No.0463 論語・儒教 『脳は「論語」が好きだった』 篠浦伸禎著(致知出版社)

2011.10.09

『脳は「論語」が好きだった』篠浦伸禎著(致知出版社)を読みました。

論語』と脳の不思議な関係

本書では、『論語』と脳の不思議な関係を最先端脳外科医が解明しています。著者は、1958年生まれ。東京大学医学部卒業後、富士脳障害研究所、東京大学医学部附属病院、茨城県立中央病院、都立荏原病院、国立国際医療センターにて脳神経外科医として勤務しました。1992年に東京大学医学部の医学博士を取得。同年、シンシナティ大学分子生物学部に留学、帰国後、国立国際医療センターなどに勤務。2000年より都立駒込病院脳神経外科医長として活躍し、2009年より都立駒込病院脳神経外科部長という輝かしい経歴の持ち主です。特に、脳の覚醒下手術では国内トップクラスの実績を誇るそうです。

本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

「プロローグ」
第一章:脳にはさまざまなタイプがある
第二章:人生という時間に耐える脳を作る
第三章:『論語』が教える脳のいい使い方
第四章:ストレス対処法を『論語』に学ぶ
第五章:脳を成長させる「人間学」実践活用法
第六章:『論語』×脳科学で人生を拓く
「エピローグ」

「プロローグ」の冒頭には、「『脳科学は人間が幸せに生きることに役立つか』というのが本書のテーマです。結論からいえば「役立つ」と私は考えています。人間が幸せを感じて生きるためには脳の使い方をマスターし、脳の機能を向上させることが絶対的な条件になると思うからです」と書かれています。
そして、前著では「人間学」の本が脳に与える好影響について考察しましたが、本書では「人間学」の古典中の古典である『論語』が取り上げられます。著者は、『論語』を脳のよりよい使い方を学ぶテキストであるとして、次のように述べます。
「『論語』は、人間にとって大事なものは”信用”であり、”思いやり”であると説いていますが、それらが大事であることは『論語』の書かれた2500年前のみならず、現在でも変わりません。また、それは洋の東西をも問いません。すなわち不変の真理です」

なぜ、『論語』に述べられてあるような考え方が時間・空間を超えて不変の真理となったのでしょうか。著者は、そこに「脳のいい使い方」が書かれているからではないかと推察します。「脳のいい使い方」とは、人間が一生かけて脳を十分に使うための方法という意味だそうです。また、年々脳の機能を進歩させる使い方でもあるそうです。まさしく「脳のいい使い方」を明らかにした書こそ『論語』であるというのです。さらに、著者は、次のように述べています。

「この『脳のいい使い方』を阻む最大の要因がストレスなのですが、ストレスがあったからといって、必ずしも脳が病気になるわけではありません。むしろそれをいかに乗り越えようかと知恵を絞り工夫することを契機にして、人間は成長できるチャンスを手にすることができます。そうした知恵や工夫が書かれた代表的な書物が、東洋の『論語』であり、西洋の『聖書』です。したがって、これらにかかれている考え方は脳にとって、とても価値あるものになるわけです」

こうした人間の成長を促す考え方を学ぶことが、すなわち「人間学」なのです。

さて、脳外科医である著者は、脳を領域に分けて分類します。

脳は立体なので、三次元的に「前後」「左右」「上下」と領域を分け、それぞれの機能を解析すると、以下のような3つに分類できます。

1.能動的な前部の脳(前頭葉)&受動的な後部の脳(頭頂葉、側頭葉、後頭葉)
2.一義的で合理的・論理的な左脳&多義的で情緒的・行動的な右脳
3.公的な上部の脳(人間脳)&私的な下部の脳(動物脳)

重要なのは、3の人間脳と動物脳の違いです。脳の中心下方には大脳辺縁系という動物的な本能、保身にかかわる脳がり、これが「動物脳」と呼ばれるものです。一方、大脳辺縁系の上方・外側には大脳新皮質という進化の過程で新しくできた脳があります。人間は、他の動物に比較してこの大脳新皮質がより発達しています。そのために、これを「人間脳」と呼ぶのです。

人間がストレスを受けると、脳内の側頭葉の内側にある扁桃体という神経細胞からノルアドレナリンという神経伝達物質が分泌されます。すると、動物脳はそれに反応して攻撃・逃避行動をとります。反対に本能が満たされると、動物脳にある神経細胞の塊である側坐核などからドーパミンという神経伝達物質が分泌され、動物脳は快感を得るそうです。このことについて、著者は次のように述べています。

