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No.0443 グリーフケア 『絆 いま、生きるあなたへ』 山折哲雄著(ポプラ社)
2011.09.12
『生き残ったあなたへ』(仮題、佼成出版社)をついに脱稿しました。東北の被災地から帰ってきて、ほとんど眠らずに一気に書き上げました。
愛する人を亡くした方々の悲しみが少しでも軽くなる一助となればいいのですが。
また、ロングセラー『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)の電子書籍化も決定。9・11から10年、3・11から半年、本格的なグリーフケア時代の到来を感じます。
これからしばらくは、最近読んだグリーフケア関連の本をご紹介したいと思います。
まず最初は、『絆 いま、生きるあなたへ』山折哲雄著(ポプラ社)です。
日本人の自然観と死生観
著者は、むずかしいテーマを分かりやすく、かつ独特な視点から論じるユニークな宗教学者として知られています。本書では著者の死生観が語られています。
帯には「なぜあの人がなくなって私はなぜ生きてるのか」と大書され、「悲しみをかかえたまま、わたしたちは立ち直ってきた」と続きます。その文面から、明らかに東日本大震災の被災者をはじめとした現代日本人へのメッセージであることがわかります。
つまり、読者の多くは東北の人々が想定されているとも言えます。著者はアメリカ生まれですが、東北大学のインド哲学科を卒業して東北大学大学院にも進んでいますので、東北とは縁の深い人です。
本書の目次は、以下のように構成されています。
「これからも、いつも通り―まえがきに代えて」
第一章 災害とともに生きてきた日本人
1. 日本人の穏やかな表情
2. 寺田寅彦の「天然の無常」、岡潔の警鐘
3. 鴨長明の生き方と、日蓮の生き方
4. 和辻哲郎の『風土』―モンスーン風土とともに生きる
5. 「末法」とグスゴーブドリの問い―宮沢賢治
6. 縄文のいのち、東北の魂
7. 無常の普遍性―人も犬も牛も
第二章 私の身近に存在した「病」そして「死」
1. 死に方について思う
2. 毎日くり返す死と再生
第三章 インド人の死者儀礼
1. マザー・テレサの「祈り」
2. ワーナラシへの巡礼
3. 聖地ワーナラシ
第四章 日本人のゆく浄土
1. 極楽ほどつまらない所はない
2. 現代の臨死体験
3. 浄土をイメージする
4. わが国最初のホスピス運動
第五章 仏陀と親鸞と―日本人の死生観について
1. 仏陀の生きた八十年を考える
2. 聖者マハトマ・ガンディー
3. 親鸞の生きた九十年を考える
書き下ろしは第一章のみで、第二章以降は以前発表した著書、『死に方上手』(岩波ブックレット)、『臨死の思想』(人文書院)、『地獄と浄土』(春秋社)などからの抜粋となっています。『臨死の思想』は1991年、『地獄と浄土』は93年の刊行ですから、20年も前の文章が収められているわけですね。
第一章の冒頭で、著者は東日本大震災について、次のように述べています。
「千年に一度の大地震だといいます。だが私にはやはり鴨長明の『方丈記』の一節が思い浮かびます。元暦2年(1185)、都を襲った大地震の経験がそこに記されているからです。800年前のことになりますが、地震、台風、飢餓にほんろうされ、命を失う無数の人びとの運命が描かれています。「男女死ぬるもの数十人」「飢え死ぬるもののたぐい、数も知らず」という記述とともに被害の惨状が映しだされていく。そしてついにかれの視線は、京都の街路のいたるところに放置されている死者の首のうえをさまよい、その数が全部で「四万二千三百余り」もあったという嘆きの声にいきつくのです。
鴨長明の眼球に映っていた光景が、徹頭徹尾、大量死の世界であったことがわかります。そのかなたにかれが見ていたものが、おそらく人生の無常という動かしがたい原理だったのではないでしょうか。いまわれわれは、もしかすると『方丈記』や『平家物語』の時代を生きているのではないか、そういう思いが喉元をつきあげてくるのであります」
