No.0288 日本思想 『街場の大学論』 内田樹著(角川文庫)

2011.03.07

日曜日の小倉はずっと雨でしたが、家にばかりこもっていると体がなまります。

そこで、久しぶりにスポーツクラブに泳ぎに行きました。

平泳ぎとクロールで1500メートルを泳ぐと、もうグッタリ。

数年前までは2000メートルは泳がないと物足りなかったのに・・・・・。とほほ。

プールから上がって全身を鏡に映してみると、以前に比べ、かなり弛んでいました(泣)。しみじみと肉体の「老い」というものを感じてしまいますが、考えてみると、わが子が大学生になるのですから無理もないかも・・・・・。

大学生といえば、京大をはじめとした大学入試ネット投稿事件の犯人は19歳の浪人生でしたね。実際に試験会場で携帯に打ち込みをしたというのですから、これを見抜けなかった試験官は正直言って職務怠慢だと思います。

また、熊本3歳女児遺棄事件の犯人は大学2年生でした。

彼は「大学の授業がわからない」などの悩みを抱えていたそうです。

ということで、どうも大学絡みで考えさせられることが多い今日この頃。

スポーツクラブから帰ってきて、『街場の大学論』内田樹著(角川文庫)を読みました。

ウチダ式教育再生

日本の大学が「冬の時代」を迎えていると言われてから、ずいぶん時間が経ちました。

今や、私立大学の40%が定員を割っているという事実があります。

この危機の中で、多くの大学は「市場原理」を導入してきました。

そして、過剰な実学志向と規模拡大化に救いを求めているようなのですが、著者はこの現状はけっして学生を真の「学び」へは導かないと異を唱えます。

著者は、本書所収の「いまの二十歳は半世紀前の十五歳」で次のように述べています。

「現在の日本の大学二年生の平均的な学力は、おそらく五十年前の中学三年生の平均学力といい勝負、というあたりではないかと思われる。まあ、平均寿命が延びているのだから、いまの二十歳が半世紀前の十五歳とイーブンというのでも、別に国内的にはそう換算していれば誰も困らないのであるが、国際的にはいささか体面が悪い」

まさに、日本人の学力低下を鋭く衝く一文です。

しかし、そうなった責任は子どもたちではなく大人たちにあると、著者は断言し、「『国民総六歳児』への道」で次のように述べます。

「『学ぶ』ことができない、『学ぶ』ということの意味がわからない子どもたちがいま組織的に作り出されている。家庭でも、学校でも、しかし、それは子どもたち自身の責任ではない」

著者によれば、子どもたちは被害者だというのです。

なぜなら、誰も「学ぶ」とはどういうことかを彼らに教えてくれなかったからです。

著者は、「どうやって、彼らを再び『学び』に向けて動機付けることができるのか」といった議論をしている以上、「彼らは『自分探し』の結果、社会的階層降下の道を自己決定したのだから、社会的劣位は彼らの自己責任において引き受けられねばならない」という意見には同意できないといいます。

子どもたちは「学び」への動機付けを生まれつき持っているわけではないからです。

彼らを「学び」へ導くのは大人たちの責任です。

その責任を放棄して、子どもたちに「自分にとって意味があると思うことだけをしなさい」と言えば、どうなるでしょうか。

子どもたちが「学び」に向かうはずはありません。著者は次のように述べます。

「そんなことをすれば、子どもの幼い頭でも理解できる動機付け(『金』とか『名誉』とか『権力』とか『エロス的愉悦』とか)だけを支えに学校に通い続けて(『幼児の動機』を抱え込んだまま大人になる)子どもと、子どもの幼い頭で『面白くなさそうだから、やめた』と学びを放棄した子どもの二種類の『成長を止めた子どもたち』が生み出されるだけである」

著者は、そうやって子どもたちの成長を止めたのは大人たちであるというのです。

大人の中でも最も責任が重いのが、大学の教員たちです。

大学の知的崩壊については、これまで主に大学生の学力低下のみが論じられてきました。しかし、本書にも紹介されている川成洋『大学崩壊!』(宝島新書)などが大学教授のバカさという「それは言わない約束でしょ」的真実を赤裸々に暴露しました。

ちょっと古いデータではありますが、1980年に文部省が全国の大学(国公私立)の全教員について調査を行ったことがあります。過去5年間に何本の研究論文を書いたか調べたのですが、なんと1本も書いていない教員が25%もいたそうです。

