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No.0439 国家・政治 『大津波と原発』 内田樹・中沢新一・平川克美著(朝日新聞出版)
2011.09.07
台風12号による被害は、「平成最悪」となりました。12道県で死者48人、行方不明者58人の計106人に上り、死者・行方不明者計99人を出した04年の台風23号を上回ったのです。東日本大震災といい、またしても自然の脅威を思い知らされました。
『大津波と原発』内田樹・中沢新一・平川克美著(朝日新聞出版)を読みました。
危機の本質と来るべき社会のモデル
内容は、ビジネス・サポートの経営者である平川氏がパーソナリティーを務めるラジオデイズでの鼎談です。3.11から約3週間後、震災と原発事故について、それぞれの考えを論じています。Ustreamでも放送されましたが、それを書籍化したものです。なお、著者の3人はいずれも1950年生まれです。
本書の目次は、以下のようになっています。
「はじめに」(中沢新一)
1.未曾有の経験をどう捉えるか
2.津波と原発事故はまったく異なる事象である
3.経営効率と排除される科学者の提言
4.原子力エネルギーは生態圏の外にある
5.原子力と「神」
6.「緑の党」みたいなものへ
補.私たちはどこへ向かうべきか――質疑応答に関連して
「鼎談までの経緯とその後」(平川克美)
「内田からもひとこと」(内田樹)
中沢新一氏は、3・11以降ずっと東京にいて、原子核物理関係の本をたくさん読んでいたそうです。昔勉強した物理学の教科書などを引っ張り出してきて、核エネルギーの問題を歴史的な問題から含めてもう一度勉強し、自身の思考の立て直しをやっていたとか。その中沢氏は、今回の未曾有の経験について、「50年、100年という長いスパンで見ても、ここで日本史がきっと曲がっているなと未来の人は思うでしょうし、短期スパンで見ても、日本が大きく変わることになったとわかるんじゃないでしょうか。日本の歴史がボキッと折れたんだと思います」と述べています。
中沢氏は、今回の大津波と原発事故の本質はまったく違うと指摘します。そして、その上で次のように述べています
「今回はこのふたつが連動して起こってしまったので、なにかひとつながりの事象のように見えていますが、エネルギー論的に―ぼくは最近『エネルゴロジー』という言葉を使っていますが―、ふたつの現象はちがうものなんだというところから出発しなければいけない。日本人は津波のような自然現象に対しては、たいへんな犠牲は出しながらも、いくたびも乗り越えてきましたし、乗り越えることは可能だと思います。東北の人たちはけっして津波をみくびっていなかったし、むしろ今回のことで地球の力の底知れなさを思い知らされた。それでも津波や地震から立ちなおることはできるのです。
ただ、原発の問題に関しては、今までの日本人の思考方法の中にはノウハウがないと見たほうがいいと思います。東電の対応を見たり、原子力科学者たちの発言を聞いていてわかることは、ほとんど無策だというのが本音です」
中沢氏のいう「エネルゴロジー」とは「エネルギーの存在論」という意味だそうです。その音感から「エコロジー」を連想してしまいますが、中沢氏はもはやエコロジーの時代は終わったととらえているようです。
平川氏の「21世紀に入ってからのエコロジーブームの勢いは、とどまるところを知らないといってもいいでしょう」という発言に対して、中沢氏は次のように述べています。
「その大きな流れの中で、エコロジーが、原発の存在を前提として進んでいたところがあります。これでは『エコ幻想』として批判されてもしょうがないなと思うくらいです。とくにセレブできれいなライフスタイルとしてのエコロジーがもてはやされると、背後でそのライフスタイルを支えている莫大な電力消費や、原発の存在があることが忘れられるようになった。その意味で今回の出来事で、エコロジーが思想として、現代の人類が抱えている問題に本当には適合しなくなっちゃっているんじゃないかという疑問すら持ちます。そういうことまであの地震は浮かび上がらせてしまったんですね」
中沢氏は、エネルゴロジーの思想に基づく「緑の党」みたいなものを立ち上げるとか。よくわかりませんが、「グリーンピース」のような過激団体にならないよう願っています。
さて、本書の読みどころの一つは、中沢氏による「原子力」と「一神教」を結びつけた見方でしょう。鼎談は次のように展開されています。
【中沢】
原子力は一神教的技術なんです。
【内田】
それでわかったよ。あのさ、日本人というのはさ、一神教的な神のようなものについては、これをどう扱うかについてのノウハウをぜんぜん持ってないんだよ。
【平川】
うん。
【内田】
日本における神様というのは、さっき中沢さんは「習合」とおっしゃったけれどもさ、ステークホルダー(利害関係者)をやたら多くすることによってがんじがらめにするというシステムなんだよね。日本の原発って、まさにそうでしょう。政治がからんで、技術がからんで、地域振興がからんで、公共投資がからんで、雇用がからんで、交通のインフラがからんで・・・・・・ありとあらゆるものが関係者なわけでしょう。