著者によれば、無常には暗い無常と明るい無常があるそうです。『平家物語』のように、滅びゆくものへの無限の同情と共感の涙を流すのは暗い無常観です。
一方、明るい無常観とは、次のようなものです。春に花が咲き、秋の季節を迎えて紅葉と落葉が訪れる。冬になれば木枯らしが吹き、年をこせばまた春がめぐってきて花が咲く。このように、たえまなく甦り、循環していく自然の移ろいが人生に彩りをそえてくれるといったような無常観です。
そんな時間の流れに身を任せることで生きる支えとなり、粘り強く、どこまでも柔らかな、たおやめぶりの忍耐心といったライフスタイルができ上がるのだというのです。そして、著者は次のように述べています。
「こんどの震災によって誰もが、生きるとはどういうことか、死ぬとはどういうことか、まさにこの無常の原理を通して根源的な問いを突きつけられているように思うのです。なぜ自分が生き残り、そばにいた人が死んでいかなければならなかったのか。その究極の偶然性を受けいれるほかはない。その偶然性において人びとは寄りそって生きていくしかない。その不条理を説明できるいったいどんな論理があるのでしょうか。どんな科学的な因果関係があるというのでしょうか」
著者は、今度の東北地方を中心とする巨大地震と大津波、それに追い打ちをかける福島第一原発の危機に際して、鴨長明と日蓮の存在を痛切に思い起こしています。
長明は元暦2年(1185年)に発生した都の大地震の経験を『方丈記』に書き記していますが、日蓮は正嘉元年(1257年)に起こった鎌倉大地震の経験を背景にして有名な『立正安国論』を書きました。『方丈記』は、出世の道をはばまれた失意の隠者である長明が世の移りゆき、人間の栄枯盛衰のはかなさに無常を感じつつ綴った自伝随筆です。そこには地震の被害だけでなく、都を襲った大風に逃げまどい、飢饉におびえる人々の惨状なども克明に描かれています。
『立正安国論』は、幕府の本拠地である鎌倉で布教活動をはじめた日蓮が、政治の変革を求めて北条時頼に提出した思想書です。ここにもまた、大地震によって神社・仏閣が倒壊、焼亡し、暴風、大雨、洪水に翻弄される人々の悲惨な姿が描かれています。
著者は、長明と日蓮について、次のように述べています。
「鴨長明は『方丈』の空間にわが身をおき、庵の生活を楽しむことで、その独自の『天災』論を書いたのです。それにたいして日蓮は十字街頭にわが身をおき、世の人、時の政治家にむかって、果敢にその『人災』論を主張したのでした。それはかれらの生き方そのものと一体化した議論でした」
そして、時代はうんと下って、明治時代。日本人の「こころ」に多大な影響を与えた宮沢賢治が誕生しました。鴨長明や日蓮と同じく、この天才童話作家も地震と関わりの深い人でした。著者は、次のように述べています。
「賢治が生まれたのが明治29年8月、そのわずか2か月前にマグニチュード8.2とされる『明治三陸地震』が発生しました。その直後の大津波で2万2千人が犠牲になったことを思いださずにはいられません。また誕生から4日後には、岩手秋田県境を震源とする内陸直下型の『陸羽地震』(M7.2)がおき、多くの被災者をだしました。
ところがその賢治がわずか37歳で短い人生を閉じた半年ほど前の昭和8年3月3日には、約3千人の死者、行方不明者をだした『昭和三陸地震』(M8.1)がおきていたのです。加えて昭和5年から9年にかけて、『東北』の地はたびたび大凶作と大飢饉に見舞われていました。宮沢賢治の最後の大作といわれる『グスコーブドリの伝記』が書かれるにいたった時代的背景であります。この物語に注ぎこまれた賢治の情熱と苦悶の背景には現実の痛烈な体験がよこたわっていたということがわかるでしょう」
わたしも、『涙は世界で一番小さな海』(三五館)で宮沢賢治について書きましたが、地震の体験が彼の精神に影響を与えていたとは知らず、非常に興味深く読みました。
その他で興味深く読んだのは、第四章の「わが国最初のホスピス運動」です。平安時代の末期から、日本で浄土思想が普及しました。死は確実にやってきますが、浄土はそれと同じように確実にはやってきません。