「このようにして動物脳は本能的に自分の身を守る働きをしています。この動物脳は自分の身を第一に考えるという点で、人間学的にいうと『私』、『論語』でいえば『小人』的なあり方として表される行動にかかわります。
一方の人間脳は、組織を作ったり技術を進歩させたりすることにかかわります。動物脳に対して人間脳は外に目を向けて全体を考えるという点で、人間学的にいうと『公』、『論語』でいえば『大人』的な態度にかかわる脳ということができそうです」

ここから、しばらく本書では脳に関する説明が延々と続きます。文系の読者は、ここでちょっと疲れてしまうかもしれません。多くの人々が生き方を見失ってしまった現代ほど、『論語』が必要とされる時代はないと、著者は述べます。なぜ、『論語』がそれほどの価値を持ち続けたのか。それは、そこで説いていることが、2500年前も今も変わらないからです。著者は、『論語』の内容が脳の生理に合った科学的に正しいレベルにまで高められているとして、次のように述べます。

「『論語』には、今はやりのポジティブシンキングのように、それを実行すれば明日からでも幸せになれるといった安直さ、派手さはありません。しかし、『論語』を読むと、そこには我々が長い人生のさまざまな局面で体験し、学びとっていく人間への洞察や生き方の知恵がすでに書かれており、あらためて『ああ、そういう意味だったのか』と、その言葉の深みに驚かされることがしばしばあります」

孔子は、「仁義礼智信」などの徳目を打ち出しました。そして、特に「仁」を最高に重視しました。それについて、著者は次のように述べています。

「孔子が仁に最高の価値を置いたのは、仁にかかわりがあると考えられる右脳が感情と関係しているからではないかと私は推測しています。仁を行うことは、他人や自分に生きる喜び、生きる力を与えることにつながるのです。
また、他人の長所が伸びるように手助けする気持ちがあれば、自分が窮地に陥ったときに周りの人から支えを得られることにもつながります。
仁が脳に活力を与える一番大事な徳だと、孔子はわかっていたのでしょう。他の四つの徳目も、仁がベースになければ意味はないと考えていたのではないでしょうか。
『情けは人のためならず』という格言がありますが、親切は人のために行っているようで自分を元気にするものです。また、人のことを考えることで自分の保身に執着する動物脳から離れる契機にもなります。動物脳の一部である扁桃体が過剰に働くことが神経症やうつ病の大きな原因となっているところから、それを治療するには動物脳から離れることが本質的な治療になるのです」

さらに著者は、「人間学の代表的書物である『論語』は、脳を死ぬまで進歩させる使い方を教える実用的な指南書でもあります。孔子が体験や書物から得た達識を2500年後にはじまった脳科学で検証してみると、彼が脳を使うことを常に考えていた『天才的かつ実践的脳科学者』であったことが証明できるように思います。彼の究極の目的は、脳を一生有効に使うことで、そのためにはどのようにすればいいかとずっと考えてきたのだと私は考えています」と、脳科学と『論語』の内容とを結びつけます。その上で、孔子のことを「実践的脳科学者」とさえ呼んでいます。

第五章では、脳を成長させる「人間学」実践活用法が紹介されており、その中で著者は次のように「脳」と「都市」を比べています。

「脳は都市と似ています。都市の中には、図書館もあれば、コンサートホールもあります。さまざまな機能があることによって、市民は安心して仕事に打ち込めるわけです。しかし、もしもその中に犯罪の多発するスラム街があれば、市民は安心して仕事ができません。つまり、都市の発展には都市全体が有機的に機能していることが大事なのです。それと同様に、極めて単純で、しかし実行は決して簡単ではない『脳全体を使う』ということに人生の目標を置くと、行き詰まって脳の病気になったときの打開策も、ある程度見えてくるように思います。
ですから、左脳型の人が右脳を使えるようにするのと同様、右脳型の人も足りない左脳を使えるように努力する必要があるのです」

そして、著者は脳科学と人間学の関わりを次のようにまとめています。

「脳科学は解析に優れており、人間学は治療に優れています。自分の脳の使い方を脳科学で解析することによって、ストレスを招いた原因―それは多くの場合あまり使っていない脳が原因もしくは遠因になっています―を知ることができれば、得意な脳を駆使しながら、補うべき脳の使い方を学ぶことができます。
そのときに役立つのが人間学です。人間学で説く脳の使い方の原則、すなわち自然の理に沿って脳を使うようにすることが大事なのです」

最終章である第六章では、「『論語』×脳科学で人生を拓く」ということが語られます。そこで最大の実例となる人物を2人紹介しています。徳川家康と渋沢栄一です。じつはわたしも、『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)で、この2人を『論語』の最大の読者にして実践者であると述べています。

