No.0293 エッセイ・コラム 『村上春樹 雑文集』 村上春樹著(新潮社)

2011.03.14

『村上春樹 雑文集』村上春樹著(新潮社)を読みました。

いろんな賞を受賞した著者の「あいさつ」から、祝電、音楽評論、翻訳論、超短編小説まで、これまで未発表だった多くの「雑文」が入っています。

じつに440ページものボリュームですが、著者が「雑文」と言っているのはもちろん謙遜で、いずれも珠玉の「名文」揃いです。「雑文集」という名の「名文集」ですね。

デビューの言葉から「壁と卵」まで

わたしは、本書を3月11日の14時05分に羽田を発ったスターフライヤーの機内で読みました。たまたま「機上の人」であったときに東日本大震災が起こったわけです。

地震発生の時刻の頃、わたしは、ちょうど著者が阪神淡路大震災について書いた文章を読んでおり、その偶然に驚きました。まさに「シンクロニシティ」と呼べる現象ですが、著者によれば、1995年の阪神淡路大震災は多くの日本国民に、次のような2つの陰鬱な認識をもたらすことになったそうです。

①我々は結局のところ、不安定で暴力的な地面の上に生きているのだ。

②我々のシステムにはどうやら、何か間違ったところがあるらしい。

今回の東日本大震災で、わたしたちはそのことを改めて思い知ったわけです。

しかし、95年に日本人を襲った「不安定で暴力的なもの」は地面だけにはとどまりませんでした。著者は、本書所収の「東京地下のブラック・マジック」に次のように書いています。

「阪神大地震のわずか二ヵ月後に、人々はその事実をつきつけられる。三月二十日に『オウム真理教』という新興宗教団体が、サリンガス(ナチスが第二次世界大戦中に開発したこの猛毒ガスは、サダム・フセインがクルド人鎮圧に使用したことで知られている)を用いて東京の地下鉄車両を襲撃したのだ」

死者の数こそ阪神淡路大震災よりもずっと少なかったものの、この地下鉄サリン事件は日本人の精神基盤を根本から揺さぶりました。

日本人は地震や台風といった自然のもたらすカタストロフとともに生きてきた民族であり、著者の言葉でいえば、「自然のもたらす暴力性は精神の中に無意識的にプログラムされている」のです。日本人は「諸行無常」という言葉を愛しますが、すべてのものは移ろいます。はかなさを知りつつ、崩壊に耐えつつ、我慢強く、設定された目標に向かって進んでゆく・・・・・日本人とは、そんな民族であるというのです。しかし、地下鉄サリン事件がもたらしたカタストロフはまったく別でした。著者は、次のように述べます。

「でも地下鉄サリン事件は、日本人が――少なくとも思い出せる限りにおいては――これまでに見たこともなく、経験したこともないまったく新しい種類のカタストロフだった。それは①宗教団体が教義の延長として引き起こした、②特殊な毒ガス兵器を使用した計画的犯罪であり、③日本人が日本人を事実上無差別に殺すことを目的としていた。それが示したのは、日本が『世界に類を見ない安全で平和な国家』であるという共有観念の崩壊だった。『我々の社会にはたしかにいくつかの欠陥はあるかもしれない』と人々は考えていた。『しかし少なくとも、我々は安全な社会に住んでいる。どの街のどの通りも、犯罪にあうことを恐れることなく自由に歩くことができる。それはひとつの達成ではないか』。しかし今ではそれも虚しい幻想でしかない」

著者は、地下鉄サリン事件によって多くの人々が感じとったことは、「イノセンスの時代」が終わってしまった事実だといいます。

オウム真理教は、いわゆる「カルト宗教」です。カルト宗教とは過剰で濃密な「物語」を信者に与えます。でも、たとえカルトでなくても、宗教とはもともと物語の世界であると言えるでしょう。

