No.0457 メディア・IT | 国家・政治 『ジャーナリズムの陥し穴』 田原総一朗著(ちくま新著)

2011.09.26

『ジャーナリズムの陥し穴』田原総一朗著(ちくま新著)を読みました。

「明治から東日本大震災まで」というサブタイトルがついています。帯には、自身が司会を務めるテレビ番組の出演者を指差しているような著者の写真が載っています。

また、「批判を受けない無難な報道。大本営発表はいまも変わらない。」という一文に続き、「事実を追わないマスコミは今すぐ退場せよ!」と大書されています。

明治から東日本大震災まで

本書の目次は、以下のような構成になっています。

「まえがき」
序章  ジャーナリズムとは何かの前に
第1章 ジャーナリズムの歴史
1.ジャーナリズムに”中立”は存在しない
2.新聞の誕生
3.戦争報道と規制、ジャーナリズムの変貌
第2章 占領下のジャーナリズム
1.占領下という時代
2.「戦争責任」の総括
第3章 ジャーナリストになる―テレビマン時代
1.映像からテレビへ
2.ドキュメンタリーのディレクターに
第4章 ジャーナリズムと権力
1.田中角栄とジャーナリズム
2.権力とマスメディア、リクルートの場合
第5章 新たなるテレビジャーナリズムの誕生
第6章 テレビジャーナリズムの現場―その1
1.憲法改正論議と村山内閣
2.負の遺産を背負った橋本内閣
第7章 テレビジャーナリズムの現場―その2
1.自民党を破壊した小泉純一郎
2.政権交代というキーワード
第8章 ジャーナリズムが生んだ幻想
「あとがき」
参考文献

著者の本を読むのは、学生の頃に読んだ『電通』(朝日文庫)以来ではないでしょうか。80年代、わたしが通っていた早稲田大学の学生でマスコミ志望者はみんなこの本を読んでいたものですが、今では絶版のようですね。

自身が早稲田の第一文学部の出身である著者は、現在、早稲田大学特命教授として大学院で講義をする他、「大隈塾」塾頭も務めています。言うまでもなく、テレビ朝日系「朝まで生テレビ!」「サンデープロジェクト」でテレビジャーナリズムの新しい地平を拓いた著者は現代日本を代表するジャーナリストの1人です。

学生時代は文学を志していたそうですが、一橋大の現役学生であった石原慎太郎氏の『太陽の季節』を読んで「負けた・・・」と思い、作家への夢をあきらめたそうです。このようなエピソード、本書で初めて知りました。

この仕事を心底楽しいと感じているようで、序章「ジャーナリズムとは何かの前に」で、「77歳になった今も、ジャーナリストであることを心底楽しいと思っている。ジャーナリストというあり方は自分にとって非常に合っているとも感じている。総理大臣から、ホームレス、スポーツ選手に革命家、犯罪者・・・・・・。ジャーナリストは、会いたい人に会える職業だ。取材という枠組みの中で、そうした人たちの時代を奪い、こちらが聞きたいことを何でも聞ける。こんなに勉強になること、楽しいことが、他にあるだろうか」と述べます。

このように自分の仕事に強い誇りを持ち、自分の人生を堂々と振り返ることができる人は幸せですね。どんな仕事をしている者でも、かくありたいものです。

さて、本書のテーマである「ジャーナリズム」とは何か。多くの人々は、ジャーナリズムを「真実を追及する姿勢」といったように理解しているでしょうが、著者によれば、結局、「真実に近いものを掘り出す作業」であるそうです。さらに著者は、次のように述べています。

「”中立””公平”あるいは”客観性”というものが、取材の常識のように語られている。しかし、ジャーナリストにはそれぞれの立ち位置があり、純粋な客観性などというものはありえない。すべて色付きである。

かつて、全共闘の学生たちと機動隊がぶつかることがあった。学生たちの側から見れば、完全防備した機動隊は権力の暴力装置であり、機動隊の側から見れば、学生たちは過激派暴力集団である。まさにま逆の見方が厳然と存在するのだ」

メディアというものが、どこに立って物事を見るか。また、記者やディレクターが、どういう世界観、人間観を持っているか。それらによって、すべて見える景色、伝えられる景色は変わってきます。これは紛れもない事実ですが、著者によれば、日本のジャーナリズムは「客観報道」などという、ありもしない建前を、まるであるかのごとく置いているといいます。

そのため、アメリカやイギリスに比べ、非常に曖昧な姿勢に終始しているというのです。著者は、次のようにアメリカのジャーナリズムを引き合いに出します。

「たとえばアメリカでは、ニューヨークタイムズははっきりと民主党支持であり、ワシントンポストは共和党支持である。イギリスも同様に、各新聞がはっきりと支持政党を持っている。2大政党のある国では、必ずメディアが2大政党のいずれかに立ち位置を決める。ただし、支持していることが批判しない理由にはならない。共和党のニクソン政権を崩壊させたのは、実は共和党支持のワシントンポストだった」

一方、日本のジャーナリズムの場合はどうか。著者は述べます。

「翻って日本のマスコミは、自分の立場を明確にしていない。国民の目線で報道するなどと言っているが、国民の目線と自分の目線が同じであるはずがない。ありもしない中立性を置くことで、責任を負わず、逃げ道を作っているとも言える。新聞記事のほとんどに署名がないのがその証拠だ。国民目線などというインチキを言わず、自分はこう思う、こういう立場に立っている、というのを明確にすべきなのだ。その覚悟がないことが、日本のマスコミの大きな問題点である」

日本のマスコミ、特に新聞の特徴として政局報道が多いことがあげられます。首相の記者会見にはテレビも含めて何十社も群がります。著者は、公式発表に何十社も群がることは無駄だと言います。アメリカの場合は、発表報道つまりニュースは、通信社が取っています。新聞社の仕事は、そのニュースを分析し、解説をすることです。