助手、専任講師、助教授は昇格人事があり、論文の執筆がほぼ義務化しています。

すなわち、もう審査される心配のない教授職が25%の過半を占めている可能性が高いといえます。25%というのは、全教員の中の教授の比率とほぼ同じです。

つまり、大学教授のほとんどは過去5年間に1本も論文を書いていないというのです。

にわかには信じられない話ですが、これが日本の大学の実情なのです。

なぜ、大学教授ともあろう者が論文の1本も書かないのか。

おそらくは、「書かない」のではなく、「書けない」のです。

著者は、「五年間に一本も論文を書かない教授」で次のように述べています。

「論文を書けなくなる理由はいろいろである。一つは若い頃の論文のクオリティが高かったので大学の先生にはなれたのだが、研究の目的が『大学の教師になる』ということに傾きすぎていたために、ポストを得たとたんに人生の目的を失った人である」

これはけっこう多いそうです。著者は、さらに述べます。

「もう一つは、ちょっとしたきっかけで渾身の論文が中絶し、周囲の期待が高かったし、本人の自負もあり、中途半端なものでお茶を濁すわけにはいかない、というので、ごりごり勉強しているうちに、『眼高手低』になってしまった、というパターンがある。『眼高手低』というのは『批評眼ばかり肥えてしまったせいで、自分の書いたものの完成度の低さを自分が許せない』という自閉的な傾向のことである」

大学はいま「冬の時代」どころか「真冬の時代」にあります。

大学がつぶれて、生首を切られて路頭に迷う大学教師も珍しくありません。

2001年の時点で、著者は「この先、おそらくいま博士号を持っている人たちのうちの半分も定職には就けないだろう」と予想していました。

著者は、「『おれって天才か』と笑みを浮かべる」において次のように述べます。

「そのような時代においてあえてこの道を選ぶ以上、それは『生涯定職なし、四畳半暮らし、主食はカップ麺』というようなライフスタイルであっても『ま、いいすよ。おれ、勉強好きだし。好きなだけ本読んで、原稿書いてられるなら』と笑えるような精神の持ち主であることが必要である。

たとえ才能があっても評価されず、すぐれた業績をあげてもふさわしいポストが提供されない、と言う『不条理』に若手の研究者の過半はこののち耐えなければならない。もちろん普通の人はこんな『不条理』に耐えられないし、耐える必要もない」

誰でも、能力に応じて適正な評価がなされ、働いた労力に見合う対価が得られる職業を望みます。そして、そんな職業は探せば、この世にはいっぱいあります。

「不条理」は嫌だという人は、いわゆる「学者」には向きません。

そんな人は、大学の外にある「条理の通る」世界で生きるべきなのです。著者によれば、この「不条理な世界」を平気で生きられる人は、次の2種類しかいないそうです。

(1)この世界以外ではまったく「つぶしがきかない」人

(2)自分がいま研究していることに夢中で、毎日が楽しくて仕方がない人

著者いわく、いまの大学の教師の70%は(1)であり、20%が(2)だとか。

あとの10%は、政治家、営業マン、バーのマスターなどの他の職業に向いているのに大学の教師なんかやっている「変わりもん」だそうです。なるほど。

その中で最もハッピーなのは、言うまでもなく、(2)の人です。著者は述べます。

「四畳半でカップ麺を啜りながら、自分の原稿を読み返して『おいおい、おれって天才か。勘弁してくれよ。そういえば、心なしかおいらを祝福するように空がやけに青いぜ』と温かい笑みを浮かべることができるようなタイプの人間だけが、いまの時代に幸福に生きることができる研究者だろうと私は思う」

たしかに、こんな研究者なら幸福に生きることができるでしょうし、そのうち「不条理」を乗り越えて大きな研究的成果も残しそうですね。

わたしには、大学教授の知り合いがたくさんいます。

大学の先生というのはたしかにユニークな方が多いです。

でも、一流の先生方に共通しているのは、とにかく学問を愛していること。

そういう方々は多くの論文を書くか、多くの著書を著しておられます。

一方、二流以下の学者とは、論文も著書もまったく書かず、つまらない学内の勢力争いに明け暮れています。自分たちの内輪の抗争だけで明け暮れていれば、それはそれでいいのですが、ときどき外部の人間まで巻き込むタチの悪い輩がいます。

北九州市は長らく「ヤクザの街」などと言われてきましたが、カタギ衆に流れ弾を当てるようではヤクザ以下ですね。

じつは最近、わたしは某大学に対して大変失望する出来事がありました。

その大学では「冬の時代」にお決まりの実学偏重でビジネススクールを設立し、わたしを含めて数名の新しい特任教授の就任を今年から予定していました。

しかし、首脳部が学内の派閥抗争に明け暮れた挙句に、「信」と「礼」を大いに欠く一件があったのです。詳しい事情を書くのは「武士の情」でやめておきますが、結論から言うと、わたしはその大学のビジネススクールで教えることをお断りしました。

あまりにも非常識な大学の姿勢は、これから必ず波紋を呼ぶことと思います。

わたしは、もう、その大学には関わり合いになりたくありません。

いつか機会があれば、すべての真相をお話したいと思います。

かわいそうなのは、何も知らない学生さんたちですね。

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