No.0502 評伝・自伝 『黒い花びら』 村松友視著(河出文庫)

2011.12.03

『黒い花びら』村松友視著(河出文庫)を読みました。

無頼の歌手・水原弘の壮絶な生涯

永遠の名曲「黒い花びら」で第1回レコード大賞を受賞した水原弘は、1978年7月5日、北九州市戸畑区の健和総合病院で死去しました。

当時の彼はクラブ、キャバレーを中心に全国をまわっていましたが、6月23日に巡業先の山口県下関のクラブで仕事をした後、北九州市小倉北区のホテル・ニュー田川に宿泊しました。24日の未明に吐血し、意識不明となって救急車で病院に運ばれましたが、約10日後に帰らぬ人となったのです。

当時、わたしは中学3年生でしたが、TBSのテレビドラマ「ムー一族」の中で五十嵐めぐみが新聞を読みながら、「黒い花びら、小倉に散る・・・・・」とつぶやいたのを憶えています。いつも見ていたお気に入りのドラマに突如として「小倉」という地名が登場したことは非常に新鮮であり、そのときに「水原弘」という名を初めて知ったのでした。

さて、本書のカバー裏には、次のような内容紹介が書かれています。

「水原弘が生涯のほとんどをついやしたのは、”破壊へ向けての生活無頼”と”歌うこと”の二つだった――。昭和歌謡界黄金時代を疾風の如く駆け抜けた、無頼の歌手・水原弘の壮絶な生涯。酒、博打、借金に満ちた破天荒な歌手生活とは?関係者からの綿密な取材を重ねつつ、波瀾万丈の人生を描く感動のノンフィクション!」

本書の「目次」は、次のようになっています。

プロローグ「私にとって水原弘とは何か」
第1章:水原弘以前
第2章:ロカビリー旋風
第3章:「黒い花びら」
第4章:黒い花びらの裏側
第5章:永六輔的ココロ
第6章:〈昼の論理〉と〈夜の論理〉
第7章:エア・ポケット
第8章:ある眼差し
第9章:大いなる助走
第10章:伝説のレコーディング
第11章:〈無頼〉から〈破滅〉へ
第12章:壮絶な死
エピローグ「水原弘とは何か」
「あとがき」
「解説  永六輔」

ロカビリー出身の歌手・水原弘の「黒い花びら」という曲が大ヒットしたのは、昭和34年(1959年)でした。この年の春に大学に入学したという著者は、この歌との邂逅を「プロローグ」に次のように書いています。

「下宿の部屋でトランジスタ・ラジオを聴くのが、あの頃の私の夕食前の習慣だった。そのラジオから流れてきた『黒い花びら』を耳にしたとき、これはいったい誰の歌なのだろうと訝った。歌唱力、声質、曲想、歌詞のすべてが、新人の歌う曲のものとは思われず、かと言って既存の歌手の声ではなかった。三連符をかさねたロッかバラードの曲、冒頭に鳴りひびく松本英彦のサックス、そして次に歌いだされるしわがれてドスのきいてしかも甘い低音・・・・・その感触は、あきらかにこれまでの日本の歌謡曲にないものだった」

若き日の永六輔が作詞した歌詞を水原弘が歌っていくうちに、歌謡曲やロックン・ロールとは違った世界が展開されました。その歌声にはクラッシックの歌唱法のような、ケレン味のないオーソドックスなテイストが表れたのです。著者は、水原弘という歌手の声と歌に、いっぺんにハマってしまったそうです。

「黒い花びら」の作曲は、中村八大が手掛けます。ブログ「上を向いて歩こう」に書いた永六輔と中村八大がここでもコンビを組んだのでした。ただし、坂本九が歌った「上を向いて歩こう」よりも、「黒い花びら」のほうが先に作られました。

新興の東芝レコードから発売されるや、「黒い花びら」は30万枚の大ヒット。ついには、第1回レコード大賞までをも受賞してしまうのです。

著者は、「レコード大賞を受賞したことで、『黒い花びら』の売れ行きにはさらに拍車がかかった。水原弘の歴史に無理矢理に参加すれば、その30万枚というレコードの中の1枚を、大学1年生の私が買っていたということになる」と述べます。