しかし日本の場合は、本来は通信社が拾うはずのニュースを入手するために新聞社が力を注ぎすぎて、肝心の分析や解説が非常に浅いものとなっているわけです。

さて本書は、明治からのジャーナリズムの歴史を追い、現在のジャーナリズムのあり方を検証するという内容であると思っていました。たしかに前半は「ジャーナリズムとは何か」といった本質論が展開されているのですが、著者がマスコミの世界に入った話あたりから田原総一朗回顧録といった様相を呈してきます。

大学のマスコミ研究科のテキストみたいだった本が突如として自分史に変身するわけですが、はっきり言って、変身後のほうが面白かったです。

特に「サンデープロジェクト」などのテレビ番組で実際に宮沢喜一、橋本龍太郎らとやりあい、結果として政局に影響を与えてしまった話などは多分に自慢話ではあるにせよ、やはり、その内容の面白さは抜群です。そんな中で、著者が小沢一郎という政治家を高く評価していることがわかります。そして、著者の関心はその小沢一郎を抹殺しようとしている検察という組織の本質や目的に向かいます。著者は、検察について次のように述べています。

「検察の目的とはなんだろうか?
田中角栄、江副浩正、小沢一郎・・・・・・。彼らを潰そうとした理由は何か。
検察よりももっと大きな権力が、陰謀を企てているということなのだろうか。
私は、検察の裏に陰謀など存在しないと思っている。
検察はただ純粋に、自分たちの思う正義を振りかざそうとしているだけなのだ。
検察は正義だ、自分たちは正義のためにがんばっている、という思い込みが、いびつな正義感を生む。悪気がない分、一層始末が悪い。
そして、それに群がるマスコミは、ただ単にネタがほしいだけだ。
だから一切検察批判をせず、その結果、検察をどんどん増長させることになる。
検察とマスコミの関係を変えるには、マスコミ自身の体質が変わらなければならない。
そして、もっと情報を開示することが必要だ。検察にべったりくっつかなくても、情報が入ってくるようにならなければ、現状が改善されることはないだろう」

わたしは、この検察についての著者の考えを読んだだけでも、本書を購入して良かったと思いました。そして、検察に頼らずにマスコミが情報を入手するための改善について、著者は次のように述べます。

「もしかしたら、インターネットがその一翼を担うことになるかもしれない。との期待もある。折しも2010年末、匿名で機密情報を公開するウェブサイトの1つ、ウィキリークスの創設者ジュリアン・アサンジがアメリカ政府からやり玉にあげられている。情報を取り巻く環境は、刻一刻と変化しているのだ」

また、著者には「猛獣使い」という異名があります。深夜の討論番組である「朝まで生テレビ!」で、出演者がめいめい勝手に発言しているときに、ビシッと仕切る司会ぶりを表現しているのでしょう。

わたし個人は指名されてもいないのに勝手に発言したり、他人の発言中に話を遮ったりするマナーの悪さを見るのが不愉快なので、基本的に「朝まで生テレビ!」などの討論番組は嫌いですし、ほとんど観ません。なんだかワーワー叫んでいる出演者たちから邪気がバンバン放出されているように思えてなりません。同じ討論でも新聞や雑誌など活字になったものを好みますが、テレビの世界の人間である著者は次のように述べます。

「活字の世界では言葉こそがシグナルであり、それ以外はノイズである。キャスターが話す言葉こそがシグナルで、ネクタイや洋服、さらにいえば背後を走る車群や建物群はノイズである。しかし、映像の世界では場合によってはノイズこそがシグナルよりも説得力を持ってしまうのである。
たとえば、討論でも活字の世界では、一方が言葉を出さなければ、文字が出ないだけだが、映像の世界では、それが余裕の沈黙なのか困憊しきっての絶句なのか一目で見て取れてしまう。また、活字の世界ではどのように大きな声をだしても文字は同じだが、映像の世界ではそれが説得力のある強調なのか、ただのわめきなのか一目でわかってしまう。ここが映像の面白さなのである」

まあ、ここが映像の「面白さ」なのか「怖さ」なのか知りませんが・・・・・。本書のサブタイトルには「東日本大震災」の文字も入っていましたので、何か大震災の報道に関して書かれているのかなと思いました。しかしながら、それは肩透かしで、ほとんど書かれていませんでした。ただし、「あとがき」の最後で次のように原発問題について少しだけ触れられています。

「新聞もテレビも、非常時になるととたんに徹底的に無難路線に転じる。大本営発表になってしまう。事実の追及をやめてしまう。
コンプライアンスという言葉が普及して、新聞もテレビも迅速に無難路線をとるようになった。コンプライアンスとは法律を守るということだが、それがジャーナリズムでは批判を受けない報道ということになっているのである。多くのマスコミでコンプライアンス部が作られた。コンプライアンス部のやっていることはクレーム、批判の処理であり、テレビでいえば批判の多い番組は悪い番組で、批判を減らす、つまり無難な番組にするか、番組をなくすかという選択をせまられることになるのである。
こと原発問題については、コンプライアンス部が異様なまでに活気づき、事実の追及ではなく無難へのシフトへ極端に転じている。
批判を受けやすい面倒な番組はやめようという流れが決定的になっている。これではジャーナリズムの存在理由がなくなってしまうのではないか」

著者が最後に書いた一文は、「東日本大震災は日本の危機だが、同時にジャーナリズムの危機でもある」というものでした。あと、著者はソフトバンクの孫正義氏を高く評価しています。

ちょっと予想した内容とは違う部分もありましたが、1人のジャーナリストの波乱万丈の半生記として読めば、非常にエキサイティングな本でした。

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