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2011.12.06
『ケアの本質』ミルトン・メイヤロフ著、田村真・向野宣之訳(ゆみる社)を再読しました。
「ケア」について考える上で避けることのできない名著として知られています。医療・福祉関係者のみならず、ビジネスマンでも本書を愛読している人は多いとか。わたしも2008年頃に最初に読んで、それから2・3回読み返しました。著者は、アメリカのニューヨーク州コートランドにある州立大学の哲学教授です。
生きることの意味
帯に書かれている次の言葉が、そのまま本書の内容紹介となるでしょう。
「ケアに真正面から取り組む著者は、ケアの諸性格を展開しつつ『それにより自らも成長していく』ように論をすすめる。平易で日常的な言葉で書かれながら、思考・感情を解きほぐし、哲学・心理学・医療・宗教・芸術の中心領域に私たちを導く。ケアの動態を縦軸、具体的な場面を横軸としてがっしりと組立てられた〈ケアの本質〉、その展望には、現代の私たちに最も欠けているもの―自立と希望―がある。専門分野の如何を問わず、読者自身をケアの動態に巻き込んで展開する比類なき名著」
本書の「目次」は、以下のようになっています。
「訳者まえがき」「謝辞」「序」
1.他者の成長をたすけることとしてのケア
2.ケアの主な要素
3.ケアの主要な特質
4.人をケアすることの特殊な側面
5.ケアはいかに価値を決定し、人生に意味を与えるか
6.ケアによって規定される生の重要な特徴
「付録1 ケアすること」「付録2」「付録3」
「解題」「訳者あとがき」
本書の「序」の冒頭で、著者は「1人の人格をケアするとは、最も深い意味で、その人が成長すること、自己実現することをたすけることである」と述べます。この一文に、本書のメッセージは言い尽くされていると思います。続いて、著者は「ケア」について詳しく述べます。
「ケアすることは、自分の種々の欲求を満たすために、他人を単に利用するのとは正反対のことである。私が言おうとするケアの意味を、もう1人の人格について幸福を祈ったり、好意を持ったり、慰めたり、支持したり、単に興味を持ったりすることと混同してはならない。さらに、ケアするとは、それだけで切り離された感情でもなく、つかの間の関係でもなく、単にある人をケアしたいという事実でもないのである。相手が成長し、自己実現することをたすけることとしてのケアは、ひとつの過程であり、展開を内にはらみつつ人に関与するあり方であり、それはちょうど、相互信頼と、深まり質的に変わっていく関係とをとおして、時とともに友情が成熟していくのと同様に成長するものなのである。両親が子供を、教師が学生を、精神療法家がクライエントを、夫が妻をケアすること―これらの間にいかに大きな相違があろうと、それらはすべて共通のパターンを示していることを私は明らかにしたい」
さらに著者は、「ケアする」ことの意味を次のように述べます。
「1人の人間の生涯の中で考えた場合、ケアすることは、ケアすることを中心として彼の他の諸価値と諸活動を位置づける働きをしている。彼のケアがあらゆるものと関連するがゆえに、その位置づけが総合的な意味を持つとき、彼の生涯には基本的な安定性が生まれる。すなわち、彼は場所を得ないでいたり、自分の場所を絶え間なく求めてたださすらっているのではなく、世界の中にあって”自分の落ち着き場所にいる”のである。他の人々をケアすることをとおして、他の人々に役立つことによって、その人は自身の生の真の意味を生きているのである。この世界の中で私たちが心を安んじていられるという意味において、この人は心を安んじて生きているのである。それは支配したり、説明したり、評価したりしているからではなく、ケアし、かつケアされているからなのである」
本書を読んで、「ケア」に関わる重要なキーワードをいくつか見つけました。まずは、「忍耐」です。著者は、次のように述べています。
「ケアする人は忍耐強い。なぜなら、相手の成長を信じているからである。しかし相手に忍耐を示すと同時に、自分自身に対しても忍耐せねばならない。相手および自分を知り、理解し、発見する機会を、自らに対してつくっていかねばならない。つまり、私はケアする機会を自分自身に対してもつくってやらねばならないのである。
次に、「信頼」です。著者は、次のように述べます。
「相手を信頼する一方、私はまた、ケアにたずさわる自分自身の能力も信頼しなければならない。私は自分の判断力と誤りから学ぶ能力とに自信を持たねばならない。つまり私は、いわゆる自分の直観を信頼しなければならない。哲学者は、重要性や適切性に対する自分の感覚を、さらに、考えが真をついていそうに思えるときの自分の感覚を、またいつその考えを一掃するかについての決断を下すときの自分の感覚を、信頼しなければならない。教師は、学ぶのに適した環境をつくりあげることができる能力、あるいは、学生の反応から何が効果があり、何が効果がないのかを知ることのできる自分の能力に、信頼をおかなければならない。親は、厳格でなければならないのはいつなのか、また、一見他とは関係ないような事柄が、実は永続的な習慣を生みだすようなときはいつなのかを知る自らの判断力を、信じなければならない。私の行動が正しいか否かに自信がなく、それにいつも気をとられていると、自身への信頼の欠如に陥り、さらに自分に注意を向けすぎると、相手の要求がなお見えなくなってしまうのである」
ケアを通して、自分の能力のみならず、自分の限界が本当に理解できるようになるといいます。自分に限界があっても、憤ったり、美化すべきではありません。そうではなくて、自分の能力をうまく活用することによって誇りを持つことができるのです。