この年の歌謡曲のヒット曲には、以下のような曲が並んでいました。

フランク永井「夜霧に消えたチャコ」、村田英雄「人生劇場」、ペギー葉山「南国土佐を後にして」、三橋美智也「古城」、フランク永井・松尾和子「東京ナイトクラブ」、スリー・キャッツ「黄色いさくらんぼ」、守屋浩「僕は泣いちっち」、こまどり姉妹「浅草姉妹」、松山恵子「お別れ公衆電話」、春日八郎「山の吊橋」、ザ・ピーナッツ「可愛い花」・・・・・。

著者は、「今日のカラオケで歌われる曲がずらりと並んでいる。フランク永井、守屋浩、松尾和子、ペギー葉山、スリー・キャッツなど、従来の歌謡曲になかったテイストが注入され、村田英雄、三橋美智也、春日八郎などの”王道”も健在で、歌謡曲界は活況を呈していたと言えるだろう」と述べています。

「黒い花びら」によって、水原弘は”スター”の仲間入りを果たしますが、当時は、若いスターが大量に世に出た時代でした。そして、その中でもダントツの存在として石原裕次郎がいました。著者は、次のように述べています。

「あの頃、若い人気者が輩出していたといっても、石原裕次郎はやはり破格の存在だった。小林旭、赤木圭一郎、川口浩、川津祐介などが各社の新人として押し出されたが、”裕ちゃん”とのあいだには距離があった。
東映の中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵はどちらかといえば少年少女向けのスターだった。三船敏郎や鶴田浩二のように大人びたスターはいたものの、若者の救世主的スーパースターは、やはり”裕ちゃん”をおいて存在しなかった」

水原弘は昭和10年(1935年)生まれですから、わたしの父と同じです。そして、昭和9年(1934年)生まれの石原裕次郎のひとつ年下でした。年齢は1歳差でも、石原裕次郎は3年も前にデビューしていました。当然、水原弘は”裕ちゃん”の影響を強く受けることになります。著者は、次のように述べています。

「髪型、両手をポケットに突っ込むかたち、歩き方、斜め上を見上げる目配り・・・・・当時よくあった”裕ちゃん”のコピーと水原弘の風貌はかさなっている。その”裕ちゃん”は、昭和32年『嵐を呼ぶ男』で日活ドル箱スターの地位を不動にしていたが、追いかけるようにして水原弘の『黒い花びら』が爆発的ブームを呼んだ」

さて、後に水原弘も映画に出演するようになります。当時の映画スターという存在について、著者は次のように書いています。

「当時、映画スターはスターの中のスターだった。石原裕次郎は、そこに存在する並み居るスター連を顔色なからしめ、一気にスーパースターの座に駆けのぼった、破格中の破格と言ってよい存在だ。歌舞伎から映画スターを目指して転出した中村錦之助や大川橋蔵や市川雷蔵、歌手から映画へと幅を広げた美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみ、落語を捨てて映画入りした桂小金治・・・・・映画スターという特別な立場を、誰もがスターの頂点と見ている時代だった。そんな中で飛び抜けてカッコよく、世代も同じ石原裕次郎の坐る位置が、『黒い花びら』によって衝撃的なデビューを果した水原弘の次なるターゲットとなったことは、十分に考えられるのだ」

「黒い花びら」の大ヒットによって一躍スターの仲間入りをした水原弘でしたが、続くヒット曲に恵まれず、彼はエア・ポケットに入り込み、酒に溺れていきます。週刊誌の「微笑」昭和53年7月29日号には、次のように書かれています。