この難問になんとか解答を引き出そうとしたのが源信です。平安時代の大ベストセラーである彼の『往生要集』の巻末には、臨終者の見送り方が記されています。それは、まさに看取りのテキストであり、わが国で最初の体系的なホスピス運動の試みでした。念仏の行者が病気にかかり、やがて死を迎えるときの看病人の心構えと看取りの方法を源信は次のように述べています。
「まず病人を無常院という病室に入れ、阿弥陀仏の立像に対面して横臥させる。仏の手にかけた5色の布を引いて病者の手に握らせ、看病人ともども、たえることなく念仏を唱えさせる。この場合、病者と看病人がともに念仏結社の同志であることはいうまでもありません。ついで看病人は病者と問答をかわし、時々刻々に病者の意識にあらわれるイメージやビジョンをききとって、それを一部始終記録にとどめていくのです。死が間近に迫るにつれて、病者には地獄の苦しみや浄土の法悦がおとずれるでしょう。闇のトンネルと天上の光輝が交替してあらわれるかもしれません。源信は地獄のイメージを『罪相』とよび、浄土のイメージを『迎接想』とよんでいますが、『迎接想』とは阿弥陀如来が来迎して、病者を浄土にみちびくイメージをいうのです」
源信の看取りの方法は、非常にビジュアルを重視したイメージ・コントロールだと言えるでしょう。著者は、この日本最初のホスピス運動について、次のように述べています。
「臨死患者と看病人とのあいだの孤独な協業関係をはじめて定式化してみせたという点で、源信の仕事はやはり画期的なものであったと私は思うのです。臨死患者と看病人は念仏の合唱を唯一の通路にして、その協業の関係を、生きる者と死にゆく者との連帯の関係にまで高めようとしているようにみえるからであります。
今日のわれわれが、そのような臨死場面での協業や連帯から遠くへだてられて生活している現状をかえりみるとき、源信によって展開されたわが国最初のホスピス運動は、不思議な現実味をおびてわれわれに語りかけてはこないでしょうか」
著者は、本書で仏教をはじめ、ヒンドゥー教、キリスト教と、さまざまな宗教における自然観や死生観について触れていますが、最後には次のように述べます。
「要するに仏教文化圏というのは自然の生き方を重視するのにたいして、西欧のキリスト教文化圏というのは、自然をコントロールする生き方に力点を置くということだと思います。遊牧社会というのは本来そういう管理的な性格をもつものだったと思うのです。
本書の最後で、著者は宗教者の年齢の問題を取り上げます。生涯を通じてキリスト教徒だった神谷美恵子は、晩年に大きな疑問を抱いたそうです。それは、イエス・キリストが十字架にかけられて亡くなったのが30代前半であったことでした。いくら「神の子」とはいえ、人生の盛りで亡くなった人物が、その倍である60代にして病に冒され死に近づく自分の苦しみを本当に理解してくれるのだろうか、そして本当に自分を救ってくれるのだろうかという悩みでした。
そのとき、神谷美恵子が思い浮かべたのが80年の生涯を生きた仏陀の存在でした。イエスは、インドでいう林住期を迎える前に受難し、復活を遂げました。仏陀は、聖俗の間を往還しながら苦行の林住期を経た後に悟りを開きました。その人生経験の違いが世界観の違いともなるのではないかというのです。さらに、日本の親鸞は90年の生涯を生きました。著者は述べます。
「90年の生涯を終えるとき、親鸞は自分のまわりに大往生の気配が立ちこめていると感じていたのではないでしょうか。息をすーっと吐いて、吐き切って、そのまま宇宙のなかに融けこんでいくような気分です。宇宙と一体になった自然法爾―そういう体験だったのではないかと私は想像しているのです」
著者によれば、「自然法爾」とは、自らにしてそうなること、ありのままに存在し、生きていることです。けっして英語の「ネイチャー」、つまり対象世界としての「自然」の意味ではなかったはずだとして、著者は述べます。
「そういう点では、日本人にとって山とは何か、河とは何か、そして自然とは何か、という場合の自然とは、本質的に意味は違っています。しかし違ってはいるけれども、それではまったくその両者は関係がないかというとそうもいえない。ネイチャーとしての自然と自然法爾としての自然は違ってはいるけれども、重なっているところもある。それが日本人にとっての自然という場合の特徴でもあり、理解するのがむずかしいところでもあると思うのです」
