンクさせることを忘れてはならないと思っています。

そして、政治というものは、やはり利益だけを追求してはなりません。

東京都知事選の立候補者の1人は、自身は経営者なので東京都の財政再建をめざしたいと強調していましたが、経営と政治は本質的に違います。

ですので、彼の「都を経営する」という言葉には非常に違和感があります。

また、わたしは彼が経営する飲食店での厨房や会議における従業員への物言いを何度かテレビなどで見てきましたが、非常に高圧的で見ていて不愉快になりました。たしか、従業員に向って「このタコ!」と罵っていたこともありましたね。

そういう人間を尊重しない経営者のいる企業は、いくら店舗数があったとしても良い会社だとは思えませんし、わたしは個人的に顧客になりたいと思いません。

彼は『論語』についての本も出しているようですが、まさに「論語読みの論語知らず」とはこのことでしょう。『論語』とは、つまるところ「人間尊重」を説いた本です。

本質的に違う経営と政治ですが、接点があるとすれば「人間尊重」に他なりません。

また、くだんの候補者は「夢」とか「日付」という言葉がお好きのようですが、政治家にとって必要なのは「日付のある夢」よりも「日付なき志」なのではないでしょうか。

というのは、夢は一代で叶えることができても、志は一代に限らないからです。

志とは己の身が朽ち果てた後に次世代に託すということもあるからです。

幕末の吉田松陰や坂本龍馬は志に生きる者、すなわち「志士」と呼ばれましたが、彼らが心の底から願った新社会は彼らの死後に「明治維新」として実現しました。

松陰や龍馬の志は、その死後に同志によって果たされたのです。

わたしは、志というのは何よりも「無私」であってこそ、その呼び名に値すると思います。

松陰の言葉に「志なき者は、虫(無志)である」というのがありますが、これをもじれば、「志ある者は、無私である」と言えるでしょう。平たく言えば、「自分が幸せになりたい」というのは夢であり、「世の多くの人々を幸せにしたい」というのが志です。

夢は私、志は公に通じているのです。自分ではなく、世の多くの人々。「幸せになりたい」ではなく「幸せにしたい」、この違いが重要なのです。

企業もしかり。もっとこの商品を買ってほしいとか、もっと売上げを伸ばしたいとか、株式を上場したいなどというのは、すべて私的利益に向いた夢にすぎません。そこに公的利益はありません。社員の給料を上げたいとか、待遇を良くしたいというのは、一見、志のようではありますが、やはり身内の幸福を願う夢であると言えます。

真の志は、あくまで世のため人のために立てるものなのです。

「夢」と「志」の違いについては、拙著『孔子とドラッカー』および『法則の法則』(ともに、三五館)をお読み下さい。

わたしは彼の出馬会見を見ていて、先日行われた国土交通省対象の事業仕分け「行政事業レビュー」で”仕分け人”になった女性経済評論家の発言を思い出しました。

彼女は、活発に活動する全国の火山に高精度の観測機器を設置するという同庁の整備事業に対して、「大規模噴火は数千年に1度なのに24時間の監視が必要なのか」と疑義を呈し、事業の整理を示唆したのです。

その直後、皮肉にも霧島連山の新燃岳が大噴火し、菅総理大臣は対応に万全を期すよう指示しました。この一件を見ても、単なる経済効率だけで政治や行政についての判断をしてはならないということは明らかです。

この女性経済評論家にしても、くだんの経営者知事候補にしても、経済効率性を重んじる一方で、自らの夢の実現を若者たちに訴えています。

しかし、彼らが説く「夢」とは「欲望」の同義語に思えてなりません。

経済効率ばかり重んじる欲望の肯定者たちが政治に関わることは非常に危険です。

まあ、話題がそれたので、この話はまたいつか改めてしたいと思います。

さて、本書を読んで思うことは、「では、自分に何ができるか?」です。

著者も、最後の謝辞で「カカオ豆を収穫する手とチョコレートの包み紙を開ける手の間の溝が埋められるためには?」と問いかけています。

フェアトレードの推進派である「グローバル・エクスチェンジ」というグループは、小学生向けに「フェアトレード・チョコレートの本」というプログラムを提供したそうです。

そこには、「大企業製造のチョコレートを食べることは、他の国の子供が学校に行けなくなることを意味する」という内容が書かれているそうです。

共産主義的な思想が感じられますが、それはさすがに過激であり、極端過ぎて事態の解決にはつながらないと思います。

では、わたしたちには何ができるのでしょうか。

わたしは、マザー・テレサを心からリスペクトしています。彼女の偉大な活動のひとつに「死を待つ人の家」を中心とした看取りの行為がありました。マザー亡き後も、インドのカルカッタでは彼女の後継者たちが「死を待つ人の家」を守っています。

死にゆく人々は栄養失調から来る衰弱死のため、たいていは苦悶の表情を浮かべて死んでいきます。しかし、いまわのきわに口に氷砂糖やチョコレートなどを含ませると、ニッコリと笑って旅立ってゆくそうです。

日本にはバレンタインデーで貰った義理チョコなどを食べきれずにいる男性も多いでしょう。ぜひ、そのようなチョコレートをインドの「死を待つ人の家」に送ってあげて、亡くなってゆく人の最期に口に含ませてあげることができればいいなと思います。

そして、カカオ農園で働くアフリカの子どもたちにもチョコレートをお腹いっぱい食べさせてあげたい。わたしは本書を読みながら、泣けて仕方がありませんでした。

何よりも辛いのは、子どもたちがチョコレートの存在そのものを知らないということです。

つまり、彼らは自分たちの過酷な労働の結果、チョコレートという夢のように甘くて美味しいお菓子が誕生していることを知らないのです。もし彼らがチョコレートを味わって、その美味しさに感動することがあれば、「自分たちは、人を幸せな気分にすることができる素晴らしいものを作っているのだ」ということに気づくことでしょう。

それは、彼らの「働きがい」、さらには「生きがい」にもつながるはずです。

そうです、チョコレートという魔法のお菓子は、インドの死にゆく人々に「死にがい」を与え、アフリカの子どもたちに「生きがい」を与えることができるのです。

そして日本では、バレンタインデーのチョコレートは「愛」や「感謝」の心を与えてくれます。人生に意味を与え、世界をキラキラと輝かせるからこそ、魔法のお菓子なのです。

わたしは、アフリカの子どもたちや、インドの老人たちに、世界を輝かせる魔法のお菓子としてのチョコレートが行き渡る世界が実現することを願ってやみません。

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