「23才のとき、第1回レコード大賞をとった。”黒い花びら”で芸能界に華々しくデビュー。遊び続けた。歌と酒の人々。その遊びは”役者の勝か、歌の水原か”と、喧伝されるほど徹底したものだった。見も知らぬ男たちをひき連れて銀座のクラブからクラブへと渡り歩く。飲む酒はレミー・マルタン。一晩で1本は確実にあけた。
関西に行けば、京都・祇園の料亭にいつづける。
すべて自分の金。昭和34年当時で、一晩に300万円も飲んだことさえあった。
『自慢するわけじゃないが、オゴリ酒は飲まなかったね。人の金で飲む酒はうまくないよ。いやだね。どんなに苦しくてもいい格好する。それが俺の身上だったんだ』
人気が続いている間は、それでよかった。しかし、芸能界の常、やがて人気は低迷する。これまで彼をちやほやしていた人も、1人2人と彼の側から離れていく。さびしかった。人間の底にある”イヤシサ”に、彼は絶望した。
その絶望、怒りをまぎらすために、彼はまた酒を浴びた」

全盛期の豪遊ぶりはすさまじく、レミー・マルタンの水割りを作ってくれた付き人やボーイに「サンキュー」と言いながら1万円のチップをはずんだり、時には数百万円もする腕時計を気前よく与えたそうです。

その彼に重大な影響を与えた先輩がいます。勝新太郎です。デビューして間もない頃、映画で一緒になったよしみで2人は毎晩にように飲み歩きました。勝新太郎は「これまで俺と五分につきあったやつは、おミズだけだよ」と語ったそうです。”家元”の勝からこんなお墨付きをもらった水原弘は、さしずめ”名取り”といったところでした。これが、「おミズ」こと水原弘の遊びの原型、芸人の哲学を作り上げていったのです。勝新太郎も、また生活無頼の典型のような人でした。

想像を絶する放蕩の日々のため、水原弘は多額の借金を抱えてしましました。本業の歌のほうはヒット曲に恵まれず、鳴かず飛ばずでした。そんな彼に救いの手を差し伸べたのが、芸能事務所を経営する長良じゅん氏でした。長良氏は、勝新太郎や石原裕次郎とも親しい関係にありました。

長良氏いわく、「勝さんと裕次郎は”兄弟”関係でね、まあ、勝さんが年長であんちゃんだけど。裕次郎は人のいるときは”きょうだい”って言えない。『きょうらい』って・・・・・その微妙なセンスがね。裕次郎は水原のことを”おミズ”って呼んで、水原は裕次郎を”チャンユー”と。勝さんは、『裕次郎は歩いてても何してもスターだけど、オレは芝居をしなかったらスターじゃねえ、これは大きい』と言ってたけど。匂いで生きて、匂いで分ってる人たちだから・・・・・ひばりちゃんも含めてね」

いま、勝新太郎、石原裕次郎、水原弘、美空ひばりといったタイプのスターは芸能界にはいません。いずれも、浴びるほどの酒を飲んだために長生きはできませんでしたが、彼らは間違いなくスターでした。

著者は、「そんなスターたちと至福の時間を味わった長良氏は、芸能界のもとも贅沢な部分を満喫したと言ってよいのかもしれない」と書いています。現在、長良グループの代表である長良氏は、氷川きよしの事務所の社長でもあります。

氷川きよしといえば、「黒い花びら」をカバーで歌いましたが、こんなところにも水原弘に対する長良氏の思い入れを感じますね。著者は、次のように書いています。

「借金の解決、カムバックのための資金繰りと同時に、長良氏は勝新太郎に計画を打ち明けた。日頃から長良じゅんに『水原は俺に会わなかったら、あんなふうになんなかったな。俺はすごい責任感じてるんだよ』と言っていた勝新太郎は、弟分の水原弘のカムバックの助けになるのなら、何でも協力すると約束してくれた。
そして、勝新太郎と組んでの、川内康範口説き落とし作戦が始まる。
つまり、水原弘のカムバック曲の詞を川内康範につくってもらおうというプランだ」

川内康範といえば、「月光仮面」をはじめ、多くの名曲を作詞した御大です。最近では、亡くなる直前に「おふくろさん」の歌唱許可をめぐって森進一とトラブルになったことが記憶に新しいですね。あの「おふくろさん」の騒動以来、わたしは川内康範のことを「気難しいおじいちゃん」ぐらいに思っていたのですが、実際は非常に真面目で誠実な人だったようです。著者は、川内康範について次のように書いています。