2006年に『海辺のカフカ』によって「フランツ・カフカ国際文学賞」を受賞したとき、著者はチェコの新聞からメール・インタビューを受けました。その内容は本書所収の「ポスト・コミュニズムの世界からの質問」に収められていますが、次のように述べています。

「今あるような圧倒的なまでの資本主義世界にあって、少なからざる人々は、数値や形式や物質や固定観念から離れたところに、かたちにならない個人的な価値を見出そうと努めています。それはもちろん当然な欲求ですし、小説家はそのような『かたちに鳴らないもの』を物語というかたちに置き換えて、ひとびとに提示していくことを仕事にしています。その『置き換え』の鮮やかな有効性の中にこそ、小説の価値はあります。我々はそのような作業を数千年にわたって世界中でおこなってきたわけです」

著者は、これまで小説の価値、小説家の役割について語ってきたことはありますが、これほど「小説」や「小説家」を明確に定義したことは珍しいのではないでしょうか。

そして、物語に直接関わるジャンルとしては、「小説」の他に「宗教」というものがあります。著者は、次のように述べます。

「宗教もまたおおむね同じような機能を果たしてきたのではないかと僕は考えます。宗教家は彼らなりの物語性のシステムを人々に提示し、そこに人々の精神のありかを定めていきます。ただし、宗教は小説に比べると、より強い規範とコミットメントを人々に求めます。そしてその宗教がカルト的な色彩を帯びてくるとき、そこには危険な流れが生じる場合もあります。そのような不自然な流れが作り出されることをできるだけ阻止していく、というのも小説に与えられた責務のひとつではないかと、オウム真理教の信者と話し合ったあとで、僕は考えるようになりました。小説が基本的に求めているのは、人々の魂の、安全な(少なくとも危険ではない)場所への、自然なソフト・ランディングです」

これは、本書の冒頭に収められている「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」の内容にも通じます。これは、2001年に刊行された大庭健著『私という迷宮』という哲学書の解説として書かれたものです。

著者は、麻原彰晃のような宗教的指導者に代表される「強力な外部者」は「跳びなさい」と言うと指摘します。現実の中でいつもどたばたと苦闘する者に対して、外部者は「君がやるべきことは、古い大地から新しい大地に跳び移ることだけなのだ」と言うのです。そして、小説家もときとしてそれと同じようなことをやっています。

著者は、次のように述べています。

「僕らは物語という装置を通してそれを行う。『跳びなさい』と僕らは言う。そして読者を物語という現実外のシステムの中に取り込む。幻想を押しつける。勃起させ、怯えさせ、涙を流させる。新しい森の中に追い込む。固い壁を抜けさせる。自然ではないことを自然であると思わせる。起こるはぜのないことを起こったことであると信じさせる」

しかし、物語が終わったとき、同時に小説家の役割は終了します。

読者はその物語の記憶を部分的に記憶するにせよ、もとあった現実の中へ戻っていきます。すなわち、小説家の提供する物語は開かれているのです。

しかし、個人としての麻原彰晃および組織としてのオウム真理教が、多くの若者に対してなしたのは、彼らの物語の輪を完全に閉じてしまうことでした。

小説家が適当な時期がくれば「ポン」と手を叩いて被験者の眠りを解く催眠術師ならば、オウムの人々はけっして被験者を目覚めさせようとしなかったのです。

著者は、ある男性読者から手紙をもらったことがあります。その男性は、オウム真理教ではありませんが、ある大きなカルト宗教にのめり込んだ経験を持つ人でした。

興味深いのは、彼がカルト宗教の修行場に入れられて、外部からまったく遮断された生活を送っていたときのエピソードです。著者は次のように書いています。

「教典以外の本を読むことは厳しく禁止されていた(彼らは信者がフィクションに触れることを一切許可しない。虚構のチャンネルはひとつしか必要とされない。当然なことだ)。しかし彼は僕の書いた『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という小説を、荷物の底にひそかに隠し持っていて、人目を忍んでそれを毎日少しずつ読み続けていた。そしていろいろと大変な経緯はあったものの、長い時間をかけてなんとかそのカルトの精神的束縛から抜け出すことができた。今では現実の世界に復帰して、普通の生活を送っている。どうして毎日すがるようにその小説を読んでいたのか、どうして言われたようにそれを捨ててしまわなかったのか、それは彼にもうまく説明できない。しかももしその本を読み続けていなかったら、あそこからうまく抜け出せたかどうかわからないと彼は書いていた」