また、親鸞における自然法爾の境地というものを考えるために、著者はもうひとつの手がかりを示します。それは親鸞の師であった法然、そして同時代の道元や明恵(華厳宗の復興者)などの宗教体験との類似性という問題です。
たとえば、法然は「三昧発得」ということを言いました。これについて、著者は次のように述べています。
「法然のいうこの『三昧発得』というのは、瞑想に入っていくと、その深い瞑想体験のなかで阿弥陀仏の姿がすっと眼前にあらわれてくる、という体験をいったものなのです。阿弥陀仏のビジョンを見るわけです。法然は、南無阿弥陀仏と唱えることだけでよいということを主張しながら、同時に一日に一万遍の念仏を唱えたともいわれている。そういうたくさんの念仏を毎日唱えるということは、そのことによって深い宗教的体験、もう少しいえばエクスタティックな法悦の体験を得るということであったろうと思うのです。それが法然自身の三昧発得体験の基礎をなしていたのではないか。そしてこの三昧発得の体験が、じつをいえば師と仰ぐ善導のものでもあった。そのような自分の体験をふまえて、善導を『三昧発得の人』といったのでしょう。そしてこの法然のいう『三昧発得』が、じつは親鸞のいう『自然法爾』の体験とも似かよった体験ではなかったのか、きわめて類似した体験ではなかったのかという気が私にはするわけです」
さらに、道元の「身心脱落」といったような体験とも無関係ではなかったとして、著者は「そういう自然との融合のなかというか、あるいは自然に包摂されている状態のなかで、たとえば道元のいう『身心脱落』といったような神秘的な体験があらわれてきたのではないかと思います。これは座禅をしていると、からだと心が一体となって透明になる、ということです。このように考えてくると、13世紀における親鸞の宗教体験、あるいはそれを集約するような『自然法爾』という体験は、これはたんに親鸞に固有の体験だったのではなくて、同時代の優れた宗教者たちにも共有されていた経験だったのではないでしょうか」と述べています。
というわけで、本書にはさまざまな視点からの日本人の自然観や死生観が語られています。そこでは「無常の普遍性」をおだやかな語り口で説かれ、日本人には大災害の後をしたたかに生きていく知恵があるはずだと述べられています。
しかし、本書を読んで実際の被災者の心が平安になるかというと、それはちょっと難しいかなと思います。本書は、基本的に教養書の類であり、実際に使えるグリーフケア・ブックではありません。著者が仏陀の没年と同じ80歳になっておられ、ある意味で「生」への執着をなくしておられます。あるがままに「死」を受け入れるという人生観が本書から伝わってくるのです。そんな枯れたメッセージは、これから懸命に生きようとする人々のもとには届きにくいのではないかと思います。
また、著者は「死後の三無主義」というものを説かれています。本書にも、「家内とは、死んだあとはお互いに葬式はやめようよ、お墓をつくるのもやめようよ、それから遺骨を残すこともやめようかと話しています」と書かれています。
わたしは、葬儀や墓こそはグリーフケアの大きな文化的装置であると思っていますので、著者のこの考えには納得できません。また、宗教学の徒でありながら、宗教の核心である葬送儀礼を否定するというのも理解できません。このあたりは、書評『オウム真理教の精神史』をお読み下さい。
本書の著者である山折哲雄氏は、かつて島田裕巳氏などとともにオウムを擁護した宗教学者として世間から批判された経緯がありますが、葬式無用論とオウム的世界観はつながっているというのがわたしの実感です。
名著『オウム真理教の精神史』を書いた宗教学者の大田俊寛氏も、「『葬式は要らない』という短絡的な結論に飛びついてしまえば、そこには、ナチズムの強制収容所やオウム真理教で行われていた、『死体の焼却処理』という惨劇が待ちかまえているのです」と自身のHPで、わたし宛に述べられています。ということで、本書は、グリーフケアの書というより、1人の老人のエッセイとして読まれるべきでしょう。