「川内康範という作家は、たとえば大島紬を着た女性がかるく登場する場面を書くために、泥染めを見に八丈島に渡り、染めている老婆に会ってくるような人なのだ。わずか五、六行のために八丈島へ渡る・・・・・当時の作家のすべてがそうであるかと言えば、これはやはり川内氏らしい作品に対する爪のかけ方と言えるのではなかろうか。私は、かるくうなずく気分になれず、うしろめたさを感じつつそのエピソードを語る川内康範氏の目の光をみつめていた」

その川内康範が水原弘のカムバック曲として書いた作品こそ、「君こそわが命」でした。

このロマンティックな歌を、わたしは「黒い花びら」とともによくカラオケで歌います。最初は20年ぐらい前に、サンレーグループのイベント企画会社である(株)ハートピアの古庄和男ゼネラルマネージャーがカラオケで歌っているのを聴いて、「ああ、いい歌だな」と思ったことを記憶しています。それ以来、わたしも数え切れないほど、「君こそわが命」を歌ってきました。

ところが甘い恋の歌とばかり思っていたこの歌が、じつは原爆の被爆者を取り上げた小説に基づくものだったと本書で初めて知りました。

川内康範は、雑誌「明星」に「君こそわが命」という小説を連載していたのです。これは原爆の犠牲者に捧げる精神に裏打ちされた作品で、主人公は小夜子という名の女性でした。その小夜子が死ぬ寸前に、初めて自分の裸身を恋人である男性に見せるのです。彼女は原爆の被爆者で、背中にはケロイドがありました。川内康範の反核の精神に基づいた小説でしたが、この小説の主人公を男にしてつくったのが「君こそわが命」の歌詞だったのです。

著者は、次のように書いています。

「川内氏は、『君こそわが命』を書くにあたって、被爆者たちに会い、『頑張ってください』と励ましても、その言葉の虚しさをかみしめるのみ、慰問に行っている自分自身に苛立ち、個人の限界を痛感したという。広島や長崎の病院のベッドにいた人たちの顔を思い浮かべ、私と話している途中で、川内氏はこみ上げる思いに耐えかねて、いっとき嗚咽というより慟哭し、言葉をつまらせていた」

そんな作詞家の思いが込められた歌を、水原弘は全身全霊で歌いました。レコーディングには、じつに12時間を要したといいます。わずか3分37秒の歌に、半日を費やしたのでした。

そして、水原弘の新しい出発の曲となった「君こそわが命」は80万枚を超す大ヒットとなりました。この曲は佳川ヨコとの競作になりましたが、水原弘が圧勝しました。酒や博打三昧の生活と、それに伴う借金・病気からの「奇跡のカムバック」が実現したのです。著者は、再び川内康範のことを書いています。

「川内氏もまた、自分が作詞した歌が大ヒットしたことを喜ぶといったレベルを超えた感慨にひたっていたはずだ。原爆の被爆者の病院へ行って衝撃を受け、ただ励ます言葉の虚しさを感じ、その気持に背中を押されて戦死者の遺骨収拾のため実際にマレーシア、インドネシア、ベトナム、カンボジアへ赴いた。そのことを私に話している途中で、言葉を途切らせ嗚咽、慟哭されていた。それくらいの思いがあって、『君こそわが命』の軀にケロイドのある主人公小夜子は書き込まれている。その思いは当然、『君こそわが命』の歌詞にも込められており、本当のどん底から自分の足で這い上がった水原弘は、しっかりとそれを胸で受けた。そのあげくの大ヒット、奇跡のカムバックだった」

結果的に、水原弘は昭和42年(1967年)レコード大賞で歌唱賞を受賞しました。

この年には、菅原洋一の「知りたくないの」、美空ひばりの「真っ赤な太陽」、石原裕次郎の「夜霧よ今夜もありがとう」、佐良直美の「世界は二人のために」など、今でもカラオケで歌われる名曲がズラリと揃っていました。そんな中での受賞は、大ヒットの上に、歌手としての栄誉が上乗せされたものだったです。