歴史上、日本の政治家の中で最高の成功者は、徳川家康ではないでしょうか。数奇な運命をたどり、幽閉などの不遇の時代がありましたが、そのときに集中的に本を読んで読書好きになったのか、家康は非常な読書家として知られています。読書から得た歴史の知識などを活用した行動で、戦国の乱世を勝ち抜いて成功したとされているのです。その家康は儒教の書物を好んで読んだといいます。

家康の侍医であり側近でもあった板坂卜斎が、その著『慶長記』で明らかにしたところによれば、『史記』や『漢書』などの歴史書や、『貞観政要』『群書治要』などの政治書と並んで、『論語』『中庸』『大学』『周易』などの儒教書を愛読していたといいます。「家康ほど、『論語』を読み込んだ人間はいない(唯一の例外は渋沢栄一)のでは?」と思うくらい、彼の開いた江戸時代は儒教の理想とする世界を実現しています。

たとえば、儒教の特徴として、高齢者を敬うという「敬老」思想があります。家康は、将軍に次ぐ幕府の最高職を「大老」、続いて「老中」、そして「年寄」、各藩においても藩主の次に「家老」を置くなど、徹底して「老」を重視した組織を構築しました。庶民の間でも、高齢の「隠居」に何でも相談するという敬老文化、あるいは好老文化が花開きました。そして、江戸幕府は、世界史に冠たる「長期安定政権」となりました。高齢者を大切にする社会は長続きするという法則を、家康は儒教書から学んだように思えてなりません。

また、渋沢栄一は日本史上最高・最大の実業家でした。彼は父の影響で幼少のころより『論語』に親しみ、長じて志士から実業家になってからも、その経営姿勢はつねに孔子の精神とともにありました。「義と利の両全」「道徳と経済の合一」を説いた彼の経営哲学は、有名な「論語と算盤」という言葉に集約されます。特筆すべきは、あれほど多くの会社を興しながら財閥をつくろうとしなかったことです。

後に三菱財閥をつくることになる岩崎弥太郎から「協力して財閥をつくれば日本経済を牛耳ることができるだろうから手を組みたい」と申し入れがありましたが、これを厳に断っています。利益は独占すべきではなく、広く世に分配すべきだと考えていたからです。

このように、日本史上に燦然と輝く政治のチャンピオン(家康)と経済のチャンピオン(渋沢)がともに『論語』を読み込んでいたことは大きな示唆を与えてくれます。著者の篠浦氏は「ストレス」という点に注目し、次のように述べています。

「渋沢栄一と徳川家康に共通するのは、若いときから波乱に満ちた極めてストレスの多い人生を送っていたにもかかわらず、死ぬまで闘志にあふれて実社会で活動し、極めて元気で長生きをしたということです。『論語』のめざす君子というと、何か悟りを開いた人間離れしたイメージがありましたが、『論語』を実践した彼らの人生を見ると、そのイメージは一変します。彼らは強いストレスに直面するたびに人間脳と動物脳が一体となって乗り越えようとしたのでしょう。そのために、脳全体が老齢になるまで高い活動力を維持していたのではないかと思います。『論語』を座右の銘としてストレスを乗り越えると、高齢になるまで脳がたくましく活動できることを物語っています」

最後に、『論語』と『聖書』がともに求めたものについての記述が興味深かったです。著者は、次のように述べています。

「細かな定義はともかく、実生活における行動原理として、『論語』のいう『仁』と『聖書』のいう『愛』はとてもよく似ていると思います。
実はストレスに対しても、両書は極めて似たことを述べています。上記のキリストの言葉は、私の解釈では、ストレスに対して動物脳の反応だけに終わらせず、その屈辱感を利用してよりレベルの高い公の方向に脳の機能を昇華させようという試みではないかと感じられます。頬を打たれて打ち返すことを繰り返していては、永久に動物脳から逃れることはできません。それどころか、動物脳の怒りや憎しみのエネルギーを増幅し、報復合戦を繰り返すことになりかねません」

わたしは、さらにブッダの説いた「慈悲」も「仁」や「愛」に似ていると思います。 「仁」も「愛」も「慈悲」も、すべては他者に対する「思いやり」に他なりません。そして、「思いやり」を発揮することこそが人間脳の最大の役割ではないでしょうか。

「エピローグ」の最後の一文は、次のように締め括られていました。

「脳を使うということは本来非常に楽しい明るいものだと私は思っています。カーナビが運転を安全・容易にしたように、脳科学で解釈した人間学が現代に生きる我々のナビゲーション(=生きる指針)となる力があることを信じています。また、それが誰の目にも明らかになるように、さらに研究を続けていきたいと考えています」

著者は、今後も『論語』と脳科学の融合が拓く人間の新たな可能性を明らかにしてくれることでしょう。著者のさらなる研究の成果に期待したいと思います。

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