小説家とは、物語という装置をめぐる長く厳しい闘いを続けているのです。

カルトはシンプルで、直接的で、明快なかたちを持った強力な物語を用意します。

そして、その物語のサーキットに人々を誘い入れ、引き込もうとします。

それは不純物をいっさい排除しているがゆえに強い即効力を持っています。

一方、小説家はカルトにはない武器を持っています。それは、継続性です。

小説家は「文学」という、長い時間によって実証された領域で仕事をしています。

著者は、次のように述べています。

「歴史的に見ていけばわかることだが、文学は多くの場合、現実的な役には立たなかった。たとえばそれは戦争や虐殺や詐欺や偏見を、目に見えたかたちでは、押し止めることはできなかった。そういう意味では文学は無力であるともいえる。歴史的な即効性はほとんどない。でも少なくとも文学は、戦争や虐殺や詐欺や偏見を生み出しはしなかった。逆にそれらに対抗する何かを生み出そうと、文学は飽くこともなく営々と努力を積み重ねてきたのだ」

著者は、文学は人間存在の尊厳の核にあるものを希求してきたのだといいます。

そして、文学というものの中には継続性の中でのみ語られるべき力強い特質があるとして、次のように述べるのです。

「その力強さはつまりバルザックの強さであり、トルストイの広大さであり、ドストエフスキーの深さである。ホメロスの豊かなヴィジョンであり、上田秋成の透徹した美しさである。僕らの書くフィクションは―いちいちホメロスを引き合いに出すのも申し訳ないような気がするけれども―そこから絶えることなく継続して流れてきた伝統の上に成立している。僕は一人の小説家として、あたりがしんと静まり返った時刻に、その流れの音をかすかに耳にすることがある」

この文章は、これまでに書かれた世界中のどんな文章よりも、文学への信頼と愛情を示した名文であると思います。さらに、著者は一気に「物語」の本質について語ります。

「物語とは魔術である。ファンタジー小説風に言えば、我々小説家はそれをいわば『白魔術』として使う。一部のカルトはそれを『黒魔術』として使う。我々は深い森の中で、人知れず激しく切り結ぶ。まるでスティーヴン・キングのジュブナイル小説のシーンのようだけれど、ある意味ではそのイメージは真実にかなり近接しているはずだ。なぜなら物語の持つ大きな力と、その裏側にある危険性を誰よりもよく承知しているのは、小説家であるからだ。継続性とは道義性のことでもあるのだ。そして道義性とは精神の公正さのことだ」

著者における「精神の公正さ」は、次の「壁と卵――エルサレム賞・受賞のあいさつ」という非常に有名になったスピーチで余すところなく示されています。

特に次の一文に小説家としての著者の真摯さが示されています。

「私が小説を書く理由は、煎じ詰めればただひとつです。個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためです。我々の魂がシステムに絡め取られ、貶められることにないように、常にそこに光を当て、警鐘を鳴らす、それこそが物語の役目です。私はそう信じています。生と死の物語を書き、愛の物語を書き、人を泣かせ、人を怯えさせ、人を笑わせることによって、個々の魂のかけがえなさを明らかにしようと試み続けること、それが小説家の仕事です。そのために我々は日々真剣に虚構を作り続けているのです」