まさに、水原弘にとっては歌手冥利に尽きる結果が出せたのです。ところが、そんな奇跡のカムバックも束の間、水原弘は再び放蕩三昧の生活に戻ってしまい、以前よりも多額の借金を背負ってしまいます。そのために、全国のクラブやキャバレーを巡業し続けなければならなくなりました。著者は、次のように書いています。

「水原弘は、借金に追いまくられながら、その結果として、睡眠2、3時間というハードなスケジュールをこなさなければならなかった。そして、強行日程で歌いつづけるその場その場が、彼のオアシスとなっていた。そんな皮肉な因果関係が、水原弘の時間を辿り直してみると、うっすらと浮かんでくるのである。
借金の原因である遊びの世界もまた、水原弘のオアシスであったのか。私は、オアシスではなかったという気がする。スターとしての羽振りを意識し、人に奢りつづけたことはたしかだろうが、それはある種の病いではあっても、遊びなどというものではあるまい。ステージ上のフィクションとちがって、盛り場にいるときの水原弘は、本当に酔うことができなかったのではなかろうか。
『おミズは、飲んでいても人のことばかり気にしていた。真から楽しむ酒ではなかった』
勝新太郎は、水原弘の死後にその死を惜しみながら、そう言っていたという。それは、自分の羽振りの波紋の広がりを、じっと探りながら飲んでいた勝新太郎だからこそ気づくことなのだろう。つまり、二人は同じ病いなのである」

それにしても、わたしを含めた読者が思うのは、せっかく「奇跡のカムバック」を果たしたのに、以前と同じ過ちを犯すなんて愚かだし、勿体ないことをしたということです。

少しは質素な生活をして、他人への奢り酒も控えておけば死期を早めることもなかったのに・・・・・。しかし、著者はそんな健全な考え方は「昼の論理」であり、水原弘とは徹底して不条理な「夜の論理」を生きたスターであったといいます。

大多数の人々に拍手を送られる「昼の論理」に対して、「夜の論理」に突き進むのは、明らかに危険な賭けではあります。そこから独特の色気が醸し出されるにせよ、つねに加速していなければ、たちまち谷底へ落下してしまいます。「夜の論理」とは、不安定きわまりない生き方なのです。

著者は、「夜の論理」から「無頼派」というキーワードを導き出します。そして、「エピローグ」で次のように述べています。

「文学の世界にも”無頼派”という言葉がある。いや、”無頼派”はもともと文壇語みたいなものだったが、これについての定義はさまざまであり、流派みたいなものもある。文壇用語であった”無頼派”を、文学用語に昇華させようという試みも、もはやいくつも提出されている。だが、”無頼派”の一般的イメージは、太宰治、坂口安吾、織田作之助、田中英光などだろう。反俗、反秩序が無頼的姿勢の基本だが、下降的姿勢や破滅へ向けての生活無頼という特徴が見られる」

ここで、著者は水原弘を登場させます。

「下降的姿勢、破滅へ向けての生活無頼となると、水原弘にはますます”無頼派”の資格がありそうだ。『戦争に負けたから堕ちるのではなく、人間だから、生きているから堕ちるだけだ』という『堕落論』における坂口安吾の言葉は、戦後の廃墟と虚脱状態にいる人々に、明日に踏み出すための基盤を与えた。いったん堕ちることで真に新しいモラルを追求するという、自立革命の宣言でもあったのだ。ここから”文学”という枠を外し”人間だから、生きているから堕ちるだけだ”というフレーズだけをコピーのように抜き出してみると、水原弘の生き方とかさなってくる。水原弘は、”意識せぬ無頼派”あるいは”天然の無頼派”と言えるようだ」

わたしは、「天然の無頼派」である水原弘の歌をこよなく愛し、カラオケで熱唱します。では、わたしは、無頼派に憧れているのでしょうか。

まあ、水原弘にはとてもかなわないとしても、わたしも相当の酒好きです。でも、たぶん、わたしは無頼派ではないと思います。

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