続いて、内田氏は次のように発言しています。
「あるプロジェクトの利害関係者が増えれば増えるほど、そのシステムは安定するというのは日本人のある種の経験知なんだと思う。それが日本人の『神的なもの』の対処法の基本のかたちをなしているんじゃないかな。『荒ぶる神』に遭遇すると、とりあえずそれを既知のなにかとくっつけて、『神的なもの』と、『ちょっとだけ神的なもの』のアマルガム(合金)をつくるんだよね。神仏習合がそうだけど、外来の強大な神様を受け容れるときに、とりあえずその辺の土着神と混淆させちゃうの。『なんだかわからない、すさまじく恐ろしいもの』と『わりとわけのわかった、それほど恐ろしくないもの』とを混ぜちゃう」
このあたりの論理の展開ぶりを見ると、失礼ながら内田氏と中沢氏の勢いの差というのか、「説明能力の高さでは内田樹は最強だな」と思ってしまいます。そう、本書を読もうと思ったきっかけとしては、ともにフランス現代思想や記号論の影響を強く受けている頭脳明晰な内田・中沢両氏の「知」のバトルを堪能したいというものでした。「どっちが頭がいいんだろう?」という感じで、けっこうワクワクしました。そこでは、パーソナリティの平川氏の存在は行司やレフェリーということになりますね。
さらに説明能力の高い内田氏は、一神教と日本人について次のように述べます。
「一神教の文明の中には、恐るべきものをどうやって制御するかということについては伝統的なノウハウがしっかり血肉化していると思うんだよ。『鬼神を敬して之を遠ざく』だから。鬼神の扱い方って、それぞれの社会の霊的な文化的特徴と同期するでしょう。日本人は日本人独特のしかたで荒ぶる神を制御しようとするんだけれど、『恐ろしいもの』を『あまり恐ろしくないもの』と見境がつかないように『ぐちゃぐちゃにする』というのが日本的なソリューションだから」
そして、次のような鼎談の流れになっていきます。
【内田】
フランスの原発のデザインってやっぱり神殿だよね。
【平川】
ああそうか。
【中沢】
インドの原発って見たことあるんですけれども、それはなんとシヴァのリンガの形しているんです。
【内田】
えー!(笑)それはすごい。でもすさまじいエネルギーがそこからほとばしる場所だからね。
【中沢】
初期の原発なんですけどね、郵便切手にもなっていて、とても有名な原発です。シヴァの男根の形をした原発なんて、宗教学者はうっとりします。さすがインド人はインド・ヨーロッパ系だから、原子力がシヴァだって知ってるんですね。
最後に中沢氏は、「やっぱり日本人は本性がアニミズムなんだなということを、今回は実感しました」と述べています。
書評『津波と原発』にも書いたように、ノンフィクション作家の佐野眞一氏はソフトバンクの孫正義氏を大震災後の対応で見直したとのことで、非常に高く評価しています。本書でも、中沢氏が提唱する「緑の党」のスポンサーとして、次のように孫氏の名前が登場しています。
【平川】
孫正義さんにお金を出してもらいましょう。ぼくは見直しましたよ、今回。というのは、それは金を出したことではなくって、産業人で原発に対して、あれだけはっきりと「ノン!」と言った人ははじめてだね。
そのくらい原発推進の圧力というのは、産業界には強かった。だから、彼が今までいろんなところであれだけ金を貯めたり、力をつけてきたのは、このためだったか、と。結果論だけど、そう思いたいところはあるね。
【内田】
なるほど。
【中沢】
よし、じゃあ、孫さんにスポンサーになってもらいましょう。(笑)
なんだか貧乏活動家が金持ちの実業家に無心に行くみたいで微妙な感じもしますが、いわゆる知識人層にここまで認められた実業家も珍しいですね。
他にも、本書で印象に残った箇所があります。中沢氏が宮沢賢治について触れた次のくだりです。
「宮沢賢治みたいな人が東北をどうするかって考えていたのは、こういうときのためなのだと思うのです。イーハトヴの思想なんて、これからの復興の基本思想に据えていくべきものです。宮沢賢治はそういう思想を童話で表現しておいたから、甘い話だなんて思う人もいるかもしれないけれど、彼は貧しい東北をどうやったら未来にとってもっとも輝かしい地帯につくりかえられるかということを、本気で考えていた人です。
そんなことを考える思想家が生まれ得たのは、東北だからです。東北はそういう可能性がある場所なんです。ぼくの考える『緑の党』の旗には、宮沢賢治と紀州の南方熊楠が描かれるんだ」
それから、驚いたのは3人が天皇陛下をリスペクトするような発言をしていることです。
内田氏が学生運動の闘士でしたし、中沢氏が共産主義にシンパシーを感じていることも周知の事実です。いわゆる「左寄り」のイメージが強い人々が軽やかに天皇を語っているのには驚きました。深読みすれば、「ほめ殺し」とか茶化している可能性もありますが、ともかくも次のように鼎談は進行しています。
【中沢】
天皇陛下をこんな放射能にさらして、ほんとに申し訳ない。
【内田】
今回は陛下は東京から離れなかったでしょう。周りには「東京を離れたほうがいい」っていう意見があっただろうにね。でも、とどまったね。
【中沢】
なさっていることがいちいちご立派です。
【平川】
今回、祈禱をなさっていたっていうんでしょ?