著者は、「人間の尊厳」を守るために、「魂のかけがなさ」を明らかにするために、小説を書いているというのです。これは、もう、ほとんど「礼」の世界です。

いや、「礼」そのものの世界だと言えるでしょう。著者は基本的に、世界とは豊かであり、人間とは善きものであると信じているのでしょう。そこから、他者をリスペクトする意識が芽生え、本物の「人間尊重」の精神が生まれてくるのだと思います。

わたしは、著者の作品が世界中の人々に愛読されることが、人間尊重思想の普及としての「天下布礼」につながるのだと気づきました。

最後に、著者がいかに礼儀正しい人であるかということに触れたいと思います。

世界的な小説家である著者は、日本を代表する翻訳家でもあります。

サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(白水社)とかチャンドラーの『ロング・グッドバイ』(早川書房)などが訳者としての代表作と言えるでしょう。いずれも名訳として大絶賛されましたが、両書ともに先行する定番ともいえる翻訳がありました。

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は野崎孝訳の『ライ麦畑で捕まえて』、『ロング・グッドバイ』は清水俊二訳の『長いお別れ』です。

いずれの翻訳も、先行する訳者と同じ版元から出すことになった著者は、先達への気配りをこれでもかというくらいに見せるのです。

たとえば、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の場合。

著者は、「僕の中の『キャッチャー』」で次のように述べます。

「野崎氏の訳は言うまでもなく優れた訳だが、野崎氏が訳されてから長い歳月が経過しているし、日本語自体もそのあいだに大きく変化している。我々のライフスタイルも変化した。そろそろ新しい見直しがあってもいいはずである。伝え聞くところによると、野崎氏地震も既訳に自ら手入れすることを考えておられたようだが、惜しむらくはその前に亡くなられてしまった。そこで僕が及ばずながら、僭越ながら、いまひとつの選択肢を提供することになったわけだ」

また、『『ロング・グッドバイ』の場合では、以下のように述べています。

「今日におけるレイモンド・チャンドラーという作家の重要性をこうりょするとき、そして彼の作品群の中におけるこの作品の位置を考えるとき、『完訳版』というべきか、いちおうひととおり細かいところまで訳され、現代の感覚(に近いもの)で洗い直された『『ロング・グッドバイ』が清水訳と並行するかたちで存在していいはずだし、また存在するべきであろうというのが僕の考え方である。基本的なことを言えば、同時代作品としていきおいをつけて訳された清水訳と、いわば『準古典』としてより厳密に訳された村上訳という捉え方をしていただいてもいいかもしれない」

このように、著者は翻訳の先行者に細やかな配慮をしているのです。

「天下の村上春樹が、何もここまで言い訳しなくても」と思いたいところですが、これはやはり著者が生まれつき持っている優しさであり、謙虚さなのでしょう。

そして、この人間性はひとえに、「壁と卵―エルサレム賞・受賞のあいさつ」に登場する仏壇に向かって戦没者の冥福を祈り続ける父親の影響ではないかと思えてなりません。

死者への礼は、当然ながら生者への礼にもつながるからです。著者の「人間尊重」の姿勢は、仏壇に向かう父親の背中が育んだものであるような気がします。

その他にも、本書にはわたしが知らなかった著者の素顔がたくさん紹介されていました。

たとえば、「スティーヴン・キングの絶望と愛―良質の恐怖表現」を読んで、著者が怪奇小説には目がない人で、ラヴクラフトやハワードといった巨匠と並んで、同時代人であるキングを愛読しているという事実など初めて知りました。

わたしも大の怪奇小説の愛好家なので、とても嬉しくなりました。怪奇小説を好む人は、死者へのまなざしを持ちやすいのかもしれませんね。著者が類まれなストーリー・テリングの達人であることも、怪奇小説を読み込んでいることと無縁ではないはずです。

いずれにせよ、村上春樹という小説家の「こころ」の秘密がいろいろと垣間見ることができる本書は、村上春樹自身による最高の『村上春樹入門』であると思いました。

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