「他の人をケアすること」とは、「他の人の気持になる」ことだと言われます。著者は、そのへんのところを次のように述べています。
「相手の気持になるといっても、私は自分自身を見失うわけではない。私は自分のアイデンティティを保っており、相手と相手の世界に対する自分自身の反応をよく意識している。相手の目に映るようにその人の世界を見るといっても、その人の世界に対するその人の反応と同じ反応を私も持つ、ということではない。だからこそ相手の世界の中で、私は当人を援助することができるのである。たとえば、その人ではできない何かを行うことである。ところで、彼が困惑していることを認識するには、私が困惑しなければならないということではなくて、私が内面的に彼の困惑を”感じる”がゆえに、私は彼をその状態からたすけ出すことができる位置にいるのである。このような理解は、いくらでも細かいことに入っていくことができるし、いくらでも検討していくことができ、新しい経験と知識をとおして、私自身もたゆまず成長していくという結果になるのである」
ケアにおいて、最も大切なものは「信」の一字に集約されるのではないでしょうか。「信」について、著者は次のように述べています。
「信(Faith)は狭義においても広義においても、”場の中にいる”ということの中に見い出される。狭義における信を考えると、これは私たちが、ある人またはある物に信をおくと表現するときの意味あいと同様で、私の生の意味を生きることにおいて不可欠な要素である」
「広義の意味の信を考えると、信は”場の中にいる”こと自体と同じであると考えてよい。これは、私の総合的な態度としての信である。私は世界に立ち向かっていき、自分自身をゆだね、身をさらすのである。ある人について、その人が言葉どおりの人であるとか、行動どおりの人であるとかと言うことができるように、私は自分の辿る人生どおりの人間なのである」
本書を読むと、ケアとは「発見」でもあることがわかります。それでは、何を発見するのか。著者は述べます。
「人は自分の場を発見することによって自分自身を発見する。その人のケアを必要とし、また、その人がケアする必要があるような補充関係にある対象を発見することによって、その人は自分の場というものを発見する。ケアすること、ケアされることを通じて、人は自分が存在全体(自然)の一部であると感じるのである。ある人やある考えが成長するのをたすけているときこそ、私たちは、その人やその考えの最も近くにいるのである。自己の生の意味を生きるということの根底的な性質は、くしくも、生の尽きせぬ深みを限りなく知ることに通じている。これは、人生の様相が極めて尋常でないときに、人生は尋常であり、”特別なことは何もない”かのように見えるのと同様である。たしかに、私たちは人生の最も奥深いところにある了解性に気づいたのであるが、究極的に言えることは、そこに生きる私たちの存在は個々にはかり知れぬ性格を持っているということであり、これが音楽の通奏低音と同じく人生に浸透し、彩りを添えているのである」
著者は、「ケア」という言葉を「親が子供を育てる」ことを念頭において使っているとか。しかし、本書の内容は到底そこにとどまるものではありません。「解題」には、次のように書かれています。
「著者のメイヤロフ博士は、親が子を、教師が学生を、精神療法家が患者を、芸術家が作品を、市民が共同社会を、夫と妻がお互いを、それぞれケアするとき、それらのケアすべてに共通する働きを、”他者が成長するのをたすけること”だと述べている。そして著者は、ケアすることにより、空虚・絶望と意味ある達成とがどのように異なるかが、つぶさに明らかになることと、その様相を述べている」
また、「訳者あとがき」には、次のように書かれています。
「ケアの持つ意義を、単に医学と看護学の充実・進歩、治療力の強化、あるいは学習の向上、福祉の拡大に求めるのではなく、ケアの動態と過程、すなわちケアそのものに見いだしていることであった。私たちは心を打たれた。ケアによって、ケアされる人が治癒に、または自己実現に向かうばかりでなく、ケアする人その人も変化し、成長を遂げるというのである」
「ケアの持つ意義を、単に医学と看護学の充実・進歩、治療力の強化、あるいは学習の向上、福祉の拡大に求めるのではなく、ケアの動態と過程、すなわちケアそのものに見いだしていることであった。私たちは心を打たれた。ケアによって、ケアされる人が治癒に、または自己実現に向かうばかりでなく、ケアする人その人も変化し、成長を遂げるというのである」
これを読んで、わたしはメイヤロフにとっての「ケア」とは、ドラッカーにとっての「マネジメント」に近い概念ではないかと、ふと思いました。ケアとマネジメント・・・・・どちらも徹底的に人と関わり、両者の成長を促す営みであるからです。
本書は、けっして新しい本ではありません。1970年代に英語版の初版が刊行されています。しかし、まったく古さを感じさせません。
ケアが本質的に人間の営みに根ざした概念であり行為であることを平易な言葉で書いている名著です。ただし、原文は平易な英語かもしれませんが、訳文は生硬な直訳調で、意味を取るにも苦労しました。
なかなかスムースには読めませんでしたが、引っかかったところは何度も読み返して意味を考えたり、原書を求めて英語で確認するのも良いと思います。そこから、新しい「気づき」が生まれるかもしれません。
わたし自身、今後も読み返していきたいと思っています。そして、いつか自分でも「ケア」についての本を書いてみたいです。