【内田】
お仕事ですからね。
【平川】
ああ、天皇が天皇の仕事をちゃんとやっているなと思いましたね。
【内田】
震災の後に読んだコメントで、いちばんホロッとなったのは、天皇陛下のお言葉だったね。
【中沢】
そうですね。自主停電というのも感動的なふるまいで、やっぱり天皇というのはそういうことをなさるお方なんですよ。
【平川】
そう。何をする人なのかよくわからなかったんだけど、今回でよくわかったね。
【内田】
まさしく日本国民統合の象徴なんだよ。総理大臣の談話と天皇陛下のお言葉では格調がちがうね。
本書の最後には、「内田からもひとこと」という「あとがき」みたいなものが掲載されています。そこで、今回の原発事故を総括して、内田氏は次のように述べています。
「今回の原発事故の根本のところにあるのは、現代日本人の『霊的な力』に対する畏怖の念の欠如ではないかと思ったのです。
ぼくはべつに『鬼神をちゃんと祀らないと祟りがある』というようなオカルト的命題を語っているわけではありません。そうではなく、『鬼神をちゃんと祀らないと祟りがある』という信憑を持たない社会集団は存在しない、という人類学的事実を述べているだけです。
どうして人類が『死霊』や『鬼神』という概念を持つようになったのか、その由来をぼくは知りません。けれども、その機能ならわかります。それは『センサーの感度を上げろ』ということです。」
ここから内田氏の真骨頂ともいえる「死者」についての考えが述べられています。
「ぼくたちの祖先は数万年前に『死者』という概念を持ちました。そして、それによって、『存在しないものが切迫する』という実感を手に入れました(人類以外の霊長類は『死者』という観念を持ちません。だから、葬礼ということをしません)。
この実感を手がかりにして、眼に見えず、音が聞こえず、匂いもせず、手触りもしないが、自分の生存にかかわるかもしれない、何かとてつもなく危険なものが接近してくるときに『アラーム』が鳴るように心身を訓練しました。あらゆる手立てを尽くして、その訓練をした。ぼくはそれが人間性と呼ばれるもののもっとも原基的な形態ではないかと思っています」
さらに内田節は名調子となってきて、次のように続きます。
「『鬼神を敬して遠ざける』ことが宗教的態度の基本です。そして、『敬』という文字の原義は『神異を驚き、怪しむ』ことです。人類はその宗教的成熟をまず『驚き、怪しむ能力』の獲得から始めた。それは今も本質的には変わっていないと、ぼくは思います。20世紀のフランスの哲学者も『知性とは驚く力のことである』と書いています。孔子とロラン・バルトはそれほど違うことを言っているわけではありません。人間の人間性を基礎づけるもっとも根源的な能力は「なんだかわからないけど、恐ろしいものが切迫してきている」ことを感知できる力です。その力を基礎にして、人類はその文明の全体を構築した。ぼくは人類の歴史をそういうふうに大づかみに理解しています」
その上で、内田氏は、人間が犯す人間的過失はそのほとんどがこの「アラーム」の機能不全から起きていると考えているそうです。当然ながら、今回の震災と原発事故についても「アラームの劣化」ということが大きく関わっているというのです。
最後に内田氏は、「日本人が21世紀を生き延びるためには、もう一度『霊的再生』のプログラムについての対話が始まらなければならないだろうと思っています」と述べています。震災と原発事故の問題が最後は日本人の「霊的再生」に関わってくるというのは、いかにも内田氏らしい考え方ですが、「霊的再生では何の具体的解決にならない」という批判も当然あることでしょう。
しかし、わたしは内田氏の考えには非常に共感できました。すべては、「心」や「魂」について考えなければ、いきなり社会について考えても意味はないからです。社会とは、心や魂を持った人間の集合体だからです。
はっきり言って、現在大問題となっている肝心の原発事故の原因、現況、対策についての情報を求めて本書を読んだひとは失望することでしょう。
中沢氏の「緑の党」宣言はともかく、ここには何も具体的なことは書かれていませんから。ただ、震災や原発を素材としてのライトな日本人論として本書を読めば、それなりの知的好奇心は満たされるかもしれません。